第50話 憧れの先輩 中編




「……ついにこの日が来た」


 寝癖がすごいことになっている現状を意にも介さず、体を起こしてすぐ私はそう静かに、力強く呟く。


 おはようございます、蜜柑です。


 時が経つのはあっという間というもので、今日はなんと春蘭高校の説明会の日だ。期待と少しの緊張から昨日はあまり眠れず寝不足気味ではあるが恐らく大丈夫だろう。大丈夫だと思いたい。


「来ちゃったぁ……来ちゃったよぉ」


 ずっとこの日を楽しみにしてきたのに、いざ迎えたとなれば気後れしてしまう。嬉しいはずなのに、心が臆している。


 そうというのも、今日は祝日のため前原先輩に会えることはないと思っていたんだけど、よくよく考えてみれば弓道部の練習があればもしかしたら会う可能性もあるんじゃないのかなと、昨日そう考え至ってしまったからだ。

 あの前原先輩を生で見る事が出来るなんて凄すぎる。なんか色々耐えられない。平静を保てるのかどうか危うい。生先輩はやばい。


「うーん……はっ!ゆっくりしてる暇はなかった」


 勝負時である説明会は、精一杯のオシャレをして向かうと決めていたんだった。

 制服の着用が義務付けられているため服装を凝ることは出来ないけど、髪型や少しばかりの化粧ならば力を入れられる。自分の容姿に自信なんてないけど、努力するのは誰にだって許されるよね。


 私は急いで階段を駆け下り、リビングへと向かった。


「お母さ〜ん!おはよー!さっそくだけど髪お願いします!」


 今日はサイドに軽く編み込みを入れる髪型にしたいのでそれはお母さんに丸投げしよう。そんな器用な真似は私には期待しないでほしい。

 まあさすがに化粧は自分で行うことにする。日頃から凪に教わっているからね。



「……うん、ばっちり!」


 姿見の前で一回転してみたり顔を傾けて色んな角度から髪型を確認したりした私はそう結論づけて、勇ましく両拳を握る。

 人間、内面の覚悟が決まり切ってなかったとしても、外面を相応に引き締めれば自ずと内面も引っ張られるものだよね。


「……」


 ぺちっと、両手で頬を挟み込む。さあ行こう。前原先輩が通う高校へ。

 春蘭高校へ。


「行ってきます!!」


 今日はいつもより大きめの声を意識してそう告げる。弱気な自分は、今この場所に置いて行く。

 私は勢いよく家から飛び出した。


「おはよう蜜柑」


 扉を開け放ち、道路へ目を向けると、見慣れた顔と声が私を出迎えてくれた。

 凪が玄関の前で待ってくれていたようだ。毎朝一緒に学校に通っているけど、普段ならここから少し歩いた場所の公園で待ち合わせをしているので、珍しい。


「おはよう凪!待っててくれてるなんて珍しいね?」


「……まあ、気分よ」


「ふ〜ん」


 ははーん。

 おそらく説明会の開催を心待ちにしすぎて、待ち合わせ場所にいても立ってもいられなくなったのだろう。そうして、直接迎えに来ちゃった感じかな?本当に凪は可愛いなあ。


「……早く行くわよ」


「あっちょっと待ってよ〜!」


 また口角を弛めながら眺めていると、晒される視線に居心地が悪くなったのか凪がさっさっと移動を開始してしまった。まったく、素直じゃないんだから。


 その後私達は春蘭高校へと向かう電車へ乗るため駅に向かった。

 駅への道中、制服を着た他校の生徒の姿をチラホラと見かけたが恐らく説明会に行く人達だろうと思う。会場である体育館のキャパシティギリギリらしいからかなりの人数が集まるだろうし。


「切符買うわよ」


「は〜い」


 率先して行動してくれる凪は本当に頼りになる。凪の後を追従するように私は切符を買う。実際に通うとなると、毎回切符を購入しなければいけないのだろうか。いや『定期』なるものが存在するんだったかな。それが何なのかイマイチ理解は及んでいないけど。


「遂に春蘭高校の中に入れるね〜」


「そうね。でも今日だけじゃダメなのよ?ちゃんと勉強して来年度から通うのよ」


「うん!頑張るよ!」


「勉強は毎日欠かさず行っているのかしら?」


「もち!」


 ホームで春蘭高校行きの電車を待つ間、会話を交わす。

 凪と話しながら辺りを少し観察してみると、駅までの道中で見た数より明らかに多くなった制服を着た女子生徒達が所狭しと立っていた。いくらなんでも多すぎる。流石に無関係な人たちも混ざってるよね?


