閑話 とあるカフェの店員



 私はとある自営業のカフェのアルバイト店員。時給は安いし、家からは少し遠いが、お客さんが少なく仕事量が少ないため1年ほど続けている。他のアルバイト店員も大方そんな理由だろうと思う。

 忙しい方が時間を忘れられて良いという意見を聞くこともあるが、私からすればそんなアホなという感想しか出てこない。暇な方が良いに決まってる。


「ありがとうございました〜」


 よく訪れる常連3人組のおばさんの退店を見送り、私は溜まっていた食器拭きをする。


 食器を拭きながら、私はここ最近店員の間で噂になっている『ミルク天使ちゃん』のことを思い出す。なんでも、直視すら憚れるほどの美しさを持つ男の子が時々このカフェにやってくるらしい。その子は男子にしては珍しく私たち店員にも愛想が良く、決まってホットミルクかアイスミルク、ミルクコーヒーを頼むらしい。

 天使かと見紛うほどの美少年が、ミルクと名のつく品を注文するから『ミルク天使ちゃん』だ。


 ……私は正直この噂話の信憑性を疑問視している。眉唾物だと言っていい。

 どうせ、先輩たちが話を誇張させて広めているのだろうと予測している。ミルクと名のつく品を頼む常連さんが実在しているかもしれないが、男は男でも禿げ上がったおじさんとかだろう。

 現実は非常なもので、大抵その程度である。


「はぁ……」


 私が溜息を零しつつ、最後に残ったフォークを手に取り拭こうとした時。


『カランカラン』


 とお客様の入店を知らせる音が店内に鳴り響いた。相変わらず音が必要以上に大きい。何回も店長に買い換えようと打診しているのに、予算不足だとかなんとか理由をつけていつも断られているのだ。


 わざわざキッチンから入口まで歩くのも面倒なので、もう1人の店員にお客様の対応は任せよう。20代後半の女性だ。名前は江口さん。ちなみに今は私と江口さんの2人だけでカフェをまわしている。お客さん少ないからね。それで十分人員が足りてしまう。


「いらっしゃ……い、いらっしゃいませ!」


 ん?

 いつもの無表情で愛想の悪い江口さんらしい低い声で接客をするのかと思えば、途中でツートーンほど音が上がった少し可愛らしさを意識したような接客になった。猫なで声というやつだ。

 らしくない。らしくないということは。


 なに?男でも来たの?


 その結論に帰結した私は急いでフォークの水分を拭き取り、はやる気持ちを抑えながらいそいそと入口へ向かう。

 そこには、2人の人物が立っていた。


 いつもの無表情からは想像できないほどの爽やかな……いやデレデレな笑顔を顔面に貼り付けている江口さん。そして。


「は?」


 私が人生で見てきた男性、いや女性も含めてその全ての人間の中で1番と言っていいほどの艶美な顔立ちをした男の子。

 一目で分かった。この子が『ミルク天使ちゃん』だ。オーラが凄まじい。心無しか彼に後光が差し込んでいるように見える。

 人間……か?いや天使だな。


 私が呆然としているうちに、江口さんがいやらしい顔付きでミルク天使ちゃんの手を引き、席に案内している。


 あのアマ。

 店内に他のお客様なんていないのに席案内する必要ないでしょう。ましてやなんで手なんか引いてるの?触りたいだけでしょ。

 ミルク天使ちゃんもなんでそんなににこやかな笑顔なの?無防備すぎない?もしかしてセクハラされてるのに気が付いてないのかな。


 アマ……江口さんは天使ちゃんをキッチンの目の前のカウンター席に座らせ、何やら話しているようだ。


 テーブル拭きを名目に近づいてみようか。


 カウンターのちょうど後ろにある4人掛けのテーブルを拭きながら会話に聞き耳をたてる。盗み聞きなんて趣味の悪い行為をやりたい訳では無いが背に腹はかえられない。


「いつもこのカフェに来られるんですか?」


「はい、家から近いし、何よりここのミルクの味が気に入ってしまいまして」


「そうなんですか!なんかうちの店長のこだわりでもあるんですかね」


 早くオーダー取りなさいよアマ。しなだれかかって世間話に花を咲かせてる場合じゃないでしょう。花が咲き誇るのは、脳内お花畑のあなただけで十分。


「あっ、ご注文がお決まりでしたらお聞きしますよ」


「じゃあミルクコーヒーをお願いします」


「かしこまりました」


 そこで江口さんは私に意味ありげな目線を送ってくる。

 作ってこいってか?こいつ、片時でもミルク天使ちゃんから離れたくないからって。職務怠慢だよこれは。店長に告げ口するぞ。


 私はそそくさと厨房に行き、手早く、それでいて丁寧にミルクコーヒーを作る。ここで江口だったらカップに予め口を付けておいたり、なにかしらをミルクコーヒーに混入させたりするのだろう。……いや、流石にそんな犯罪は犯さないか。ただやりかねないとも思ってしまう。


 出来上がったミルクコーヒーを天使ちゃんの元へ運ぶ。これは私の生涯において最高の逸品だろう。ミルクとコーヒー、そして砂糖の分量をあそこまで細かく測ったことは無いからね。


「へぇ〜今高校生なんですか。お若いですね」


「いえいえ店員さんもかなりお若いですよ。肌とかとてもお綺麗です」


「ほ、本当ですか?嬉しいです……」


 なんであなたは天使ちゃんと談笑してるの?さっさと仕事に戻ってくれない?高校生に手を出したら犯罪だからね。私はまだ10代だからセーフだけど。

 あとアラサー女がマジ照れしてるんじゃない。これだから喪女は。


「お待たせしました。ミルクコーヒーです」


 私は江口に割り込んで、ミルクコーヒーをそっと差し出す。江口が顔を顰めるが、知ったことではない。


「ありがとうございます。とても美味しそうです」


 天使ちゃんは、私の瞳を見つめて笑顔でそう囁いてくれる。至近距離で目の当たりにするこの顔はヤバい。国宝認定します。


 はうっ!何なのこの胸の高鳴りは。心臓が跳ね上がり、血液が全身に循環する。体温が急激に上昇しているみたいだ。天使ちゃんの顔を直視できない。頬が燃え上がりそうだ。

 これが恋……?


