第64話 『隣の席の子に、落とした消しゴム拾われたら好きになっちゃう理論Lv100』
夏場の冷房は、どれほど設定温度を低くしてもよい。
肌寒いと感じるほどの室内温度の中、布団に包まり震えながらアイスクリームを食べるという行為がこの上なく最高だからだ。
この、一見不合理にさえ思える、相反する組み合わせが実はマイナス×マイナス=プラス的理論によって、最高に転じる現象を『真夏のキムチ鍋理論』と名付けることとする。
「抹茶練乳おいしー……」
抹茶という苦味と練乳という甘味の合わせ技がここまで成功しているのも真夏のキムチ鍋理論の立証案件の一つである。
「……なあ、寒いから冷房の温度上げていい?」
しかし、この至高の時間に待ったをかける声がひとつ。
声の主は、毛羽立った毛布を羽織りながら恨みがましい瞳を私に向けてくる。この環境がどうにも気に入らないみたいだ。
「だめ。私の部屋は私が管理するの」
「こんな中アイスって、見てるだけで風邪引きそうだ……」
「マキちゃんは寒がりだね」
「いやヒナがおかしいからね」
同級生で親友である、星宮真紀ちゃんが目を細める。ご自慢の黒髪ツインテールも何処と無く元気がないように見える。
「マキちゃんが宿題一緒にやろうって言って、休日なのに私の部屋に押しかけてきたんだからね。ほら、早く終わらせるよ」
「そうだけどさあ。もう2、3度上げてくれるだけで全然違うんだけど」
「宿題みてあげないよ」
「わかったわかった!やるって!」
なんとか説得に成功したみたいだ。何人たりとも私の休日に水を差すことは許されない。
マキちゃんはぶつぶつと小声で文句を言いながら鞄から教材を取り出し、机上に広げていく。この子は比較的勉学には真面目に取り組むんだけど、どうにも成績が伸びきらないんだよね。そんな不器用なところも可愛いんだけど。
昔から、こうして二人でよく勉強したな。……あの頃はお互い今とは少しだけ違っていたけど。
「……そういえば、もうすぐ同窓会だね」
「そうだな」
「……前原くん、来てくれるかな」
「……さあな」
ふと思い出した話題を口にする。旧友との再会も勿論楽しみの一つではあるが、私としてはやはり前原くんをもう一度一目見てみたい気持ちが強い。彼が忘却していたとしても、十二使徒の一人としてそこだけは譲れない。
それなのに、私が彼の名前を出すと、マキちゃんの顔が強ばる。まるで聞きたくないみたいに。
「マキちゃん、前原くんのこときらい?」
「……」
「昔は仁、仁って言って前原くんのこと大好きだったのにねー」
マキちゃんは、ずっと彼を慕っていた。それは間違いない。
それなのにいつからだろう、彼女が前原くんの話題を避けるようになったのは。この前久しぶりに会った時なんて珍しく突っかかっちゃって。あんな関係じゃ決してなかったはずなんだけど。
「……私にだって、事情はあるさ」
マキちゃんは、物悲しげに呟く。この子の胸の内をきちんと聞いてあげて、共感してあげて、スッキリさせてあげたいけど、絶対に何も話してなんてくれないのだろう。長い付き合いだから、それくらい分かる。
「というか、昔はっていうなら、私よりもヒナだろ。こんなに陰キャラになっちゃって。前原に何されたよ」
「陰キャラって言い方……。それは内緒だよ」
「はあ。当の本人がこうも満足気だとどうにも腑に落ちないな」
眉をひそめながら顔を顰める親友は、口を動かしながらも黙々と宿題の手を進める。
彼女の疑問というか不審は、もっともだと思う。自分で言うのもあれだけど、私は元々四六時中笑顔で過ごしていたような明るい性格だったから。今は、笑顔を誰かに見せることはない。だからと言って陰キャラ呼ばわりはやめて欲しいけど。いや陰キャラがダメとかじゃなくてね。
「……」
まあでも仕方ない。
それが、使徒の一人として、私が受けた天命なのだから。序列は低いけど、歴とした一員だ。
今瞼を閉じれば、夕空に浮かぶ雲の数から肌を撫でる空気の温度まで事細やかに想起できる。あの瞬間の鮮度は今も色褪せていない。いつでも、思い出を開封できるのだ。
ある日の部活動を終えて帰路に着いた私は、前原くんと校門で偶然会った。緊張で硬直してしまい、いつものように媚びを売るような不器用な笑顔しか貼り付けられなかった私に、彼は告げた。
