第58話 ご主人様とは




「ん。迷惑を掛けた」


「ううん、大丈夫だよ。目眩はもうない?」


「問題ない」


 ソフィが鼻血を噴き出してから数分後、俺たちはなんとか止血に成功した。決して楽な戦いではなかった。


 今彼女は、両鼻の穴にティッシュを詰め込みながら床に広がった自らの血液を拭き取っている最中だ。俯瞰的に見れば嘸かし滑稽に見える構図だが、実はこの出血量を見ればあまり笑える状況ではない。

 人間は、血液量の5分の1を失えばショック症状が出始め、3分の1を失えば命の危機に陥ると聞く。


 俺は、手元の、血が染み込み真っ赤に染まっている雑巾にチラリと目を向ける。


「……」


 これ、もう少し対処が遅れてたら、下手したらショック症状とか出ていたんじゃないだろうか。

 あ、危ない。ソフィとはまだ知り合ったばかりだけど、多分この子はアホの子だ。いや、年上に対して失礼な言動なのは分かってるんだけどそうとしか形容できない。

 

 心配だ。

 何というか、危なっかしい。

 誰かがきちんと見ててあげないと。


「ソフィはまだ貧血だと思うから手伝わなくていいよ?向こうのソファにでも座って休んでて」


 そう言って、俺はテレビの前のカウチソファを指差す。母さん達も『うんうん』と頻りに頷いており、同じ意見のようだ。


「……ん、心配無用。ご主人様にやらせて、私がやらないわけにはいかない」


 しかし、一旦作業を止めたソフィは眉尻を上げ、引き締まった表情でそう言い放つ。いたって真剣な様子だ。ティッシュが鼻の穴に詰まっている事は、彼女の名誉を考慮して気にしないでおこう。


「……?」


 それにしても、ご主人様とは?


「えっと、ご主人様って?」


 前触れなくいきなり登場した単語に当惑した俺は問う。


 ご主人様って、あのご主人様だよね?

 前世で訪れたことはないけど、メイド喫茶なる店でメイドの格好をした可愛い女の子店員さんが客をそう呼んでくれるらしい。俺も一応オタクの1人として、いつかは聖地に参拝したいと思っていた。まあ、機会に恵まれないまま、その儚い人生を終えてしまったわけだけど。もしこの世界にもあるのなら行ってみたいものだ。

 いや、待てよ。この世界にもし存在しているとしても、そこの店員さんって十中八九『男』だよね。執事喫茶とでも名付けられているのだろうか。やっぱり行くのやめよう。


 いやご主人様という言葉が違和感なく飛び交っているのは何もメイド喫茶だけではない。ライトノベルで異世界に転生した主人公が美少女奴隷を購入して、その子にそう呼ぶよう指示する場面は数多く存在する。まあ俺は奴隷という制度自体好きなわけではないため、それほど琴線に触れることはないんだけど。


 話が逸れてしまった。

 『ご主人様』なんて、現実で耳にしたのは初めての体験だったため動揺していた。

 えっと、ご主人様って、誰だろう。


「ん、自分が仕える相手のことは敬意を持って『ご主人様』と呼ぶと聞いた。ご主人様は私が身を挺して守る対象で、出来るだけ近くにいる必要がある。これは仕えていると言っても過言じゃない。だから、ご主人様。そう考えた」


 眠たげな目を真っ直ぐに俺に向けてソフィは告げた。鮮やかな菫色すみれいろの瞳が妖しく輝いている。


 いや、誰から聞いたんだよその知識。偏りすぎでしょう。主従関係が成立したらご主人様と呼ぶって、そんなご主人様が蔓延る世界1度行ってみたいわ。

 とにかく、疑問は色々あるが一旦置いといて、やっぱりご主人様っていうのは俺か。


 そんな単語を実際に聞いたのも初めてなのに、それが向けられている相手がまさか俺とは。とても、とても背中がむず痒い。

 そもそも俺はご主人様なんて大それた呼び方をされる程人間が出来ていないのだ。ましてや、この子はエリート中のエリート。気後れしてしまうというもの。


「……」


 まあそれはそれとして、小柄な銀髪の美少女がいち高校生である俺のことをご主人様、か。


 ……悪くないね。


「そっか。じゃあこれから僕のことはご主人様って呼んでね」


 俺はつい先程までの葛藤などまるでなかったかのように、にこやかにそう伝えた。この一言だけ切り取ってしまえば、なんとも罪深そうな内容だ。


「……ん。ご主人様の言うことには絶対服従。何でも命令してくれていい」


「……!?」


 なんだと?

