第51話 憧れの先輩 後編
一瞬の間のあと、私の中身が彼方から返ってきた時、待ってましたとばかりに思考が再展開されていく。
脳みそがきりきりと回転し始める。
……今、なんて?
喉の眼球の乾き、それと小刻みに震える指を知覚しながら、ほんの2秒前の過去を思い起こす。
聞き間違い?空耳?幻聴?違う、確かに私は聴いた。絶対に聴こえたんだ。
『前原仁くん』と。
私の憧れの人。夢にまで見た人。雲の上の人。
初めて見た時の衝撃と、感動は生涯忘れられない。そんな人が今、この場にいると、あの生徒会長は言ったのだろうか。
とてもではないが、信じられない。なぜ彼が説明会の場にいるなんて、そんな楽観で頭を満たせる。そんなことは有り得ないのに。
いや……違う。信じているし、信じたくもある。それなのに、こうして否定の方向へ思考を持っていくのは、自身に保険をかけているから。期待して、願って、祈って、それで実は冗談ですなんて言われてしまったら、もう立ち直れない。もう立ち上がれない。
だから、期待しないし、願わないし、祈らない。
でも、期待したいし、願いたいし、祈りたい。
「ウソ……でしょ……」
隣に座る凪が掠れた声でそう呟いたのが耳に届いた。ほんのさっきまでざわついていた会場も今は衣擦れの音すらなく、物音一つしない。完全な静寂がこの場を支配した。
『さあ、前原仁くん』
頭の整理がつかない私を置いて状況はどんどん進む。世界は、時間は、私なんて待たない。
生徒会長さんがそう言って舞台の脇に向かって手招きの仕草をする。まるで、そこに誰かがスタンバイしているみたいに。
「……」
本当に、そこにいるんですか?前原先輩。期待して、いいんですか?上げて落とすなんて、そんな真似ダメですよ?
心音が一回ごとに強くなっているのがわかる。全身から変な汗が出そうだ。
私は目をいっぱいに見開いて舞台の脇を注視する。もしそこに前原先輩がいるなら、どんなに……。
一瞬とも永遠とも感じられる時間を経て、ついにその時が来た。
人影が現れたのだ。この虚構の現実が、実在しますように。
息も、脳も、時間も、世界さえも止めて、その人に意識の焦点を合わせる。
「あ……」
これは、そう。そうか。
私の目標が、私の夢が。
叶ったんだ。
* * *
彼の人は、艶やかな黒髪をベースとし先端はきらやかな銀髪に染まっている。
二重のくっきりとした大きな目は吸い込まれそうになるほど魅力的だ。鼻筋は文句のつけようがなく、鳥肌が立つくらいに煌びやかな顔をしている。
それらが織り成すは最高の美。さらに優しげな顔立ちが、彼の次元をさらに底上げして、もはや言葉で形容できないくらい。
あの存在感は、あの人にしか出せない。
世界であの人しか持っていない、唯一無二の天賦だ。
だから、だから。もう疑いようがなくて、否定しようがなくて。
「……まえ、はら先輩」
まるで一瞬で喉が乾ききったかのように声が出なくなってしまった。
間違いない。私が間違えるはずなんてない。
あれは、正真正銘前原先輩だ。
会場の他のみんながどんな反応をしているのかは分からない。何故なら私が前原先輩から目が離せないからだ。女としての本能が、彼から視線を外すことを許可してくれない。
勿体ないからだ。そのコンマ一秒が。
前原先輩は生徒会長さんからマイクを受け取り、姿勢を正した。
そして紡がれるのは、天使の美声。
『こんにちは、春蘭高等学校説明会に参加して下さった中学校生徒の方々並びにその保護者様方。本日はお忙しい中、足を運んで下さり誠にありがとうございます。ご紹介に預かりました、春蘭高等学校1年1組の前原仁と申します。この度僭越ながら私が司会・進行役を務めさせて頂く運びとなりました。どうぞよろしくお願い申し上げます』
前原先輩は、殺傷能力すら感じさせる極上の笑顔を浮かべながら、右手でマイクを持ち左手を
その姿は言うなれば幻想的。ファンタジーな世界に迷い込んだかのようだ。
もう、カッコよすぎてなんか泣きそう。
これ夢じゃないんだよね?私本当に実物の前原先輩を見てるんだよね?
