第57話 ソフィア・マルティスという女性 後編




『見つけた』『探していた』


 私自身、何故そんな突拍子もない言葉が頭に浮かんだのか説明できない。

 

 ただ、私が生きてきた22年間はこの人に会うためにあったんだと、直感した。

 家族も友人もいない、空っぽで、寂しい私の人生に、たった今この瞬間意味が与えられた気がした。


 視線を前原仁様から外したくなかった。

 今刹那せつなでも彼を視界の外に出すと、次の瞬間には消えていなくなっているのではないか、そんな訳のわからない杞憂が私を支配していたから。


「……あ」


 どうやら、彼の視界にも私が入ったようだ。

 結果的に私達は数秒間ほど見つめ合うような形になった。


「……」


 ……顔が熱い?

 どういうわけか、私の頬に正体不明の熱が帯びてきた。僅かに動悸も感じる。

 風邪、ではないと思う。寒気や倦怠感などの症状もない。しかし、だとするならば、かつて味わった経験のない胸部辺りから胸にせり上がってくるようなこの『熱』は一体?


「あ、ジンちゃん帰ってたんだね。おかえりなさい」


 内に向けられていた意識が現実に引き戻された。いけない、侍衛対象を目の前にして一瞬我を失っていた。

 気を、引き締めなければ。


「う、うん。ただいま」


 幾分か冷静になった私は、今度は一侍衛官として分析を始める。


 彼の性格や行動パターンを出来るだけ早い段階で把握しなければいけないから。


 侍衛官という職業は、ただ単に腕っ節が強ければよいというものではない。確かに対象に危険が及ぶことがあれば、体力や身体能力は高い方が望ましい。

 しかし、1番大切なのは対象を危険に晒させないこと。事前に排除するなり、避けるなりやり方は多岐に渡るが、とにかく危険を近付けさせない。それが肝要。


 それの一環として、対象の人となりを理解しておく必要がある。


「それで母さん、そちらの方が例の?」


「あ、ごめんね紹介が遅れちゃった。コホン。では改めまして!ジンちゃん、こちらは……えっと、ソ、ソフィア……あ、ソフィア・マルティスさんだよ!国家男性侍衛特務機関から来てくれました!生まれが外国の方なんだけど、育ちはこの国なんだって。さらに、なんと育成学校を首席で卒業して特務機関に入ったんだって!超エリートだよ超エリート!」


 私が少し侍衛のシュミレーションを頭の中で展開していると、話が進んでいたようだ。

 前原仁様の母が、少し前まで私と話していた内容を伝える。


「初めまして、ソフィアさん。前原仁と申します。色々ご迷惑をおかけする事になるとは思いますが、宜しくお願いします」


 彼は、今迄私が目にしてきたどの男性よりも礼節に気を使っているみたいだ。その容姿と相俟って、一枚の絵画のようにすら見える。

 また、謎の熱が胸から頬を走り抜ける。

 心当たりのない変調だが、不思議と気分は悪くない。それどころか、心地よいとすら……って、あ。


 出発前に、先輩に『会ったらまず名乗ること。私達は雇われの身なんだから、相手に先に名乗らせてはダメよ』と釘を刺されたことを失念していた。

 ここに来るまでは、頭の中で反芻してきちんと覚えていたのに。不可解な熱のせいで集中が削がれてしまっていたのだろうか。


「……。……ん、私は男性特別自衛官のソフィア・マルティス。ソフィと呼んでほしい」


 これは私の略称。誰かが決めたとかではないが、いつの間にか私も周囲もこの呼び方で定着していた。短い名前の方が時間効率も良いため、活用させてもらっている。


「分かりました。ソフィさん、ですね」


「呼び捨てでいい。あと敬語も不要」


「分かりまし……分かった、ソフィ。これから宜しくね」


「……んっ」


 やはり間違いない。

 私はこの人にずっと会いたかった。

 会話する時に、しがらみを感じないのは初めてだ。


 私にコミュニケーション能力が欠如しているのは自覚している。そのため誰かと言葉を交わす時は常に何かに考えを巡らせている。相手の気分を害さないような言葉選びを意識したり、彼我ひがの問答の最適解を探ったり。或いはそれは、一般人にとっては普通のことなのかもしれない。

 しかし私にとってはそれは苦しく、重い枷のようにしか感じられなかった。まるで水中にいるかのような息苦しさ。しんどかった。


 でも、今私の前で笑顔を向けてくれているこの人は、『そんなこと気にしなくていいんだよ』って言ってくれている、気がする。


 なんで私はそう思うんだろう。

 この人は、確かに異常に美形で礼儀正しい。そして、恐らく性格も良いだろう。


 でも、それだけ。


 それだけで何故こんなにも安心できるんだろう。正真正銘私達は初めて会ったのに。

 いや、それだけじゃない気がする。

 前原仁様にはまだ何かある。他の人とは決定的に違う何かを持っているような。


 その『何か』の正体は見当も付かないけど、恐らくそれがこの人をこの人たらしめているモノ。存在感の強さもそれが関係している気がする。いくら美形だと言っても、それだけでこんなに実在を強く感じることなんてない。


