閑話 とある女子高生




 ね、眠い……。



 『ガタンガタン』と、電車が線路をひた走るお馴染みの音をBGMに今日も私は座席に座りながら微睡む。この適度で一定な車体の揺れも眠気を加速させている。

 それに、最近朝の電車の時間を早めたため授業中の居眠りが増えた。生活リズムがまだ身体に馴染んでいないのだろう。


 それにしても、ダラシない性格になってしまったと痛感する。しかしそうは言っても、うちの高校に男子生徒は在籍していないわけで。私という女をアピールすべき存在が校内にいるわけではないので、自然と気持ちは緩むというもの。


 何を隠そう私が通う高校は、その全生徒が女で構成される女子校である。そう珍しくもない体制ではあるが、やはりなぜ共学にしなかったのだと恨み節の一つや二つや三つや四つを言いたくなる。噂では、都会には『男子校』という花園のような場所が存在するらしい。良い香りがしそうだ。

 対して女子校は、亡者の掃き溜めみたいな地獄だ。通う全ての生徒が女なんて需要がないものを誰が考案したんだろうか。

 いや、私が通ってる時点で需要はあるんだけど。男子とお近づきになれないというのはかなりのストレスを蓄積する主因となってしまうのである。


「はあ……」


 なぜ私が女子校なんてものに通う羽目になったのかというと、ぶっちゃけ行きたかった高校に受験で落ちてしまったからだ。


 行きたかった高校とは、春蘭高校である。


 入学試験のレベルとして、男女が共に同じ学び舎で過ごす共学は、全国的に見ても女子校に比べて非常に難易度が高い。倍率において天と地ほどの差があるんだから当たり前だよね。


 私は、中学生の早い段階……それこそ1年生の2学期くらいの時期から、志望校は春蘭高校一択であると心に決めていたのだ。

 主な理由としては、やはり男が挙げられる。なんでもかなりイケメンの生徒会長がいるという噂を当時耳にしたのだ。春蘭高校の生徒会は代々男で構成され、生徒会長は中でも一番の美形が務める場合が多いのである。どうしても春蘭に通いたくなった私はそこから2年と少し、猛勉強をこなした。

 けれど、あと一歩届かなかったのだ。


 結果、滑り止めとして受けた今の高校に通っているという末路を辿っている。


 当初はかなり落胆したものだ。春蘭を夢見て共に受験勉強に精を出し、そして共に落ちた友人と合格発表の時悔しくて悲しくて号泣したのを鮮明に覚えている。あれも今思えば青春の1ページとして流せないわけではないが、あの時は本当に辛かった。


 最初の1年は正に抜け殻のように日々を過ごしたものだ。希望を失った人間ってのはああも悲惨な状態になるんだね。世界の色が褪せて、感情の起伏が乏しくなっていたように思う。鬱病の一歩手前だ。それくらい私にとって男というのは日々を生きる糧だったのだ。

 幸いにも、同じ電車に春蘭高校の生徒が乗ることが多く駅で男子生徒を見かける機会が多く与えられていたことが私の命を繋いでいた。


 まあ男の子はみんな男性専用車両に乗るから駅のホームでしか目の保養にはならないんだけど。


 そんな私に訪れた転機は忘れもしない今年の4月。気持ち良いくらい晴れ渡った日だった。あの日は委員会の仕事がありいつもより早い時間に電車に乗ったのだ。



* * *



 委員会になんて入らなければ良かった……。しかもなんで放課後じゃなくて早朝に作業なの……。


 私は心の中で委員会に文句を愚痴りながら電車に乗り込み、定位置に座った。

 前から3車両目の、進行方向左手に設置された椅子、その更に左奥の席。ここが私が入学から座り続けている拘りの位置である。先客が居て座れなかった時は軽く萎える。


「ふう」


 いつも乗っている時間ではないため僅かに心配していたが、穏当に座れてよかった。


 それからしばらくして、人が多く乗り込む駅に着いた。

 私は陰鬱になりそうな心を無理やり奥底に沈め、目を瞑った。人が一気に流れ込む気配がした。女の汗の臭いが体にまとわりつく。この瞬間が私はとても嫌いだった。


 ああ不快。

 小蝿が近くを飛び回っている状態に感じるのと似たような感情を覚える。正に同族嫌悪というやつか。私も小蝿と差して変わらないのだ。


 私は顔をしかめた。

 私の高校の最寄り駅に着く迄の間、この空間に居続けなければいけないのか。

 心が重りをつけられたように沈む。早朝からこんな鬱屈とした気持ちに巻かれて、どう一日を生き抜けというのか。世の女性はみんなこんなやるせない思いを抱えて生きているのだろうか。


