お祖母さまの死と、ゲティスバーグ脱出行

 カミラとアニーは友人宅に預けている愛馬ではなく軍馬に乗り、厳しい道を進み続けた。


 愛馬マルコーではないものの、アニーはその背にしっかりと体を預け、疲れた体でも乗馬の技術を駆使して騎乗姿勢を崩さず、馬の動きに合わせて身体を巧みに調整しながら進んでいった。一方カミラは馬を操ることにあまり慣れておらず、少しぎこちない姿勢で馬を駆けさせながら、時折ふらつく様子を見せていた。だが段々と慣れていったようで、安堵の微笑みを浮かべていた。


 日が沈み、辺りが暗くなるにつれ、一行は野宿を決めた。カミラが食料を整え、簡単なレーションを取り出す。硬いビスケットと塩漬けの肉、そして水筒の水。乾燥した風が吹く中、火を囲んで食事を取った。カミラはあまり食欲がない様子で食べ物を口に運ぶ手が少し遅かったが、それでも静かに目を閉じて食べていた。


「……エナペーイが言っていたわ。先住民族には『ペミカン』という携帯食があるそうよ。動物の油と乾燥したお肉、ドライフルーツで固めて、水に溶かしてシチューにするんですって」

「へー、どんな味なんだろう」

「今度食べてみたいですね。もしも美味ければ、レーションに加えるよう提案してみようかな」


 夜空の下、星々が広がっているが、その静けさが逆に心に重くのしかかる。静かな夜の中で、アニーは瞳を閉じた。眠れぬ時間を過ごしながら、次の日への不安と覚悟が入り混じった感情が湧き上がる。それでも、進まなければならない。


 昼間は暑く、夜は寒い。山道が続き、アニーたちは体力の限界に近づいてきていた。

 護衛兵たちは時折立ち止まり周囲を確認しながら前進していった。険しい場所を通過する度に、体力に少し劣るカミラはその度に一息つき、アニーはその姿を横目に見守りながらも、黙々と進み続けた。


 そんな中、護衛の一人である通信兵が戦闘の情報を携えて戻ってきたとき、二人は少し立ち止まった。彼の顔には緊張が漂っていた。


「ゲティスバーグで戦いが始まるそうです」

 通信兵の声は震えていたが、カミラはその言葉に一瞬目を細めた。


「引き返すべきですか?」

 とカミラが尋ねると、通信兵はしばらく黙り込んだ。やがて彼は首を振り、慎重に答えた。

「引き返しても、敵兵に会う危険性が高い。前に進む方がいいでしょう」


 カミラはアニーを見つめ、無言で頷いた。


 ようやく夕暮れ時にクロエの家が見えた。しばらく離れていた家の前で馬を降りると、カミラとアニーはお互いに安堵の息を漏らした。家の中から灯りが漏れ、遠くからもその温かさを感じることができた。


 二人は馴染みの使用人に案内され、急いで家の中に入った。


 クロエは薄く笑みを浮かべ、ベッドに横たわっていた。彼女の顔には疲れと安堵が混じった表情が浮かんでおり、その姿はどこか儚げだった。だが、その顔には死の兆しがはっきりと浮かび上がっている。

 頬は今にも落ちそうなほどこけ、目の周りは深い青紫色に変わり、まるで長い戦いの末にようやく訪れた静けさを迎えているかのようだった。目は開いているが、その瞳はどこか遠くを見つめるようにぼんやりと虚ろで、もう過去の苦しみから解放されたかのような、無言の安らぎを漂わせていた。


 ああ、もうだめだ。アンティータムでこの顔は何度も見てきた!