 此処に来て、先程心の隅で少し期待した言葉が本当に顕現された。ご主人様という単語から、所謂そっち系を連想してしまうのは仕方ないと思う。本気というよりは、あわよくば、という気持ちの方が強かったのだが、まさか現実になるとは。

 『ご主人様』とは、なんて素晴らしい存在なんだ。


「そ、そっか。その時はよろしくね」


「待ってる」


 いつか、ご主人様の権限を全力で行使してやるぜ。俺はこの燃え盛るような熱いパトスをそっと胸にしまった。


「じゃあ、ということでソフィはソファに座っててね」


 話し込んでしまったが、先刻の問答の焼き直しをするかのように同じセリフをもう一度俺は笑顔で言った。


「……」


 その言葉を聞き、彼女はポカンとらしくない表情で放心した。まあ、ほんの少し前に言われた内容をもう一度言われればこんな反応も無理はないだろう。


「……さっきも言った通りご主人様にやらせて、私がやらな―――」


「ソフィ」


 そして、ソフィも又同じ返答を繰り返しかけたが、其処で俺は被せるように呼名した。


「……ん、なに?」


 彼女は、不思議そうに頭を可愛らしく傾ける。その拍子に宝石のような銀髪も佳麗かれいに揺れ、ふわりとシャンプーの香りが舞った。

 そんな何も分かってない彼女に、俺は悪戯っぽく笑いながら口を開く。


「ご主人様の言うことには?」


 語尾の音程を上げ疑問形にし、ソフィに続きを促す。彼女はそれを聞いて数秒程固まった後『ハッ』と何かに気付いたかのように少し顔を上げた。


「……絶対服従」


 してやられたといったような、悔しそうに眉をひそめた表情でソフィは呟く。自分でも、こういった形でさっきの自らの文言が利用されるなんて考えていなかったのだろう。俺は強かなのだ、使えるものはなんでも使うぞ。


「そうだね。じゃあソファへ行こう」


「……ん、了解した」


 渋々といった様子ではあるが、彼女は、幾重にも羽毛を重ねたかのような柔らかさの生地で心休まるであろうカウチソファへと向かっていった。


 ふと横に目をやれば、うちの家族たちが『グッジョブ』とでも言いたげに一様に親指を立てていた。流石に皆ソフィの体調を気遣っていたみたいだ。彼女が無理をしすぎないように見張っておかないとね。



* * *



 15分後、俺たちは綺麗に輝くフローリングを満足気に眺めていた。達成感と疲労で心地よい面持ちである。労働っていうのはいいもんだね。


「終わった〜」


 両腕を上げ、背筋を目いっぱい伸ばす。鼻血の掃除は以前経験したことがあったため、2回目ともなれば手際よく出来た。また、前回は俺1人で全てこなしたのだ。今回は俺に加えてあと3人もいるので比較的楽だった。


「……私のせい。謝る」


 『鼻血処理が上手くなるってなんか嫌だな……』なんて考えていると、いつの間にかソフィが近付いており申し訳なさげに目を伏せていた。赴任直後に失敗したとなれば、確かに気分は落ち込むだろう。


「こういう時は謝るんじゃなくて、『ありがとう』って言ってくれた方が俺は嬉しいな」


 でも負い目など感じる必要はない。

 そう諭しながら、ソファの頭を撫で―――たらまた鼻血が出てしまうかもしれないので、中腰になり目線を合わせるだけにする。改めて、宝石のように光を反射する瞳だ。


「……ん、ありがとう」


 何処か恥ずかし気にソフィはそう俺に言ってくれた後、母さんや姉さん、心愛にも1人ずつお礼を言う。こういう時に、纏めてこなすのではなく、一人一人にきちんと目を合わせて頭を下げるその人柄には非常に好感が持てる。


「じゃあ、ひと段落ついたし、ご飯にしよっか!」


 『パンッ』と手を合わせて皆の注目を惹きつけた母さんが提案した。

 そういえば、夜ご飯をまだ食べていなかった。その事実に気付いた途端、俺の胃も思い出したかのように空腹を訴えてくる。


「うんそうだね。僕お腹すいたよ」


「私もペコペコ〜!」


「そうね。ソフィさんの歓迎会ってことで、少し豪華な料理を母さんと私で作ったから楽しみにしてて」


「……ん、楽しみ」


 その後、母さんと姉さんが腕によりをかけて作ったという手料理に俺たちは舌鼓を打った。ソフィも頬を膨らませて美味しそうに平らげていた。

 これから末永くよろしくしたい所存だ。


「……ふ、おふひんはまほはははひょうひふまひ」


 でも、料理を食べている最中は喋らないようにしようね。



* * *

 