誰か私の頬をフルスイングでぶん殴って。夢じゃないことを確信させてほしい。それくらい嬉しくて信じられなくてどうにかなりそう。
「なんで……前原先輩が」
潤む涙腺を必死に抑え込んでいると、隣の凪が静かに口を開いた。
そう言われてみれば、確かに何故前原先輩が説明会にいるんだろう。生徒会のメンバーになったから……という理解でいいのかな。いや、そんな話は聞いたことがないけど……。
そんな疑問が頭に浮かんだ私だったが、それは直ぐに霧散した。
『お気に召して頂けたでしょうか?このサプライズは、説明会にお越し下さった皆様への感謝として計画させて頂きました。この場におられる方の中には彼、前原仁くんを慕う方も少なからず居られるかと存じます。どうぞ彼の甘い声音で、我が校の伝統、行事、学業その他の説明をお聞き下さい』
前原先輩から再度マイクを受け取った生徒会長がそう言う。
な、なるほど、これは確かに粋なサプライズだ。生徒会長さんグッジョブ過ぎる。仕事が出来る男だ。
というかこれ、本当に高校の説明会だよね?なんか説明会というより、ライブみたいになってるのは気のせい?甘い声音って説明会で使う言葉?
「……」
まあ前原先輩が無茶苦茶カッコイイから小さいことはいっか!
今大切なのは、今この瞬間が人生の絶頂だということ。一秒一秒を噛み締めて、味わい尽くすのが肝要だ。さっきからタラタラと考えているけど、私は一瞬たりとも前原先輩から目を離してないからね。
「……ちょっと私意識飛んでた」「私も」「仁様……仁様ぁ……」「仁先輩……!?本物!?」「仁くんと結婚したいわ」「お母さん何言ってんの?気持ちは分かるけど」「生前原先輩、写真よりエロい」「色気ヤバイよね……」「前原先輩の汗で塩分とりたい」「舞台が楽園化してる」「説明会ってなに?」「私たちは運良くライブチケットがあたったんだよ」
どうやら会場のみんなも再起動し始めたようだ。色んな意味でヤバイ人が多そうだけど、どれも同意できるものばかりなので私からは何も言えない。
同時に、にわかに館内が騒ぎ始めた。必然ともいえる現象だけど、きちんと説明会は開催されるのだろうか。
『ひとつ注意事項を申し上げるとすれば、前原仁くんが舞台にいるからといって、無理やり壇上に上がろうとする方や彼に向かって声を張り上げるような方がおられた場合、残念ながらその方には退館して頂く場合がございます。ご注意下さいますようお願いします』
すると、其処でまるで見計らったかのように生徒会長さんが注意を促す。その指摘に図星の人が何人かいたらしく、ビクリと肩を震わす影がいくつか見受けられた。
その注意が効いたのか、館内はまた静かな空間へと戻った。
まあ、生で前原先輩を見られるチャンスなのに退館なんて事態になれば目も当てられないし、もう誰も騒ごうとする人なんていないだろう。
私も絶対に騒ぐことはしない。というより、さっきから前原先輩を凝視して記憶に深く刻みこもうとしているので、騒ぐ余地がないと言った方が正しいかもしれない。最高すぎます、先輩。
『あはは……ということなので皆さん気を付けて下さいね。それでは説明会を開始致しましょう。先ずはお手元の資料をご覧下さい」
生徒会長さんから再度マイクを渡された前原先輩がそう言う。
ちなみに生徒会長さんは脇に下がることはせず、少し後ろで待機するようだ。
「お手元の資料……くっ」
お手元の資料……。お手元の資料!お手元の資料をご覧になりたいのに前原先輩から視線を外すことが出来ません!どうしましょう!橘蜜柑世紀の大ピンチ……!
『あ、あの……お手元の資料を』
四苦八苦しながらどうにか視線を剥がそうとしていると、先輩が困惑したようにそう言った。
えっ?もしかして私に対して言ってるのですか!?あの先輩が、この私に!?
