第24話 私のお兄ちゃん
現状について説明を敢行するには、時をその日の朝まで遡らせなければならない。
私、前原心愛は朝学校に着くとまず親友の速水愛菜、早乙女ののとの3人―――通称チビ三人衆で他愛もない会話で盛り上がる。
それが日常の一コマだ。先生の愚痴でも、通学路にいつもいる野良猫の話でも、話題は何でも良い。その行為が登校したと実感を得られるある種のルーティンとなっている。
そんな私たちの最近の話題といえば、そう、私の自慢の兄である前原仁があげられるだろうか。記憶をなくす前のお兄ちゃんは、凄くカッコ良いとは思っていたのだけどそもそも接点が殆どなく、殊更話題にあげるような事件もなかったのだ。それに私達家族を避けていた節もあったし。
しかし。
しかし、記憶をなくしてからのお兄ちゃんは正に大天使。世界の宝。結婚して下さい。と叫びたくなる程破竹の勢いで、私達家族の心を鷲掴みにしてくるのだ。別人なのではないかと勘繰ってしまうくらいに。
人の積み重ねてきた記憶がその人の性格を決定するのかもしれない。
そして今日も私は日課と言っていいお兄ちゃんの武勇伝について事細やかに聞かせる。朝のホームルームまであと数分しかないため急いで話題を詰め込むのだ。
「それでね、お兄ちゃんの作ってくれたハンバーグがすごく美味しくて!あと……」
「ゆ、心愛ちゃん」
「ん?どうしたの愛菜ちゃん」
すると、チビ三人衆の1人、愛菜ちゃんが申し訳なさそうに話を遮り、おずおずと喋りかけてきた。時間があまりないというのに、何だろう。
「前から思ってたっすけど、そのお兄ちゃんって実在してるっすか?私はてっきり妄想の類かと思ってたんすけど……」
「え?」
なん……だと!?
頭のてっぺんからつま先まで、雷が一直線に駆け抜ける衝撃が走る。漫画でよくある表現の『ピシャア!!』ってやつだ。まさかこの反応を現実でやるとは。
「ち、違うよ!お兄ちゃんはちゃんといるよ!優しくてかっこよくてすごいんだからね!」
私が毎日お兄ちゃんの偉業をこれだけ布教しているのに、まさかその全てを妄想の類いだと片付けられていたとは思わなかった。
旧来の親友を頭がとち狂った変人だと認定していたというのか。これは友情崩壊の危機だ。信頼の揺らぎだ。絶交の片鱗だ!
「それだよ〜。お兄さん、すごく優しくて、すごく美形なんでしょ?」
チビ三人衆のもう1人、ののちゃんが困ったように問いかけてくる。相変わらずのアホ毛をぴょこぴょこさせて、一体どうなっているのだろう。彼女は髪の毛を自在に操る能力を持っているのだろうか。骨とか筋肉とかあるのかな……。
「うん!もう、ほんっとうに大好き!」
チビ三人衆の最後の1人、心愛こと私が叫ぶ。お兄ちゃんは本来ならば存在が禁忌とされるレベルの男性だと声を大にして宣言できる。
存在するだけで、危険なのだ。主に私達女の欲望が。それの捌け口にお兄ちゃんがされる恐れがあると考えれば、怒りで全身が震える。
「ね、ねぇ?」
「はいっす。とても信じられないっすね」
しかし、これだけ愛を叫ぼうとも、この2人には想いが届いていないようだ。ののちゃんは気まずげに、愛菜ちゃんは鼻をふんすと鳴らし、どちらも私の話が虚言なのだと言いたげである。
「むっ」
温厚で通っている流石の私だってカチンときてしまう。
そらお兄ちゃんが余りにも天使すぎて信じられない気持ちも分かるけど、いくら親友とはいえ、ここまで否定されちゃ私も黙っていられないよね。
「じゃあ今日私の家に遊びに来たらいいじゃん!私の優しいお兄ちゃんなら、女が家に来たって優しく対応してくれるに決まってるもん!」
そう、勢いに任せて啖呵を切ってしまった。お兄ちゃんになんの断りもないままに。
* * *
「っていうことがあったんだけど……」
歯切れが悪くなったものの、私は事のあらましを説明し終えた。お兄ちゃんはうんうんと頻りに頷いていたようだ。愛菜ちゃんやののちゃんはお兄ちゃんが持ってきてくれたコーラをチビチビと飲んでいた。気楽なものだ。
あと2人ともお兄ちゃんをガン見しながら飲むのやめて。おつまみ?お兄ちゃんはおつまみか何かなの?
