夢題

わたなべ

夢題





 海岸沿いを歩いていた。

冬の夕方の海岸に人はいない。日は、雲がかかっていて見えなかった。海風が肌寒い。砂が、足を奪ってはその形を僕の足と同じものへ変えていく。水面が近づいた。波が、寂しそうに戻っていく。口に出そうとして、出せなかった言葉を引っ込めるみたいに。海も、誰かに言葉を伝えようとしたことがあるんだろうか。

世界は言葉でできているんだ、と彼女は言った。

もう死んでしまった彼女だ。学校の屋上で頭を撃ち抜いた彼女のことを、僕はいまでも覚えていた。彼女の言った言葉を、彼女を殺した銃弾を、それを放った彼女の目や、飛び散る血の一雫まで、僕は覚えていた。言葉でできた世界を、言葉を引金に壊してしまった彼女のことを。

僕が今から語るのは、あまりにもお粗末な話だ。僕らが過ごしたひと夏と、そこから一人だけ抜け出してしまった僕の、どうしようもない話だ。


「この空の向こうには、天国があるんだよ」

僕が言った言葉だった。そう信じて止まなかった高校時代に、屋上でエンカウントした彼女に言ってやった言葉だ。今にして思えば、気休めみたいな、無いよりはあった方がいい、みたいな消極的な言葉だったろうけれど、僕はそれに救われていた。

救われていた、といえば聞こえがいいけれど、実際は依存していただけだった。自分の置かれた状況を打破することは、少なくとも僕にはできなかっただろうから。空に対する憧憬を、天国と言い換えて使っていただけ。憧れ。つまりは体のいい偏見で、僕は世界を認知していたにすぎなかった。

そんな僕の憧憬は彼女には筒抜けだったようで、それ以上意味について追求することはなかった。僕も、聞かれたところで、そんな内心を吐露するようなことはしなかっただろうし、吐露したところで、僕の状況は変わらなかっただろう。つまりは、手段がなかったのだ。手段がないことを彼女も悟って、踏み込まなかったのだ。

そんなことを思い出してしまうくらいには青い空で、僕はゆっくりと移ろう白い雲をぼんやりと見ていた。

上空の空気は澄んでいて、冷たい。飛行機雲が、空を引き裂くみたいに残り続けていた。あれはなんだろう。戦闘機かな。

投げていた携帯電話が振動していることに気付いて手に取った。発信者を示す欄は空白になっていた。番号非通知なんだろう。受話ボタンを押して、耳に電話を近付ける。耳元に、ノイズ混じりの声が聞こえる。

「非常呼集。一九〇〇までに帰隊せよ」

「了解」

僕は短くそう言って電話を切った。腕に巻いていた時計を見ると、まだ一時間ほど猶予があった。もうすこしここでこうしていてもいいだろう。それか、どこかもっと居場所を探して、そちらに移るか。残念ながら、僕の脳内に、ここ以上の場所は思い浮かばなかったから、僕は時間までここにいようと決めた。


基地に戻ると、既にハンガから僕の飛行機が出されていた。対空兵装が翼下のパイロンに積み込まれている。増槽が胴体直下に一本ついていて、少なくともそれだけの燃料で帰って来れるところまで飛ばされるんだろう、とわかった。

ゲートを超えて部隊が入っている隊舎の階段を二つほど登って、一番手前の部屋をノックした。隊長室だった。中は、いかにも忙しいように散らかっていて、壁のホワイトボードには、これから飛ぶのであろう地区の写真と、付近のレーダ・サイトの位置が書き込まれていた。

「帰隊しました」

「よく戻った。早速だが準備して欲しい」

飛行隊長は見るからに飛んだことのなさそうな男だった。胸にウィングマークをつけてるから、一応パイロットではあるんだろうけど、飛行機に乗ってるよりランニングマシンで汗をかいてる方がお似合いな、要するに事務屋のような風体をしていた。暑くもないのに額に薄ら浮いた汗が、落ちるか落ちないかはらはらするような。

「前線のレーダ・サイトとの連絡が途切れたんだ。付近のSAMサイトは既に別のレーダ・サイトの傘下にいるが、レーダの索敵範囲と射程が噛み合っていなくてな。もし必要なら退却をしなければならないかもしれない」

「つまり?」

「つまり、だ。センカワ中尉には連絡途絶したレーダ・サイト付近の捜索、及び索敵を行い、脅威を認めたならば速やかにこれを排除して欲しい。復唱せよ」

「了解、センカワ中尉は、連絡途絶したレーダ・サイト付近の捜索、及び索敵を行い、脅威を認めたならば速やかにこれを排除します」

僕は敬礼し、復唱してからまた敬礼した。その度に、飛行隊長も答礼をする。腕を持ち上げるのも少し大変そうだった。

「ああセンカワくん」

「?」

部屋を出ようとした僕を後ろから呼び止める声がした。見れば、彼がバツが悪そうに僕の方を見ていた。

「もし自機の生存が確保できないようだったら、速やかに帰投してくれ、いいな?」

そんなこと、いままでに一回も言ってなかったじゃないか。

そう口から出かけたところで僕は自制して「了解」と短く返した。つまり、この任務は、飛行隊長の命令がなければ、死ぬリスクが酷く高いということだろう。敵機の数も、装備も、味方の空中管制機の有無も知らされないままの飛行任務なんて初めてだし、その初めてが、彼にあんな歯の浮くようなセリフを言わせたのかもしれないな、と思った。


