第53話 莉央ちゃん宅へGO 後編




「はぁ……はぁ……仁くん仁くん仁くん!いいんですよね!?好きにヤっちゃっていいんですよね!?」


 人には三大欲求という、生活する上で最も大切な三つの欲が備わっている。取り上げられる三つは諸説あるが、一般的なものは、食欲、睡眠欲、そして性欲だろう。

 食欲は言わずもがな、食事を摂取しないといずれ息絶えてしまうため必要不可欠なもの。睡眠欲も同様に日常とは切っても切り離せない存在だと言える。


「ふぉっふぉおお……!!」


 ただ、性欲。これに関しては、他の2つと比べて格が落ちると言わざるを得ない。なぜならば、この欲求を満たすことを怠ったとしても重篤な危険が身体に及ぶわけではないからだ。もちろん俺が無知なだけで身体に少なからず影響はあるのかもしれないが、それでも命を落とすことはない。


「……」


 俺は今、仲の良い美少女に押し倒されている。

 前世では全く考えられない絵面だと言えるだろう。まさか俺が押し倒すのではなく、押し倒される側に回るとは人生何があるか分からないものだ。

 それにこんな状況でも冷静にモノを考えられる自分にも驚きだ。この体に精神も引っ張られてるのかもな。


 俺の勝手な推論だけど、今世の世界を生きる女性たちは皆強い性欲を持って生まれている、と思う。

 男女比に異常な偏りがあり歪なこの世界で、他の女性から抜き出て男を掴み取るために、その原動力となる性欲は殊更強くなっているのだ。

 その反動故なのか、はたまた別の理由があるのかは分からないが、対して男性側の性欲は風前の灯火だ。


 まあだから、この現状には何もおかしな点などないのかもしれない。この世界においておかしいのは、いつも俺の観念だけなのだから。


「はあ!はあ!いきますよ……?」


 『これが最後の忠告ですよ?本当にヤりますよ?』と言わんばかりの表情を見せる莉央ちゃん。

 ずっと願い続けてきた強い願望もいざ叶うとなった時、つい尻込みしてしまうのは人間の性というもの。いや、彼女が俺にエロい行為をする事を願ってたかは知らないけどね?そうあってほしいというただの俺の願いだ。


「うん、おいで」


 そして相変わらず俺の精神は波風がたたないほど静寂を保っている。

 なんていうんだろう。性欲がないってこういうことをいうんだな、と実感している。決して嫌ではないしむしろ凄く嬉しいんだけど、こちらからなりふり構わず仕掛けるほどの気概も生み出せない。来る者拒まず、去るもの追わず、というやつだ。

 まあ欲望に駆られた男ほど見苦しい程はないので好都合と言えば好都合なんだけど。


「で、では……!」


 莉央ちゃんの目が据わった。

 ついに俺が本物の男になる時がやってきたようだ。俺の家族、友達、ファンの子たちごめん。これが、あなたたちの期待に添える行為かどうかは分かりかねますが、頑張りたいと思います。


「ふぅ……ふぅ……」


 そんな懺悔を繰り広げている間にも、刻一刻と、鼻息が荒い莉央ちゃんが俺へと手を伸ばそうとしている。


「うへ、うへへ……」


 人間という生き物は、こんなにだらしない顔が出来るんだなと思ってしまうくらいの表情を晒している莉央ちゃんは、緊張からか興奮からか少し汗ばんだ手を俺へと伸ばし、そして。



 とんっ。



 と、俺の胸板へと手のひらを遠慮がちに置いた。

 そしてスリスリと前後に動かす。それはまるで高価な骨董品を扱うかのように丁寧で優しい手つきだ。


 何だ、胸?真っ先に触るのは胸なのか。

 男の胸なんて触って楽しいのだろうか。確かに弓道のおかげか最近胸板が厚くなってきて自慢ではあるんだけど。

 初っ端からエキセントリックな行為を予想していた身としては少々拍子抜けである。まあ段階を踏むというか、初動を飛ばしすぎても雰囲気作りに欠けるだろうし、仕方ないかな。