「はぁあ……仁先輩」「春蘭に受かって私は絶対前原先輩とお近づきになる」「さすがに今日は仁様と会えないかしらね」「弓道部の活動があればチャンスはあるかもしれない」「生前原先輩見たいなぁ」「もし本人がいたら写真撮影とかしていいのかな」「いやそれは本人に聞けよ」


 周りの会話に聞き耳を立ててみると、大方の話題はやはりと言うかなんと言うか前原先輩のようだ。

 春蘭高校を目指す者達にとって、彼の存在は正に義務教育。欠いてはならないのである。ネット上では大きなファンクラブも結成されている彼は、まさに時の人なのだ。……私も入会しようかな。


『間も無く一番線に電車が参ります』


 スマホでファンクラブについて検索しようとした時、ちょうど電車の到着を報せるアナウンスが鳴り響いた。

 む、なんて間の悪い。まあ調べるのは説明会が終わってからで大丈夫かな。今はとにかく、説明会の開催が待ち遠しい。いや、春蘭高校へ訪れるという行為そのものが、かな。


 私はまだ見ぬ春蘭高校へ希望を抱きながら、凪と共に乗り込んだ。これは、正に夢へと続く線路をひた走る電車だ。私を憧れの舞台へと連れて行ってください。



* * *



『春蘭高校前、春蘭高校前です』


 それから電車に揺られることしばらく。待望の到着アナウンスが私の耳に舞い込んだ。


「やっと着いた……」


 疲弊を込めて呟く。


 あまりにも人多すぎる。初めて経験したけど、満員電車とはこんなにも耐え難いものなのだろうか。女の匂いが充満して、とてもじゃないけど長時間は過ごせそうにない。何が悲しくて女の胸なんて押し付けられなければいけないのか。ぽよぽよした感触が不快すぎる。


 ドアが開いた瞬間に私と凪は転がるように車内から脱出し、一旦人が少ない場所へと移動した。

 これでやっと一息つける。


「はぁ……早く駅出ましょ」


「……は〜い」


 大量の女にプレスされたダメージが色濃く残る私達は、お互い疲れたように言葉を交わし行動を開始する。説明会前にこんなにも疲弊するとは考えもしなかった。これを毎朝体験する社会人って、すごいんだね。


 駅から力無く出ると、綺麗な緑色に色付いた葉がついた桜の並木道が真っ直ぐ続く景色が視界いっぱいに入った。


 ホームページで見たのだけど、この桜並木道は春になると美しいピンク色で一杯となり、入学者を迎えてくれるのだ。

 そして、この道が続いた先に堂々と聳え立つは、春蘭高等学校。真っ白で汚れひとつ見つけられない校舎は高貴な雰囲気を醸し出している。木々の一本一本があの高校を装飾しているのだ。校舎の一部だと言える。


「うわぁ……綺麗な景色だね凪」


「そうね。思わず見入ってしまいそうになるほどだわ」


 私達は少しの間2人でその場に立ち尽くして、改めて春蘭高校入学への意志を強くした。

 この並木道を前原先輩は毎日歩いているのだ。昨日も歩いたに違いない。

 何だろう、胸がざわめく。胸部を強く抑え、口を引き結ぶ。なぜか、憧れの人が近くにいるような錯覚を覚えてしまった。以前に一度だけ訪れたことはあるけど、説明会に参加するとなると全く違った感慨を抱く。私は、入学への1歩をきちんと踏み出したんだ。


 私だって来年からこの道を毎日歩んでみせる。そのために、今やるべきことをただひたすらにやる。勉強、勉強、勉強だ。


「……よし、行こっか」


「……そうね」


 決意を引締めた私と凪は『春蘭高等学校説明会会場はこちら→』という案内看板に従って行動を再開させる。

 並木道をまるで水が流れるように移動する学生達を見てみると、親と共に来ている学生も多いみたいだ。勿論、私たちのように友人を連れている人や、また一人の人もいる。


 夏にはオープンキャンパスも開かれるので、それに参加するかどうかこの説明会で決める人も多いと聞く。今回は品定めの機会なのかな。

 私はもちろん何があっても参加するつもりだけど。


 私達は取り敢えず人々の流れに身を任せるように移動した。春蘭高校前という名前の駅だけあって、駅から学校まではそう遠くはない距離のようだ。もっとも、これだけの絶景に囲まれた通学ならば、もう少しだけ遠くても構わないと思ってしまう。


「おぉ……着いた」


 そして、遂に憧れの春蘭高校を視界いっぱいに収めることができた。不純な動機で志望した高校だけど、感無量だ。そんなはずはないのに、前原先輩が敷地内を歩いていないかと、ついつい目で探してしまう。