部屋に戻って荷物を置いて、手早くフライト・スーツに着替えてから、僕はハンガに出た。一通り機体のチェックをして、タラップを上がってキャノピィに収まる。APU・レディ。素早く一番エンジンから火を入れる。スロットル・アイドル。電装品にも火が入ったことを確認した、レーダ・オペレート。一番エンジンの始動が終わったことを確認して、二番エンジンにも着火した。フライト・コントロール、レディ。レーダ警報装置も問題ない。管制塔が伝えてきた、高度計規正値も入力した。ヘッド・マウント・ディスプレイも正常に動いてるみたい。

キャノピィをクローズして、管制塔に滑走路までの移動許可を貰ってから、パーキング・ブレーキを外した。スロットルを少しだけあげる。機体がゴロゴロと前に動き出して、僕ら所定の位置まで期待を誘導してやる。目の前に広がる三千メートルの滑走路は酷く暗かった。

僕は、闇を払うようにスロットルをアフタ・バーナの位置へ入れた。

加速度が、急激に体に乗る。

座席に、体が押さえつけられた。

息ができない。

息が出来ないのは、圧迫されているからか。

それとも、空を飛ぶことに対して高揚からだろうか。

ノーズ・ギアが地面から離れた。ゆっくりと、着実に地面から遠ざかっていく。ギア・アップ。フラップも。そのまま大きくスティックを引いて、ハイレート・クライム。基地は、みるみる小さくなっていく。

雲の上は酷く晴れていた。日がもうじき真上にくる。少しだけ、眩しいなと感じた。バイザを下ろして、それから、ベルトを少し締め直した。マスクの位置も調節する。座り直した方がいいな、座り直そう。

僕はレーダの走査範囲を広域に切り替えた。ウェポン・セレクトをセミアクティブ・ホーミングに。作戦空域までは少し距離があるから、オートパイロットをアルチチュード・ホールドへ。

しばらくして、無線で僕にコンタクトしてくる奴がいた。空中管制機だった。

「ミスフィット、こちらウィッチ・アイ。いまから貴機はこちらの管制下に入る」

「ウィッチ・アイ、こちらミスフィット。了解。ボギー・ドープ」

「ミスフィット、敵集団出現。方位二七○。距離三○マイル。高度三万。アスペクト・ホット」

「了解」

 短くそう言って、僕は通信を切った。それから、この極端に簡略化された会話は、あるいはコンピュータのプログラム言語みたいだな、と思う。端的に意思が伝達できるように形成された言葉は、人間の言語体系からは大きく外れた文法をしている。こちらが誰で、相手が誰で、みたいなものを、僕らの口語は省略しても問題なく通じる。けれど、こと戦場のような場所においては、認識の齟齬はすなわち死に直結するから、すべての意思を端的に、明確に伝達できる言葉が好まれるのだろう。

 そういえば、昔から、言葉がすきだったな、とぼんやり思い出す。

 誰かに自分の意思を伝達するためのツールが好きだったんだ。音の連なりが、意味を孕んで相手に命中する瞬間が好きだった。誰かの意思に、僕の感情が揺り動かされる瞬間が好きだった。

 そういえば、世界は言葉によって作られたなんて話もあったな。

 人間の意識が、言語というバイアスによって支配されているなら、と僕は思う。

 僕が今握っている操縦桿も、スロットル・レバーも、キャノピィに映る、バイザ越しの自分の顔も、つまりは言葉でできているってことだ。これから死ぬやつも、言葉によって作られた世界で、言葉によって動いている人間の、言葉によって作られたた弾に撃たれて死ぬのだろう。人間は言葉によって死ぬ。その真意はわからないけれど、理解はできた。

 僕は機体を少し旋回させた。それから、高度も少しだけ上げる。レーダの走査範囲を狭めた。レーダ警報装置が、短く新しいコンタクトがあったことを伝える電子音を鳴らす。まだ距離は離れているけど、向こうにもこちらの姿が見えているはず。呼吸を整えた。スティックを握り直す。

ターゲット・マージ。敵は三機。かなりの旧型だった。レーダ・ロック。同時に三目標を選択して、ミサイルを発射する。ミサイルは上昇しながら、敵の未来位置に向かって飛翔する。インパクト・キューの秒数が減っていくのが目に入った。あと三秒、二秒、一秒。