 その顔には、まるで戦場で見た数多の兵士たちの最期を思い起こさせる冷徹な印象があった。血の色を失った唇、引き締まった顎の線がどこか硬直し、もはや生気を感じさせるものはなかった。


 唯一の救いは、あの耐えられないほどの苦しみの色はなく、むしろ穏やかな勇気さえ見え隠れしていることだった。


 死を恐れた表情ではなく、長い人生を見届けた者のように全てを受け入れているような微笑み。

 まるで

「私の時間はもうすぐ終わるが、あなたたちにはまだ未来がある」

 と告げているようで、アニーは胸を締めつけられた。


「おばあさま」

 アニーが震える声で呼びかけると、クロエはゆっくりと目を開け、二人の姿を確認した。


「どうして来たの……、親に似て、無鉄砲な子たちね」

 クロエは弱々しく言ったが、その言葉には温かさがこもっていた。二人はそっとクロエの元に駆け寄り、その手を握った。


「お祖母さま、ずっとずっと、会いたかったの」

 カミラが言うと、クロエは微笑んだ。それから最後の力を振り絞るように言った。


「私は様々な時代を生き抜いてきたの。……ハイチでは私の弟か妹を失ったし、イギリスとの戦争では避難を余儀なくさせられた。メキシコ戦争だって、……フィリップが戦ったわ。そして、今。よく生き抜いたと思っている。人生に、満足しているの。ここであなたたちの、……足を引っ張りたくない。神さまに、お迎えが来る感謝を、しなければね」


 カミラの瞳に涙が溢れた。クロエの言葉には力強さがあり、アニーも涙を拭いながら静かにクロエの手を握り返す。


 クロエは再び微笑んだ。

「あなたたちが、幸せに生き抜くこと、それが私の最期の願い。愛している、カミラ、アニー」


 そう言うと、クロエはゆっくりと目を閉じ、穏やかな息を吸い込んだ。


 ハイチ革命の嵐を越え、米英戦争をはじめとする激動の時代を生き抜いた老婦人は、彼女の血脈が新たな歴史を紡ぐ未来を見たその晩、静かにその生涯を閉じたのだった。






 仮眠から目が覚めたアニーは、クロエの最期を見届けた後、しばらくその場に立ち尽くしていた。祖母の顔に浮かぶ微笑みは、あまりにも穏やかで、彼女の死を信じることができなかった。しかし、冷たく硬直した体が意味することが何であるかを理解するのに、時間はかからなかった。


 次の瞬間、カミラは決然とこう言った。

「戦いが始まる前に、ここを離れましょう」


 その言葉にアニーは一瞬、反応することができなかった。が、すぐに頷いた。


「わかった」 


 カミラは立ち上がり、そばで寝ていた使用人たちに向かって言った。


「皆、起きてちょうだい。戦闘が始まる前に荷物をまとめて、今すぐここを離れて」


その言葉に、使用人たちは一瞬、呆然とした表情を浮かべた。誰もがカミラの目の前で動けず、ただ彼女を見つめていた。だが、カミラはその視線に耐えるように続けた。


「私たちについてきてはいけません。私の命は狙われているのかもしれない。何が起こるか分からないの。それに、正直に言ってあなたたちは足手まといだわ」


 カミラの冷徹な言葉が、重く響いた。しばらくの沈黙の後、使用人たちはそれぞれ顔を見合わせ、理解し始めたようだった。やがて、一人、また一人と立ち上がり、荷物を急いでまとめ始めた。その動きには迷いがなかった。決意を固めたように、手際よく準備を整え、再びカミラを見つめた。


「お嬢さま、幸運を祈ります」

 長年仕えてきた年配の女性が静かに言った。


 カミラがその言葉に小さく頷き、二人は急いで外に出て馬に飛び乗った。待っていた護衛兵たちがすぐに動き出し、家を後にする。

 クロエが眠る場所を見捨てることに、アニーは心の中で苦しみながらも、クロエの願い通り生き延びるために必要なことだと自分に言い聞かせた。


 カミラが一歩先を行くように馬を進め、冷徹な指揮官のように周囲を確認しながら護衛兵たちに指示を出した。混乱と喧騒の中で彼女の目は鋭く、まるで戦場にいるかのように静かだった。だがその静けさも束の間、突如として彼女たちの前に立ちはだかる障害が現れた。