 はあ……。


 諦観と、それに一雫の絶望の念を垂らして、私が溜息をつこうとした瞬間。



「ッ!?」



 ……なに?この香り。


 私の嗅覚が、女とは明らかに違う芳醇な匂いを捉えた。その清涼感は鼻奥を突き抜け、脳髄に響く。

 かぐわしい。甘く、何故か少し切なくなってしまう極上の香りが、私の心をその日の空のように晴れ渡らせる。濁り切った胸中が凄まじい勢いで浄化されていく。


 男だ。

 これは男の匂いだ。


 私は心の底から確信を得た。男を欲し続けてきた私がその点を誤るはずがない。

 よもや一般車両に男が乗り込むとは、幸運な日もあったものだ。いや『日』というよりも『時間』か?この時間の電車に乗らなければこの瞬間は訪れなかった。

 私は人知れず委員会に感謝を捧げた。


 さて。


 この魅惑の香りを放つ発生源は何処だろうか。当然ながら香りだけで満足するほど私は安い女ではない。目で見て、鼻で匂って、耳で感じて、脳で堪能する。それでようやく満足という感情に片足突っ込むくらいだ。


 私は緊張と期待に胸を高鳴らせながら、目を開き辺りを探ろうとする。

 すると、瞼を開け真っ先に視界に飛び込んできたのは、夢にまで出たあの春蘭高校の男子制服だった。


「ッ!!?」


 なんと、目の前だ!

 私が座る席のすぐ目の前に男子高校生が立っている。


 決して見られないように注意しながら拳を握る。天は私を見放してはいなかったようだ。死にたいと思いながら、世界の色が褪せたとしても、必死に生き抜いてきて本当に良かった。


 ふ、ふふ。よし、いよいよ次はご尊顔を拝見させてもらおうか。イケメンなら尚良しだ。超絶神引きをして、春蘭の生徒会長だったりしたら狂喜なんだけども。今夜のオカズ決定戦で最有力候補に選出されることになるだろう。

 まあ高望みはしないほうがいいか。


 私は踊り狂う心臓の鼓動を抑えつけながら、男に気付かれないように細心の注意を払いつつ、そっと、そっと、視線を上げた。

 膝下から太もも、股間、腹部、胸部と辿って私の視線がシャツの襟を捉える。股間部分で数秒だけ視線を固定させたのはご愛嬌といったところだ。


 ふぅ……。

 よしよし、順調だ。


 も、もうちょっとで顔が見えそ―――



「……え」



 ―――その瞬間、時が止まった。

 

 否、時間が停止したわけではない。私が停止し、世界から切り離されたのだ。

 比喩ではなく、私の脳があまりの衝撃により動作を放棄したのだ。有り得ないと、脳がそう結論づけて現実から逃避したのだ。


 私の脳が再起動を果たしたのはそれからどれくらい経った頃だっただろうか。次駅停車のアナウンスが流れた時に、私は正気に戻った。


 あり、えない。


 そう、ありえないのだ。こんな……こんな。

 私の貧相な語彙力で彼を表現することが叶うだろうか。

 暴れ狂う心情を誤魔化すように、前髪を二束ほど掴み取り指でねじねじと弄りながらもう一度彼の顔を確認してみる。


「……」


 綺麗……だ。


 ベースは黒色で先だけ銀色という珍しい髪色、正に黄金比率と言わんばかりの配置の顔のパーツはそれぞれが芸術作品と見紛うほどの美しさ。

 それらが互いに調和し、あり得ないほどの美が顕現している。非の打ち所が、本当になかった。失礼なので人の顔に完璧だなんて言いたくはないけれど、本当に完璧な顔だった。


 天使?


