第五話 ごめんなさいと、少しの勇気 後編
「ど、どう、ママ……?」
「あ~……きもちぃ~……」
深山さんが額に乗せてくれた濡れタオルの心地良さに、顔の力が抜けた。
ふと見ると、ベッドわきから私を覗き込む深山さんの顔は、これ以上ないくらい『心配』という気持ちに満ちていた。
「……そんなに心配しなくても大丈夫だって」
「で、でも……また私のせいで、ママの熱が……」
「いやいや……いっちゃんのせいじゃないから。ただ単に私がまだ治ってなかっただけ……」
無事に仲直りした後、私達は途中だった食事を再開させた。
そこまでは良かったのだが、食後の薬を飲んで少しすると私は再び熱を出してしまい、こうしてベッドの中に逆戻りになってしまった。まぁ、深山さんを泣かせた罰と思っておこう。
薬の副作用で眠くなり、深山さんには帰っていいよと告げたが断固として拒否された。おまけに私の看病をすると言ってきかなかった。……ちなみに、誰かの看病をすること自体が初めてらしい。そうじゃないかなとは思ったけど。
「ママ、他に何か、してほしいことある? 何でも言ってね」
「ん……ありがとう、いっちゃん……。でも大丈夫……」
実際、してもらうことと言えば、濡れタオルを時々交換してもらうことぐらいだ。だから次に私が目覚めるまで退屈にさせてしまう。それがむしろ心配だ。
「あ、そうだ。前にママが歌ってくれたみたいに、子守唄とか」
「いいってば……」
欠伸をかみ殺しながら遠慮すると、深山さんの頬が不満そうに膨れた。そんな可愛い顔をされても困る。深山さんの歌声は、またの機会に聞かせてもらおう。
「気持ちだけで十分だよ……」
「じゃ、じゃあ……せめて、手だけ……」
深山さんの手がシーツの下に潜り込んできた。
細く長いたおやかな指が、私の手をしっかりと包み込む。
「これならいいでしょ?」
「……はいはい」
諦めて許し、目を閉じる。
深山さんも私が眠るのを邪魔しないように、それ以上何も話しかけてこなかった。
静まり返った部屋の中、私と深山さんの少しずれた呼吸音だけが聞こえる。
心地よい空間、懐かしい感触。これならすぐに眠れそう――。
(……? 懐かしい……?)
徐々に蕩け始めた頭に浮かんだその感覚に疑問を覚え、私の意識はまた浮上し始めた。
懐かしい? 何が?
……誰かに、看病してもらうのが……?
そんなことありえない。
過去に体調を崩したのは、たった一回。小学六年の時だ。
お母さんのこともあって、小さい頃から一人で過ごすことが多かった私は、体調管理には特に気を付けていた。お母さんが死んで、お父さんの出張も増え、一人で過ごすことが増えた子供の身としては、当然の注意だ。
そして小六の冬。その時は風邪が流行っていた。
学級閉鎖になるぐらい蔓延し、私もそれに罹ってしまった。
親戚は遠くにしかいないし、お父さんは出張に行っていたので、やっぱり私が自分でどうにかするしかなかった。学校へ連絡し、病院に行き、食事を用意する。それら全部を一人でやって夜にベッドに入った時は、無性に寂しかったことを覚えている。
後にそれを知ったお父さんは、私の方が恐縮するほど謝ってきた。実の娘に本気で平謝りする父を前に、二度と体は壊すまいと自分に誓った。
(あれから風邪ひいたことも無いし……看病が懐かしいなんて……?)