 フレアだ。

 一機逃したな。

 素早くウェポン・セレクトをIRAAMへ。

 目標をロックして発射。

 その隙に機体を反転させた。

 フレアを炊きつつスロットルをアフタ・バーナに。

 加速度が身体に乗る。

 後ろを振り返る余裕はもうなかった。

 高度を上げる。

 いつの間にか、雲は遥か下だった。

 星空の明滅が、ひどく悲しげに見える。

 こんな天国みたいな空で、顔も見れない距離で殺し合っている僕ら。

 僕のはなった言葉で、今日も誰かが死んでいく。

 明日は、僕が誰かの言葉で死ぬかもしれない。

 その前に、僕は多くの言葉を放つしかない。

 自分が殺されないように、語り続けるしかない。

 生き残りたかったら、そうするしかない。




   二


 その後、空中管制機からの報告で、僕の最後に放ったミサイルが、敵に命中していたことを知った。どうでもよかった。当たれば儲けもの、くらいの弾だった。それに当たったあいつは、よほど運がなかったんだろう。でも、墜ちるときなんて、みんなそんなもんだろう。綺麗に踊って、必死で戦って、その結果堕ちていける人間なんて、そういない。みんなどうしようもないものにあたって、それが原因で死んでいったりするんだ。

 地上に降りて最初に気づいたのは、自分の身体が冷え切っていることだった。身体には油温メータなんてついてないから、自分の身体が、今どのくらい冷えているのかは感覚次第だった。感覚なんて、そんな不確定なもので、僕の身体は調整されている。その結果がこの冷えだろう。なんだかそれが少し気に食わなくって、僕は足早にシャワー室へ向かった。

 シャワー室に備え付けの鏡はひどく汚れていたけど、それでも、自分の顔が見れない程じゃなかった。そうやって、たまに外から自分を見てやる。すると、どこが悪いとかが、不思議とわかったりする。今の僕は多分眠い。ベッドに横になったら、そのまま寝てしまうだろう。服を脱ぐ前に少しだけ迷って、シャワーを浴びてからのほうが気持ちよく眠れそうだな、と納得して、服を脱ぐことにした。

 電話ボックスみたいな形のシャワー室は、その要件を満たすにはひどく合理的な作りをしていて、蛇口をひねると、必要十分な暖かさのお湯が、僕の頭を上から撫で付けた。思考がお湯に溶けていく感覚。この言い回しを、僕は以前、誰かから聞いた気がする。誰だったろうか。僕の周りには一人しかいなかったから、きっと彼女だろう。僕が、あるいはあのとき間違えなければ、彼女とこの感覚について話し合うこともあったんだろうか。彼女は、それについて何を言い、どんな顔をしただろうか。

 ふと、手首についた傷をみた。結局消えることのなかった傷のことだ。この傷のおかげで、僕は高校の夏休みの数週間を彼女と過ごすことができた。

 でも、と思う。

 もし僕があの日、あの浴室で手首を切らなかったら、彼女は死ななかったのだろうか。

 もし僕があの日、部屋の扉の鍵を綺麗に閉めていれば、死んだのは僕で、彼女ではなかったのだろうか。

 唐突に、そんなことを思い出した。今更どうにもならないことだった。考えたって、彼女が生き返るわけでもないのに、考えなずにはいられなかった。もう一度顔を合わせて、どうして死ぬなんて結論にたどり着いたのか、納得がいく説明が欲しかったのだ。

 そうだ、僕は納得がいってないのだろう。

 独りで勝手に考えて、独りで勝手に死んでしまったことに、ムカついているんだろう。

 ふざけんなって言ってやりたいのだ、僕は。独りよがりな結論を、僕抜きで勝手に下し続けたそのエゴに、僕は怒っているんだろう。

 でも、だからこそ、今更どうにもならないことだった。

 死んだ人間はもう何もしてはくれない。僕がここで怒ったからといって、彼女が生き返ることは絶対にないのだから。それだけは、ないのだから。

 適当に髪を洗って、それから、手首を避けるようにして身体も洗った。シャワー室の外は肌寒い。僕は今日の日付を思い出す。秋口もとうに過ぎて、もうむしろ冬が近かった。身体がまた冷えないうちに服を着て、僕は部屋に戻る。



 次の日、僕は待機任務の予定だった。でも出勤してみたら外されていて、どうやら臨時休暇ということらしい。

 予定もまったくなかったから、それに少し外の空気を吸いたくなって、僕は基地の周りを少し歩くことにした。少し湿った、それでいて冷たい空気だった。遠くを、車が走っていく音がして、基地内の静寂が、一層耳につく。

 基地を半周くらいしたところで、甲高いエンジン音が聞こえた。哨戒飛行に出かける編隊が、ランウェイへ移動するところだった。編隊灯が、薄い青色でぼんやりと光る。アフタ・バーナがたかれて、編隊は同時に地面から離れた。ゆっくりと高度をあげて、そのうち見えなくなる。

 いいな、僕もそのうち、また空に上る機会があるだろう。そのときは思いっきり、ハイレート・クライムをして、それから、できるだけ綺麗に飛び回って、それから、それから。

 僕はその後の言葉が紡げなかった。空に上ったあと、何がしたいかが、全く頭に浮かんでこない。少し疲れているんだろうか。それとも、なにか引っかかることでもあるんだろうか。