 まあそれならキスとか、ハグとか甘ったるい行為から始めたかった気持ちはあるし、今からでもそうしたいんだけど……。


「……ぐへ、ぐへへへ。仁くんのお胸様……ようこそ……私がママでちゅよー。仁くんのおっぱい硬いよぉ……あっ、鼻血出そう...」


 ……。

 今からの軌道修正は厳しそうだ。


 えっと、うん?あれ?段階的に攻める作戦じゃなかったのか?見る限り既に狂いそうな程(もう狂ってる?)興奮していらっしゃるご様子。

 確かに思春期の男が初めて女性の胸に触れればこういった反応を見せるかもしれないが、実はこの世界において男の胸の価値も女性と逆転している……というわけではない。


 勿論前世に比べて価値は桁違いに上がっていることは、俺の経験からも疑いようがない事実だ。しかしだからといって、逆転とも言い難いのだ。以前男用の水着をインターネットで検索していた時、非常に希少ながらも上裸のスタイルを貫く男性も存在することを知った。前世の女性に置き換えた場合、考えられないだろう。


「このお胸様は今は私のものです……誰にも渡さないです……ふひひ」


「だ、大丈夫?莉央ちゃん」


「あぁほっぺすりすり……仁くんの心音が私を何度でも蘇らせます……」


「……」


「すーっ……はぁー……良い匂い」


 そのため、ここまでの劇的な反応を見せるとは思っていなかった。前世の男の胸なんて、殆ど価値ゼロだったからまだ実感が薄いのかもしれないが。


 それにしても、もうこの子は手後れかもしれない。俺の言葉も届いていないようだ。

 今莉央ちゃんはヨダレを口端から垂らしながら恍惚とした目で俺の胸に顔を押し付け、思いきり深呼吸している。汗臭くないか心配だ。


「胸骨にちゅっちゅしちゃいますからね〜……はあ!はあ!」


 なんで胸骨?

 胸骨フェチはちょっと聞いたことないかもしれない。こっちではメジャーなのか?


「ああ胸部の産毛……頬触りが唯一無二です……」


 なんでそんなにねじ曲がった性癖してるのこの子は。産毛?産毛が好きなの?


「ふ、ふへへ。このまま生で頂きたいところですが、それは我慢して次はこっちを……」


 何を生で頂くのか詳しく聞きたい俺を置いて状況は進む。彼女は胸から顔を離し、そう言いながら俺の息子様に狙いをつけた。

 お手柔らかにいっぱいお願いします。


「……前に電車で仁くんに痴姦してしまった時以来です。あの時は混乱していてあまり記憶に残ってないですから……」


 すると突然、莉央ちゃんが顔に影を落とした。数秒前までの興奮状態とは、テンションに天と地程の差がある。


 彼女の言葉から察するに、恐らくまだ俺に痴姦してしまった過去を引きずっているのだろう。だから、犯してしまった過ちを思い出して落ち込んでしまったのだ。

 ……決して当時の感覚が記憶に残ってないことそのものを嘆いているわけではないと思う。たぶん。たぶんね。


「こ、今回は好きにしていいからね」


 真偽の判定は諦めて、とりあえずフォローを入れておこう。


「はい。ありがとうございます仁くん」


 うん、普段の朗らかな笑顔に返り咲いた。

まあ俺の息子様を好きにする許可を得て溢れんばかりの笑顔をしていると考えれば、少し複雑な感情なのは否定できないけど。


「では……失礼します……」


 莉央ちゃんはごくりと一度喉を鳴らすと、恐る恐る手のひらを俺の下腹部へと伸ばし始めた。


 やっと、やっとだ。やっと行為は本番に移り、そして俺は今日本物の男になる。全国のチェリー君達、すまない。一足先に進むよ。でも、高みで待っているから。絶対来いよ。


 この上なく、静かだ。時計の秒針が時を刻む『カチッカチッ』という音しかこの部屋にはこだましていない。この世界には既に俺たち2人だけ残っていないのではないかと錯覚するほどに。


 人は、交通事故に会う瞬間などの命の危険に直面した歳に、全てがスローモーションのように感じるという。それをタキサイキア現象と呼ぶのだが、俺の今の状態は正にそれである。この一瞬を味わいつくしている。