何かと勘違いしているだけかもしれないし、思い出せないほど細かいことなんて気にせず眠ればいいんだけど……頭の中の何かが、それを妙に拒んでいる。
「……? どうしたの、ママ?」
私の異変に気付いた深山さんが、囁くような声で言い、繋いだ手にきゅっと力を――。
「あ」
唐突に懐かしさの正体を思い出し、私は思わず閉じていた目を開いた。
「ママ……?」
「そうだ……お母さんだ……」
「え?」
私の呟きに、深山さんの心配顔が一転して不思議そうなものに変わる。
「ああ、ごめんね……。お母さんのこと思い出しちゃって」
「お母さんって……ママの……?」
「うん。……幼稚園の……いつだったかまでは覚えてないけど……私が熱出しちゃったことがあって……。お母さんが看病してくれた……」
十年以上前だし、ここに引っ越す前のことだから、すっかり忘れていた。
それでも一度思い出すと、おぼろげだった記憶が次第に色づき、鮮明な映像になって頭の中に広がっていく。
私を覗き込む心配そうな顔。
その頃私が好きだった女児向けアニメのタオルを濡らして頭や体を拭ってくれたこと。
細かく刻んだシロップ漬けの桃を少しずつ食べさせてくれたこと。
妙に美味しい小児用の薬をおかわりしようとして駄目と言われたこと。
なぜか眠るのが怖くなって泣き出した私の手をずっと握ってくれていたこと。
今まですっかり忘れていたそれらを、深山さんのおかげで思い出すことが出来た。
――同時に、自分の気持ちも思い出した。
全て一人でやるようになった時の『寂しさ』を。
お母さんに看病してもらった時の『嬉しさ』を。
久しぶりに熱を出して、今まで通り一人で過ごすことになって、それを当たり前と思いながらも心のどこかで『寂しい』と感じていた。
絶対に来るはずが無いと思っていた深山さんがお見舞いに来てくれて、こうして看病までしてくれて『嬉しい』と感じている。
そしてそれは今日の、看病のことだけじゃない。
本当はずっと、寂しかったんだ。
でも深山さんと二人で過ごすようになって、ずっと嬉しかったんだ。
(慣れちゃったし……平気だって思ってたんだけどなぁ……)
「……深山さん」
「な、何……?」
「ありがとう」
「……え? う、うん……」
深山さんは突然の感謝に戸惑っているようだった。そりゃそうだろう。
なぜお礼を言われたのか、理由を教えてほしそうな目をしていたけど、教えない。
いくら熱を出して弱っているとはいえ、この気持ちを口に出して言うのは恥ずかし過ぎる。
だから――私が深山さんに言えるのはこれぐらい。
「……いっちゃん。次のお弁当のおかず、何がいい?」
「え? お弁当って……い、今?」
「ん、今」
「急に言われても……。ええっと……じゃあ……え、エビフライ、とか?」
「いいよ、分かった……。おっきいの作ってあげるね……。おやすみ……」
「う、うん……おやすみ、ママ」
目を閉じて繋いだ手を少し握ると、深山さんも私と同じように握り返してくれた。
ありがとう、深山さん。よく眠れそうだよ。
§ ✿
熱で少し火照っている寝顔を見ながら、私は先ほどの質問の理由を考えていた。
どうして急にお弁当のことなんて聞いたんだろう?
今は私のことなんてどうでもいい。私なんかより、自分のことを優先して欲しい。もちろん嬉しかったけど。
「ん……」
栗原さんの首が少し傾き、額に乗せていた濡れタオルが落ちた。すぐに拾ってみると、少しぬるくなっていた。握っていた手をそっと離してキッチンに向かい、冷水で濡らした。
部屋に戻って栗原さんの額に乗せると、苦しげだった顔がほんの僅かに緩んだ。
さっき、栗原さんは自分が悪いと言って、私に謝ってくれた。
「……そんなわけないのに」
悪いのは、全部私だ。栗原さんは何も悪くない。
他人の家の三者面談の方法なんて、本当なら考える必要なんて微塵も無い。それなのに栗原さんは考えてくれた。それはきっと、私とお母さんの関係を気にしてのことだろう。それに対して酷いことを言った私が、悪くないはずがない。
それなのに栗原さんは私を許してくれた。
またママに戻って、私を『いっちゃん』と呼んでくれた。
そして私のことを『好き』だと言ってくれた。
心の底から嬉しかった。生まれてから今までの間で、一番嬉しかった。
「……私も好き……。ママ、大好き……」
「ぅぅ……」
「っ……!?」
心臓が飛び出るかと思うほどドクンと跳ね、私は思わず息をのんだ。
「お、起きて、ないよね……?」
少し顔を覗き込み完全に眠っていることを確認すると、ホッとしてため息が漏れた。
……? 安心した? どうして? ママに対して大好きなんていつも言っていたはず。それなのに私は、今のを聞かれてなくて良かったと思っている。
「……と、とにかく」