 その言葉しか出てこない。反則だ。理不尽だ。ルール違反だ。常識を逸脱している。

 人間じゃない。人類じゃない。それくらい、本当に見目麗しい外見だ。


 私は天使から視線を外すことが出来なかった。

 外したくなかったのではない、外そうとしても、どうしても外せないのだ。まるで視線に質量が伴い、それを誰かにガッチリと掴まれてしまったみたいに。


 やばい、私ガン見だ。


 いつまでもこんなに見つめたらさすがに天使に気付かれちゃうよ。そうなれば、顔を強ばらせてしまったり苦い表情をさせてしまったりするかもしれない。

 私は天使にそんな顔をして欲しくない。他でもないこの私がそうさせてしまうのだとしたら、尚更。


 早く、視線を外さなければ。

 それなのに、金縛りにかかったみたいに私の眼球は動かない。目が小刻みに震えて、肌が黄色くなるくらい強く握り拳を作って抗っても。

 どうしても、どうしてもそれができない。


 早く、早く!


 感情が焦燥に支配される。

 脳みそが焦慮に焼かれる。

 それでも現実はどうしようもなく、非情で、無情に出来ていて。


「……あ」


 天使と、それはもうハッキリと目が合ってしまった。追い討ちのように声も洩らしてしまい、もう言い訳を口にすることもできない。

 『何見てんだよブス』って怒られるかもしれない。『不快なのでやめてもらっていいですか』と叱られるかもしれない。無表情でどこかへ去ってしまうかもしれない。


 違う、違うんです。


 私はただあなたが本当に素敵で、綺麗だったから。絶景を眺めてしまうみたいな状態で見入ってしまっていただけなんです。

 だからどうか、今を、壊さないで。


 冷や汗が止まらない。

 私はビクビクと肩を震わせながら、天使からの視線を受け止めるしかできなかった。

 壊れたくない、壊したくない、壊されたくない。天使を私の中から消さないで。


 何に怯えているのかも自分自身で分からぬままに震え上がっていると、私は次の天使の行動に、目を見張ることとなった。



「―――」



 ―――笑ったのだ。


 天使が微笑んだのだ。

 それも少し目を細めて、とても優しげに。 慈愛が込められた、この世界の何よりも暖かな笑みだ。それを私に、私だけに向けてくれたのだ。

 天使が、私に。



 私の脳は、再び時を止めた。




* * *




 それからの事はあまり覚えていない。


 呆然としながら学校に着き、友達に話しかけられてから初めて正常に戻った。


 駅から学校までの間は、天使の笑顔が脳に、魂に焼き付いて離れなかったのだ。だからそれ以外の外部からの情報を無意識に遮断していた。どうしても、余韻に浸っていたかったから。

 それぐらい衝撃的で、何より美しかった。


 私は次の日から朝の電車の時間を早めた。委員会の仕事がなくても、である。

 その目的は、もちろん件の天使を見るため。足早に家を出て、ホームの良い位置を陣取る。


 天使は、いた。

 しかもまた私の目の前に。


 テンションが上がりすぎて吐くかと思った。脳が沸騰して髪が抜けるかと思った。それくらい、兎に角嬉しかった。


 どうやら、天使の定位置は私の定位置のちょうど目の前みたいだ。

 こんなに幸せなことがあって良いのだろうか。偶然が重なり合って初めて作られた小さな、そして大きな幸せ。


 その次の日も、また次の日も私は天使に出会った。

 私はその度にいつも不躾に見てしまうんだけど、天使は当たり前のようにいつも笑顔でそれに応えてくれる。


 私は天使の名前も、声も、性格も、何もかも分からないけれど。

 天使の笑顔が優しくて、カッコよくて、綺麗で、最高なんだってことは誰よりも知ってる。誰よりも、だ。


 天使は一体どんな人で、どんな生活をして、どんな人生を歩んできたのか。

 それらを知りたい気持ちは確かにあるけれど、私は現状の天使との関係が大好きで。心地良い『今』を手放したくない。

 『今』をもう少し堪能したら、話しかけてみてもいいかも。でも、天使は、彼が乗った次の駅に乗ってくる春蘭の女の子と仲が良いみたいだから、話しかけるとしたら一駅の間だけになっちゃうかもしれない。


 まあ、それはいつか叶えたい密かな願望だ。それを成すまでは、どうかこのままで。


 あ、ほら天使がまたこの車両に乗り込んできて私の前に立った。

 今日もあの笑顔を見せてくれるのだろうか。

 楽しみすぎて私まで笑顔になっちゃうよ。




 ―――私の世界は、明るく彩っている。


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