と一瞬感激してしまったのだが、どうやら違うようだ。
視界の端で周りの人々を確認してみると、参加者の学生のその親は、前原先輩に意識を釘付けにされており、資料を全く見ようとしていない。どうやら私と同様に、彼の魅力に張り付けにされているらしい。
『あー……えっと……』
「!!」
いけない。
私たちが呼び掛けに応じないせいで、前原先輩がどうしていいか分からず少し焦り出している。
彼のご尊顔を記憶に焼きつけたいのは山々だけど、それで憧れの人を困らせてしまうのは私の本意じゃない。ちゃんと、指示に従わないと。
「ちゃ、んと……ぐぬぬ」
私は金縛りから抜け出す思いで必死に眼球を動かす。
ぶちぶちと視線を剥がす幻聴に苛まれ、視神経が引きちぎれるような錯覚の痛みに襲われながらも、なんとか手元の資料へと目を向けた。
舞台には神が遣わした天使が降り立っているのに、そこから意識を剥がすとはなんたる苦行なのだろう。これが神が私たちに課した試練だとでもいうのか。現世に地獄があるとするならば、いまこの葛藤がそれだろう。
でも、私は耐えてみせる。全ては前原先輩のために、前原先輩が笑顔でいられるように。
唇を強く引き結んで、資料を掴む手を震わす。
『……少しずつ、資料を見てくれる方々が出てきてくれました。ありがとうございます。それでは改めて説明会を開始したいと思います』
よかった。
いちファンとして、前原先輩に迷惑をかける愚行は絶対NGだ。これからはその事も念頭に置いて行動するようにしないと、絶対にいつか後悔する。
私は、自分の中の最優先を今一度見直す。今ここは、
『では、まず我が校の伝統理念についてご説明します。我が校では―――』
ついにあの前原先輩が説明会を行うという夢のような時間が始まりを告げた。
この日の事は一生忘れないだろう。今日が人生の絶頂期である現実を確信した私は、先輩の声に耳を傾ける。
彼が発する一文字一文字を脳に浸透させるように、静かに資料に目を落とした。
* * *
『―――では、これをもって本日の春蘭高等学校説明会を終了とさせて頂きます。長い間お付き合い下さり誠にありがとうございました。お帰りの際はどうか事故や事件にお気をつけ下さい。では、これにて失礼致します』
「え?」
一瞬、だった。
本当に、すぐだった。
前原先輩が説明会を開始したかと思えば、直ぐにそれは終わりを告げた。体感時間なんて概念をすっ飛ばして、文字通りコンマ1秒にも満たないような。
早い、早過ぎる。
そんなはずなんてない、もっと前原先輩の存在を堪能したい。そう思って時計を見ると、既に長針が2回転しており2時間が過ぎた事実を教えられた。
もうそんなに時間が経っていた。どうやら先輩に夢中になりすぎて時間感覚がおかしくなっていたようだ。
彼の美声に心を震わせ、時々御身をこっそりと眺める。そんな夢心地は、もう終わったのだ。
その事実が鈍器に殴られたような鈍い痛みを私の脳髄に与える。
「えっ!?もう!?」「私まだまだ仁くんのこと……」「仁様ぁ……お別れなのですか……?」「先輩……」「行かないで!」「待ってください!お写真だけでも!」「サインちょうだい!」「あのあの!ファンです!握手してくれませんか!?」
参加した生徒達は皆一様に同じ反応を見せる。こうも皆の時間感覚を狂わせるとは、時空を歪ませるほどの美貌に恐れ入ります。
「ってちがう!」
恐れ入ってる場合じゃないでしょ。
前原先輩が行っちゃう、もうしばらく会えなくなる。憧れの人が、いなくなっちゃう。
『嫌だ、行かないで』と、そう叫び上げ、彼をこの場に一秒でも長く引き止めたい。でもそれは多分叶わないし、虚しい自己満足にしかならない。そして、何よりも、心優しい前原先輩を困らせる行為だ。到底実行は出来ない。
説明会が始まる前に生徒会長さんに注意を促されたにも関わらず、前原先輩の名前を呼ぶ参加者達も多くいるようだ。というか、殆どの参加者が声を上げている。
まあ既に説明会は終了したので、あの注意事項が有効かどうかは定かじゃないんだけどね。
私だって呼びたいよ。私は此処にいます、と先輩に伝えたい。だって、大好きなんだもん。
「……」
でも、今も困ったように笑いながら手を振っている彼の姿を見ていると、これ以上負担をかけるのはダメだと思う。
私達の懇願は、彼には毒だ。彼が優しいからこそ、より苦しませてしまう。そんなのは、断じて許容できない。
「……ふぐッ」
血が出るくらい必死に唇を噛んで、万が一にも言葉が漏れ出ないように耐える。心の内を1文字すら出すな。私の愛は、見せかけなんかじゃないんだ。彼への愛は、自己満足なんかじゃない。
「……ッ」
前原先輩。次にあなたに会えるのはいつですか?もし私が春蘭高校に受からなかったら一生会えないのですか?
