終戦後、「ウェブスター将軍の罪」と向き合う

「バージニア州リッチモンド市に住む一市民の証言」


 私は生き残った。なぜなのか分からない。誰かが神に祈ったからなのか、ただ運が良かっただけなのか。


 街は死んだ。私が知っていたリッチモンドの姿は、もうどこにもない。家々は崩れ、通りには瓦礫と灰が積もり、人の姿はほとんど消えた。静寂というのは、こんなにも恐ろしいものだったのか。何も聞こえない街の中を歩いていると、まるで私だけが置き去りにされたような気分になる。


 あの日、私は市場にいた。少しでも安い芋を手に入れようと、売り手と値段を押し問答していた。誰もがそうだった。食糧は常に足りなかったし、お金なんて役に立たない紙切れみたいなものだ。だから、誰も突然の異変に気づかなかった。最初は少し変わった匂いが漂ってきただけだった。鉄が焼けたような、鼻を刺す匂い。けれど、それが何かを警告するものだとは思わなかった。誰も思わなかった。


 やがて喉が焼けるように痛み出した。鼻の奥がただれたような感覚に襲われ、呼吸をするたびに胸の奥が引き裂かれるようだった。人々の叫び声があちこちから上がり始めた。その瞬間、私は芋を持ったまま立ち尽くしていた。何が起きているのか分からなかった。ただ、恐怖だけが体を支配していた。


 気づいたら走り出していた。どこに向かっているのかも分からず、ただ本能的に家を目指したのだと思う。だが、走るたびに肺が悲鳴を上げ、視界がかすむ。息を吸うのが恐ろしかった。吸えば吸うほど命を削られるような気がした。


 道端には人が倒れていた。顔を押さえ、のたうち回り、声にならない声で助けを求める人々。私が知っているはずの顔もいくつかあった。だが、止まれなかった。いや、止まりたくなかった。彼らの目を見たら、私までその場で倒れてしまいそうだった。


 それでも、死ななかった。なぜか、私だけが。


 気がついた時、街は変わり果てていた。人影はなく、刺すような臭いだけが漂っていた。隣人たちは、どこに行ったのだろうか。市場で私と芋を取り合ったあの女性は? 通りを走る私の横で倒れていたあの少年は? 答えはどこにもなかった。ただ死の跡だけがそこにあった。


 どうすればいいのか分からない。ただ生き延びたという事実が、重たくのしかかってくる。生き延びたからには何かをしなければならない気がする。けれど、何をすればいいのかが分からない。


 生き残った。それが私の罪のように思える。あの痛みを、あの苦しみを味わいながら、なぜ私はまだここにいるのだろう。答えを探す気力すら湧かない。ただ私は、茫然と、死んだ街を見つめているだけだ。






〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜





 リー将軍がウェブスター将軍に対して降伏し、内戦が集結してから2日が過ぎた、1865年4月11日。バージニア州アレキサンドリア市に向かう汽車の振動がアニーを現実へと引き戻した。


 窓の外に広がる春めいた風景は、まるで別の世界のようだった。だが、アニーの頭の中には、今まさに読み終えた報告書に記されたリッチモンドの惨劇がこびりついて離れない。あの無名の母親が書き記したような光景が、どれほど多くの人々の記憶に刻まれているのだろうか。その中で、どれだけの命が無視され、忘れ去られていくのか。


 アニーは視線をカミラに移した。汽車の座席に隣り合って座るカミラは、いつものように静かだった。彼女は手元の本に目を落としていたが、アニーが

「カミラ」

 と声をかけると、すぐに顔を上げた。


「どうしたの?」


アニーは少し躊躇してから口を開いた。

「塩素ガスを吸うと、どんな症状になるの?」


 カミラは本を閉じて膝の上に置いた。その表情には憂いと緊張が見えた。


 医学的な知識が豊富なカミラだったが、アニーに説明することに少し躊躇いもある様子だった。


「吸い込むと肺が炎症を起こして、呼吸困難に陥るの。目や皮膚にも激しい痛みを起こすこともあるわ。重症になると肺に水が溜まったような状態になって、最終的には窒息、して、しまう」