 町の中心に近づくにつれて、戦闘が始まるという噂は広まり、町はすでに混乱を極めていた。逃げる市民たちが道を塞ぎ、略奪を始める者たちも出てきた。


 そこに数人の男たちが現れて、二人の進行方向を遮った。男たちは不穏な笑みを浮かべながら、じりじりと近づいてくる。


「ご婦人たち、どちらへ?」


 男の一人が冷たく問いかけ、その声にアニーの背筋が凍るような感覚を覚えた。彼女は無意識に手を銃にかけ、体が硬直する。カミラの視線が鋭くなると、すぐに反応があった。


「急いでいるんです、道を開けてください」


 カミラの声は冷静だが、強い決意が込められていた。しかし、男たちはその言葉に反応することなく、さらに近づいてくる。アニーは息を呑み、思わず銃を引き抜いた。心臓が激しく打ち鳴る中、カミラの目が鋭くなった。


「アニー、逃げるわよ!」


 その瞬間、男たちは一斉に走り、二人を取り囲むように動き出す。

 アニーはすぐに理解した。命をかけた一瞬の選択が迫られているのだ!


 護衛兵たちはすぐに反応し、迅速に男たちに立ち向かうべく馬を急発進させた。すぐに激しい戦闘が始まった。アニーは目の前で繰り広げられる壮絶な戦いに目を見張りながらも、カミラの指示に従って馬を進めた。


 カミラの声が再び響く。


「アニー、こっち! 早く!」


 アニーは一瞬、震える手で馬の鞭を握りしめ、カミラに続いて駆け出した。道は混乱し、群衆が暴徒となって道を塞いでいる。

 一瞬の隙を突かれ、アニーは突然、右手に鋭い痛みを感じる。振り返ると、男たちの一人が近づき、ナイフを振りかざしていた。アニーはすぐに反応し、銃を構えてその男を撃った。男はその場で馬から転げ落ち、あたりに血が飛び散った。


「アニー!」

 カミラが叫び、前方を指し示した。


 護衛兵たちが男たちの注意を引きつけ、二人は猛スピードで馬を走らせた。アニーはその光景を横目で見ながら、必死で振り落とされまいとしがみつく。カミラが馬を走らせ、少しでも早く、より安全な道へと進んでいく。


 その背後では激しい銃声と怒号が響き渡り、アニーの耳に届く。だが、カミラは振り返ることなく、ひたすら前を見つめていた。男たちの追跡をかわしながら、二人はついに町の外れへと向かって進んでいった。


 突然、カミラの顔が険しくなった。アニーもその視線に従って前方を見た。


「右よ! 急いで!」

 カミラが鋭く叫ぶ。


 アニーはその指示に従い、馬を急激に右へと転がした。前方には、数人の暴徒たちが辺りを遮り彼女たちを追い詰めようとしているのが見えた。


「馬だ、馬を奪うんだ!」

「馬があれば、ここから早く逃げられる!」

 と叫ぶ男たちの声がどこか遠くで響いてるような気がする。


「振り切るわよ!」

 銃を撃ちながらカミラが言い、馬を一層速く走らせた。


 アニーも、もう迷いはなかった。自分たちの命を守るために、そして護衛兵たちを無駄に死なせないために、自分も戦わなければならない!


 二人はさらに加速し、馬の速度を最大限に上げて、道の狭い部分を抜けていった。アニーの心臓は今、まるで鳴り響く鼓動のように激しく打ち続けていた。その中で、護衛兵たちがさらに戦いを続け、追いかけてきた暴徒たちと交戦しながら、必死で道を開いてくれる。


 前方の護衛兵数人が、必死で道を開けるべく退避していく。


 アニーは無意識にもう一度銃を構え、今度は自分の前に現れた男に狙いを定めた。彼女の視界は、すべてが鮮明で、時間が止まったかのように感じられた。


「アニー!」

 カミラが再び叫び、道の先に一瞬の隙間を見つけた。


「こっち!」

 カミラの指示に従い、二人は馬を進め、その隙間を必死に抜けていった。アニーの心臓は依然として早鐘のように打ち続け、カミラはその隙間を通り抜けた瞬間に、振り返りもせずに前を見据えた。


 道は狭く、木々や家屋が迫るように立ち並んでいるが、その進行を遅らせる障害物はもうない。


 こうしてゲティスバーグの戦い直前の混乱をなんとか抜け出し、命からがらワシントンD.C.に戻った一行の耳に飛び込んできたのは、信じがたいニュースだった。





 

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