いま、この瞬間が最後なのですか?
頭に浮かんでは消えていくそんな言葉を頑張って抑え込む。耐えろ私。忍べ私。
私が葛藤している間にも先輩は通常通り歩を進める。
そしてついに先輩の体が舞台の脇へと入り、姿が見えなくなった。すんなりと、見えなくなった。
「あぁ……」「凛々しいお姿が……」「これが虚無感」「泣きそ」
これ本当に学校説明会が終わった後?と言いたくなるような反応を見せる生徒達。まさにライブのあとの様相だ。
「……」
横に意識を変えると、幼なじみの凪も一見いつも通りの表情だが何処か物悲しげな雰囲気だ。先輩のファンであるため彼女も何か思うところがあるのだろう。
……いや、よく観察してみれば皮膚に爪がくい込んで流血するくらいに拳を握り締めている。彼女も、必死に耐えて、耐え抜いたのだろう。私達、やっぱり親友だね。
「カッコよかったあ〜」「春蘭絶対に受かる!」「仁様最高すぎます……」「今夜のオカズにさせてもらいます先輩!」
しかしそんな私達とは逆に、先輩と別れることを悲しむのではなく、先輩と会えたことを喜ぶ人達も多くいるようだ。
確かにその反応が正しいのだろうとは思う。本来ならここは喜ぶべきところだ。そうであって然るべきなんだ。
「……」
それなのに、どうしても虚無感が抜けてくれない。
先輩と同じ空間にいた、あの時間が満たされすぎて、彼がいない現状に耐えられない。彼なしじゃ生きていけない体になったとでもいうのだろうか。
なんて私は欲張りなんだろう。夢を叶えたはずなのに、すぐに先を求める節操の無さ。
自分が心底嫌になる。
「……帰ろっか」
「……そうね」
自己嫌悪に陥りながら、席を立つ。
あの憧れの人に会えた後こんなに悲しい気分になるなど、過去の私に言ったら信じられないに違いない。
なぜなら、今だって信じられていないのだから。こんなにも浅ましい自分の存在と、前原先輩が持っていたあまりの魅力の大きさを。
前原先輩のカッコよさについて語り合う人、余韻に浸るように放心する人、悲しむ人。
様々な人が未だ会場に残る中、私と凪は重い足取りで体育館を出た。
どうやら大部分はまだ館内に残っているらしく、帰る人はほとんどいない。私達だけだと言っていいだろう。
「……前原先輩かっこよかったね」
「……ええ。想定以上だったわ」
「説明会は楽しかったけど、今は寂しいね」
「……ええ、そうね」
2人で、なんとも静かな会話を交わしながら校内を歩く。
あぁ、明日からどうやって生きていけばいいんだろう。前原先輩のあの笑顔を思い出す度に胸が締め付けられて苦しくなる。掻き毟っても、掻き毟っても、消えてくれない。こんな気持ちになるなんて思いもしなかった。
「「……」」
会話もあまり弾むことはなく黙々と歩き続け、ついに出口である校門前まで来てしまった。ここを越えればそこはもう春蘭高校の敷地ではなく、今日の説明会は本当に終わりだ。
じわりと、涙がでそうになる。
前原先輩とても、とってもカッコよかったです。私ますますファンになっちゃいました。またいつかお会いできることを切に願っています。
私、勉強頑張りますね。絶対来年また来ますから。……欲を言えば、夏のオープンキャンパスで会えちゃったりしたら、すごくうれしいです。
心の中で長々とそう呟いた私は足を一歩踏み出し、校門から出ようとする。
ああ、本当に終わりなんだと、そう痛感した。
―――その時。
「ちょっと待ってそこの2人!」
後方から、凪と私の間を
私たちはぴたりと動きを止める。
この声。
この声、聞いたことがある。いつ聞いたのだろう。つい、さっきだ。それにこの声色は男性。ついさっき聞いた男性の声。それって。いや、そんな訳ない。あり得ない。有り得ない。有り得ない。
目が勝手に見開く。指先が自ずと震える。足先が独りでに力む。
私と凪は、全く同じタイミングで恐る恐る振り返る。
あるはずのない奇跡を期待して。起こるはずのない劇的な展開を願って。ここに居るはずなんてない人の顔を祈って。
今だけは、どうか期待させて欲しい。
だって。だって。
「はぁはぁ……やっと追いついたよ。帰るの早いね?」
急いで走ってきたのか、息を切らしつつそう告げる目の前の男性。
本当にそんな姿を様になっているなと、ぼんやり思った。
「……」
これは夢なのだろうか。それとも会いたくて会いたくて、私の願望が作り出した幻影なのだろうか。
体が強く、強く強張って口から言葉が出ない。
「急にごめんね。2人に会いたくてさ」
なんで?なんでここに?
