樹化症

 夙が扉を開けたのは、病院の一室。風に揺れる葉の音さえはっきりと聞こえるほど静かな院内には、他の病院で匙を投げられた患者が治療を受けている。

 ベッドから外を眺めていた依頼人は、夙の入室を確認して、くしゃりと微笑んだ。

「よく来てくれたね」

 招かれるままに来客用のパイプ椅子に座る。足元には床を隠すほどの花が落ちている。

 俯いたまま、夙は言う。

「……今の技術じゃ、無理だって。神頼みでもしてみたらって、行く先々で言われた」

 穏やかな午後の陽光が似合わない話だ。

 この病院に預けられている患者は、治療という名目のもと、研究材料として消費されていく──知りたくなかった世界の一片を正直に依頼人に報告する。

 そうかそうかと聞いていた老人は言う。

「まぁ、私も長く生きたからねぇ。何となくは分かっていたんだよ」

 膝に置いた拳を固め、夙は問う。

「諦めるの?」

「諦めとは、違う、かなぁ……ゴホッ」

 咳き込んだ老人の口から溢れたのは、痰や血ではなく、鮮やかな橙色の小さな花。樹化症の末期症状だ。

「生まれ変わったら、金木犀かな」

「……笑えないよ」

「ふふっ若いのぅ」

 力が入らないのか、動かし辛そうに腕を挙げ、ベッドサイドの棚に手をかける。よっこらしょと引き出しを開けて、鈍色の素朴な鍵を取り出した老人は、そっと夙の手に握らせた。

「依頼の報酬だ。好きなものを持っていきなさい。──ただ、この鍵を預ける代わりにもうひとつ、聞いてくれるかね?」

 夙が頷くのを確認して、老人は続けた。

「私が木になったら、枝を一本、家の庭に植えて欲しい」

「……緑に呑まれた地区って言ってた」

「そう。樹になった家族と共にありたいという、この老いぼれの最期の願いを聞いておくれ」

「……断れないって知ってて言ってる?」

「君なら、きっと叶えてくれると……信じている」

 微笑む老人から、手の中の鍵に視線を移す。

 託された願いを受け入れて再び老人に視線を戻せば、そこには一本の金木犀。

 ナイフを抜き、樹皮にあてる。

「……連れてくよ」

 切り落とした枝を手に、夙は病室を出た。


「死んだ奴の言うこと律儀に聞くか?」

「……僕が、選んだ」

「ああそう。お前、たまに頑固だよな。ほら、着いたぞ」

 馬の背を降り、錆びた門をくぐると、庭を埋めるムスカリが夙を迎えた。

 揺れる紫色の絨毯の真ん中に金木犀の枝を植える。

「これでいいかな」

 呟いて一人頷いた夙は立ち上がり、鍵を手に、玄関へ向かった。

 扉を開けると、甘い香りが一層強くなる。

 台所に一本、居間に二本の金木犀。きっと依頼人の家族だった樹だ。

「……おじゃまします」

 生活の時間が停まった家の中を歩き回り、まだ使えそうな物を物色する。

 外へ出て鍵をかけ直した頃には日没前だった。

「ごめん。待たせた」

「行くぞ」



 蹄の音が遠ざかる庭で、金木犀が風に揺れた。







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