エピローグ いつか
面談から一週間後――。
「ごちそうさまでした♪」
「いっちゃん。口にソース付いてるよ」
「どこ? ママ、拭いて~」
「はいはい。動かないでね」
私は栗原家にお泊りに来た深山さんと、以前と変わらないやり取りを繰り広げていた。
あの後、私の乱入問題が他の生徒に知られていないか不安だったけど、どうやら大丈夫だったらしく、特に噂にはなっていなかった。これはもう幸運という他ない。
しかし私のことは噂にならない代わりに、普段の深山さんが放つ空気が軽くなったと、噂されるようになった。きっとお母さんと真正面から向き合ったからだろう。良いことだ。
一緒に夕飯の洗い物と片付けを終え、リビングのソファーに戻ると、深山さんがすかさず私の膝に寝転んだ。
「今日のハンバーグ、美味しかった~♪」
「ふふん、まぁね。でもいっちゃんもお料理練習してるから、そのうち自分で作れるようになると思うよ」
「やだ~。ママのご飯が食べたいから、私は作らないもん」
「え~? いっちゃんのお料理、食べてみたかったのにな~。残念だな~」
私がわざとらしく肩を落とすと、深山さんは少し困ったように眉根を寄せた。
「……ママが喜んでくれるなら……頑張ってもいいけど……」
「さすが、いっちゃん♪ 期待してるよ」
頭を撫でてあげると、深山さんはくすぐったそうに目を細めた。
ここ数日で、深山さんの甘え方が自然になってきたように感じていた。
これまでも遠慮は無かった。しかし思い返してみれば、どこか必死さというか『甘えよう!』と構えていたような印象がある。
でも今はそんなこともなく、心底無邪気に甘えているような気がする。おそらくそれも、あの面談を超えて心が軽くなったからなんだろう。
……今なら、聞いてもいいかな。
「――ねぇ、いっちゃん。……お母さんとは、あれからどう?」
質問した途端、深山さんの動きがピタリと止まった。
あの日以降、私から深山さんの親子関係について尋ねたことが無かったし、深山さんからも言ってこないので、正直ずっと気になっていた。私のお節介と暴走の結果なわけだし……。
内心結構緊張しながら返事を待つ私を見上げ、深山さんが静かに口を開いた。
「……まだ、ちゃんと話はしてないし……食事も出来てない」
「そ、そっか……」
まぁ、ね……。ずっと冷めきっていた関係が、たった一週間でそう劇的に改善するなんてことはないんだし、これは想定の内――。
「……でも、昨日……おやすみ、って言ったよ」
「え? ほ、本当に?」
「うん。夜遅くに突然帰って来て……。連絡が無いのはいつものことなんだけど……私もびっくりして、何も話せなかった。でも寝る前に、おやすみって言ったら、お母さんも初めて、おやすみって言ってくれた。今朝、私が起きた時はもういなかったから、おはようは言えなかったけど……」
私を見つめながら語る深山さんだが、その目はどこか遠くを眺めているようだった。たぶんその時の記憶を思い出しているんだろう。その口元がほんの少しだけ嬉しそうに緩んでいるように見えるのは、私の目の錯覚じゃないはずだ。
「……次は、ちゃんと話せるといいね」
「うん」
でも、そうか。深山さんから声をかけることは出来たわけか。それがたった一言の挨拶とはいえ、深山さんにとってはかなり大きな一歩だ。
「この調子なら、いっちゃんとお母さんの仲も意外とすぐ良くなったりして?」
「そ、そんなことは、無いと思うけど……」
「分かんないよ? でもそうしたら、私がいっちゃんのママする必要もなくなぶふぅ!?」
最後まで言い切る前に、深山さんが私の体に抱き着き、お腹にドスンと顔を埋めてきた。油断していたうえに良い角度で入ったせいで、思わず変な声が出た。
「い、いっちゃん、痛いよ……?」
「ママはずっとママじゃなきゃやだ!」
「ず、ずっとはさすがに……」
「や!」
ぎゅぅっと強く抱き着きながら、頭をぐりぐりと押し付けてくる深山さん。夕食を食べたばかりだってことを忘れないで欲しい。
「じょ、冗談! 冗談だってば!」
「……本当に?」
「本当だってば、信じてよ」
実際のところ――深山さんのママをやめたいという気持ちは、今はもう無い。
深山さんが私をママと呼び、ずっと求めていた母性と癒しを得る。
それとは反対に、私は深山さんを甘やかすことで、満たされなかった心が癒されていた。
深山さんは求める者、私は与える者という――立場こそ逆ではあったけど、私達は根っこの部分でお互いを救い合っていた。そしてそれは今も変わらない。
ちょっとお互いに依存し過ぎてるかな、とは思うけど。
でも構わない。今はそれでいい。
だって、それもまた一つの助け合いなんだから。
いつか深山さんが私を『ママ』と呼ばなくなるまで、私は深山さんのママを続けよう。
……でも、その時、私と深山さんはどんな関係になるんだろう?