 アニーは説明を聞くうちに、目の前に恐ろしい光景が広がるような気がして、無意識に体を縮めた。


「塩素ガスは一度開発してしまえば製造コストもたぶんそれほど高くはないわ。よくぞそんな残虐なものを考えついたと、ある意味感心するくらい。風の流れによっては……兵士のみならず一般市民も、その場にいる者全てをも巻き添えにしてしまう。おそらく、人類史上ありえないほど無差別で非道な武器よ」

 彼女は一瞬、言葉を止め、もう一度アニーを見つめた。

「マグワイアが関わっている可能性が高いわ。あの人物が開発したのだもの」

 アニーはその言葉を噛みしめるように聞いていた。


 マグワイアが開発し、ウェブスター将軍自身が消極的に「推進」した塩素ガス。


 塩素ガスが使用されたのはリッチモンド郊外。南軍兵士だけでなく、近隣の市民もその影響を受け、多くが命を落とした。南部諸州や南軍将校たちは、これをウェブスター将軍の仕業だと確信し、激しく非難している。


 北部政府やリンカーン大統領は

「塩素ガスの使用は命令されていない」

 と明言し、ウェブスター将軍も

「あくまで、研究所に所属していた脱走兵マグワイアが開発したものを保管していただけで、しかも今回使用されたのが保管していたものでないのは明らかだ」

 と保管記録も提出した上で主張している。しかし、疑惑は払拭されるどころかますます深まり、諸外国からも非難が集中する状況に陥っていた。国際的な批判の中には、北部が戦争犯罪に問われる可能性を示唆する声さえ含まれており、アニーはこの問題が北部全体の信用と評判を揺るがしていることを痛感していた。


 ウェブスター将軍がどれほど否定しても、

「塩素ガスを使用するよう指示したのは将軍自身だ」

 という疑いを払うことはできずにいた。


 その理由は明白で、将軍がかつて塩素ガスの研究を黙認し、マグワイアの研究を支えていた過去があるからだ。そして今やその過去が彼を追い詰め、北部政府の弁明すら疑念を払拭できなくなっていた。


 ウェブスター将軍は当時、マグワイアの研究に反対していた。しかし兵站の進歩を理由に、上層部は研究の継続を命じた。そうして今となっては、ウェブスター将軍自身が最上部の席に座っており、責任を取れる人物が他にいない。


 もしもあの時に、パパがもっと強く反対していれば!


 アニーはその事実に耐えられず、苛立ちを抑えきれなかった。


 マグワイアがウェブスター将軍に対して言い放ったという言葉が、アニーの頭をよぎった。


「化学の力はあくまで力であって、そこに善も悪もない。ありのままの力を使わず否定するのは、化学への冒涜だ」


 それに対し、ウェブスター将軍はこう答えたという。

「力の使い方を誤れば、我々は目的を見失う。軍事力の進歩は止めようもないが、それをコントロールする責任がある」

 間違いなく戦争倫理の上で正しい言葉だった。


 だが、マグワイアは冷笑を浮かべてさらに言ったそうだ。

「塩素ガスの発展は既に止めようがない。もしそれを無理に止めるつもりなら、自分は世界中の武装勢力にその詳細を伝える準備がある」


 この脅迫じみた言葉を聞いたウェブスター将軍は、マグワイアを研究所から追放することを決断した。しかしその結果マグワイアは北軍を脱走した。


「あいつを許せない! これ、普通に殺されるのよりもひどいよ。被害にあった人たちがかわいそう過ぎる! 」


 アニーの怒りを静かに見つめていたカミラは、しばらくして口を開いた。


「私も心の底から、そう思うわ。けれど、戦争の混乱があの男を生み出したのも事実よ。もしも当時、どこかで彼の暴走を止められる仕組みがあったら、あるいはこうはならなかったかもしれない」