 思い当たる節としては、やっぱり昨日のことだ。

 今更思い出すには、あまりにも何もかもが遅すぎた。思い出の残りカスみたいな記憶が、僕の胸をキリキリと苦しめては離さなかった。頭が、どうでもいい思考で埋め尽くされていく。きっと、今僕の口から出る言葉も、この感傷を孕んだものになるだろう。それに撃ち落とされるのは、どんな顔の人間だろう。きっと、僕か、彼女みたいな顔の人間だ。お互いしぶとく生き残って、お互いの首を、お互いの言葉で締め付け合う。そうこうしてる間に、お互い息ができなくなって、言葉をひねり出すことすらできなくなる。何も言えなくなったとき、僕はどんな顔をしているだろうか。彼女は、どんな顔をするだろうか。

 基地の売店に併設されていた自動販売機で、僕は懐かしい赤い缶を見つけた。コーラだった。感傷の痛みには、別の痛みで上書きしてやるのが、多分一番いい。

 一気に飲み干して、それから、少しだけ息を吸い込んだ。

 呼吸をしている。僕はまだ生きている。

 生きることは、こんなにも息苦しい。

 少し、息を止めた。

 息をしないのも、こんなにも苦しい。

 息が止まってしまったら、一体どれだけ苦しいのだろう。

 教えてくれよ、ユフカ。

 


 「君は、今紛争において優秀な成果を残した。ここにその功績と健闘を讃え、センカワ・カナメ中尉を大尉に任官するとともに、以下基地への配置転換を命ずる」

 次の日出勤すると、朝礼で飛行隊長からそんな命令を受けた。命令の主は聞いたこともないくらい上部の人間からで、僕は、一体いつそんな戦果をあげただろうか、と少し疑問に思った。

 朝礼後部屋に戻ると、大尉の階級章が縫い付けられたフライト・スーツと、行き先の基地のチャート、命令書なんかが一緒くたにおいてあった。荷物をまとめている時間はなさそうだったし、そもそも持っていかなきゃいけないような荷物もなかったから、僕はとりあえずそのフライト・スーツに袖を通した。

 ロッカーから小説を数冊と身分証、それから多少の私服を小さいバッグに放り込んで、僕は部屋を出る。階段を下って、隊舎を出た。格納庫へ向かって少し歩いた。遠目に見える格納庫前には、もう既に僕の飛行機がランプに出されていて、エンジンまでかかっていた。翼下には、短距離のAAMが四発と、増槽が三本ぶら下がっていた。随分と遠くまで行くらしい。

 手早く機外チェックを終わらせて、コクピットに滑り込んだ。ハーネスと、酸素ホースを接続して、ヘルメット・バイザをおろした。キャノピィ・クローズ。管制塔に、滑走路までタキシングする許可をもらって、僕はパーキングブレーキを外した。

 滑走路に風はなかった。スロットル、マックスパワー。エア・ボーン。即座にギア・アップ。フラップはオート。機首を45度まで一気に引き上げた。ハイレート・クライム。きっと、地上の連中舌を巻いてることだろう。飛行隊長も、きっと素っ頓狂な顔をしているに違いないな、と思った。



 北に向かって四時間ほど飛行して、目的の基地の管制下に入った。滑走路は北と北西に二本あって、その距離はひどく長かった。だいたい四キロメートルくらい。そのうち、北西に伸びる滑走路を指定されて、僕はそこに着陸した。

 格納庫に機体が収まったのを見ていると、部隊指揮官の方から僕に会いに来た。素早く敬礼して、僕は相手がなにか言い出すのを待った。

 「明朝、〇六〇〇に滑走路36Rから離陸。使用機種、武装などは追って連絡する。以上」

 端的だった。それから、使用機種、というところにひっかかったけど、指揮官はいうことを言ったらさっさと去ってしまっていた。仕方なく、そこら辺にいた整備兵を捕まえて、僕の機体が、これからどうなるのかを聞いた。

「大尉の飛行機なら、これから着任する誰かに引き継がれるって聞きましたけどね」

 僕は彼に礼を言って、それから、今聞いた話を咀嚼した。引き継ぎっていうことは、きっと僕は二度とあの飛行機に乗ることはないんだろう。それが、少しだけ寂しかった。でも、いままでだってこいつは他の誰かを乗せて飛んできたんだろうから、僕の代が終わるだけだった。

 明日の朝までの仮の住まいとして渡された部屋に適当に荷物を放り込んで、僕は外に出かけることにした。上からみたときに気がついたけど、どうやらここは僕たちが住んでいた街に近いらしい。海岸沿いに見覚えがあったから、さっき売店で地図を買っておいた。ベッドに腰掛けて、地図をパラパラとめくると、僕の住んでいたマンションも、彼女の家も、僕らの学校もそこにはあった。

