第四話 悩んで、話して、ケンカして 前編

「ママ、今日の夕ご飯なぁに?」

「んー、まだ考え中」

「私、シチューがいい♪」


 買い物かごを乗せたカートを押していた深山さんが言う。

 シチューか……。悪くはないけど、あれだけだとあんまり食べた気にならないのが難点なんだよね。

 土日月を挟んで、火曜日の放課後。

 家庭科部の活動が休みの今日、私は深山さんと一緒に近所のスーパーを訪れていた。

 近所、と言っても商店街とは反対方向だし、多少距離もある。しかし今日は火曜市という安売りの日なので、お買い得品を買いに来たのだ。商店街の人たち、ごめんなさい。


「肉……は入れずに、野菜たっぷりのクリームシチューにでもしよっかな」

「私も頑張ってお料理手伝う」

「お、偉いね。いっちゃん」

「うん――っ!?」


 深山さんが頷いてカートを押した瞬間、その前を幼稚園の制服を着た女の子が横切った。


「危ない!」


 咄嗟に深山さんの手を掴んで動きを止める。

 女の子はこちらを全く気にする様子もなく、奥のお菓子コーナーへと走り去っていった。

 少し遅れて、女の子の母親らしき女性が「走らないの!」と言いながらその後を追って行った。子供を注意するのは大事だけど、こっちに言うことは無いんですかね、お母さま?


「びっくりしたぁ……。ありがとう、ママ」

「まったく……。いっちゃんはああいうことしちゃ駄目だからね」

「うん、分かってる。……というか、さすがにしないから」


 そりゃそうか。いくら深山さんがいっちゃんモードとはいえ、実年齢は私と同じ十六歳だ。それがもしスーパーを走り回っていたら、注意より先に通報されてしまいそう。


「まぁ、それはしないとしても……。いっちゃん、あれ買ってこれ買って、とかも言わないよね? 食費とかはちゃんと貰ってるんだし、少しは言ってもいいよ?」

「う、う~ん……。あんまり、ママが困るようなことは……。それに、人目が……」


 困ったような、恥ずかしいような――それでいて、実はちょっとやってみたそうな表情を浮かべ、深山さんが周囲を見回した。


「……あ、でもそっか。そうなると完全にそういうプレイになるのかな……?」

「プレイ?」

「ん、何が? あ、野菜はあっちね」


 私は何も言わなかったことにして、深山さんの背を押して青果コーナーへ向かった。

 駄々はともかく、最近の深山さんは学校外では、人前でも私のことを当たり前にママと呼ぶようになった。最初こそそれはまずいのではと思ったが、これが意外と大丈夫だった。

 なぜなら、ただのあだ名だと勘違いされるからだ。

 私が深山さんのママをやっている、とは思わないらしい。……当たり前か。


「ねぇ、ママ? 今日もおうちに泊まっても――」

「だ~め。明日だって学校あるでしょ。夕ご飯だけで我慢しなさい」

「うぅ……は~い……」


 深山さんがしょんぼりと肩を落とした、その時だった。


「亜由美……と、深山さん?」

「「っ……!?」」


 唐突に横の通路から名前を呼ばれ、私と深山さんの足が止まった。二人同時に背筋が面白いほどピンと伸びる。

 動揺したそぶりをは出さず、あくまで自然に声の方を振り向くと、そこには全身から健康的な空気を漂わせる、ボーイッシュな私の友人――周防爽がいた。


「な……なんだ、爽かぁ」

「……? すんごい緊張してない? 二人とも汗出てるよ?」


「ああ、いや、別になんでも……。というか、爽。どうしてここにいるの? 水泳部は?」

「ああ、今日プールの設備点検があるから休みなんだよね。遊ぶ予定も無かったし、まっすぐ帰ってのんびりしよっかなー、って思ってたんだけど、急にアイスが食べたくなって」


 ああ、だから冷凍コーナーに……。

 爽の前の冷凍ケースには、多種多様なアイスがずらりと並んでいる。

 どうしてコンビニに行かないんだ……って、そういえば、このスーパーから爽の家って結構近いんだった。それにコンビニよりスーパーの方が多少安いし。

 深山さんは大丈夫かと、ちらりと目を向ける。既にいっちゃんモードから深山一華モードへと切り替わり、クールな顔つきになっていた。しかし、まだ爽のことを良く思っていないからなのか、爽を見る目に若干鋭さがあった。


「んで? 二人はどうして一緒にいるの?」


 深山さんが家庭科部に入部していることは爽も知っている。ならば、それを利用して言い訳を用意するしかない……!!