 アニーは押し黙った。


「でも、どうして? どうしてパパにだけ罪が押しつけられるの? パパの罪は、何もしなかったことじゃん! 真犯人の方が罪が重いに決まってるのに」


 アニーはさらに浮かんだ考えに興奮し、言い募った。


「もしあいつの名前を新聞記者に伝えれば、パパからマグワイアに疑惑を移すことができるんじゃない?」

 

 そうすれば、少なくともウェブスター将軍が塩素ガスの使用を許可した犯人だと決めつけられることはなくなるのではないか。


 カミラはしばらく黙ってアニーを見つめていた。そして、しばらくしてから、ゆっくりと答えた。

「それは難しいかもしれない」

 アニーは驚いて眉をひそめた。

「どうして?」


「研究所と陸軍にK. McGuireという名前だけは記録されているけれど、ただそれだけ。マグワイアの写真も一枚も残っていないのよ」

 アニーはその言葉にしばらく言葉を失った。つまり、証拠がないということか。

「名前だけでは足りないの。マグワイアがその人物だと証明するには、さらに多くの証拠が必要なのよ」


 アニーは肩を落とし、思わず力なく座り直す。その様子を見ていたカミラはしばらく黙って外の景色を眺めて、そして静かに言った。


「マグワイアはただの科学者ではないわ。内戦を長引かせてできるだけ勝利に導くという、軍の指導者たちが期待する結果を出したかったのでしょうね」

「けど、結果はあいつの目論みの真逆となったじゃん」

「そうよ。お父さまとリー将軍はアメリカ陸軍士官学校ウェストポイントの一期違いでお互いをよく見知っていたもの。秘密裏にマグワイアのことを伝えたそうよ。リー将軍は『真実を迅速に、被害者たちが納得する形で公表するように』と仰ったと言っていたわ」

「……立派な人だね」

「ええ。あの男が裏で暗躍していたということを将軍もご納得されたのよ。本当に、なんて、むごいことを!」


 アニーは深く頷いた。


 アニーは汽車のドアが開く音を聞いた。外に一歩足を踏み出すと、アレキサンドリア市民の冷たい視線が集まった。人々の表情には怒り、悲しみ、そして何よりも深い憎悪の念が浮かんでいた。


 特に病院に到着すると、罵声が飛んできた。

「殺人者たちが来た!」

 誰かが叫び、他の者たちも同様に口々に罵声を浴びせた。

 目の前にいるのはリッチモンド市から移送された南軍の捕虜だ。軽傷の患者もいれば重症の者もいる。


 彼らに向かってカミラが深く膝を曲げ、お辞儀カーテシーをした。ほぼ同じタイミングでアニーも同様に膝を曲げた。


 二人は、この数年間でお互いの次の行動を読めるようになっていた。


「皆さまの苦しみを、連邦政府は絶対に放置しません」

 カミラの言葉が、空気を切り裂く。

「すでに塩素ガス研究所の内部調査は、諸外国の記者の方々の同席の下で開始されており、その内容によっては、父ウェブスター将軍やリンカーン大統領も辞任を厭わない覚悟です。ですが真実を追求するため、どうか少しの時間をお与えください」

 捕虜たちは一瞬押し黙り、新聞記者たちがこぞってカミラの言葉を書きとめた。彼女の言葉には重みがあり、アニーの胸にも深く響いた。


 カミラにこの言葉を言わせるため、もっと言えば諸外国の新聞記者に聞かせるためにこの場に来させられたのだと思うと、リンカーン大統領のことを憎らしく思えた。確かに彼自身、リッチモンドを制圧したそのまさに翌日リッチモンドを訪問し勇敢さを示している。だが連邦政府大統領に求められる責任と、北軍最高司令官令嬢とはいえ一市民に求められる行動は全く違うはずだ。


 ホワイトハウスはどこまでカミラに、私たちに要求するのか!