 私服に着替えて、僕は警衛所をあとにする。門のすぐ目の前に止まっていたタクシーを捕まえて、目的地の場所を伝えた。車がどろどろと走り出す。

 長い直線の道を抜けて、交差点を右折。そこからまた少し行って、見慣れたバス停横目に、坂道を登った先に、僕たちの通っていた学校があった。正門前でタクシーを止めて、お金を払った。タクシーは、もう興味なんてないような後ろ姿で走り去る。

 僕は学校の正門を抜けた。来客受付で適当な名前と用件を書いて、校内に入った。廊下を真っ直ぐ行くと、生徒用の昇降口があった。その脇の自動販売機も、昔のままだった。彼女が差し入れてくれたコーラも、相変わらずそこにあった。

 昇降口を抜けて、部室棟の階段を一番上まで登った。屋上へ抜ける扉は、私が卒業するときに偽装したままになってたから、それを適当に外して、外にでた。

 懐かしい景色だった。きっと、君もこういう景色を見ていたんだろう。屋上の真ん中あたりのフェンスに僕が座っていて、きっと短い煙草をふかしている。そこに、コーラの缶を2つ持ったまま近づいてきて、君はそれを投げてよこすんだ。それを片手でキャッチして、僕はプルタブを開ける。君は、どうにもそういうのが苦手だから、二、三回苦戦して、ようやく開いたときには、表情は変わらないけど、少しほっとした顔をするんだ。それをあおって、僕らは空を見上げる。

 あの頃と同じ位置に座って、僕は空をみた。曇り空だった。君が、頭を撃ち抜いた日みたいな空だった。雨でも降りそうだな、と思った。煙草を買ってくるんだった。口寂しさは、コーラで埋めるしかないか。

 あの向こうに、本当に天国があると思っていたんだ。あの頃の僕は。

 でも、飛んでいるうちにわかった。ここには、あの頃の僕らが想像していたような天国はなかった。もっと残酷で、誰もがそれを欲しがって、殺したり殺されたりするような天国だった。気を抜けなくって、気を抜いたやつから堕ちていく。そんな世界だった。

 でも、それって昔もかわらなかったよ。私らが一緒にいたときだって、気を抜いて、力尽きた人間からドロップアウトしてたもの。私なんかがいい例じゃん。なにもかもに耐えられなくなって、部屋で独りで死のうとしていた。それを、君が引っ張り出すだけ引っ張り出して、勝手にどっかに行ってしまった。独善的なエゴで、また私を、こんな殺伐とした天国にほっぽりだして、自分だけ、文字通り天国に行ってしまった。そんなのって。

 頬に、なにか冷たいものが流れていくのを感じた。それが雨だと気づくのに、ちょっとだけ時間がかかった。それに混じって、なにか温かいものも流れていく。


 基地に戻ったのは結局夜遅くになってからで、その日はそのまますぐに寝てしまった。

 次の日の朝、僕は着替えて、格納庫の前に来ていた。ひどく冷え込んだ朝だった。そのうち、雪でも降り出しそうだな、と思った。

 今日僕を乗せるのはひどくのっぺりとした形の飛行機だった。どことなく角ばっているようで、全体を見れば曲線的な、変な形だった。翼下のパイロンには何もつられておらず、胴体の下に、見たこともない形の爆弾が一つぶら下がっていただけだった。

 機体の整備を担当していた士官曰く、前に乗っていた飛行機とアビオニクスは同一らしかった。ただ、翼下パイロンの兵装投棄ボタンが不活性になっているのと、HMDが使用不可とのことだった。

 プリフライト・ブリーフィングにはもうひとりいて、何でも、今日の飛行機は複座らしかった。どこかで見たことあるような顔の男だった。彼も、僕の顔を見たとき、なにかいいたそうな表情をしていたけど、その後すぐに入ってきた部隊指揮官に遮られてしまたt。

 部隊指揮官によれば、使用滑走路は36R。離陸後すぐに高度を3万フィートまであげて、無線封止を行うことを説明された。新型の爆弾のリリースポイントに関する説明はなかった。なんでも近くまで飛ばせば、あとは飛行機が勝手にやってくれるらしい。

 コクピットに乗り込んですぐに、たしかに計器類の配置が、前の飛行機と全く一緒なことに気がついた。離陸前チェックリストを手早く済ませて、滑走路へタキシングする。操縦翼面の最終チェックと、左右エンジンの出力チェックを行う。そのときふと、コクピットに、なにかへばりついたのを見た。

 「雪、か」

 フライト・オフィサの席に座った彼が、そう呟く。

 膝にくくりつけたチャートから、ウェイポイント情報をコンピュータに入れていた僕は、彼の声で顔をあげた。思わず声が漏れる。

 まだまだ粉雪だけど、夜には、きっと除雪車両の出番だろう。

 離陸許可はすぐに出た。雪が降ってきたので、アンチアイスを入れた。スロットル・ミリタリー。機体が少し重いかもしれない。前の飛行機もエンジンがパワー不足だったけど、今度のこいつは、スロットルにはかなり気を使ってやらないと、すぐに失速してしまうだろう。