やっぱり友達だろうか? ……あまりしっくりこない。
自分の中でも上手く言葉が見つからないけど、何となく特別な関係になっている気はしている。友達以上となると――。
いやいや、まさかね。いくら特別って言ってもそれは……ねぇ?
もちろん全然、嫌とかじゃないし、むしろ嬉しいけど……。
「どうしたの、ママ?」
「ん? いや、なんでもないよ」
まぁ……今はいいや。
先のことは、その時考えよう。
§ ✿
食後に栗原さんに膝枕をしてもらいながら、頭を優しく撫でてもらう。
私にとって、これ以上幸せな時間は無い。
「――あ、そうだ。ねぇ、いっちゃん」
突然栗原さんが撫でる手を止めた。
「ん~……なぁに、ママ? もうお風呂?」
「それもだけど、そうじゃなくて……。今ふっと思い出したんだけど、ご褒美まだだよね?」
「……ご褒美?」
何のことか分からず、何度かまばたきした。
ここ何日かの記憶を思い返してみても、栗原さんからご褒美が貰えるような良い事はしていない。今日はお泊りだから、料理の準備や片付けなどのお手伝いはしているけど……。
「ほら、面談が決まったって教えてくれた時にさ、頑張ってお母さんとお話したらご褒美をあげるって約束したの、おぼえてない?」
「……あ……」
言われて、ようやく思い出した。確かに言っていた。
その約束をしたのが面談の何日か前だし、当日は朝から緊張していたうえに、本番も大変過ぎたせいですっかり忘れていた。
「ごめんねー。ママから言い出したことなのに、忘れちゃってて」
「う、うぅん。それは全然……」
「というわけで、いっちゃんにご褒美をあげようと思うんだけど……何がいい?」
お弁当のおかずリクエストを尋ねるように、当たり前のように言う栗原さん。ごく自然過ぎるその口調に一瞬真剣に考えてしまった私は、しかしすぐに我に返った。
「っ……だ、駄目だよ! ご褒美なんて貰えない……!」
「え? 何で? いっちゃん、ちゃんと面談頑張ったでしょ」
「そ、そうだけど……! でもあれは自分のためだし……」
「んー……でも約束は約束だからね。ちゃんと守らないと」
「ま、ママには今でも、十分色々してもらってるよ。というか……私の方こそママにお礼しないと」
まさに今頭に浮かんだことだが、これは名案だと思う。
毎日お弁当を作り、私が満足するまで甘えさせてくれて、家族のことまで心配してくれる。そこまでしてもらったうえにご褒美まで貰うなんて、さすがに出来ない。
「気にしなくていいって。今はやりたくてやってるんだから」
「でも」
「そ、れ、に。お礼って言うなら、これはご褒美兼、ママからのお礼でもあるんだよ?」
「……? ママからの、お礼……?」
「そ。大事なことに気付かせてくれたから……なんて言っても分かんないよね」
「う、うん……」
そう言われると余計に気になってしまう。
しかし栗原さんは詳しい話をするつもりはないらしく、首を傾げる私を「ほらほら」と急かしてきた。
「あんまりお金がかかるようなのは無理だけど……。ママとしたい事とか、して欲しい事とかがあれば、何でも言ってみて?」
「……したい事……?」
私は考えるふりをして、栗原さんの瞳から逃げるように目を逸らした。
したい事が思いつかずに困っている――わけではない。
むしろ、したい事はある。栗原さんに言われてすぐに思い浮かんだ。
ただ……問題は、このお願いをして栗原さんにどう思われるか、ということ。
びっくりはすると思う。問題はその後で……断られるのは構わない。叱られるのも平気。でも……嫌われるのだけは嫌だ。
「遠慮しなくていいからねー」
まるで私の思考を読んだかのようなタイミングで、栗原さんが言う。
その瞬間、私の口は勝手に開いていた。
「ママに…………ちゅー、してほしい……」
「ああ、ちゅーね。おっけ……………………………………………………い?」
納得したように頷いたのは一瞬。栗原さんの表情が笑顔のまま固まった。
「え……え~っと……い、いっちゃん? それっていうのは……いわゆる……キスのこと、かな?」
「…………う、うん。やっぱり、駄目……?」