 夕暮れ時となった。アニーが部屋を出て廊下に出た、ほんの数秒の出来事だった。アニーが病院の廊下で物資を運ぶ看護師たちに声をかけていたとき、突然、爆発音が響き渡った。


「南軍のパルチザンです、襲撃してきました!」


 護衛兵たちは瞬時に反応し、廊下に散らばっていた負傷兵たちを安全な場所に移そうと動き出した。


 だが、その爆発は、注意をそらすための囮だったのだ。


 病院の中庭にも護衛兵たちが何人も配置されており、彼らはそれぞれの持ち場で最大限の注意を払っていた。しかし、パルチザンの計画はそれを上回る狡猾さと執念深さを備えていた。


「安全な場所へ急いで!」

 護衛兵の一人が叫び、アニーのそばに駆け寄った。だがその瞬間、後方から現れた二人のパルチザンが素早くアニーに襲いかかった。


 護衛兵たちは応戦したが、爆発の混乱でアニーに近づけない。


「戦争犯罪者ウェブスターの娘だな!」

 アニーが必死に抵抗する中、彼女の腕をつかむパルチザンの力は驚くほど強かった。その場で銃声が鳴り響き、護衛兵の一人が倒れた。別の護衛兵たちが即座に応戦したが、爆発音と混乱で陣形が崩れてアニーに近づけなかった。


 パルチザンはアニーを力づくで外へと引きずり出し、近くの馬に押し込んだ。


「離してよ! 触らないで!」

 声を絞り出すものの、男は振り返りもせず彼女を馬にぐいっと押し上げ、アニーの後ろに飛び乗った。

「大人しくしていろ。命が惜しければな」

 冷たく低い声が耳元で囁かれる。その声に凍りついたアニーは、一瞬言葉を失った。


 夜の帳が降りる中、アニーの心は恐怖と絶望に覆われていた。カミラの必死な声が遠くからかすかに聞こえる。


 アニーが馬の背で揺られる中、後方から響く銃声と叫び声が彼女の耳をつんざいた。

「アニーを返して!」


 カミラの叫び声は怒りと悲しみに満ちていた。アニーの胸は締めつけられるように痛み、彼女は何度も叫んだ。

「カミラ、助けて、カミラ!」


 懸命に振り返りながら見えた病院の玄関では、カミラがパルチザンの馬を追いかけようとしていた。護衛兵たちが彼女を引き止めようとするものの、カミラは振り払うように腕を振り、前へと突進する。


「カミラさん、待ってください! 危険です!」

 護衛兵の一人が必死に声を上げるが、カミラの目にはもう何も映っていないようだった。


 その時、別方向から現れたもう一人のパルチザンがカミラを狙って飛びかかり、アニーは思わずあっと声をあげた。


 カミラが必死に抵抗するも、彼女は無理やり馬へ押し上げられていた。護衛兵たちは間髪入れず応戦しようとしたが、すぐ近くで炸裂した銃弾が彼らを押しとどめた。


「カミラ!」

遠ざかる銃声の中でアニーは泣き叫んだ。彼女の視界に、カミラを連れ去るもう一頭の馬が一瞬だけ映る。それが最後だった。


 護衛兵たちは直ちに馬に乗り追跡を開始したが、パルチザンたちは綿密に準備を整えていた。森の中の隠された小道や障害物を利用し、追っ手を翻弄した。さらに、数名のパルチザンが別方向から攻撃を仕掛け、護衛兵たちの追跡を遅らせる作戦に出たのだ。


 馬の背で揺られながら、アニーは拳を固く握りしめた。涙が頬を伝うが、彼女はただ信じることしかできなかった。


「みんな……。ケイド、エナペーイさん……! 助けに来て!」

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