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2024年5月25日 12:35
はじめてのたいけん。大人になっても、ふとした時に思い出すことがありますね。みかちゃんちに行ったことも、みかちゃんが恥ずかしくて会わなかったことも、だしてもらったジュースも、ひとりで遊んだおもちゃも、みんな自分の一部になっている気がしました。
作者からの返信
遠野樣ご高覧下さいまして誠に有り難うございます。仰って下さったように「みんな自分の一部になっている」はずだと私自身も思いつつ、とは云えそれが昨今は如何にも朧気であえかで、何時しか消えてしまうのだろうと惜しむ思いを止め難く、記憶の細部に改竄の施されるであろうこと承知でそれでも言葉に写し取って残したくなって物した次第です。誰かに向けて放たれて彼方へ行ってしまった言葉よりも、心裡に独り言ちて誰にも向けられなかった(或いは自分に対して向けられた)言葉のほうが残り易いのでしょうか。原風景のような絵画的な記憶を言葉にすることにどういう意味があるのか確とは分かりませんけれども(何故か、決して言語化したくない原風景もあります)、何時かそれと分かる、或いはそうと解釈の出来る日の来ることを今は愉しみにしております。
はじめてのたいけん。大人になっても、ふとした時に思い出すことがありますね。
みかちゃんちに行ったことも、みかちゃんが恥ずかしくて会わなかったことも、だしてもらったジュースも、ひとりで遊んだおもちゃも、みんな自分の一部になっている気がしました。
作者からの返信
遠野樣
ご高覧下さいまして誠に有り難うございます。仰って下さったように「みんな自分の一部になっている」はずだと私自身も思いつつ、とは云えそれが昨今は如何にも朧気であえかで、何時しか消えてしまうのだろうと惜しむ思いを止め難く、記憶の細部に改竄の施されるであろうこと承知でそれでも言葉に写し取って残したくなって物した次第です。誰かに向けて放たれて彼方へ行ってしまった言葉よりも、心裡に独り言ちて誰にも向けられなかった(或いは自分に対して向けられた)言葉のほうが残り易いのでしょうか。
原風景のような絵画的な記憶を言葉にすることにどういう意味があるのか確とは分かりませんけれども(何故か、決して言語化したくない原風景もあります)、何時かそれと分かる、或いはそうと解釈の出来る日の来ることを今は愉しみにしております。