 高度は3万フィートになっていた。そこから、作戦空域に向かってまた少しずつ高度をあげて、最終的に6万フィートにまであがるらしい。そこまでいくと、もう宇宙みたいなもの。地上と空の境界も曖昧になって、きっと何もかもが美しい。もしかしたら、そここそが天国かもしれないな、とぼんやりと考えた。それから、あまりのバカバカしさに笑ってしまった。天国なんて、きっとどこにもないのだろう。逆に、自分が、そこが天国だと思えば、どこだって天国になってしまう。僕の場合、きっとそれは、どこ、ではなく、誰といるかだったのだ。それだけのことだ。

 作戦空域はかなり距離があるから、オート・パイロットにして、少しフライト・オフィサとしゃべることにした。彼もどうやら、最近急に転属を命じられたようで、この機体に乗ったこともそんなにないようだった。簡単な習熟訓練は受けたみたいなので、問題はないだろう。

 少し喋って気づいたけど、彼は似ているんだ。あの学校で、なにかと僕のことを気にかけてきた担任に。喋り方とか、態度とか。腰が低くって、どうにもそれが演技臭いような彼に。

 

 作戦空域に近づいてきたので、マスタ・アームを入れた。ストア・ページから、抱えてきた爆弾を選んだ。投下に関する諸元はもう入力されていたから。僕はリリース・キューに従って機体を操作した。適切なリリース・ポイント上に乗って、速度は抑え気味。お腹の下から、爆弾を吐き出した衝撃が軽く伝わった。すぐに機首をあげて、スロットル・アップ。作戦空域から離脱する。

 最初に見たのは、多分真っ白に染まっただけの視界だっただろう。

 後ろで、太陽でも降ってきたんじゃないかってくらい眩しいなにかが光っていた。一瞬目が見えなくなって、次に見えた時には衝撃で飛行機ごと吹き飛ばされていた。

 僕はスティックをなんとか制御する。ラダー・ペダルを思いっきり踏みつけた。視界の端を、何かが吹き飛んでいく。垂直尾翼が根本から吹き飛んでいた。DDIを操作して、フライト・コンピュータのチェックを行おうとして、コンピュータどころか、DDIの画面が沈黙している事に気がついた。エンジンはまだ生きてるから、なんとか飛べはするだろうけど、垂直尾翼のない状態で、どうやって基地まで戻るか、考えなきゃいけなかった。

 衝撃が収まる。僕は振り返って、衝撃がきた方向を見た。噴煙が、僕らのいる高度なんかよりも遥か彼方まで伸びていた。


 

    エピローグ



 随分と寝ていたような気がした。最初に目に入ったのは、白いベッドと、白い壁と、とにかく何もかもが白い部屋だった。僕は、少しいたたまれない気持ちになって、窓の方を見た。窓際には花瓶があって、そこに白い花が植えてあった。風になびいて、 ぼんやりと揺れている。

 窓の外は青空だった。それだけが唯一の救い。雲はあるけど、そこまで気になる程度じゃない。

「誰か」

 久しぶりに声を出した気がする。自分の声も忘れてしまった。想像してたよりずっと高くって、そういえばこんな声だったかなって、薄ぼんやり思う。

 しばらくして、白い服に身を包んだ女の人が入ってきた。きっと看護師だろう。ひどく赤い目をしていた。泣いていたのかもしれない。青空を除けば、この病室で唯一の色だった。

