第六話 声を聞いて 後編


 栗原さんが泣いている。

 顔を覆って、苦しそうにしゃくりあげている。

 福見先生もお母さんも、栗原さんの突然の涙の理由が分からず、唖然としている。

 でも、私には分かった。分かってしまった。


(お母さんと話したくても、もう二度と話せない人だっている――)


 言葉を聞いただけなら、当たり前のことだと思うだろう。そんな人はいっぱいいる。

 でも今この場においては、それはたった一人――栗原さんのことだった。

 それが分かった瞬間、どうしようもなく自分のことが恥ずかしくなった。

 栗原さんはたぶん、ずっとお母さんに甘えたかったんだと思う。でもそれは無理だから、必死に我慢するしかなかった。

 普通のおうちなら、お母さんがしてくれることも全部栗原さんがやってきた。お父さんとは仲良しらしいけど、だからこそ心配させないために、自分で頑張るしかなかったんだろう。

 それなのに私は栗原さんを「ママ」と呼んで甘えてしまった。

 私が栗原さんに求めたことは全部、栗原さんがお母さんにしてもらいたかったことのはず。そんなことにも気づかずに、私は甘え続けた。

 そして栗原さんは、そんな馬鹿な私を受け入れて、甘えさせてくれた。

 酷いことを言っても見捨てもせず、それどころか私が悪いのに自分が悪いと謝って。


「栗原さん……」

「っ……! い、いっぢゃ……ごめんねっ……! っ、ぐ……ふぅう……!」


 また謝っている。きっとまた、変な誤解をしているんだろう。

 それがどんなものかは知らないが――そんなこと、あるはずがない。

 栗原さんがどう思っていようが、栗原さんが悪いことなんて一つも無い。

 栗原さんを泣き止ませる方法は、私には分からない。でも出来ることはある。

 あの約束を――。


「栗原さん……。ありがとう」


 私はいつの間にか頬を流れていた涙を拭うと、モニターの向こうでまだ戸惑っているお母さんを睨むように見つめた。


「お母さん、聞いて」

『っ……?』



「私の成績が良いのって、私が小さい頃からずっと勉強頑張ってきたからなの。お母さんだったら、そんなの当然って思うかもしれないけど……でも、私にはちゃんと理由があるの。

 昔からお母さん、ずっと仕事のことばっかりで、私と話したこと、全然無かったでしょ? だからテストで良い点を取れば、褒めてくれるかなって思ったの。小学校の時にクラスの子が褒めてもらったっていうのを聞いて、それを真似したの。でもお母さん、私が百点のテストをテーブルに置いてても、何にも言ってくれなかったよね。朝見たら、置いた場所から一ミリも動いてなかった……お母さんは、覚えてないだろうけど。でもそれからもずっと、私頑張って勉強してるんだよ? だから、今も成績が良いの」



「それから……幼稚園でも、小学校でも、中学校でも……行事には一度も参加してくれなかったよね。

 確か……小学三年生の時、だったかな。音楽会の練習の時、幼稚園から同じだった子達に笑われたことがあるの。『今年はいっちゃんのお母さん来るの?』『来るわけないじゃん』って。

 もしここでケンカして相手を怪我させたら来てくれるかな、って思ったけど……出来なかった。それでもどうせ来ないんだろうなって分かってたから。だから、怒りもしなかった。でも悲しかった。お母さんが私に興味が無いっていうことが、私の中で当たり前になっちゃってたから」



「私ね、友達がいないの。昔は欲しいって思ったことはある……。でも、今はもういらないって思ってるの。どうしてか分かる? 

