第49話 憧れの先輩 前編




「くぅ〜!いい朝!」


 少し涼しい朝方に感謝しながら今日も私は起床する。体を伸ばしつつ、ビールを一気飲みした後のおばさんのような声を出すのは毎朝の癖みたいなものだ。なんとかして治したい。


「うわぁ……寝癖が凄すぎてもはや芸術的じゃん」


 ベッドから起き上がり、姿見を見てそんな称賛半分自嘲半分の言を口にする。周りからよく言われるのだけど、私は昔から少し独り言が多いのだ。


「……学校行く準備しますか」


 言葉にする行為により自らを喚起させる。

起きる瞬間は気持ちいいけどそこから行動に移すのは苦手だ。何度経験しても朝はいつも辛い。どうにかして朝を無くせないだろうか。

 鉛のように重い足を引きずるように動かし私は一階のリビングへと向かった。



「行ってきま〜す!」


 朝ご飯と着替えを済ませ、殊更に大きな声でお母さんにそう伝えた私は、今日も無理やり奮起して学校へと向かう。通っている学校は、家から比較的近くに位置しているので徒歩通学だ。

 気持ちの良い朝日を全身に浴びながら歩を進める。気分は光合成で栄養を作っている植物である。


 私の名前は橘美柑たちばなみかん。現在中学校3年生のばりばりの受験生だ。

 とは言ってもついこの間まで勉強らしい勉強なんて殆どしていなかった。しんどいし、楽しくないし勉強なんて嫌いなのだ。志望校に落ちたら落ちたで別に構わないと思っていた。


 そう、ついこの間までは。


 自堕落な生活を送っていた私が唐突に勉強を頑張ろうと決意したのはほんの最近の出来事だ。


 正に分水嶺であったその日はちょうどスポ男の発売日であり、定期購読者である私は毎度のごとく朝一で近所の本屋へ向かった。意気揚々と購入し、素早く帰宅し今月号にはどんな美少年がいるのかと、胸を躍らせながら本を開いた。


 そして、私は見たのだ。目の当たりにしてしまったのだ。知ってしまったのだ。

 俄には信じられなかった。本当に、本当に綺麗だったから。存在するどの言葉を選び取っても、どう単語を繋ぎ合わせても、完全に彼を表現し切るのは難しいと思う。


 その日、私は初めて知った。


 『美天使』或いは『希代の美少年弓士』前原仁先輩を。


 イケメンとか、美少年とか。私が受けた衝撃はそんな生易しい言葉じゃなかった。ネット界隈で騒がれている通り、あの人は正しく天使。人間の範疇に留まるような美貌じゃない。人類ではないのかもしれない。

 上手く言えないけど、あの人だけ他の人とは違う。何もかもが、違ったのだ。


 私はそれはもう無我夢中に記事に読み耽った。少しでも、1ミリでも多く情報を得て、前原先輩の事を知りたかったから。


 結果として、分かった情報はいくつかあった。

 まず、前原先輩の写真を見れば見るほど好きになってしまう自分という存在のこと。

 そして、どうやら前原先輩は女性にとても優しいらしいということ。性格まで天使とかそろそろ実在を疑うレベルだ。

 そして、重要なのが次の情報。


 前原先輩が春蘭高校の生徒であるということ。


 この情報を見た時は、これはもう私と前原先輩は運命で繋がっているのだろうかと調子に乗りそうになってしまった。天にも昇る心地だ。

 だって、だってそんな偶然あるわけない。この国にいくつ学校があると思っているの。星を掴むような話なのに。


 そう、実は私の志望校は春蘭高校だったのだ。私が春蘭高校に決めた理由は親友がそこを目指していること、イケメンの生徒会長が在籍しているという噂を聞いたことの2つくらいで、大した思い入れなんてなかった。

 でも前原先輩という存在を知った今、私は絶対に来年春蘭高校の校門をくぐってみせる。絶対、絶対だ。


 通学路を歩きながら私は決意を新たにする。私は絶対に前原先輩のお嫁さんになるんだ!気立ての良いお嫁さんに。

 頑張ろう。


「前原先輩と結婚したら幸せなんだろうな……70年分の寿命と対価に、神様どうか叶えて下さい」


 私が、実現する確率がミジンコ程度の妄想を繰り広げて顔をだらしなくさせていると。


「おはよう蜜柑。……また独り言?」


 背後からそんな声が聞こえてきた。

 この、冷たくこちらを蔑むような声色には聞き覚えがある。ありすぎると言ってもいい。


「おはようなぎ。癖なんだから仕方ないじゃ〜ん」


 クルリと向き直ると、其処にはやはり見知った顔があった。

 この黒髪の日本人形みたいな髪型をした女子は東堂凪とうどうなぎ。幼稚園から一緒の幼馴染であり、親友だ。先ほど言った春蘭高校を目指している親友というのは凪のことだ。もっとも、凪はとても頭がいいから春蘭高校には十中八九受かるだろうけど。羨ましい限りだ。


「その癖治した方がいいわよ?……気味が悪いから」


「は〜い」


 凪はいつも通り道端のゴミ虫を見るみたいな目でそう言う。この子は昔からすごく口が悪いし、氷のような表情をするのだ。本人曰く悪気はないらしいけど、凪は絶対ドエスだね。私には分かる。