 改めて思う。

 前原仁様この人は、『特別』だ。


「そういえば、僕みたいな一般人にソフィみたいな首席エリートをあてがって大丈夫なの?そういう人は、もっと偉い大臣の人とかに付くものじゃないの?」

 

「……ん、問題ない。厳正な書類審査の結果決められたこと。それに首席と言っても私は今年入庁した新人。今回は初めての単独任務」


 前原仁様の疑問に答える。

 確かに首席で育成学校を卒業するような人材は後々大きな仕事を任される場合が多いが、今は下積みを積む時期だということ。もっとも私としてはずっと前原仁様の専属でもいいんだけど。


「良かったねお兄ちゃん!ソフィさんとっても凄い人みたい!これで安心だ〜」


「そうね。首席卒業する程の人なら安心して仁を任せられる」


 ん、最初の掴みとしてはバッチリ。


 予想以上の好感触により、得意げになってしまう。人とのコミュニケーションにおいて、初印象はとても大切だと何かの本で読んだ記憶がある。この状況は正に、その本の著者が言いたかったことに違いない。


「……ん、大船に乗ったつもりで任せて欲しい。改めてよろしく」


 少し調子に乗ってしまった私はそう胸を張って告げ、華麗に前原仁様の前に立つ。


 ん、私に任せてくれれば安心。


 そんな大層な自信を胸に掲げながら前原仁様の顔を見やる。

 すると、彼はキョトンと虚をつかれたような顔をしていた。目を丸くした後、何やら思案顔で私の全身を眺めている。


「……」


 むっ。

 これには流石の私も遺憾を唱えたい。先程首席であると説明したはず。身長なんてハンデですらなく、一切の関係がないのだ。


「……何を考えているのかは大体分かる。でも実力に問題はない。安心して欲しい」


 身長なんて塵芥くらいどうでもいい。

 私がノッポでも、チビでも、変わらずあなたを守ってみせる。


 そう、静かに決意を新たにしたのだけど。


「あ、ごめんね。でも決して頼りないとか思ったわけじゃないんだよ。ただ、可愛いなって」


「……」


 どうやら、私の小柄な体型を見て不安になったという訳ではなく、そういう……ことらしい。


 ずるい、不意打ちすぎる。

 身体中の血流の方向が全て顔に集中したのではないかと疑うほど、顔に熱を感じる。

 人に褒めてもらうというのは、これほど……恐ろしい。


 そう、私が人体の神秘におののいていると。


 ―――あ。


 起こりが見えず、『何も変わった事なんてしていない』そう言わんばかりのごくごく自然な動作で、私の頭を、前原仁様が撫でた。それは絹を扱うように繊細な手つきだった。


 私が、反応できなかった?

 戦闘のプロとも言え、人の動きに機敏に対処しなければいけないこの私が。

 私は理解できない現状に戦慄し、驚愕する。本来、あってはならないのだ。四六時中、いついかなる時も気を抜かないように訓練されているSBMがスキを突かれるなど。


 しかし。


「……ん」


 これはなんとも気持ちの良い。

 直前のショッキングな出来事を一切合切粉々に打ち砕く程の、かつてない快感が私の頭頂部を中心に体を満たしていく。


 頭がボーッとする。

 

 暖かな日の昼下がり、新鮮な黄緑色の草花で覆われた広大な原っぱに大の字に寝転がり。視界一杯には何処までも続く、青一色の空。

 目を瞑れば、柔らかな草の感触や、心地よい風までリアルに感じられそう。この人の掌は、神の手かなにかなのだろうか。


「あ、ちょっと、ソフィ鼻血が!」


 私が夢心地な気分に浸っていると、前原仁様の何やら焦ったような声が聞こえて来た。


「鼻血?ん、問題ない」


 よく分からないけど、大丈夫、問題ない。


 それより、前原仁様。

 中々やる。

 人の頭に少し触れるだけで、これ程の幻覚を相手に見せられるその手腕。感服する。

 さらに、先刻から、前原仁様を視界に入れることにより発生する謎の『熱』。その得体の知れない『熱』は、確かに心地良い。しかし、原理が不明である以上、警戒しなければいけない。


 私をここまで困惑させる未知の手法。

 敬意や、尊敬の念を送る。


 また、一目見た時に感じた、あの妙な直感。正直今でも戸惑いを隠せない。

 こんな人見たことないし、当然会ったこともない。


 だから。


 『ご主人様』と、そう呼ぶことにする。

 主に仕える人間は皆、主をご主人様と呼ぶと本で読んだ。だから、私もそうする。そうすればきっとご主人様も喜んでくれるだろう。そして、最終的にご褒美として神の手を所望しよう。


 これからよろしく、ご主人様。


 ご主人様の呼び方が正式に決定したところで、ふと視線を下に向けると。

 何やら謎の明るい赤色の液体が私を中心に水溜りを作っていた。


「……?」


 あ、そういえばさっきご主人様が鼻血がどうとか。言っていた……気が。




「……?ん、目眩がする」

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