 私が悶えながら顔を赤らめていると、邪魔者が現れた。


「さ、あなたは早く仕事に戻りなさい」


 江口がよく分からないことをのたまう。ぶん殴ってやろうか?こいつ。

 こいつは前々から男に対してだけ接客態度変えてたからね。精子提供とはいえもう子供もいるんだから自重したらどうなの。


「江口さんも早く仕事に戻られては?」


 私は笑顔で、おそらくこめかみに青筋を浮かべながらそう絞り出す。顔がプルプル震えていないか心配だ。


「わ、私は前原さんとお喋りする仕事がありますから。前原さんは私とお喋りしたくありませんか?」


 こ、こいつ、なんて執念だ。誰に嫌われてもいいからミルク天使ちゃんだけはものにしたいという妄執がひしひしと伝わってくる。こういうおばさんにはなりたくないものだ……。

 っていうか江口め、いつの間に名前をききだしていたんだか。前原くんというんだね。


「江口さんさえ良ければ僕はもっとお喋りしたいですね」


 僅かに照れくさそうに天使ちゃんは微笑む。


 え!?なんだと!天使ちゃんダメ!そこのおばさん一歩手前に喰われちゃう!

 アマ、彼と間違いでも起きようものなら即警察に突き出してやるからな。


「で、ですよね!そういうことよ。さ、仕事に戻りなさい」


 嬉しそうに口角上げやがって。ババアの勝ち誇った顔ってなんでこんなにイラつくのだろうか。ただ歳は私の10個近く上のため、表立って反抗的な態度を見せることは出来ない。こう見えてあいつはこの店のベテランなので、問題を起こしてしまうと不利益を被ってしまうのは私の方なのだ。


 私は惜しみながらも渋々テーブル拭きに戻り、また会話に聞き耳をたてる。


「え?江口さん男と喋ったことあんまりないんですか?」


「そうなんですよ。だからさっき前原さんの手に触れたのも、初めてのことで……」


「意外ですね〜。こんなにも美人なのに」


「へぇっ!?そ、そそうですか?」


「はい。さっき手を掴まれたのも嬉しかったくらいですよ」


「ほ、ほ本当に!?じ、じゃあまた握ってもいいですか……?」


「全然いいですよ。僕なんかの手で良ければいくらでも握ってやってください」


「ぶふぉ」


 嘘でしょ?どういうこと!?驚きすぎて鼻水テーブルに撒き散らしたわ!

 ちょっ!?恋人つなぎなの!?う、羨ましい。ババァアア。


「はわぁぁあ……」


「なんか、反応可愛いですね江口さん」


 そこ!!イチャイチャするな!

 え、なにこれ?ミルク天使ちゃんは何考えてるの?もしかして相手に自発的に触れさせて、そこから精神的苦痛による慰謝料請求とか狙ってる感じ?それしか考えられない。


「ま、前原さん……」


「どうしました?」


「抱き締めてもらっていいですか……?」


 調子に乗るなぁあ!その場の勢いに任せて何言ってるの!いいわけないでしょうが!あいつ本気で頭とち狂ってんじゃないの?

 そろそろガチギレ右ストレートが飛んで来てもおかしくない。この数分のやり取りだけで、江口がモテない理由がありありと見て取れる。こいつは男性との距離の測り方がこの上なくバグっている。


「かまいませんよ」


 いいんかいっ!

 えっ?いいの?ダメだ、ツッコミが追いつかない!

 さらに慰謝料請求額を引き上げる腹積もりってこと?そうに違いない。そうであってほしい。


「さ、来てください」


 両手を広げて歓迎の意を表す天使ちゃん。慈愛に満ちた御姿である。その清涼感溢れる笑みの裏側でどんな画策をしているのか、私は恐ろしい。


「前原さぁん……前原さん!!」


 蕩けた顔をしていた江口は天使ちゃんの胸へ飛び込み力いっぱい抱き締めた。顔を胸板に押し付けクンカクンカしてやがる。あいつは今天使ちゃんの汗の香りを脳にインプットしているのだ。

 天使ちゃんは為されるがままである。


 なにこれ?ここカフェだよね?

 キャバクラ?キャバクラに事業転換したの?


「江口さんどうですか?抱き心地は」


「前原さん前原さん前原さん……!」


「僕でよければいつでも抱き締めていいですよ。これからもこのカフェに来ると思うので、その時にでも」


「ふぁい……」


 ……なんだろうこの感情は。この感情に名前を付けるとするならば『殺意』ということになるかもしれない。とりあえず江口は後でマジで警察に突き出してやるから覚悟しとけ。店内の防犯カメラに一部始終記録されてるんだからな。


 天使ちゃんはその後もミルクコーヒーを飲みながら江口とイチャイチャして、1時間くらいで帰って行った。

 天使ちゃんが帰るまでに2組くらいお客様が来られたけど、どっちも無茶苦茶驚いてたなあ。カフェだと思って入店したらキャバクラだったんだから仕方ない。


「……」


 なんか色々あって記憶の整理がつかないけど、とりあえずこれからシフト増やそ。

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