 まあそんな凪なんだけど、実は性根はいい子なんだよね。面倒見はいいし、真面目だし、ここぞという時は頼りになるし。ずっと一緒に過ごしてきた私だからこそ分かる本質である。


「……何ニヤニヤこっち見てるのよ。気持ち悪いからやめなさい」


「は〜い」


 ただ、この子は他の子よりほんのちょっとだけ素直じゃないだけだから。そう考えたら、その思考フィルターを通してとても可愛らしく見えてくるのだ。


「……まあいいわ。学校行きましょ」


「行こう!」


 そんなこんなでいつも通りのやり取りを交わした私達は学校へと向かった。性格は正反対のようで意外と気が合うんだよね。水と油も捨てたもんじゃない。


「そういえば春蘭高校の説明会今週だけどちゃんと覚えてる?」


「覚えてるよ!私が春蘭高校のことを忘れるわけないじゃん!」


「……前原先輩がいるから?」


「そうだよ〜」


「本当に好きね」


「あはは」


 専ら、タイムリーな話題である春蘭高校や前原先輩の件について話しながら登校する。  

 前原先輩については毎日のように凪に話し掛けているからそろそろ怒られそうだ。とは言っても、私が通う中学校全体でそんな感じだから仕方ないと思う。今月のスポ男が発売された時から学校の話題は先生生徒問わず前原先輩一色なのだ。

 世の中にまだあんな天使が眠っていたなんて驚異の大スクープだから、当たり前だよね。


「そういえば説明会の参加者が増えた件、知ってるかしら?」


「何それ?」


 改めて前原先輩の偉大さに感銘を受けていると、凪が唐突に話を振ってきた。知らない事実なのでとりあえず問い返す。


「何でも、春蘭高校の説明会参加募集はもう締め切っていたのに、前原先輩が載ったスポ男が発売された瞬間参加希望者が波のように押し寄せたらしいのよ。それでやむなく其処から抽選で追加参加者を決めて定員ギリギリで説明会を行う、ということにしたらしいわ」


「へぇ〜そんな騒ぎがあったんだね」


 それは知らなかった。私と凪は前原先輩の存在を知る前から志望校は春蘭高校だったからね。今思えば早めに参加希望出せて良かった。


「今頃学校側は大忙しでしょうね。迷惑をかけて、浅はかな連中よ全く。何しに高校へ行くつもりなのかしら?恥を知ってほしいわ」


 凪はもはや十八番となりつつある蔑みの顔でそう1人愚痴る。確かに私が言えたことじゃないけど、男目当てで志望校を決めるのはちょっと軽いよね。凪の気持ちは分かるよ。いや、本当に私が言えたことじゃないんだけどね。


 でもね、凪。私は知ってるんだよ。この前凪の部屋に遊びに行った時に偶然見つけちゃった。

 ベッドの下に丁寧に隠されていたみたいだけど、親友の私相手にそれは通用しなかったみたいだ。

 私は見た。


 スポ男に掲載されていた前原先輩の写真の切り抜きが丁寧にファイリングしてあるものを。

 さらに何故か今月号のスポ男が3冊も置いてあったことも。私の予想では、ファイリング用と観賞用と閲覧用だろう。まあこれは想像の域を出ないので一旦置いておく。


 とにかく!

 普段澄ました顔をして毒舌を遺憾なく発揮する私の幼馴染東堂凪は、前原先輩のファンなのだ!

 凪は私にバレてないと思ってるみたいだけど、甘すぎるよ!ショートケーキのように甘すぎるよ!みたらし団子のように甘すぎるよ!そういうところも本当に可愛いんだよね。


「……何ニヤニヤしてるのよ。さっきも言ったけど気持ち悪いからやめなさい」


「は〜いっ」


 おっと、あまりにも彼女が可愛いらしくてついにやにやと口角を上げてしまった。

 とりあえず凪の秘密は知らない体にしておこう。年頃だもん、知られたくない秘め事の1つや2つあるよね、うん。私は大人だからね、任せて。


 さてさて、話が脱線してしまったけど、今週の説明会楽しみだなあ。祝日だし前原先輩に会えるなんて超絶ラッキーは流石に起こらないと思うけど、先輩が実際に通っている学校にお邪魔できるってだけでテンションが上がってしまう。いっぱい息吸おう。

 あと生徒会長がイケメンらしいから、それもちょっとだけ楽しみかな?生徒会が説明会を行うらしいから、恐らく見られるだろうしね。……まあ、本当は前原先輩に会いたいんだけど、それは仕方ない。



「前原先輩、待ってて下さい!私!絶対に会いに行きますから〜!」



 届け私の想い。


 青く晴れ渡る空へと精一杯叫ぶ。何かの間違いで、屋根を超えて、山を超えて、雲を超えて。どうにか前原先輩に伝わりますように。


 あなたをお慕いしています。大好きなんです。


 まだ、あなたの声も、為人ひととなりも何も分からないけど、それを知ってしまったらますます好きになるだろうという確信めいた予感がある。絶対、絶対だ。


 だから、説明会で会えなくとも、夏のオープンキャンパス、若しくは来年にでも必ず逢いに行きます。


『うるさいわね……』と、隣で呟く親友の事は気にしない。気にしないったら気にしないのだ。



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