第六話 声を聞いて 前編

 翌週から、時原高校の三者面談が始まった。

 期間は月、火、水の三日間。通常授業と部活動は、その間は全て無し。生徒側は面談が終われば帰っていいことになっている。面談を受ける生徒は時間までに自分の教室の前に行って待機しておけばいいので、登校時間もバラバラ。

 私と深山さんの面談の日は同じ月曜日だったが、順番は離れていた。

 だから私はその日、朝から深山さんの顔を見ていなかった。


 窓の外の道を、買い物帰りらしい母娘連れが笑い合いながら歩き去っていく。

 その仲睦まじい様子をぼーっと眺めていた私は、その視線をちらりと隣に向けた。

 椅子に置いた通学鞄の上に、スマホが乗っている。画面は真っ暗。電源をオフにしているわけではないので、通知が来ればその表示がされるが――未だ、その様子はなかった。


(……何やってんだろ……?)


 深山さんにメッセージを送ったのが、今朝のこと。いつもなら数分も置かに返事をするはずの深山さんだが、今日に限って何の音沙汰も無い。

 便りが無いのは良い便り、なんてことわざがあるけど――。


(ちゃんと返事があった方が心配しなくて済むんだけどなぁ……)

「――み? 亜由美?」

「――ん? え?」


 名前を呼ばれた途端、一気に現実に引き戻され、周囲の音が耳に入ってきた。

 顔を上げると、お父さんがどこか不安そうに眉を傾けて私を見つめていた。


「な、何?」

「いや、さっきから妙にぼんやりしてるから、どうしたのかと」

「あ……あー、いや……ちょっと考え事を、ね。大したことじゃないから」


 笑って誤魔化してみても、まだ不安そうに「本当かぁ……?」と唸る。

 私のお父さん――栗原美治(よしはる)。

 御年四十歳のサラリーマン。イケメンではないけど、誠実で優しい人柄が滲み出た、初対面の相手でも警戒心を解いてしまう顔をしている。私の顔のつくりはお母さん似だけど、少し太めの眉だけはお父さん譲りだ。

 出張が多いので食生活には気を付けるように、という私やお母さんとの約束を律儀に守っているらしく、中年に入った今でも体形は崩れていない。そこは少し自慢。


「もしかして考え事って……学校のことか?」


 私の面談は、大事な娘の面談だからと意気込んでやってきたお父さんには申し訳なかったが、何の面白みも、先生からの注意も無く、あっさり終了した。

 今は家に帰る途中に、商店街にある喫茶店で一息ついている最中だ。昼のピークを過ぎた時間帯のせいか、私達意外にはお客さんの姿が無かった。


「先生は問題無いって言ってたけど……実は何かあったりするのか?」

「違う違う。本当に平気だって」

「本当かなぁ……? はぁ……もっと色々、時間をかけて亜由美の学校生活を聞いておけば良かった……」

「だから……。心配してるとこ悪いけど、私は基本的には優等生なんだって」

「それは良いことだけど……。でも正直に言うと、実は誰も気付かないところで青春ドラマ的なことをしてるんじゃないか、ってちょっと期待してたんだよなぁ」

「せんでいい、そんな期待」

「腹を割って話そう」

「それ言いたいだけでしょ」


 などとツッコミつつも、心の中では多少動揺していた。

 お父さんが期待するような展開ではないが、深山さんとの関係はある意味ドラマ的と言えなくもない。案外鋭いのか……いや、単に変な期待が当たっただけだろう。


「娘の学校生活には何の問題も無い。それでいいじゃん」

「まぁな。……お母さんもきっと、安心してるよ」


 お父さんが身を乗り出し、ちょっとごつい手で私の頭をくしゃくしゃと撫で回した。


「ちっちゃい子じゃないんだから、やめてってば」

「悪い悪い。……あ、そうだ。亜由美、この後はどうするんだ? もし暇なら一緒に買い物でも行くか? 久しぶりに会ったんだし、欲しい物があるなら買ってやるぞ?」

「んー……別に無いけど?」


 少し冷めかけのカフェオレの残りを飲みながら、もう一度考える。

 欲しい物……うん、特には無いな。


「ほ、本当に無いのか? 服とか、アクセサリーとか……新しいスマホとか」

「掃除とか片付けの手間が増えるから物はあんま増やしたくないし。アクセは付けたりするの鬱陶しいし。スマホだってそもそもそんな使ってないし……。正直、そんな余計な物買うぐらいだったら、その分生活費とか貯蓄に回して欲しい」