「どうしたの?」

 彼女は僕に聞いた

「外に出たいんだ。出してもらえるかな」

「どうだろう。僕はなんともいえないけど」

「どうして?」

「ちょっとまってて、聞いてくる」

 彼女は、少しだけ笑ってそういった。なにか、含みのある笑い方だった。

 僕は、出ていこうとする彼女の後ろ姿をみた。それから、

「空には、いつ戻れるかな」

 と聞いた。

「パイロットなの?」

 彼女が聞く。

「うん」

「どうだろう。よくなれば、きっと飛べると思うけど」

 そう言って窓の外を見た。変わらない景色がそこにはいて、僕は彼女に声をかけられなくなった。

「君は」

 彼女が聞く。

「空に戻れないって言われたら、どう思われますか?」

 泣きそうだ。泣いていたのかもしれない。

 涙はなかったけど、多分泣いていた。

「僕は」

 僕の口がなにかいう。

「それでも、多分戻る」

「どうやって?」

「なんとかして」

「なんとかって?」

「なんとかは、なんとか。方法を見つけて、また戻る。戻らないといけない。約束だから」

「そっか」

「うん」

 彼女はそう呟いて、もう喋らなかった。ただにこりと笑って、その場から出ていった。

 少しだけ眠たくなって、僕はベッドに戻った。

 目を閉じる。遠くでエンジンの音がして、近くに基地でもあるんだろうって思った。


 目が覚めた。

 多分夢の中だからその表現が正しいのかはわからないけど、目が覚めたんだ。

 高かった。

 雲も遥か下に、まだ上がってるみたいだ。

 エンジンが泣いてる。

 それでも、僕は上がる。

 そのうち、空が黒くなって。

 そのうち、何も見えなくなって。

 何も聞こえない。

 何も、何も。

 僕は。

 夜の終わりみたいな色の空が、あんまりにも眩しかったから。

 そのまま、動けなくなったまま僕はそこにいたんだ。

 エンジンはとうに止まってて、油圧系も完全に落ちてた。

 ビンゴ・ヒュール。身軽になりたくって、何もかも捨てた。

 ああ、やっぱり。

 天国みたいだって、思った。

 天使も神もいないけど、ここが天国なんだって思った。

 みんなで奪い合って、結局誰も居続けることなんてで来ないけど、きっとここが天国だ。

 できることなら。

 永遠に、こんな世界で生きていられたら。

 地上のなにもかもを捨て去って、ずっと。

 ずっと。




 その日は、人と話すだけで終わった。

 老人だった。白衣を着ていたから、多分医者だろう。眼鏡をかけていて、歳は、いくつぐらいだろうか。

 彼は、ベッドの下から椅子を出してきて座った。手に持っていた書類に、ボールペンでなにか書き込み始める。それから顔を上げた。少し 

考え込んでいるようだった。口を開く。

「名前は?」

「わかりません」

「歳は?」

「わかりません」

「生まれは?」

「わかりません」

「なにか、覚えていることはあるかな?」

 僕は一瞬止まって、それから

「あります。僕はパイロットだった」

と答えた。

「認識番号」

「わかりません」

「所属」

「わかりません」

「乗っていた飛行機は?」

「わかんない。垂直尾翼が吹き飛んでいたから、多分堕ちたんだと思う。僕のそばに落ちてなかった?」

「直前の任務は?」

「わかりません。確か、新型の何かを運んでた気がする」

 青年はそこまで聞いてため息をついた。なにか言いたげに僕を睨む。なんだろう。言いたいことがあるなら言えばいいのに。

「センカワ・カナメ大尉」

 彼はそう言った。

「君の名前と階級だよ。大尉」」

「センカワ・カナメ」

 僕は、僕の名前を繰り返した。ひどく、何かが感じがした。自分の名前じゃないみたいだ。現実感みたいなものが欠落して居るのかもれない。

「大層な名前があったんだ、僕って」

「そうみたいだな」

「へえ」

 どうでもいいことだ。

 どうでもよすぎて、笑えてくるくらいに。

 名前なんて、誰かが呼んでくれて初めて意味を成すものだ。それを呼んでくれる人間は、もういない。誰かと識別する必要がなければ、名前なんかいらないのだ。

 僕が誰かなんて、僕だけが知ってればそれでいい。

 ただ、もう一回飛ばせてくれさえすればそれでいい。

 僕はただ窓の外を眺めた。何も無い空だ。ちょっとつまらないな、なんて思った。

 ふと、彼女のことを思い出した。

 もう誰かも思い出せない彼女のことだ。全てを見切っているような目をした彼女だ。まるで生きてるみたいな感じがしなくて、

――もう、とうの昔に死んでしまっているみたいな。

 そういえば、そんなようなことを彼女も言っていたな。今更、こんなことを言ったら彼女は笑うだろうか。怒りはしないだろうか。

 部屋の隅、日の当たる場所に飾ってあった花が風でなびいた。昨日も見た花だ。白くて、そういえばあの花も浮世離れしていたような。

「あの」

 僕は聞く。

「あの花って、なんて名前なんですか」

 彼は振り向いて、少し、なにかを思い出そうとしているような表情で窓際の花を見ていた。それから

「花の名前はわからない」

 と言った。

「誰に聞けばわかるかな」

「さあな」

 それから彼は花の方を向いた。花は相変わらず風に揺られていた。

 何も言わずに、何も。

 何も言わずに、誰も。


 その日も、夢を見た。

 彼女の夢だ。遠い昔のことみたいに、僕の頭にこびり付いている。

 学校みたいだった。

 夕方だった。

 彼女は柵によっかかっていて、僕は横目で顔を上げて彼女をみていた。

 綺麗だ。

 そう、思った。

 彼女が何か言った気がする。

 もうなんだか思い出せなかった。

 夕の日に陰った彼女の顔はよく見えない。肩を震わせて、何か言いたげにそこにいた。

「――」

 誰かがそう言った。彼女じゃない。

 僕が?