 確かに命の危機は訪れていないが、俺という存在の殻を破る直前である今は、生まれ変わるという意味で似たような状況かもしれない。


 そして、ついに、満を持して俺の息子様に彼女の手が触れる。


 ―――その時。



『ガチャ』


「莉央ちゃんただいま〜お母さんが帰りましたよ〜」


 部屋の扉を容赦なく開け放つ音と共に、軽快で明るい声が横合いからぶつけられた。それは、青天の霹靂のように俺の意識を引き裂き、昂っていた思考を急速に冷凍させた。


 端的に言って、一瞬で気持ちが萎み切った。


「あぇ?」


「あら?」


 いきなりの事態に莉央ちゃんがちんちくりんな声を出し、対して予想だにしない状況に扉を開けた女性が珍妙な声を上げる。


「「「……」」」


 そして俺たちは石のように固まった。

 気まずい沈黙が3人の間を満たす。この部屋は、再び時計の秒針の音に支配された。心地好く感じた規則的な音が、今はどうしようもなく憎らしい。


 この人は、どこのどなただろうか。まあ第一声の一人称から、ほとんど分かってしまったのだけど。


「……お母さん」


 俺の心の声を読んだかのようなタイミングで莉央ちゃんが掠れた声でそう呟いた。


 そうですよね、さっき自分でお母さんって言ってたもんね。

 ははーん、なるほど。部屋の入り口で立ち尽くす彼女は莉央ちゃんのお母さんということか。なるほどなるほど。


 うん。


「……」


 親フラなんて結末、望んでいなかった。今日は家族はいないという話だったのにどうして。どうしてなんだ。

 俺の、この溢れ、零れ落ちていた期待と、不安と、欲望をどうしてくれるんだ。


「お母さん!な、なんで帰ってきてるんですか!?仕事は!?」


「……えっと、今昼休みですし」


「いつもは家に帰ってこないじゃないですか!」


「忘れ物しちゃったんです〜」


「ッ!……なんで今日に限って!」


 そういうわけですか。

 まあ、イレギュラーはいつでも起こり得る。来週、再来週、来月でもチャンスはいくらでも舞い込んでくるさ。だから、もう落ち込まない。落ち込まないったら落ち込まないのだ。


 それにしても、親子で小競り合いしているところ申し訳ないが、俺は今、莉央ちゃんに馬乗りにされておりどうしていいか分からないといった状況である。なんて高度なプレイなんだ、神崎親子。お見逸れしました。


「まぁ今細かいことはいいじゃないの莉央ちゃん」


「は、はい!?ぜ、全然細かくなんか……」


「莉央ちゃん」


 莉央ちゃんの言葉を途中で遮るように莉央ちゃんママが声量を上げた。いや、声量を上げたというより声の重みが増したと言った方が正しいかもしれない。親が子を叱る時のあの独特な声色である。

 俺まで自然と背筋が伸びてしまう。馬乗りにされてるけど。


「……何ですか」


「お母さんさっきからどうしても莉央ちゃんに言いたいことがあります」


「……あ。……はい」


 先程までは声を張り上げていた莉央ちゃんだが、今となっては見る影もなく萎んだ状態である。これが親の威厳というものか。それとも、股下の俺の存在を思い出したのだろうか。……両方だろうな。


 そして莉央ちゃんママは目を鋭くさせ、こう叫んだ。


「人と話す時はきちんとお人形さんから降りなさい!いつまで馬乗りになってるの!」


 ……えっ?


「お人形さん……?じ、仁くんの事ですか?こ、これは人形じゃなくてちゃんとした人です!仁くんです!」


 いや全くその通りでございます。

 確かにさっきから固まってしまっていたが.けど、いくらなんでも人間と人形は間違えないだろう。誰がエッチなことする用の人形だ。


「嘘つかなくていいの!莉央ちゃんが男の子を家に連れ込めるはずないし、何よりそんな美の権化みたいな男の子が存在するわけないでしょ!」


 うーん、言われてみれば確かに。

 莉央ちゃんのような変態性を持つ女の子は男の子からは敬遠されやすいし、少し照れくさいが俺ほどの美形の男も今のところこの世界では目にしていない。

 莉央ちゃんママからすれば、人形だと思ったというより、人形だとした方が納得がいくって感じかもしれない。


「……えっと、初めまして、こんにちは。僕は歴とした人間ですよ」


 気持ちは察するに余りあるが、ここははっきりと否定させていただこう。仲の良い女の子の母親だ、第一印象付けは失敗したくない。

 いやまあ、未だに馬乗りされてるけどね。だって莉央ちゃんが降りてくれないんだもん。


「ひいっ!人形が喋った!!」


「だから仁くんは人間ですって!」


「ひいっ!莉央ちゃんが喋った!……のは当たり前だった!」


 大分混乱しているようだな。これからどうしようか。

 母と子が妙な言い合いをしている眼前の風景を見ながら俺は頭を抱えるのだった。


 それにしても、不完全燃焼だ……。



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