「えーっと……家庭科部も今日は休みだったんだけど、深山さんが料理を教えて欲しいって……だから、うちでやろうかって話になって……。ねぇ?」


 最後の「ねぇ?」は爽ではなく、深山さんに向けた一言だった。

 もちろん、話を合わせて、というアイコンタクト込みで。

 私の考えは通じたらしく、深山さんが無言のままコクコクと頷く。


「ふぅん……。最近二人の仲が良いって話は聞いてたけど、本当だったんだ。亜由美が誰かを家に呼ぶなんて、珍しい」

「そ、そうかな? 爽だって来たことあるでしょ」

「そりゃあるけど……。あ、ならあたしも行っていい? ちょうど暇だし♪」


 爽がにっこり笑って自分の顔を指す。そこに悪気は一切感じられない。

 私としては、特に問題は無い。ただ深山さん的には大問題だろう。

 そして案の定――。


「嫌」


 私が口を開くよりも先に、反射的な勢いで深山さんが爽の申し出を却下していた。


「え……い、嫌、って……」

「ちょ、いっち――深山さん……!」


 深山さんの反応を予想していなかったのだろう。爽の目が点になっている。

 私が軽く肩を叩くと、深山さんは我に返った様子でハッと目を丸くした。そして私と爽の顔を見比べ、叱られた子供のように項垂れた。


「……ごめんなさい」

「あ、いや……うん……?」


 リアクションに困った爽が、正解を求めるように私を見る。

 私も正解など分からないが……とりあえず何か誤魔化す必要がある。


「あー……ほ、ほら、さっき言ったでしょ? 料理するって! 深山さん、まだ全然下手だからさ。私以外の前で練習するのが、恥ずかしいんじゃないかな!?」

「別にそれぐらい気にしないけど……?」


 知ってる。爽は他人の技術の上手下手を弄ってからかうような性格じゃない。


「う、うーん! 気にするかしないかは、深山さんなわけだしさ! す、水泳部にだって、人前で泳ぐと緊張する、無理っ! って人いるでしょ!?」

「……そんな人、まず入部しないと思うよ?」


 うん、私も言っててそう思った。

 しかし爽は焦る私と俯く深山さんを見て、軽く肩を竦めた。


「……ま、いいや。深山さんが緊張するって言うなら、今回は遠慮しとくよ」

「ご、ごめん、爽……。ありがとう」

「いいって。あ、でも今ここで別れるのもあれだし、買い物は一緒でもいい?」

「も、もちろんもちろん! 深山さんも、いいよね!?」


 深山さんはわずかに顔を上げると、小さく会釈するように頷いた。OKの意味なのか、それともさっきの態度の謝罪なのか、どっちなんだろう。というか、むしろ謝んなさい。

 私が背中を押して促すと、深山さんがカートを押して歩き始めた。その横を、私、爽の順で並んで通路を進む。あまり横に広がり過ぎると他のお客さんに迷惑だが、幸いこの店は通路が広いので、そこは問題ない。

 その後、しばらくの間、私と爽ばかりが話し続けていた。

 私の好きなバラエティ番組のこと。爽が注目しているスポーツ選手のこと。学校の先生や友達のこと。クラスメイトのこと。同級生の彼氏彼女の噂話等々、テーマも、しばりも、とりとめも無い会話。

 深山さんが口を開くこともあった。でもそれは会話に混ざるわけではなく、シチューの材料について「これでいいの?」とか、「他に買うのは?」など、ただ私に聞いただけ。結局、爽には話しかけなかった。

 必要な食材を全てかごに入れ、最後に再び冷凍食品コーナーに戻り、爽の目的であるアイスを選ぶ。ついでに私と深山さんのアイスも買うことにして、レジで精算。

 合計金額を払おうとしていると、


「あ。そういや、亜由美。あれっていつになった?」


 先にアイスの会計を済ませて待っていた爽が、思い出したように口を開いた。


「ん? あれって?」

「ほら、あれ。再来週の。学校のやつ」

「……何かあったっけ?」


 深山さんを見るが、こちらもやはり分からないらしく、小首を傾げていた。


「あれだよあれ――三者面談」


     §


 私のスマホが鳴ったのは、夕ご飯を終え、いつものように深山さんに膝枕をしてあげながら、テレビを眺めていた時だった。


「ちょーっとごめんね」


 膝の上の深山さんに断りを入れてから、テーブルに手を伸ばしてスマホを手に取る。

 画面に表示されていたのは、メッセージアプリの着信通知。発信者はお父さんだった。その内容は――。


「え……本当に!?」

「ひゃっ……!? び、びっくりした……! どうしたの、ママ?」

「あ、ごめん、いっちゃん。……いやぁ、ちょっと驚いちゃってね。ほら」


 私はお父さんからのメッセージが表示されたスマホ画面を深山さんに向けた。


「爽が言ってたでしょ? 来週の三者面談。さっき、お父さんに連絡しておいたんだけどさ。そしたら、ちょうどその辺りで時間が空くから、少しだけ戻って来れるって」


 私は社会人じゃないからよく知らないが、いくら娘の学校で面談があるからといって、普通は出張先からそう簡単に戻ってくることなど無いはずだ。

 それなのに、少し余裕があるからといって時間をかけて戻ってくるとは……。フットワークが軽過ぎる。ありがたいのは確かだが、それでいいのか父よ、と思わなくもない。仕事に支障が出ないならいいんだけど。