 自分の声すら忘れてしまったのかもしれない。



 泣いていた。

 朝の光が眩しかったからかもしれない。何かとっても悲しいことがあったような気もする。もう思い出せないけれど。

 いつもの病室だった。

 窓際の花が少し萎れかけていて、僕は枕元にあったペットボトルの水を少しかけてやった。これで幾日かもつだろう。

 部屋の扉が開く。彼女だった。手になにか、服のようなものを持っていた。オリーヴ・ドラヴのつなぎ。腰あたりにベルトがついていて、ブーツも一緒だった。

 フライト・スーツだ、と僕は思った。僕が着ていたのと同じデザイン。

 彼女は僕のベッドの横まで歩いてきて、それから僕に

「センカワ」

と声をかけた。

「外にセンカワが乗ってたのと同じ飛行機があるみたいなんだけど、リハビリにどうかな」

「いいのかな」

「なにが?」

「乗っても」

 彼女は、キョトンとした顔をして、それから吹き出した。

「なにか面白かった?」

「とても」

「どこが?」

 彼女は少し間を置いて、それから

「パイロットが、空を飛んでいいのかなって」

と言って、微笑んだ。



 高かった。

 青かった。

 雲なんかもう遥か下に落ちて、僕はひとりきりになった。

 何も聞こえなかった。

 何も。

 ただ、そこにいるという感覚だけがして。

 僕の、

「僕の居場所は、ここなんだ」

「やっぱり僕は、空にしかいられないんだ」

 まだ太陽は高い。日差しがバイザー越しに目に刺さる。

「僕は、やっぱりここにしかいられない」

 地上は、僕の居場所じゃない。

 こんなにも不安定な場所が、僕にとっての唯一の居場所なんだ。

 ここが。

 この何も無い空が。

「でもいつか、僕らは降りなくちゃいけない」

 燃料はやがて尽きるし、僕だってご飯を食べなくちゃ飢えてしまう。機体だって整備しなくちゃそのうちボロが出る。

「そんなのって」

 僕らはただここにいたいだけなのに。ただこの美しい空間で、他に何も無い空間で、この広いダンス・ホールで、ただ綺麗に踊りたいだけなのに。

「不自由だ」

 重力に拘束されて、僕らはいつか地上に堕ちていく。

 そのまま、翼なんて持ってないから。

 僕らは地上に居続けるんだ。

 飛べなくなったら、そうなるんだ。

「そんなの」

 そんなのって。

「僕には」

 耐えきれない。


 降りてから最初に思ったのは、例えば日差しの強さだったり、乾いた風の匂いだったりした。

 まるで夏みたいだ、まだ湿り気はないから、梅雨前みたいな。

 降りると、格納庫の前に彼女がいて、僕に少し待っていてくれといっていたので、僕は休憩室で待つことにした。テレビではどこかの国の、どこかの動物園の話が流れていた。ライオンの赤ちゃんが生まれたらしい。どこかで見たことがある気がするニュースだった。でも動物園の話なんてありふれた話、どこにでも転がってるから、僕の思い違いかもしれない。


――


 コーヒーを啜る。現実感のない味だった。缶のコーヒーよりはマシだと思うけれど、それでも。


――


 指がトリガを握る形になっていた。左手はスロットルに、足はフット・レバーに。目は空を見ていた。

 見たこともないわからない空の色だった。ここよりもずっと色が薄くて、これから壊れる色をしていた。

 僕は、機体をバンクさせた。上下左右見回して、敵を探す。その隙間、誰かが、僕の方に手を振った気がした。

 

 

 レーダ・サイトの脇の階段を登って、彼女のいる屋上を目指した。

 階段を上がった先の空はとても青い。彼女はそこで、ただ空を見ていた。

 入道雲だ。その上には、飛行機雲が一筋。

 僕の機体だ。

 そう思った。

「この空の向こうには、多分天国がある」

 不意に彼女が口を開く。

 そこまで紡いで、彼女は目を閉じた。

 僕は、見てきた空を思い出した。天国とはほど遠い、なにもない空のことだ。

 僕は確かにあの夏、彼女に言ったのだ。

 狭い世界だったのかもしれない。でもあの屋上で見た空は、たしかに天国に見えたのだ。

「なにもないよ」

 僕は言う。

「雲の向こうにはね、なにもなかったよ」

 彼女は、それを聞いて笑った。

 泣いてるみたいに、笑った。

 涙は見えないけど、僕にはそう思えた。

「泣いてるの?」

 だから僕は尋ねる。

 淡々と。

 明瞭に。

 彼女は言う。

「そうかもしれない」

 前を向いた。

 口を歪ませて。

 笑ってるみたいだ。

 何かを諦めたような。

 悲しい人だな、なんて。

 寂しい人だな、なんて。

 僕には彼女がわからなくて、だからせめて同じほうを向いていようと思ったから。

 目の前には入道雲が浮いてて、その上をナイフみたいな翼の戦闘機が飛んでた。

 それが、なぜかひどく懐かしくて、僕は。

 スロットル・アップ。ラダーを蹴飛ばした。機首を下にコンバット・マニューバ。そのまま落ちて、ギリギリで機首をあげる。地表ギリギリ。僕の顔がみえた。彼女の顔も。バイザー越しだったけど、多分笑ってた。心から、笑えてた。

 それがとっても嬉しかったから、僕はにこりと笑って、そしてそれまでを思いだして少し泣いたんだ。

 その涙が、多分これからの彼女に対する手向けだと思ったから。

 遠くなっていく戦闘機が、段々と見えなくなって。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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夢題 わたなべ @shin_sen_yasai

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