有り得ない、有り得ない。有り得ない、はずなのに。
「……うそ、ですよね?」
掠れた声が口の端から漏れた。あまりにも現実味がなくてついつい失礼なことを口走ってしまった。
だって、とても信じられなかったから。
あの前原先輩が私達に会いたいなんて。
「はは、嘘じゃないよ。僕は本当に君達2人に会いたかった」
先輩が、そんな私を微笑ましいものを見るような瞳を宿しながら諭す。
近いよぉ...カッコいいよぉ。目が潰れちゃうよぉ。
「な、ぜですか?何故私達……2人、に?」
固まり何も返せない私とは違い、頼りになる凪がそう問う。はたから見れば冷静に見えるだろうが、少し声が上ずっている。彼女も、相応に緊張しているのだろう。
「んー、なぜ、か。いくつかあるけど、1番の理由は、君達2人がすごい寂しそうな顔をしてたのが舞台から見えたからかな」
え?
どういうこと?
「あ、あの、寂しそうな人達なら私達以外にも沢山いましたよ?」
それまで固まっていた私だが、ようやく言葉を紡ぐことができた。
そう、体育館には数百名にも及ぶ人達がいたのだ。寂しそうな顔をした人達なんてごまんといたはず。決して私達だけじゃない。
「そうだね、ありがたいことに沢山の方が寂しそうにしてくれた。それでも僕が他でもない君達に会いたいと思ったのにはいくつか理由があるんだよ」
尚も微笑みを絶やさず前原先輩は言う。
「まず1つ目は、最初に僕が壇上した時とても嬉しそうにしてくれたこと」
人差し指を立てる。
「ちょ、えっ!?あの大人数の中私達の表情まで見えていたんですか?」
「ばっちりね。舞台上っていうのはね、みんなが思ってるよりみんなの顔がよく見えるんだよ。説明会に参加してくれた方々の顔はきちんと一人一人確認してるよ。僕、滅茶苦茶目が良いんだよね」
先輩は指で自分の目を指し、少し茶目っ気を出す。そんなところも可愛くてカッコ良い。好きです。
というか、凄すぎる。あの人数の顔を一人一人?本当に人間ですか?