 冗談でもなんでもなく、本気でその方がいい。

 私の答えにしばらく目を瞬いていたお父さんは、やがて溜息交じりに頭を振り、


「…………うちの娘がドライすぎる。お父さん、面白くない……」


 などと愚痴を漏らした。なんでだよ。


「浪費する娘よかマシでしょーが。……で、何だっけ、この後?」


 どうしようかなと、私はテーブルに頬杖をついた。

 お父さんと一緒に出掛ける、それ自体は別に嫌じゃない。久しぶりに親子水入らずの時間を過ごすのは、むしろ良いことだろう。

 ただ――『親子』というと、うちよりもっと気になる深山家の親子がいる。他の家庭のことなので私が気にしても仕方ないんだけど……どうしても気になってしまう。

 と、その時、スマホにメッセージの着信通知が表示された。


「……!」


 すぐに手に取りメッセージを開く。そこには、


『大丈夫だよ』


 という、一言だけが記されていた。

 ちなみに私が朝に送ったのは『今日の面談、大丈夫? 終わるまで待ってようか?』という内容だった。それに対して、昼過ぎまで引っ張ってのこの一言。


(大丈夫……とは思えないんだけど……)


 先ほど否定した、便り云々ということわざは、やはり本当なのかもしれない。

 いざこうして返事が来てしまうと、深読みしてますます心配になってしまう。

 スマホの時計で時間を確認すると、もう午後三時近い。深山さんの順番は、今日の最後。今返事が届いたということは、まだ始まっていないということだ。

 もう教室の前で待っているんだろうか? それとも部室か、図書室で時間を潰している? さすがにまだ家にいる、なんてことは無いだろう。

 ただ場所がどこであっても、深山さんが『一人』なのは間違いない。


「あ、亜由美……?」


 深山さんの言葉を信じるか、それとも無視して様子を見に行くか。

 私は暗くなったスマホ画面をコツコツ指先でノックしながら考え――、


「……お父さん、ごめん。先に帰ってて」


 横の椅子に置いていた鞄をひっつかんで席を立った。


「え? お、おい、どこ行くんだ?」

「学校」

 それだけ言うと私は、呆然とするお父さんを残して喫茶店を飛び出した。

 商店街から学校まで全力疾走し――校門が見えた頃には、私の息はすっかり上がっていた。


「つ、っかれた……。まだ……終わって、ないよね……ん?」


 ふらつきながら昇降口で上履きに履き替えていると、階段から降りてくる爽と、その母親の姿が見えた。

「爽、おばさん……」

「ありゃ、亜由美ちゃん?」

「亜由美。どうしたん? そんなに汗かいて」

「いや、ちょっと走ってきて……」

「ふぅん。あ、もしかして今から面談? あたしは今さっき終わったとこだけど」

「深山さん見なかった?」


 爽は私の隣のクラスだ。今面談が終わったのなら、もしかしたら順番待ちの深山さんを見ているかもしれない。そうであれば、面談前に会えるかも。


「深山さん? 私は見てないけど……。今日面談なんだ?」

「うん。でも……」


 校舎内は私が面談を受けていた時よりも静かになっている気がする。各クラスの担任の先生にもよるけど、時間的にそろそろ全ての面談が終わっていてもおかしくはない。


「……まぁ、とにかく一回見に行ってみる。ありがと」

「よく分かんないけど、頑張れー」


 私は爽の応援にお礼を言い、階段を駆け上がった。

 いったんは落ち着きかけた呼吸が、再び乱れ始める。

 自分の教室のある階に辿り着き、廊下を見るが――誰もいなかった。

 間に合わなかったかなと思いながらも、念のために足早に自分のクラスへ向かう。他の教室の前を通る時にちらりと窓から中を見たけど、やはりもう面談は終わっているようで、誰の姿も無かった。


「遅かったかな……?」


 諦めがちらついた途端、歩く速度が一気に下がった。

 ここに来るまでの間にメッセージでも来ていないかとスマホを取り出そうとした、その時、


「――」


 誰かの声が聞こえた。

 かなり小さい声だったけど、周囲が静まり返っているおかげで気づくことが出来た。


「もしかして……」


 急いで自分のクラスへと走り、ドアの窓から中を覗き見ると――いた。


(深山さん……!!)


     § ✿


 私の面談は、開始予定の時刻より一〇分ほど遅れて始まった。

 学校や私の問題ではなく……お母さんの仕事待ちだった。


「本日はお忙しいところ、ありがとうございます」

『――いえ、こちらこそ遅れてしまい申し訳ありません』


 担任の福見先生の挨拶に続き、ノートパソコンの画面の中で、私のお母さん――深山京香(みやまきょうか)がいかにもマナーに沿ったような会釈を返した。

 娘の私から見ても、整っている顔だとは思う。でも同時に、その切れ長の感情の読み取れなない瞳からは、人間的な冷たさが嫌というほど伝わってくる。髪は私と同じで黒いが、お母さんはショートヘア。手入れに時間をかけて、仕事の時間を減らしたくないからだろう。