 「ふぅ……」


 そして時間は流れ、現在時刻は午後10時。

 自室にて学校の宿題を終えた俺は、一息つきながら背もたれに体重を預ける。薄暗い部屋の中、灯りはデスクライトのみである。

 

 宿題は終わったから、次は定期テストの勉強かな。授業を受けた限り特に分からないところはなかったけど、とりあえずテスト範囲を一通り確認しておかないと。


「でもその前に、ちょっと休憩するか」


 喉が渇いたので、一階のリビングから何か飲み物を取ってこよう。確か乳酸菌飲料が好きな俺のために母さんが何かしら買い溜めしてくれていたはずだ。

 

 小一時間ほど椅子に座っていたため少し固くなっている体を解しつつ、自室から出る。

 そして、俺の部屋の右隣に位置する部屋に視線を向けた。

 ここは、ソフィの部屋という決定になった。『できるだけ、常に俺の近くにいた方がいい』という皆の考えの元の判断だ。俺もその結論に特に異議はない。


 彼女は今この部屋で書類作業をしている最中だ。報告書をまとめる必要があるとか。あと、


『……ん。ご主人様を侍衛するにあたって、そのシュミレーションは必須。暴姦がこの家に侵入してきた場合の、逃走経路の確認・確保を事前にしておきたい』


 との事で、30分程前までこの家の内部をこれでもかと調べに調べ尽くしていた。アホな子かと思いきや、こういうところはやっぱりプロなんだな、と見直すきっかけとなった。


「……」


 そうなんだけど、実はその直前にちょっとした事件があった。

 

 その事件とは、5人で食卓を囲んだ後、俺が一番風呂を貰った時に起きた。

 俺は普段、当然のことながら1人でお風呂に入っている。

 そして、前原家ではその間お風呂場に近付く行為は禁止とされている。これは誰かの抜け駆けを防止するために3人で協定を結んだらしい。家族なのに抜け駆けってなんだよと思うけども。俺は本当は、母さんや姉さん、心愛と一緒に入浴したいというささやかな願望を胸に抱いているのだが、まあその話は今は置いておく。


 兎に角、そのルールの下いつもの如く俺は1人でお風呂に入っていた。



* * *



「あー……」


 俺は湯船に体を浸からせながら、先ほどの情景を思い浮かべる。


 ソフィを交えての初の夕食は、新鮮味が強く、退屈しなかった。彼女はどうやら人との対話があまり得意ではなさそうだが、俺たちとの距離を少しでも縮めようとしてくれたのか積極的に会話に参加してくれた。

 SBMというかなり特殊な職業柄、ソフィの話は興味深いものが多かった。目を血走らせながら猛突進してきた女性ファンから男性アイドルを守った話、男性大臣の私室にナイフを持って、あと何故か下着姿で侵入してきた変態女を撃退した話など、思わず聞き入ってしまうほどだった。


「……『ご主人様』ね。はは」


 チャプンと、湯船に貯められたお湯を手で掬いながら呟く。

 まさか自分がご主人様になる日が来るなんて思わなかった。この異世界は男女比がおかしくて歪な世界だけど、それ以外は前世と変化がないためそれほど異世界にいる実感を強く持っていたわけではない。でも棚からぼた餅的ではあるが『ご主人様』と俺を慕ってくれる女性が現れた今、非日常が俺の感情を支配する。


 生活が一変する、そんな予感がする。


「これから楽しくなりそ―――」



『ガラァ!!』



 『これから楽しくなりそうだ』。俺はそう口にしようとしたのだが、言い切ることはできなかった。

 何故なら、語尾に達する前にお風呂場の扉が勢い良く開かれたからだ。


「!?」


 俺が入浴中なのは皆の周知済みのため、ルールに従って近付く真似はしないはず。とするならば、何か火急の用件の可能性がある。それを伝えるために、ルールを破って誰かが来てくれたと考えれば辻褄が合う。


 俺は素早く扉へ顔を向けその人物を確認する。


「……」


 ソフィが佇んでいた。


 視線で穴が開くほど俺を見つめる彼女は鼻息が荒い。

 さらに彼女はバスタオルを体に巻いていて、その下は裸体だと思われる。長髪も結わえており『今からお風呂に入ります』と体現しているようだ。

 

「えっと……どうしたの?何かあった?」


 ソフィに特に動きがなかったので、俺の方から話を促してみた。

 まあ、答えは分かりきってるんだけど。火急の用事という訳では、おそらくないんだろうな。


「……ん、私の仕事はご主人様の身辺警護。よって、常に警戒しておく必要がある」


「……うん」


「それには、入浴時間も例外じゃないと考えた」


「まあ、うん」


「だから、私も一緒に入る。……決して卑猥な気持ちはない」


「う、うん」


 まあそう順序立てられて説明されれば、筋は通っている……かな?