分からないことを考えても仕方ないので、思考を別のことに向けた。
栗原さんにお返しがしたい。
こんなお見舞いじゃなく、もっと栗原さんが喜んでくれるようなお礼が。
お礼のアイデアに繋がりそうな物は無いかと、失礼を承知で室内を見回した。
以前、お泊りした時に初めて見たが、栗原さんの部屋には物が無い。あるにはあるが、それは日常生活と勉強に必要な物が、必要最小限置かれているだけ。写真やぬいぐるみ、調度品といった彩りがまるで見当たらない。
それでも細かく室内を観察し――ふと、ある物に気付いた。
勉強机の片隅に、参考書やペン立ての陰に隠れて、何かが置かれている。
心の中で栗原さんに謝り机に近づくと、それが小さな写真立てだと分かった。
映っているのは、優しそうに笑っている大人の女性。
栗原さんのお母さんだというのは、すぐに分かった。
「……よく似てる」
以前栗原さんは、お母さん関係の物は全てお父さんの部屋にある、と言っていた。
お母さんのことを話す時もなぜか淡々としていたから、思い出すのが辛いのかなと思っていたけど、そうではなかったらしい。
……というか、それが普通なんだろうな。
私の家みたいに冷めきっている方が、世間から見れば少数派なんだと思う。一年に一度喋るかどうかの関係なんて。
きっと不良の人達でも、親と口喧嘩くらいはすると思う。うちはそれも無い。
「…………あ」
その時、それこそが、栗原さんへのお礼になるんじゃないかと閃いた。
栗原さんは私のことを思って、リモート面談という提案をしてくれた。お節介だと分かっていながらも、私のために考えてくれたんだ。
それなら私がその気持ちに応えてあげれば、お礼になるんじゃないかな……。
私は栗原さんを起こさないようリビングへ出ると、ソファーに置いていた自分の鞄の中からスマホを取り出した。アドレス帳を開く。登録している連絡先は数えるほどしかない。
だから『母』の一文字は、すぐに見つかった――。
§
「え!?」
二日後の昼休み――。
無事に快復して登校した私は、部室で深山さんとお弁当を食べている時、彼女から衝撃的な事実を告げられた。
「リモートがオッケーって……本当に!?」
「うん、本当。先生にお願いしてみたら、学校側も導入を考えてたらしくて……。私の家の事情も言ったら、一度やってみようって……」
ということは、今回深山さんの面談が成功すれば、次からは正式に取り入れられるかもしれないわけだ。自分の案が学校を動かす切っ掛けになるかもと考えると、少し興奮する。正確には私じゃなくて、爽切っ掛けだけど……。
「じゃあ、てことは、お母さんもオッケーしてくれたんだ?」
「う、うん……。今回だけでもいいからって、何度もお願いしてたら……」
自分のスマホを取り出した深山さんが、そのやり取りの画面を私に見せてくれた。
(……うわ、これはまた……)
アプリの画面に表示されているメッセージ、その九割九分が深山さんからのものだった。面談の日時や時間の枠などを伝えて、希望枠を聞いているが、返事が全然無い。既読にはなっているけど完全にスルー。でも根負けしたのか、最後の最後に一言だけ、『月曜日、順番は最後。それ以外は無理』という返事があった。
(……なるほど)
深山さんのお母さんがどんな人なのかと思ってたけど……このやり取りを見ただけで、何となく想像がついてしまった。
甘えたい盛りの小さい頃からこんな関係が続いていたのなら、深山さんが今みたいに理想のママを求めてしまうのも納得だ。
「……よく頑張ったね、いっちゃん。偉いよ、本当」
頭を撫でてあげると、深山さんは一瞬驚いた顔を見せたが、すぐに「えへへ♪」と嬉しそうに相好を崩した。
きっとかなり勇気を出したんだろう。でも、それならいっそ――。
「……よし」
「……ママ?」
「あのさ、いっちゃん。面談の時に頑張って、お母さんと少しでもお話してみようよ。内容はどんなことでもいいから。ね?」
私の提案を聞いた途端、深山さんの顔が曇った。
絶対に無理だと思っていた相手を、どうにか土俵まで引っ張り上げたんだから、あともう少しだけ勇気を出してほしい。そのために私が出来ることは――。
「それが出来たら、私が何かご褒美あげるから」
「……ご褒美……?」
「うん。だから……どうかな?」
深山さんは怯えた様子で目を伏せていたが、やがて小さく、しかしはっきりと頷いた。
「……ママが、言うなら……頑張ってみる……」
「さすが、いっちゃん! 応援してるからね!」
「うん……ありがとう、ママ……♪」
そう言った時の深山さんの顔には、わずかながらも勇気と自信があった――。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます