第54話 何気ない朝



 時刻は早朝。

 控えめな蝉時雨と僅かな涼しさを肌に感じながら、俺は家を出立する。あと数時間もすれば、けたたましい鳴き声と猛暑に早変わりする街。だから、この快適な世界の寿命は、正に夏の蝉のように短命なのだ。


「行ってきます!」


 明るく元気よくを意識した大きな声で家族にそう告げ、今日も学校へと向かう。眠気が尾を引く朝だからこそ、声で己を呼び起こす。


 今日、俺は部活の朝練に参加するべく、家族のみんなより小一時間ほど早く家を出る必要があった。普段は朝練には行かないんだけど、大会の時期も近くなってきたのだ。


 煌々と輝く太陽の陽射しを肌に感じる。手をサンバイザー代わりに眉の上あたりに水平に当てる。外気温は心地よいというのに、肝心の太陽が甘えを許してくれない。


「夏許すまじ」


 季節に文句を垂れ流しながら駅へと向かう。10分程歩けば着くのだけど、その時間すら今はもどかしく思う。一日の始まりから汗でベタベタなんてごめんこうむりたいのだ。


 汗をかかない絶妙な速度程度に少し足を速めながら、先日の事を思い出す。


 莉央ちゃんの家でのあれこれは、失った青春を取り戻すような魅力的なものだった。惜しむらくは、ボルテージが最高潮に到達した瞬間に彼女の母親が登場してしまったことだろう。

 今思い起こせばあそこが分水嶺だった。

 莉央ちゃんはこの上なく萎えてしまったようで、あれからほとんど喋らなくなってしまったし、母親―――神崎萌陽ほのさんは娘に男友達がいたことが嬉しかったのか、根掘り葉掘り話を聞かれた。

 結局、莉央ちゃんと2人甘酸っぱい時間は儚いものだったが、萌陽さんは美人だったし人あたりの良さそうな人だったため、思うところは特にない。寧ろ、あそこで軽挙に莉央ちゃんと一線を越えなくて良かったかもしれないという安堵の念さえある。

 俺たちはまだ高校1年生で、出会ってそう期間が経ったわけじゃない。まだ時間はある。ゆっくり関係を構築していこう。


 あ、そういえば今夜ついに男性特別侍衛官『SBM』の人が家に配属されてくるらしい。

 有名になり身の危険が増した俺を心配した母さんが手配してくれたのだ。主に学校の行き来に同行してもらい、俺を守ってくれるという話だ。一般人の俺にそんな大層な事をしてくれるなんて、少しむず痒いけどこれも必要措置なのだろう。

 それに、これは侍衛とは違う副次的な期待なんだけど、SBMは容姿も優れているという噂がある。その点は個人的に楽しみにしている。

 来週に部活の大会が開催されるのだが、それにも同行してもらう予定である。その大会は三年生の先輩たちが全国大会に進めるかどうかがかかっている大切な大会なので、SBMの人に身辺は任せて俺は大会にきちんと集中したいのだ。


 また再来週には俺が通っていた中学校の同窓会があるのだが、こちらにはSBMに同行してもらわないつもりだ。

 桜咲雛菊おうさきひなぎくさんや、星宮真紀ほしみやまきさんとの過去のけじめをつける必要がある。もっともそこに辿り着くためには、俺が過去の記憶を思い出すという神業が要件になってくる。この件に関しては少し考えているが……まあやるだけやってみるしかない。


 といった感じで、予定はぎっしり詰まっている。1つでも妥協はできないため、全力で事にあたるつもりだ。

 転生しても、全ての事象が思いのままに進んでいくわけではない。人生常に努力である。


「前原きゅんキタァァ」「しゅごいかわいい」「かっこよすぎて世界が滅びないか心配」「前原くんって人間族じゃなくて天使族だって知ってた?」「仁様今日も太陽より輝いておられます」「仁くんに思いっきりブン殴られたいなあ……」「「「わかる」」」


 ふと気付けば、駅に到着していたみたいだ。黄色い声……と称していいのか不安な歓声が鼓膜を打つ。

 この歓迎にはもはや慣れてしまったものだ。最初こそ戸惑ったものの、今となっては涼しい顔で流せ、尚且つウインクすら放てる。ふふん。


 最近、通学途中に電車内で痴姦されることがめっきり減った。少し前までは、俺が乗客達に注目されているにも関わらずその視線達を掻い潜って俺に痴姦する猛者が時々いたのだが、俺の知名度が世間で急激に高まったあたりからそんな猛者はピタッと現れなくなった。

 まあいくら俺がそれほど気にかけていないとは言え、犯罪だからね。良い傾向だろう。


* * *


『春蘭高校前、春蘭高校前です』


 しばらく電車に揺られた後目的の駅に着いた。乗客達が『『今日もごちそうさまでした』』と小さな声で呟きながら俺に向かって手を合わせているのを尻目に電車から降りる。


 何度目にしても圧巻である、学校へと続く並木道を進む。真緑に色付いた葉が視界いっぱいを覆い、与えられる言い知れぬ感動は色褪せない。耳をつんざく蝉達の合唱は幾重にもなって重低音と化す。

 これがひと夏超えて秋になると赤色に、もう1つ季節がうつろえば白色に変化するのだろう。

 ほうけて過ごせばあっという間に時間は過ぎ去る。転生という二度目の人生、一秒たりとも無駄にしないぞ。


 そうして少し立ち止まり景色を堪能していると。


「おはよう前原」


「ん?あ、おはようございます。右京部長」


 背後から我が弓道部の部長である、右京雫うきょうしずく先輩が声を掛けてきた。

 この人は、女性にしては珍しく男が苦手なのだが、俺相手には特にそういう兆候はなく気軽に接してくれる。俺の何かが琴線に触れたのだと思うんだけど、期待を裏切らないように立ち回りたい所存だ。


「朝練に行くんだろう?私も一緒に行こう」


「はい」


 並び歩きながら会話を交わす。身長は同じくらいだ。とはいえ、俺は成長期真っ只中で現在も伸び続けているため彼女が卒業するまでには明確に差がつきそうだけど。


「来週大会だが、調子はどうだ?」


「悪くないですね。共に全国の舞台へ上がりましょう」


「そうか。期待しているぞエース」


「がっかりはさせません」


 右京部長との会話の話題はほぼ弓道関係のことだ。弓道の話ができる人というのはそう数はいないため、この時間が俺は好ましい。俺に対しての好感を隠さない美少女は言わずもがな、自然体で接してくれる美女もそれはそれで乙というもの。


 そういえば、月刊スポーツ男子のスポーツライター、足立蘭あだちらんさんが2ヶ月連続になるけどまた俺の特集を組みたいと言っていた。

 俺が載った今月号の売り上げがめざましいらしく、看板モデルに起用したいという話も出ているらしい。俺がそれを受諾するかどうかは分からないけど、まあ学業や部活動に影響が出ない程度の仕事量ならそれもいいかもしれない。


 もし、もし来週の大会で活躍して全国大会に出場することになり更にその舞台で輝かしい成績を残せば、他社からの取材の数も増えるのだろうか。そうなれば俺の知名度は底上げされ、また夢のハーレムに一歩近付く。しかし、そんなよこしまな動機づけで大会に挑むのは、武道の神様にも対戦校にも先輩方にも失礼というもの。夢と現実との板挟みだが、ここは純粋な気持ちで大会に挑みたいと思う。

 考えてみれば、もし全国大会に出場出来なければそこで3年生の先輩は引退なのだ。それは、とても悲しい。


 だから、俺は自らの欲望に打ち勝ち、的を射抜いて見せる。

 別に女の子のハートを的に例えているわけでは断じてない。



* * *




「じゃあラスト1回!」


「「はいっ!!」」


 右京部長の気合いのこもった掛け声に、それ以上の気合いを持って応える部員達。この辺りは流石強豪校といった様相だ。

 俺の顔を見てはいつもニタニタと変な笑顔を晒している部員のみんなも、練習の時ばかりは針のように鋭い顔つきで的を見やる。

 袴の凛々しさも相俟って、正に大和撫子だ。


 時刻は午前8時5分。

 学校の授業は午前8時半から始まるため、もう間も無く朝練を終えようという時間である。

 朝一の運動はとても気持ちがいい。朝、体を動かすだけでその日1日の身の入り方が変わる気がする。あくまで個人的には、だけど。


「「お疲れ様でした!」」


 部員達全員で整列し、一礼することにより朝練の締めとする。


 練習を終えてみて実感するが、やはり最近調子が良い。

 来週の大会に焦点を当てて、体が無意識のうちにベストコンディションへ近づけようとしているのかもしれない。だとすれば優秀だこと。


「前原きゅんお疲れ様」「神、もし汗をおかきになられたのなら私めが舐め取って差し上げます」「今日も調子良かったね~お疲れ」


 部員達が各々そう声を掛けてくれるため、俺は『お疲れ様でした』と一人一人丁寧に返していく。皆が俺と出会った頃は、こちらに遠慮してか中々話し掛けてくれず、俺から積極的に接触するスタイルが主体となっていた。

 しかし、既に3ヶ月近く接しているため流石に慣れてきたのか近頃はこうして受け身な受け答えが多くなってきた。


「お疲れ様!仁」


「あ、お疲れ様です。すみれ先輩」


 『とんっ』と右肩を軽く叩かれる感触がしたのでその方向に顔を向けると、2年生でレギュラーの片岡すみれ先輩が茶髪ポニーテールを揺らしながら立っていた。


 というか俺の体に気軽に触れられるのか、凄いな。大体の女性は物怖じして俺の半径30センチ以内にすら入らないというのに。そしてそれは打ち解けた部員達も例外ではない。

 この辺りがすみれ先輩のコミュニケーション能力のあらわれだ。


「練習も終わったことだし、今回もアレお願い!」


「わかりました」


 撃ち出された弾丸みたいな勢いで頭を近づけてくる先輩に苦笑を漏らしつつ、お願い事を叶えてあげる。すみれ先輩は部活が終わると毎回こうしてお願いをしにくるのだ。日課だな。

 俺は彼女に応えるため、柔らかに頭を撫でてあげる。


「はふぅ」


 この世界に来てからというもの、俺は幾度と無く美少女達の頭を撫でてきた。そしてその中で無類のナデナデ好きなのが、何を隠そうすみれ先輩である。現在、俺がナデナデした回数ではぶっちぎりの1位。

 心愛、ののちゃん、愛菜ちゃんの妹たちもエントリーしているのは間違いないが、やはり年下で遠慮しているのかおねだりをしてくることはない。大抵モジモジしながら見つめて来た時に俺が察して頭を撫でてあげるという形に落ち着く。


「さて、それじゃあそろそろ授業始まりますし、着替えましょう」


「は〜い!」


 『仁パワー注入完了〜!』と叫びながら更衣室へと走るすみれ先輩を見送った俺は、少し小走りで男子更衣室へと向かう。

 

 今夜のSBMの人との顔合わせへの期待のおかげで、今日の授業に対してのモチベーションも高い。

 軽やかな足取りでは、そのまま俺の心情が見て取れるようだ。



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