 でもそれなら扉の前に待機しておくだけでもいいような気がする。いや、外敵が窓をぶち破って侵入してくるかもしれない。やはり、プロとしての判断なのだろうか。

 そもそも、母さん達の了承は得たんだろうか。家族内における協定破りは重罪なはずだけど。


 ソフィの端正な顔を見つめ、彼女の主張について、正当性を吟味する。


「……卑猥な気持ちは少ししかない」


 すると、不審がられていると思ったのかソフィがまた口を開き、僅かに言い直した。目を逸らしながら。


 いや、卑猥な気持ちあるのか。でも正直なのは良いことだから許す。


「……そっか」

 

 とまあ、色々と考えてしまったが、一緒にお風呂に入るくらい別に構わない。寧ろこっちからお願いしたいくらいなのだ。願ったり叶ったりというやつだ。唯一の懸念としては、お湯でのぼせてしまい、この子がまた鼻血を出さないかということだけだ。


「……」

 

 いや、やっぱりソフィの体調が心配だ。残念だけど今回はパスして、また明日一緒に入ろう。そしてその時こそご主人様として、グヘヘなことをしてやるのだ。ぐへへ。


 そう結論づけた俺は、悪いと思いながらもソフィに断りを入れようと改めて彼女に向き直る。


 その時。



「「「ソフィ」」」



「あっ」


 俺が意図せず声を漏らしてしまう程の迫力がある、黒く濁った深淵から這い上がってきたような凄まじい声が、三重奏の如く浴室を反響した。


「なにしてるのかな」


「おかしいな、さっきあれほど言い聞かせたんだけどね」


「ダメダメ。ダメだよソフィちゃん。しばくよ?」


 その音源はソフィの背後。

 奏でるは、前原柚香ゆずか茄林かりん心愛ゆあの3人。般若の幻影が見えるようだ。なんとも、腰の入った怒り方である。


「……ん、でもあのルールは家族に適用されると聞いた。私は家族ではないので、ルール外の存在のはず」


 そして怒る3人の般若の重圧をもろに受けている張本人は飄々としている。さすが修羅場をくぐってきたエリートだ。


 でも、家族ではない、か。うーん、一緒に住むんだから家族のようなものだと思うんだけど。戸籍とかそういうのは置いといてさ。こう、概念的な感じで。


「何言ってるの!この家に住むからにはソフィも家族の一員だよ!」


 と思っていたら、どうやら母さんも同じ意見だったみたいだ。うんうん、ソフィも前原家の一員でしょ。


「でも、血縁関係が……」


「そんな細かいことどうでもいいの!とにかくこっち来てソフィ!お説教の時間だよ!」


「仁のお風呂に侵入した罪は重いわよ」


「……羨ましいよぉ。私だってお兄ちゃんと……」


 母さんと姉さんに脇を抱えられてソフィは連行されていった。ありがたいお説教が彼女を待っているらしい。強く生きてくれ。


 あと、ソフィ以外の3人。去っていく直前まで俺の方をちらちらと見ていたの、きちんと視界に入っていましたよ。


「……ふう」


 全く、騒がしい家族たちだ。



* * *



 という、事件と呼ぶのも烏滸がましいくらいのちょっとした小競り合いがあったのだ。

 俺としては露ほども気にしてないのだけど、女性陣には女性陣なりの秩序の保ち方というものがあるだろうから、俺から干渉はしない。それが平和ってものだ。


「……新入りのソフィはまだ慣れないんだろうけどね」


「……ん、どうしたのご主人様。私に助けを求めた?」


「うわ、びっくりした!いつの間に部屋から出てたの。助けは求めてないよ」


「動作の消音なんて造作もない」


 廊下での独り言にいきなり本人が登場するものだから、肩が跳ねてしまった。夜に音もなく背後に立たないで欲しい、怖い。

 戦々恐々としていると、ソフィは静かに俺を見つめていた。


「……改めて、これからよろしくご主人様。あなたを絶対に守る」


「うん、ありがとう。期待してるよ」


「……ん」


 自信と責務に満ち溢れた顔をした彼女は、そうして自室へと帰っていった。これからどういった関係性を築けるのか、周囲環境がどういった未来へ繋がっているのか分からないけど、今日こうしてソフィに出会えたことは素直に喜ばしい。


 願わくば、ソフィを含めた家族みんなが笑える未来に。俺も尽力したいと思う。



「……さて、もうひと踏ん張り勉強頑張りますか」

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