「とりあえずお父さんがこっちに来られる日で、面談の日程提出しようっと」


 後で面談の希望日程を記入する用紙を探しておかないと。

 爽に言われて思い出したのだが、先週の金曜――深山さんがうちに泊まった日、学校から件の用紙が配られていた。私も当然貰っていたのだが、すっかり忘れていたのだ。


「あの紙どこにやったかなー? 鞄の中に入ってればいいけど」


 出した覚えが無いから入っているはずだ。もしぐしゃぐしゃになっていたら、明日先生にもう一枚貰おう。


「――良かったね、ママ」

「うん。……?」


 思わず頷いた後で、深山さんの声がやけに平坦なことに気が付いた。

 いっちゃんモードの深山さんはもっと甘えるような口調のはず。それ以外の、普通の深山さんの時は、その外見通りの落ち着いた喋り方をする。

 しかし今の深山さんの口調は、当然前者ではなく、かといって後者とも違っていた。

 まるで興味の無い映画への感想を求められ、仕方なくテンプレ的な感想を発しただけ、のような……。


「……いっちゃん、どうかした?」

「うぅん。どうもしないよ」


 見下ろす私と、見上げる深山さんの視線が、真っ直ぐにぶつかる。

 一見すると、嘘をついているようには思えない目だけど……。


「いっちゃ~ん? 嘘は駄目だよ?」


 私が深山さんの形の良い鼻先を軽く摘まむと、その下の口から「ぅにっ」と可愛らしい声が漏れた。


「どしたの、いっちゃん、怒ってるの? 言ってごらん」

「怒ってないもん。……本当に……怒ってるんじゃないから」


 口調や視線から、どうやら今度は本当らしいと分かった。

 ただ怒っているわけじゃとなると、逆にその感情が分からなくなる。

 つい先ほどまでは普通にしていたわけだから、間違いなく直近の私の行動が原因のはず。でも私が何をした? お父さんからのメッセージを深山さんに――あ。

 そこまで考えないと気づかないなんて、私は馬鹿か。

 今こうして、深山さんが私にママ役を求めていること、それ自体が原因じゃないか。


「あ……えっと……いっちゃんちは、どうするの? さすがにその日ぐらいは――」

「来ない」


 まるでそれが世界の常識であるかのように、きっぱりと言い切る深山さん。その口調の強さに、私は続く言葉を飲み込んでしまった。

 いくらこんな変な母娘ごっこをする関係になったとはいえ、結局は友達同士。もっと言えば他人だ。大人でもない、ただの高校生の私が他の家庭事情に首を突っ込むべきじゃない。

 でも――。


「き……聞いてみたの?」

「聞かなくても分かる。今までお母さんが学校に来たことないから」

「一度も……? それ、どうしてたの?」

「私と先生だけで話してた。……進路関係のことは、話した内容をまとめて紙に書いて、お母さんの部屋のドアに張り付けておけば、勝手に見てくれてた。……特に反応は無かったけど」


 私も今まさに反応に困っていた。

 やっぱり聞くべきではなかったという後悔と、やっと聞くことが出来たという安堵。二つの気持ちが胸の中で混ざり合い、どっちの感情を優先すればいいのか分からない。

 しかし深山さんの母親が、まさかそこまで娘に無関心だなんて。私のお父さんとはずいぶん違う、というか真逆だ。


「――ごめんなさい、ママ」


 不意に、深山さんがぽつりと呟いた。


「ん!? え、な、何が? どうしていっちゃんが謝るの?」

「だってママ、私のせいで困ってるもん」

「っ……。いっちゃんのせいじゃないよ。聞いちゃった私が悪いんだから。いっちゃんにも嫌なこと言わせちゃった。……ごめんね」


 深山さんが私の膝の上で、静かに首を振る。


「ママは気にしなくていいの。私の家は、今言ったことが普通だから」


 ……要約すれば、栗原さんには関係ない、うちはうちだから……ということ。

 きっと世の中的には、深山さんの言っていることの方が正しい。深山家の家庭環境が普通とは思えないが、私には何も出来ない。少年少女が活躍して、あらゆる問題をバシッと解決して大団円なんて、漫画やアニメの中だけの出来事だ。

 でも、だからって。

 そんなに寂しそうな、諦めきった笑い方をしてほしくない。

 そんな顔を見たら、どうにかしてあげたいと思ってしまうじゃないか。

 これでも私は、いっちゃんのママなんだから。

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