 さっき言った、笑われたからっていうのもあるけど……それとは違って、腹が立つから。どうしてこの子達は、お母さんと話が出来るのかなって。どうしてお母さんに甘えられるのかなって。どうしてお母さんの作ってくれるご飯に文句が言えるのかなって……。私がしたくても出来ない、させてもらえないことを当たり前みたいにやってるのを見たり聞いたりしてると、凄く腹が立つの。羨ましいとかじゃないよ? おかしいでしょ? だから友達はいらないの」



「お母さんが私に興味が無いって言うのは……もう、どうしようもないのかな? もしそうだとしたら、諦めるしかないけど……。でも、出来れば私は仲良くしたい。あ、仲良くって言っても、今さらお母さんに甘えるつもりは無いの。行事に参加して、なんてことも言わない。

 ただ時々……本当に、たまにでいいから、一緒にご飯食べたり……その日何があったか話したりするだけでいいの。返事だって、ちょっとでいい。時間も、十分とか、五分とか……短くていい。ほんの少しだけでいいから、私の方を見て、声を聞いて欲しい」



「――それだけ。聞いてくれて、ありがとう」


 言いたいことを全て言えた……かどうかは分からない。

 でもとりあえず、思いつく限りのことは言えたはず。

 目が滲んでいるせいで、画面に映るお母さんがどんな顔をしているのか分からない。もちろん栗原さんと福見先生の顔も分からない。

 少し緊張しながら、涙を拭って画面を見る。

 お母さんの顔は――いつもと変わらなかった。


『――そう』


 さっきと同じ、たった二文字の返事だけど、もう気にならない。

 どうせそうなんじゃないかと、薄々分かっていたから。

 でも栗原さんの涙に報いることは出来たんじゃないかと思う。結果が伴っていない気はするけど、それは仕方ない。相手が相手だから――。


『時々で良いのなら――分かったわ』

「……………………え?」


 分かった、というのは……私の話を聞いてくれる、ということなんだろうか。


『他に何か言いたいことはある?』


 え、ええ……? あるような、無いような。

 考えれば出てくるかもしれないけど、突然のことで驚き過ぎて、何も思い浮かばない。


「あ……え、と……今は……ちょっと、分からない……」

『……まぁ、いいわ。なら今度こそ終了で良いのね?』

「……う……うん……」


 私がカクンと頷くと、お母さんがパソコンの接続を切ろうとして――その手を止めた。


『一華……。一つ、聞いてもいい?』

「っ!? う、うん……何……?」

『一華はさっき、友達はいらないと言っていたけど……じゃあ、栗原さんは?』

「え……」

『あなたのために泣いてくれた栗原さんは、友達じゃないの?』

「栗原、さんは……え、と……」


 ……多分、一般的には友達になるんだと思う。

 でも私の中では違う。

 栗原さんは私なんかのお願いを、しっかり受け止めて、受け入れてくれた。友達なんて言葉ではとても足りない。

 私の大事な、大好きな、ママ――だけど、それは言えないし、むしろそれでも足りない気がする。

 それにママというのはあくまで栗原さんの役割っていうだけ。お母さんが聞いているのは、私が栗原さんをどう思っているか、ということ。

 それなら――。


「……私の……一番、大切な人……?」

『……そう。分かったわ。じゃあね』


     §


 深山さんが静かにノートパソコンを閉じた。

 全てが終わった教室内で聞こえるのは、私の泣く声だけ。多少はマシになっているけど、思った通り涙がまだまだ止まりそうになかった。


「あ……! マ――く、栗原さん……!!」


 席を立った深山さんが私に駆け寄り、ハンカチを顔に当ててくれた。声が出ないので頷きで返事をして、ありがたく借りることにした。まるでいつもとは逆だ。

 なんとか顔を上げて、震える手で深山さんの頭を撫でながら、


「ぁんあっらぇ、っぢゃ……!」


 頑張ったね、いっちゃん――と言おうとしたけど、喉がつっかえすぎて、まともな言葉にならなかった。泣き顔を見せてしまったことも恥ずかしいけど、今のも結構恥ずかしい。