「春蘭高等学校説明会会場はこちらで〜す!」


 校門付近でたむろっている説明会参加者達に混ざって、しみじみと感慨にふけっていると、大きな声が横合いから聞こえてきた。

 ふと、そちらに目を向けてみる。


「うわっ男だ!男がいるよ凪!」


 そう、美少年といっても差し支えない程の男子生徒が両手を目一杯広げて声を張り上げている。あの制服は春蘭高校のものなので、恐らくここの生徒なのだろう。


「男がいるわね。春蘭高校は生徒会を中心として説明会を行っているらしいから、生徒会員でしょう」


「へぇ〜」


 生徒会は会長を筆頭に美少年揃いとの噂を聞くだけあって、確かに中々のイケメン。以前の私ならあんな美少年を見たらテンションが上がっていただろうに、今はそんな気分にあまりならない。


 前原先輩だ。

 彼を、彼の笑顔が既に脳裏に焼き付いた私は、既にダメになってしまっているのかもしれない。世間では絶世の美少年で通っている俳優をテレビで見ても、感情が動かなかった。

 どうしても、前原先輩の影を無意識に追ってしまうのだ。頭から、離れてくれないのだ。麻薬のような強烈な中毒性を持つ美貌。私はもう前原先輩以外の男の人に興味を持てそうにない。


「わあ……あの人イケメンだ」「確かにイケメンだけど私は前原先輩一択!」「私も!」「仁先輩見た後だとやっぱり感覚狂っちゃうよね」「うんうん。仁様が天使すぎる」


 どうやら周りの生徒達も似たような所感を抱いているみたいだ。

 分かる、分かるよ。前原先輩だけ輝きが違いすぎるんだよね。例えるなら、無数の天体が巡る夜空に、一際強く光を放つ星。どれだけ遠くにいたとしても一目で分かってしまうほどの存在感があるのだ。夜のシリウスとか金星とか、その程度の明るさではなく、月や太陽に匹敵する圧倒的眩燿げんよう


「凪はあの人カッコいいと思う?」


 興味無さげに生徒会の先輩を眺めている凪にそう問う。


「さあ?私男に興味ないから」


「そっか」


 うーん、予想通りの受け答え。幼馴染だから知ってるけど昔っから凪は男に関わろうとしなかったんだよね。この子が本当に女の子かどうか疑いそうになったよ。


 それなのに、まさかその凪が前原先輩のファンになっちゃうなんて正直驚いた。今でもまだ半信半疑の心持ちだ。

 真相について問い質したい気持ちはあるけど、幼馴染の私に自分から言わないということは何か事情があるのか、其れともまだ時期じゃないのか。

 取り敢えず今は、もう少し親友として様子を見守っていきたいと思う。


「春蘭高等学校説明会会場はこちらで〜す!」


 じゃあ生徒会の先輩も案内してくれているみたいだし、そろそろ行きますか。


 私達は案内に従って説明会の会場である体育館へと向かう。校内には所々春蘭高校の先輩が立ってくれており迷うことなく目的地まで進めた。高校って中学校よりもすごく広い。

 程なくして一際目立つ体育館に着いた。敷地内において、校門からは正反対に位置しているらしい。


「うわぁ人いっぱい」


 真っ先に目に入ったのは、人、人、人。

 入り口にはたくさんの制服を着た女子生徒やスーツを着たその親御さん。所々男子生徒も見受けられる。追加参加者は、抽選で数は減ったらしいがそれでもこの人数。前原先輩効果、なのだろうか。……そうなんだろうね。


 次に目に入ったのは受付だ。入り口のすぐ横に長机が設置されており、そこで春蘭高校の説明会資料などを受け取ることが出来るらしい。既に長蛇の列が形成されているため、早めに列に加わったほうがいいかもしれない。これからも人は増え続けるはずだ。



「入るわよ」


「う、うん!」


 五分ほど受付の列に並んだ後に資料を受け取った私達は、持参してきた中学校でいつも使用している上履きに履き替え、人混みをかき分けて体育館へと入る。

 中を見渡してみると、床にブルーシートが敷かれ大量のパイプ椅子が舞台に向き合うように置かれていた。舞台上には大きなスクリーンが下されており、席はもう前半分ほど埋まっている。

 席は自由とのことなので私達は中間より少し後ろの位置の席へと座った。


 館内が、人が大勢いる時の独特の喧騒に包まれる。一体何人くらいいるんだろう。

 学校説明会に参加するのは初めてであるため、落ち着かない。それに、ここにいる人たちが全員春蘭高校を目指している人だという事実に臆してしまいそうだ。言うなれば、みんながライバル。これが受験なんだね。


 少し弱気になってしまった私は、助けを求めるように隣に座る凪へと視線を向ける。彼女ならば、恐らくどんな事態にも動じないと思うのだ。その姿を見て私も奮起させてもらおう。いつも頼りにしちゃってごめんね。