『俺を見る度にする、そのヘラヘラしたアホ面やめろ。無表情の方がマシだ』
あの日、あの時、斜陽が空間を穿ち、オレンジ色の世界が私と前原くんを囲んだ。
青天の霹靂と呼ぶには、大きすぎる衝撃。
憧れと呼ぶには、遠すぎる存在。
そんな前原仁くんが私にそう言って
前原くんが、私にそう言ってくれたのだ。
そして今もあの日の天命を守り続けている。これは、ただそれだけの話。これさえ直向きに努めれば、いつか私の努力を認めてくれるはず。そして行く行くは結婚とかしちゃったりなんかして。
そう、天命さえ、これさえ守り続けていれば。
「ふへっ、ふへへへへ」
「……!?」
「……なんでもありません」
「いやこわいって」
いけない、使命感と未来への展望で変な笑い声が漏れてしまった。
天命は他言できないため、マキちゃんには事情の説明ができない。勿論私が前原くんの十二使徒であるという身分も明かしていない。
どれもこれも、全ては前原くんと私の将来のための努力だ。
「……」
それなのに。
彼は、記憶を失ってしまったという。元々私への認知が甘いのは、仕方ない。使徒は12人もいるから。一人一人への関心が分散してしまうのは避けられない。
でも、天命のことすら忘却しているのは、それは。
「……絶対ダメ。ダメダメダメダメダメダメダメ」
「こわ」
親指の爪を噛みながら、ドブのように濁り底に溜まっていた黒い感情を吐き出す。天命も、私達の将来の可能性も、全部無かったことになるなんて、到底看過できない。あってはならない。許容してはならない。
私達は天命という巡り合わせで繋がっている関係。お互いがその存在を確かに知り、私が務めを為すことで維持している。どちらか片方だけでも欠けてしまえば、それは。
思考に耽ければ耽けるほど、緩やかな焦燥と粘っこい悪感情が顔を出す。
「記憶、記憶、どこにいっちゃったの。私がどうにかするにしても、同窓会に来てくれなきゃどうしようもないよ。せめて連絡先でも交換できていれば。こうなったら高校に直接……いやでもそれは」
「あーいつもの状態入っちゃったか。私は宿題してるから、自分の世界から戻ったら勉強教えてくれ」
マキちゃんは、前原くんに同窓会までに記憶を取り戻すよう要求していたけど、実際それは望み薄だろうと思う。記憶喪失なんてほんの数週間で完治するものとは思えない。ただ、普通の病気と違って、突然思い出すこともあれば一生思い出さないということもあるはずなので、全く期待できないわけではない。
「……」
一生思い出してくれなかったら、どうしよう。
あの時の天命も、衝撃も、夕陽ももう私の記憶の中にしか残されていないなんて。それがずっと続けば、私は何を指標に生きていけばいいのだろう。
もし、ずっと宙吊りのような心持ちでこの先の日々をずっと歩んでいかなければならないとしたら。
「……それは、寂しいし悲しいな」
とはいえ、私からできることは何も無い。ただ同窓会まで悶々とした気持ちで過ごし、彼が全てを思い出した状態で現れることを祈るだけだ。とてももどかしい。
もどかしいけど、彼を信じるしかないし、信じたい。
「……はぁ」
さっきから私は、自分のことばかりだ。
これまでの記憶を失い、前原くんが相当な苦労をしていることは想像にかたくないのに、そんな彼の苦悩を差し置いて自分の未来だけを心配している。
それがどれだけ醜く、浅ましい行いなのか、考えずとも分かるというもの。
こんなことだから、使徒の中でも序列下位止まりなのだろうし、挙句の果てには肝心の彼に忘れられてしまうのだろう。
私はどこまでいっても、私だ。
「……」
黙々と宿題を進める親友を眺める。なんのしがらみもないように、ただ無心に作業をこなすその姿を見て、少しだけ羨ましいと思ってしまった。
でもその思考は、マキちゃんにも私にも前原くんにも、全方位に失礼なものだ。だからぐっと堪える。私は十二使徒だ。その自負だけで、もうちょっと頑張れる。
とにかく、目下気にするべきは同窓会だ。覚悟と僅かな憂慮を胸に、立ち上がる。
「私が絶対に全部戻してみせる。全部、全部、全部、全部全部全部」
「こわいって」
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