「いや~~……駄目っていうか……。遠慮無しとは言ったけど……まさか、ちゅーをお願いされるとは思ってなくて……ちょ、ちょっと待ってね……」
栗原さんが眉間にしわを寄せ、頭痛に苦しむように両手でこめかみを押さえた。
「……ええええっと……その、どうしてって、聞いてもいい?」
「え? そ、それは……。し、してほしいなぁ、って思ったから……」
「うん、いや、そうなんだろうけど……。そうじゃなくて……。どうして私にキスして欲しいのかってこと」
「……どうしてって……」
――栗原さんのことが、好きだから。
あの日、お母さんに栗原さんのことを聞かれて答えた『一番大切な人』という言葉。
普通に考えれば、私と栗原さんは、少し特殊ではあるけど、友達だ。
それなのに私は『友達』ではなく、『一番大切な人』と答えた。
だってその時にはもう、私が栗原さんのことを好きになっていたからだ。
……違う。好き、じゃなくて『大好き』に、だ。
もちろん理想のママとしての栗原さんへの親愛は持っている。でも、今はそこにもう一つの気持ちが――『恋心』が加わっている。
私は別に同性が好きというわけじゃない。そもそも今まで性別にかかわらず、誰のことも好きになったことはないから分からないけど……。
でも今、私は間違いなく、彼女のことが好きになっている。
それは女の子だからとか、ママだから好きになったんじゃない。
栗原さんだから、好きになったんだ。
私のことをあれだけ本気で思って、泣いてくれた人のことを、好きにならないはずがない。
でも……それを言えば、きっと栗原さんは困ってしまう。
お見舞いの日に、栗原さんは私のことを好きだと言ってくれた。でも栗原さんのその『好き』と私の『好き』はきっと違う。
だから、栗原さんにキスしてもらうには、他に理由が必要なわけで……。
「ほ、ほら……ママが、娘にちゅーするのは……よくあること、だと思うんだけどな……?」
多少苦しいことは否めないが、子供が幼い間のコミュニケーションとしてはあり得る……はず。
「う~ん……。まぁ……そう、いう気がしないでもないけど……」
「で、でしょ? だから……ママに、して欲しいなぁって……」
ここで断られても、それは仕方ないと思う。
それでも私は心の中で祈りながら、栗原さんをじっと見つめた。
栗原さんは難しい顔でしばらく考え込んでいたが、やがておずおずと手を伸ばし――私の右頬を指先でつんと突いた。
「……ここになら、いいよ?」
「え……? う、うん……ありがとう……」
受け入れてもらえたことに驚きながら、私は栗原さんの膝の上で顔の向きを変えた。
本当に? 夢じゃなくて?
なんて考えていると、栗原さんが髪を少しかき上げ、ゆっくりと顔を近づけてきた。胸の奥が破裂しそうなほど高鳴る。熱くなっていく顔に、栗原さんの影が落ちる。
緊張を孕んだ吐息が頬をくすぐり、首筋がぞくりと震え、そして――。
……ちゅ――。
少し湿った、柔らかくて温かい唇が、私の頬に優しく触れた。
「……!」
それが一瞬だったのか、それとも数秒続いたのかは分からない。
唇が離れても、体が固まってしまい動けなかった。
「……ど、どうかな? 今のでいい?」
栗原さんも固まっているのか、驚くほど耳の近くで声で囁かれた。
そっちを見られないから、よく分からないけど……でも、顔は真っ赤なんだろうなというのは分かる。私はきっと、それ以上に赤いと思うけど。
「……ママ……」
「な、何?」
もう一回って言ったら……怒るかな?
「……ありがとう……♪」
「……どういたしまして」
§
「あのね……私、栗原さんのこと大好き……♪」
「はいはい、私も深山さん大好きだよ。……って、名前で呼んじゃった」
「え? ……あ、私もだ……ごめんなさい」
「あはは、謝ることじゃないでしょ。――それじゃ……おやすみ、いっちゃん」
「……うん。おやすみ、ママ……♪」
甘えられない私と、甘えさせてもらえない彼女。 マチ @s-yama
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