 仕事の途中だから当然だけど、スーツ姿。テーブルの上で軽く指を組み合わせ、背筋の伸びたその姿は、キャリアウーマンというより、冷徹な政治家を思わせる。


「ではまず、一華さんの学校生活から――」

『結構です』

「――は?」


 福見先生の言葉を、お母さんの一言が遮った。

 その声を聞いた途端、私の肩が勝手にびくりと震えた。

 ちらと視線を上げると、唐突過ぎる拒否に、先生は唖然として固まってしまっていた。ごめんなさい。


「え、えぇと……け、結構、というのは?」

『この後会議がありますので、成績に関することだけ、手短にお願いします』

「あ、は、はぁ……ですが、せっかくの機会ですし」

『申し訳ありませんが』


 また拒絶。先生が頬をひくひくと震わせ、私の方をちらりと見る。

 その目は「深山さんのお母さんはどうなってるの?」と如実に語っていた。

 ……どうせ、こんなことになるんじゃないかとは思っていた。

 お母さんの人生で最も大事なのは仕事だ。

 会社でどれほど重要な役職に就いているかは知らないが、相当偉い人だと言うことは分かっている。だから忙しいのも当然だ。

 それなのに私が栗原さんの気遣いを無駄にしたくなくて、少しの時間でいいからと何度もお願いして、学校側にも頭を下げ、それでようやく今のこの時間がある。

 だから、お母さんが時間を惜しんで話を早く終わらせようとするのは、分かっていたこと。悲しいことなんて無い。

 私が小さく頷くと、福見先生も仕方ないといった風に肩を落とした。


「……では、そのように……。成績ですが、特に問題はありません。体育が少し苦手のようですが、他は学年トップです。授業態度も非常に真面目ですし……今後もこの調子で頑張ってもらえばと……」

『そうですか。分かりました』

「まだ一年生ですが……し、進路に関してはどのように……?」

『本人の意思に任せます』


 お母さんが私を見た、気がした。

 何か言おうと思って、口を開きかけて、結局頷くしかできなかった。

 自由にさせると言った以上、私が何を言っても同じだろう。

 端から私に興味が無いんだから、それも当然だ。


「えぇと……では、何か学校側へ質問などは」

『ありません』

「な、無い、ですか? 生活態度や部活動のことなど……」

『ありません』


 これ以上ないほどきっぱりと言い切ったお母さんに、先生もさすがに絶句する。


「え、え~、と……。では、深山さんの方から、何か話しておきたいことはある? どんなことでも良いけど……相談とか」

「……」


 相談するにしても、何を言えばいいのか分からない。家庭のことを言っても、学校や先生にはどうすることも出来ないし。学校生活にだって、栗原さんとのことは誰にも秘密だからそもそも言えないし、言う気も無い。

 それでも、私は何か言わないといけない。

 今までずっと、お母さんとの会話は、どうせ無理だと諦めていた。何を話しても聞いてくれるわけがない、と。

 今だって、聞いてくれるとは思わない。五分も経たずに面談を終えようとするくらいだし。

 だけど、それはお母さんの理由であって、私が話さない理由にはならない。

 そして今、こうしてお母さんが、画面越しとはいえ目の前にいる。

 このチャンスも、この勇気も、栗原さんに貰ったもの。だから、頑張る。

 どんなことでもいい、なら――。


「お……お母さん? 私……家庭科部に、入った」

『そう』


 その返事を聞いた瞬間、喉の奥がきゅうっと苦しくなった。

 普通なら、せめてもう一文字、「で?」くらいあるんじゃないのかな。

 そう言ってくれれば、私も家庭科部でどんな活動をしているとか言えるのに。でもお母さんの言葉には続きが無い。

 たった二文字なのに、はっきりとお母さんの気持ちが――私の話になんて一片の興味も無いというのが、これ以上ないほど伝わってきた。

 ……強引にでも部活のことを話せば、一応は聞いてくれるかな? でもそれは、聞くというより、ただ流れてくる情報として耳に入れるだけのこと。それ以上でも以下でもない。きっと今の私の話も、この面談が終わった瞬間に忘れるんだろう。

 もう一言だけ、と思うのに、勇気が出なかった。

 先の二文字が、もうそれ以上無駄話をするなと、私の喉を詰まらせる。

 それでもなんとか口を開いて、


「……それ、だけ」


 その四文字だけが出てきた。

 でも涙は出なかった。

 数秒の沈黙の後、先生も諦めの表情でわずかに肩を落とした。


「……では、以上ですね……。本日はあり――」


 先生が面談を終了させようとした瞬間、教室のドアが壊れそうな勢いで開き、そこには


「ちょっといいですかねぇぇええ!?」


 鬼のような形相をした、栗原さんがいた。

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