 すると、凪はどうやら春蘭高校の資料に目を通しているようだ。真剣な顔つきで1ページ1ページを熟読している。


 なるほど。学校の資料を事前に読み込んでおくのはいいかもしれない。モチベーションが上がりそうだし、説明会の予習にもなる。うん、凪に習って私もそうしよう。


 私は受付で手渡された紙袋を漁って資料を取り出し、心を落ち着かせるように読み始めた。



* * *



『間も無く説明会を開始する時間となりました。まだ席に着いておられない方はお急ぎ下さい。繰り返します―――』


 資料を読み始めてどれくらいの時間が経っただろう。開始直前を知らせるアナウンスが館内に響いた。


「あっ、もうそんな時間か」


 早めに着いた筈だけど、思ったより集中してしまっていたようだ。顔を上げて周りを首を巡らせると、既に席は殆ど埋まっていることがわかった。人数が増えたにも関わらず喧騒も先程よりは収まっている。

 


『それでは、只今より春蘭高等学校説明会を開始致します』


 それから数分後、ついに説明会が始まった。

 ここは、あの前原先輩が通う高校だ。隅々まで神経を行き渡らせて一言一句聞き逃さない。それに私が来年から通う(予定の)高校でもある。

 気を一層引きしめると同時に、ごくりと喉を鳴らす。それを合図としたように、館内は静寂が喧騒に台頭した。皆、本気でこの説明会に臨んでいるのだ。負けてられない。


『まず初めに生徒会会長の桐生より参加者の皆様へとお伝えすることがございます』


 ふむ、イケメンと名高い生徒会長さんか。校外まで噂が届くくらいだから嘸かし美形なのだろう。前原先輩を知る前は、生徒会長さんも私の志望動機に一応入ってたからね。そこまでウエイトを占めていたわけではないけど。


 舞台をじっと注視していると、脇から制服を着た1人の男性が出てきた。あれが恐らく春蘭高校の生徒会長だろう。


「おお」


 思い描いたよりも、何段階もイケメン。人生で見た中で2番目にカッコいいと思う。1番は言うまでもなく前原先輩だ。

 その威風堂々とした立ち姿は、正しく生徒会長のあるべき姿のように感じる。漫画とかアニメとか、物語に登場する所謂上の立場の人間に抱いていたイメージと、そのまま合致する。


 そんな生徒会長さんの登場で会場が僅かにどよめいたのが肌と耳で分かった。これは仕方ない。寧ろ、どよめかない方がおかしいと言える。それくらいの天性のカリスマはあると思う。


『こんにちは、春蘭高等学校生徒会会長の桐生隼人です。本日はわざわざ我が校にご足労頂き誠に感謝致します。皆様方に割いていただいたお時間を有意義なものにすることを、ここに約束させていただきます。さて、早速なのですが前述の通り皆様にお伝えすることがございます』


 マイクを片手に流暢に話しだした。生徒会長なだけあって、こういう公の場は慣れているのかもしれない。私だったらてんやわんやになって台無しにしちゃうだろうな。

 でも、お伝えすることって一体何だろう。凶報とかじゃなければいいんだけど。


『事前に皆様がご存知の通りであれば、説明会は私、桐生が司会・進行役を務めさせて頂くのですが、誠に勝手ながら本日は私ではなく代役の者が司会・進行役を務めることとなりました』


「えっ」


 そうなんだ。私は別にどちらでも構わないんだけど、イケメンの生徒会長が司会をするという特徴を目当てに参加する人もいると聞く。大丈夫なのだろうか。


「えっ……桐生先輩じゃない人がやるの?」「えー……ちょっとショック」「私もそれ楽しみにしてたのに」「体調悪いのかな」「なんか、一気に気が抜けちゃった……」


 案の定、後ろの席から小声でそんな不平不満が聞こえてくる。さらに後ろだけではなく館内の全体がザワついているため、至る所で文句が出ているのだと思う。

 ほら、やっぱり代役は悪手だと思う。なんでわざわざ代役なんて用意したんだろう。用事があるとか、体調が優れないとかなら仕方ないけど。


『不満がある方もいらっしゃるかと存じます。しかしそれには及びません』


「……?」


 どういう、ことだろう。

 生徒会長さんより凄い人が代役……なのだろうか。もしかしたら生徒会に、まだ見ぬ逸材が隠されているのかもしれない。でもそうなると、本当に前原先輩レベルの容姿じゃないとね。


『代役が登場した方が早いかと思いますので、早速壇上に上がって貰いましょう』


 うんうん。確かにそうかもしれないね。


『では、出て来てくれ』


 うんうん。


『―――前原仁くん』


 うんうん。

 前原仁くんね。はいはい。


 ……。


 …………。


「……あぇ?」


 一瞬、私の中のすべてが、空白になった。

 全部抜けて、全部取り上げて、それでも、舞台を認識し続ける執念だけは残っていた。その欠片だけを残して、見つめて、見つめて、それで。

 

 それで―――。


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