 それでも深山さんには伝わったらしく、泣き笑いのような顔を見せて、いつものように私に抱き着いてきた。すると次の瞬間、


「……っふっぅぅう~~~~~~!!」


 私でも深山さんでもない、子犬の唸り声のような声が聞こえてきた。

 擦り過ぎてヒリヒリと痛む目を声の方に向けると、それまで蚊帳の外状態だった福見先生がまるで漫画のキャラのような勢いで涙を流していた。

 あまりの号泣に私も深山さんも驚き、「っ!?」と息をのんだ。私に至っては止まらないと思っていた涙がショックで止まってしまった。ある意味ありがたいけど……。


「ちょ……ど、どうして先生が泣くんですか……!?」

「ど、どうしても、何も……あんなの見せられたら、誰だって……ぐずっ、うぅ……! ほ、本当に、良かったねぇ、深山さん……! うぅうう……!」

「は、はい……。えぇ、と……?」


 どうすればいいのか分からず、深山さんがおろおろと私と先生の顔を何度も見比べる。


「(と、とにかく……面談は終わりだから……それを言えばいいんじゃないかな……?)」


 私が耳元で囁くと、深山さんも小さな声で「分かった」と答え、


「あの……先生? 面談、終わったので……帰ってもいいでしょうか……?」


 なぜか申し訳なさそうに言う深山さんに対し、福見先生は取り出したティッシュで目元や鼻を拭きながら頷いた。


「そうね……。機材の片付けは、私がやっておくから……深山さんは、帰りなさい……」


 無事に下校の許可を貰い、深山さんがホッとした様子で私を振り返る。私も肩の力を抜いて笑顔を返した。乱入した時は後で絶対怒られると覚悟していたけど、そんなこともなく――。


「でも、栗原さんはちょっと残ってね」

「ア、ハイ」


 そりゃそうだよね。

 他の家庭の面談中に突然乱入し、相手の母親と口論して怒鳴り、あげくわんわん泣き出したんだから。私と深山さんの細かい事情を知らない先生からすれば、怒る以前に、聞かなければならないことだらけのはずだ。


「どうしてあんなことしたのか、ちゃんと説明してもら」

「ま、待ってください……!」


 先生の言葉を遮って、深山さんが私の前に出た。


「ちょ……い、いっちゃん、何を……」

「く、栗原さんは、悪くないんです……! 全部……わ、私のために、してくれたことで……。えっと……この面談の方法も、本当は……栗原さんが、か、考えてくれて……!」


 なぜか微妙につっかえながら、必死に私を擁護する深山さん。お母さんにはあれだけすらすらと言えていたのに……。緊張の糸が切れたのかもしれない。こっちの方が深山さんらしい気もするけど。


「面談の方法って……本当なの?」

「あー……はい……。そういう面談をしてる学校があるって聞いて……。深山さんに提案してみたんですけど……。だからまぁ……結局は私が」

「悪くない!」


 そう叫ぶと、深山さんがくるりと振り向いて私を睨みつけた。

 睨むと言っても、その目は叱られる前のように震えていた。だから全然怖くない。怖いどころか、必死に庇ってくれてることに嬉しくなってしまう。


「いや、でもね? やっぱ常識的には……」

「栗原さんは悪くない! 絶対に!」

「お、落ち着いて? ね? どうどう」


 福見先生は困った様子で私と深山さんのやり取りを眺めていたが、やがて、


「はぁ……」


 とがっくり肩を落とした。


「先生……?」

「もういい、分かった……。いや、本当はよく分からないけど……。とにかく、あなた達の友情に免じて、今回は許してあげます」

「え……いいんですか?」

「もちろん、本当なら反省文だし、場合によっては停学でもおかしくないけど……今回は結果的に上手くいったみたいだから。だけど、もう二度としないこと。分かった?」

「……はい。ありがとうございます。――だってさ、いっちゃん」

「よ……良かったぁ……!」


 深山さんの体から力が抜け、ふらふらと私の方に倒れ込んできた。

 咄嗟に抱き止めると、深山さんは私の肩に顔を埋めぐずぐずと鼻を鳴らし始めた。


「(ありがとう、ママ……)」

「(こちらこそ、いっちゃん)」

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