……うぅ。
さすがにお兄ちゃん怒るかな?
いくら優しいお兄ちゃんとは言え。ようするに、いきなり女の子の友達を連れてきて、その子達に優しいところを見せて!って言ってるってことだからね。見ようによっては利用しているようにも思えちゃうよ。
普通の男ならキレる案件だよ。恐らく、記憶をなくす前のお兄ちゃんにこんな頼み事をしようものなら、極寒の様な眼差しで睨みつけられるか、小突かれるんだろうなぁ。
男は、こうした身内に自慢の
だから、優しくなったお兄ちゃんとは言え、こんな頼み事はしたくなかったのだ。
今の心地よい距離感を壊したくない。今お兄ちゃんに冷たくされると泣いてしまうかもしれない。1度温かさを知ってしまえば、もう前の関係になど戻れないのだ。
例えそれが記憶が曖昧なお兄ちゃんという不安定な土台の上に成り立つ関係であったとしても。
「ご、ごめんね?勝手に……迷惑かけて……で、でも私優しいお兄ちゃんのことを信じてくれなかったのが悔しくて!」
「心愛」
「っ!う、うん」
お兄ちゃんに名前を呼ばれて肩を大きく震わせてしまった。何を言われるのか、酷く恐ろしい。私は気を張りつめて次の言葉を待つ。
調子に、乗ってしまったかもしれない。きちんと了解を得るべきだった。慢心だった。その愚行の対価は、いつだって自分自身に返ってくる。
お兄ちゃんはゆっくりと私の頭上に手を伸ばしてきて―――。
な、殴られる!?
私は迫り来る衝撃に備え、ギュッと強く目を瞑った。記憶をなくす前のお兄ちゃんに殴られたことはない。それでもいつ殴られてもおかしくないくらいあの人はいつもイライラしていた。
だから多分今日が初めての……。
「……ほぇ?」
……殴られない?
いつまで経っても訪れるはずの痛みはやってこなかった。代わりに頭頂部を包み込んだのは、男らしくかと言ってゴツゴツしていないしなやかなお兄ちゃんの手だった。
撫でられてる?
前のお兄ちゃんならば私は殴られていてもおかしくなかったと思う。本当に最近のお兄ちゃんは、私が感じていた以上に前とは全然違う。予想と違う結果に惚けた声が漏れてしまった。
「謝ることなんてないよ?俺の可愛い妹のためにする事で、迷惑なことなんて一つもないんだから。俺はお前のお兄ちゃんなんだから、もっと甘えてくれ。その方が俺も嬉しい」
そう柔らかに笑いかけながら頭を撫でてくれる。それも、私の髪型のセットが崩れないように配慮してくれている撫で方だ。
髪越しに伝わる手の感触が心地好く、自ら頭を擦りつけたい衝動に駆られてしまう。それは撫でるのが単純に上手いのか、はたまたお兄ちゃんにそうさせる魅力があるのか。
「……」
お兄ちゃんは時々、何故か一人称が『僕』から『俺』に変わる。
口調が砕けた感じになるし、ほんの少し表情も柔らかくなっているだろうか?私は『俺』の時のお兄ちゃんがどちらかと言うと好きだ。これは勘なんだけど、『俺』のお兄ちゃんが本当の姿なんだろうなと思う。勘だけど、確信に近いと言い切っていい。
だから、私は『俺』のお兄ちゃんが好きなのだ。
お兄ちゃんのナデナデ、気持ちいい。至福の時間とはまさにこの事。1時間2万円で商売できちゃうよ。
私が存分に堪能していると、愛菜ちゃんとののちゃんが固まっているのが見える。
散々疑ってくれて!
ふん、どう?私のお兄ちゃんは?疑った罰としてもう暫くそこで見学していればいいのだ。そうすれば少しは反省するだろう。
「ふへへ」
撫でる手を押し上げて、私に向けている端正な顔に視線を送り返す。
いつも笑顔で、いつも優しくて、いつもかっこよくて、そして時々素を出してくれて甘やかしてくれるお兄ちゃんが、私は大好きなのだ。
私のお兄ちゃんは世界一のお兄ちゃんだ。世界中を探してもこんな男の人は見つからないだろう。いや、見つからない。
それくらい、素敵な人だ。
私の将来の夢は、お兄ちゃんと結婚することです!
なんちゃって。
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