「そして2つ目は、僕が資料を見るように促した時、一番早く見てくれたのが君達だったこと。僕が困ってるのを見て頑張ってくれたんだよね。嬉しかったよ、ありがとう」
「……」
なんかもう、泣きそう。なんでそこまで見てくれているんだろう。なんで、私が欲しい言葉をそんなに言えるんだろう。なんで、なんで。
「そして3つ目はさっきも言った通り、僕が退場する時とても寂しそうにしてくれたこと。それに、声も出さずに必死に耐えてくれてたよね。あれはなんで?」
「……あ、あれは、あれ以上先輩を呼ぶと先輩が退場し辛くなって困るかなって……」
「そう、それだよ」
少し涙声になりつつそう返した私に先輩が我が意を得たりとばかりに反応する。ご機嫌なようだ。
「資料の時もそうだったけど、君達は僕のことを1番に考えて行動してくれてるのがよく分かった。参加者の子達はみんな良い子だったけど、君達は『すごく』良い子だよ。だから、つい会いたくなっちゃった」
「「……」」
涙を堪えることに必死で何も返せない。現実なのか、夢なのか、境目が分からない。夢なら覚めないで。現実ならどうかこのままで。
「まああれだけの人数だからね……他にもそんな子がいたかもしれないけど、僕が見つけられたのは君達だけだった。いきなりでごめんね、ビックリしたでしょ」
前原先輩は頭を掻きながら謝る。そんな姿もとても様になっている。もう、この世に存在するありとあらゆる行為が、全部様になりそうな勢いだ。
「……はい」
隣で凪がそう静かに返事する。
さすが凪、こんな状況でも会話のやり取りができるんだ。私も続いて返事しないと。
「……っ」
返事したいのに、嬉しすぎて涙を堪えることに精一杯で言葉が作れず、口から空気しか出ない。
手で口を抑える女の姿なんて前原先輩にこれ以上見せたくないよ。無理やりにでも何か絞り出さないと。絶対に先輩を無視はできない。
「……ありがどう……ございまずぅ」
バカバカバカ。泣いちゃったよ私。
言葉を返そうと口から手を離した瞬間、それが合図となったかのように涙腺が崩壊してしまった。まるで、この手で涙に蓋をしていたみたいだ。
「ちょっ、蜜柑!?」
「……うぇえ、ごべんなざい。嬉じくて嬉じぐて……涙が……」
ギョッとしたような凪の声が何故か遠くから聞こえるように感じる。
ごめん、止まらないんだよ。どうしても、止められない。
憧れの人の前で号泣するなんてすごく恥ずかしいよ。誰か止めてほしい。お願いします。
「……えぐっ、すぐどめるんで……ずみまぜん」
両手で次から次へと溢れる涙を必死に拭う。
私の涙腺仕事しすぎだ。こんなに涙出さなくて大丈夫だから。お水飲みすぎちゃったかもしれない。
嫌われちゃう。折角会いたかったって先輩が言ってくれたのに嫌われちゃう。早く止めないと、話しかけたら号泣した変なやつになっちゃう。
そんな私の胸中とは裏腹に涙は勢いを増したように尚も流れる。
もうダメだ。私の第一印象は最悪だ。なんで、こんな時に。今頑張れなくて、いつ頑張るんだ蜜柑。
私の頭の中を様々な諦念が駆け巡った。
その時。
「―――」
ふわりと甘い香りが鼻腔をくすぐった。と、思えば頭に感じるのは力強くも優しい感触。
「……ふぇ?」
「泣くほど喜んでくれたの?ありがとう。俺嬉しいよ。君の名前を聞かせてもらってもいい?」
顔を上げると、すぐ目の前には今まで見た中で1番素敵な笑顔を浮かべた天使が……じゃなくて前原先輩が立っていた。どうやら、私は彼に頭を撫でられているみたいだ。
「……?」
え?
頭を……撫でられている……?
「……ぇえぇえええ!?」
なんで!?私!?ナデナデ!?ええ!?
夢か現か!どっち!?現か!
「あ、驚かせちゃったね。ごめん、癖なんだよね。直したいとは思ってるんだけど、ついね 」
私が叫ぶと、先輩は素早く私から距離をとり、そう謝った。申し訳なさげに目を伏せている。
あぁ、違うんです。驚いたのは驚いたんですけど違うんです。もっとお願いしたいんです。私のバカ、黙っとけばまだ撫でてくれたかもしれないのに。殴るぞ。
「泣き止んだ?」
あ、そういえばいつの間にか涙が止まってる。まさか先輩はこれを見越して……?いや、流石にそれはないか。ないよね?
「は、はい。えと、ご迷惑をお掛けしてすみませんでした」
「はは、後輩は先輩に迷惑をかけるものなんだよ。どんどんおいで」
うぅ、眩しいよ。後光が、後光が見える。
貴方様は本当に神が遣わした天使なのでは?
「それで、君達の名前を聞かせてもらっても良い?」
そういえばさっきそんな事を聞かれていた。危ない危ない、無視するところだった。前原先輩を無視したなんて、末代までの恥だよ。ついでにお母さんにも罪を償って貰わないと、割に合わないくらいだ。
「た、橘蜜柑と言います!」
「と、東堂凪と……申します」
「蜜柑ちゃんと、凪ちゃんね。良い名前だね。2人は説明会に来てくれたってことは春蘭高校を志望してるの?」
「はい!絶対受かってみせます」
「……私もです。それに私は、弓道部に入部するつもりなので……宜しく、お願いします」
「えっ!?」
え、凪って弓道部志望だったの?
私初めて知ったよ。親友で幼なじみなのに。この私が。なんで教えてくれなかったの?また違う意味で泣きそうだよ?
「へぇ〜!それは嬉しいよ。よろしくね凪ちゃん」
「……はい」
前原先輩が笑顔で凪の手を握った。対する凪は薄っすらと頬を赤く染める。こんな幼なじみの姿は見たことがない。ちゃんと女の子してるね。
それにしても。
くっ!羨ましい!けど、さっき私だけ頭を撫でてもらったから文句は言えない!もどかしい、狂おしい!
「わ、私も弓道部に入りますから!」
負けてられない。私も対抗してそう明言する。たった今決めた事項だけど。即席でも、決意は決意だ。
「あ、そうなんだ。でも、うちの部結構入部審査厳しいから頑張ってね」
前原先輩は苦笑いをする。
入部審査か。やっぱり前原先輩が所属する部活には、当然のように入部希望者が多いのだろう。が、頑張ろう。
「じゃあそろそろ僕戻らないといけないから、この辺で。やっぱり思った通り蜜柑ちゃんと凪ちゃんはとても良い子だったよ」
「……ありがとうございましゅ」
「……ありがとうございまするわ」
その慈しむような笑みにあてられた私と凪は2人とも顔を真っ赤にして、尚且つ私は噛むし、凪は変な言葉遣いになるしもうぐだくだになりながらお礼を言う。
こんな幸せな世界があっていいのだろうか。どうにも夢の中を漂う感覚が拭えない。ふわふわと、現実の縁を
「来年一緒に勉強できることを楽しみにしてるよ。じゃあね」
そんな私達を見て、口に手を当てながら少し笑った前原先輩はそう言って踵を返し去ろうとする。
「あ……」
これで、今度こそお別れ。
思わぬ劇的な展開が舞い降りてきて、信じられない幸運を手にして、私の人生できすきだ。もう一生分どころか、来世の分の運まで使い切ったと言われても、納得できるくらい。
十分満足した。これで明日から生きていける。だから、もう何も……。
いや。
いや、ここで終わって良いのか、私。
今、この瞬間、この場所で殻を破らないといつか後悔する時がやってくる気がする。こんなチャンスに見舞われるなんてもう二度とないだろう。
恥も外聞も投げ捨てて、彼の中に爪痕を残したい。私はここにいるんだって声を大にして伝えたい。
いけ、言っちゃえ蜜柑。
「……前原先輩!!」
こちらに背を向けて体育館の方向へ戻ろうとする前原先輩を留める。
もう、止められないぞ私。ここまでくればもうなるようにしかならない。
いけ、いけ、いけ。
「うん?どうかした?」
不思議そうにこちらに向き直る先輩に、私は空気を大きく吸って叫ぶ。
肺を膨らませ、丹田に力を込めて、心を震わせて、叫ぶ。
「いつか!!先輩さえ良ければ!!私を、お嫁さんにして下さい!!」
言った。
言い切ったよ私。
ファンとして前原先輩に迷惑をかけるような愚行はしないとか、カッコつけて宣言しておきながら、この上なく彼を困らせるような言動をしてしまった。
嫌われてしまうかもしれない。幻滅されてしまうかもしれない。
私は結局どこまでも中途半端で、立ち位置が定まらないお子様だ。痛切に思う。
それなのに、体の芯から溢れ出して零れ落ちそうな親愛がどうしても止められなかった。我慢できなかった。
反省は勿論しているけど、後悔はしていない。
「蜜柑!?何言ってんのよ!?」
凪が焦ったように叫ぶ。
まあ、そりゃ友達が急に求婚し始めたら驚くだろう。私でも驚く。今だって自身に驚いている。
前原先輩は、思考が抜かれたようにきょとんとした顔をしている。何を思っているのか、こちらからは分からない。
前原先輩がいることで集まり始めていた野次馬がにわかに騒ぎ始めた。その数はまだ数人といったところだが、もうあと数分も経てば説明会から帰還する多くの生徒たちでごった返し収拾がつかなくなるだろう。
だから、今しかなかった。今後人生でこれだけ面と向かって話せる機会がそう来るとはとても思えない。だから、頑張った。
それに、迷惑と分かっていながら行動に移した裏には、ほんの少しの計算もあった。先程の私が号泣してどうしようもなくなった時の彼のあの行動。そして反対に説明会の時の行動。
言語化は出来ないけど前原先輩が困ってしまう状況には、きちんとしたパターンがある、と思う。私なんかのプロポーズじゃ彼は困らないし、困らせることなんてできないと、そう考えたのだ。
それも、理由の一因だ。
前原先輩が、唐突に私たちの傍へ寄ってくる。相も変わらず、何を考えているのか分からない。
心臓が跳ねる。
そして彼は、ゆっくりと凪と私の間の空間へ顔を入れると、私達の耳の至近距離で呟いた。
「そうだなあ。2人一緒になってくれるのなら、いいよ」
前原先輩が吐息混じりに答える。
その一言一句が、まるで吸水性の悪いタオルみたいに膨大な体感時間を経て私たちに染み入っていく。実時間では、数秒とかかっていないだろう。
理解が遅れて、理解が追いついて、そして。
「……」
……。
「「え……」」
え、え?え?
「「えぇええぇええええぇえええ!!??」」
私と凪のかつて無い大声が辺りに響き渡る。これだけ腹から発声したのは、合唱コンクール以来だ。遠くの生徒が何事かと振り返るのが視界の端に映る。
嘘でしょ!?え?プロポーズ成功!?前原先輩のお嫁さんになるの私!?
というか、なんで凪も一緒が結婚条件!?嬉しい……けど、なんか複雑!!プロポーズしたの私なのに!でも嬉しい!
「はは、じゃあまたいつか会おうね〜」
イタズラが成功した子供みたいな無邪気な笑顔でそう言い残した先輩は、そのまま体育館へ駆けて行った。
それから数十秒して、説明会の帰還組がわらわらとこちらへ歩いてきた。彼女たちの落ち着き様からして前原先輩に出くわすことはなかったみたいだ。私が引き止めたばかりに迷惑はかけたくなかったため、僥倖だと言える。
「「……」」
私たちの側を多くの生徒たちが通過する中、その場に立ち尽くす。
何と形容して良い気持ちなのだろうか。先輩は私が冗談で言ったと思って、あのような返してくれたのだろうか。それとも、本気で?
うー気になる。でも、例えどちらであっても最高なのは変わりない。前原先輩の中に私という存在を残せたはず、なんだから。
先程までの悲しい気持ちは時空の彼方へ吹き飛び、どこか満たされない感情は完全に消え失せ、私の胸中を支配するのは多大な幸福感だ。
「……ありがとう……と言っていいのかしら。複雑な気持ちだわ」
凪が隣で地面に声を落とす。
そうだよね、抜け駆けするみたいになっちゃってごめんね。彼女からしてみれば、私に巻き込まれて何がなんやらって感じだもんね。
「えっと、勝手にごめんね」
「……別にいいわよ。……来年はちゃんと自分でプロポーズするし」
「え?後半なんて?聞こえなかった」
「なんでもないわ」
「あ、ちょっとまってよ!」
さっさと歩き出してしまう凪を私は駆け足で追いかける。そして小走りしながら後ろを振り向き、心の中で張り上げた。
先輩、今日は本当にありがとうございました!
あのプロポーズの返事が本気なのか、冗談なのか、今度直接聞きに行きます!だから待ってて下さい!
あなたが大好きなんです!お慕いしているんです!泣きたくなるくらいに愛おしいんです!ぜひ、言葉で伝えさせてください!
予感した通り、この日は私にとって一生忘れられない日になったのだった。
暑い日差しが今日はどこか暖かく感じる。地面からの熱気が心地よく思う。
空は、とても青かった。
さあ、帰ったら勉強頑張ろう。
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