第三話 初めてのお泊り 後編

「もうこんな時間かぁ……。そろそろ寝よっか、いっちゃん」


 私は壁の時計で時間を確認すると、テレビを消し、膝枕をしていた深山さんのおでこをぽんと叩いた。

 現在時刻は夜の十一時。あの後、完成したカレーを食べ終え、既にお風呂も済ませている。

 深山さんは私と一緒に入りたがっていたが、さすがにそれだけは断固としてお断りした。女同士でも恥ずかしいという気持ちはある。まぁ、それよりなにより、深山さんの完璧なボディと自分の平凡な体を見比べて、悲しい気持ちになりたくなかったというのが大きいけど。

 ちなみに、深山さんは寝巻までは持ってきていなかったので、私のシャツとホットパンツを着てもらっている。……サイズが合っていないので、胸が苦しそうとか、太腿が際どい位置まで見えてて色気が半端ないとか、そういうのはすべてスルーしている。


「ほ~ら。いっちゃん、ちょっと起きて」

「うぅ……やぁだ~……。まだ眠くないもん……」


 などと言いながらも、深山さんの目はすでに半分閉じかけていた。ついでに言えば、こっそり欠伸もかみ殺していたりする。めちゃくちゃ眠そうじゃないか。


「嘘つくのは、ママ感心しないな~?」

「嘘じゃないぃ~……」


 目尻に涙を浮かべた深山さんが、ぷくっと頬を膨らませる。それは膝枕を中断させられたからか、それとも自分の言葉を信じてもらえないからなのか。たぶん両方だろう。

 私は弱々しい駄々をこねる深山さんの頭を撫でてなだめると、自分の部屋に入り、さてどうしようかと考えた。

 残念ながら、うちにはお客さんが使う布団という物が無い。これまでうちで友人とお泊り会をしたことも無ければ、遠くから来た親類を泊めたことなども無い。

 そもそもお母さんが死んでここに引っ越した時、自分と父の荷物――そして母の思い出の品以外は、ほぼほぼ処分したのだ。


「ま、普通に考えれば、私が床で寝れば済む話だよね」


 クローゼットを開けて、一番大きなカラーボックスを引っ張り出す。大きめのタオルケットや毛布があったはずなので、それで体を包めば床で寝ても風邪をひくことは無いだろう。


「……ママ?」

「ん? いっちゃん、どうしたの? あ、寝る前に歯磨きしなきゃ駄目だよ」


 突然の声に振り向けば、半分ほど開いた部屋のドアから深山さん覗いていた。一応、新品の歯ブラシを出しておいたので、それを使って、とさっき言っておいたんだけどな。


「あ、あのね、あのね……。ちょっと、お願いが……」

「お願いって?」

「……ママといっしょに寝たら駄目……?」


 深山さんが遠慮がちにベッドを指差した。

 ……ああ……うん、まあ、そっか……。ママと娘が一緒に寝るのは普通のことだよね。

 でも、深山さんと一緒に寝る、か……。これはまた、ハードルが……。


「お風呂は我慢したけど……寝るのはママと一緒がいいな、って……」


 空腹で助けを求めて近づいてくる野良子猫のような瞳で、深山さんが私を見つめる。実際そんな猫に出会ったことは無いけど、そんな感じの目だ。

 状況だけを言えば、女友達を家に泊め、寝る場所が無いから一緒のベッドで寝る。ただそれだけのことだ。経験は無いけど……。

 やましいことをするわけじゃないし、お風呂みたいに裸を見られるわけじゃない。だから一緒に寝るくらいなら、嫌というわけではない。

 ないんだけど……。


「……でも、あれだよ? ママのベッドはシングルだから狭いんだけど……」

「だ、大丈夫……! 私、寝ててもあんまり動かないから」

「……今の時期でも、くっついて寝ると、暑いかも……」

「それも平気。あったかい方が好きだから……」

「……そっか」


 他に何か断る方便はあるだろうか……いや、無い、か。

 深山さんと、自分のベッドと、引っ張り出しかけたカラーボックスをそれぞれ見比べ――溜息をついてカラーボックスをクローゼットに押し戻した。


「……仕方ないなぁ」

「やった……ありがとう、ママ♪」

「喜ぶのはいいから、歯磨きしてきなさい」

「は~い♪ ママもすぐ来てね♪」


 スキップでもしそうな笑顔で頷くと、深山さんの顔がドアの向こうに引っ込んだ。

 その後、私も深山さんの後を追って、洗面所で並んで歯磨きを済ませた。各部屋の電気を消して一緒に私の部屋へ戻る。その間、深山さんはずっとニコニコしていた。

 ――ママと一緒に寝るのって、そんなに嬉しいものなのかな。

 病弱だったお母さんと一緒に寝た記憶が無いので、私にはよく分からなかった。


「じゃあ、いっちゃんが先にベッドに入って。ママ、その後に入るから」

「どうして?」

「ベッドが小さいから。いっちゃんが外側だと、落ちちゃうかもしれないし」

「あぁ、そっかぁ。ママ優しい~♪」


 もそもそとベッドに潜り込んだ深山さんが、シーツの端から無邪気でやわらかな笑みを向けてくる。ふと、最初に話した保健室での光景を思い出した。


(あの時は、まさかこんな関係になるとは思ってなかった……)

「ママ?」

「何でもない。電気消すよ。真っ暗でも大丈夫?」

「……ちょっと怖いけど、ママが一緒だから平気♪」


 その可愛い一言についつい笑ってしまい、私は常夜灯だけを残して電気を消した。

 弱いオレンジの光が室内を包む。変にムードが出てしまった感じもするが、気にしないふりをしてベッドに入った。


「……あったかい」


 深山さんの体温が高いのか、いつもは冷たいシーツの中がほんのり温い。やけに安心する心地に、自然と欠伸が漏れた。と、その直後――。


「っ……!?」


 深山さんがシーツの中で、私に抱き着いてきた。

 さすがに驚いてしまい、体が硬直する。


「い、いっちゃん……!? 駄目でしょ、いきなりぎゅってしちゃ……びっくりしたぁ……」

「あ……ごめんなさい」


 私が裏返りそうな声で言うと、深山さんは案外素直に謝った。しかしハグをやめるかやめまいか迷っていたので、仕方なく「そのままでいいよ」と許してあげた。


「ありがとう、ママ……」


 深山さんは安心したように小さく吐息を漏らすと、


「ママ――栗原さん。聞いてもいい……?」

「……?」


 二人きりなのに急に名前で呼ばれ、一瞬戸惑ってしまった。

 不思議に思い深山さんの方に目を向けると、なぜかいつになく真剣な様子で私のことを見つめていた。これは――。


「いっちゃ……深山さん?」

「……どうして私に、ここまでしてくれるの?」


 ……急に何を言い出すんだろうか、この人は。どうしても何も、


「……深山さんにお願いされたからでしょ。ママになって、って」

「そうだけど……」

「それに家庭科部のことだってあるしね。あんな脅しをしておいて、今さら言う?」


 わざとチクリと責めるような口調で私が言うと、深山さんが「それ」と返した。


「確かに家庭科部を利用したけど……でも、あんなの脅しにならない。元々ちゃんと活動していたのだって、栗原さんだけの状態だったんだから。そんな部を存続させるために、私なんかの変なお願いを受け入れるなんて……普通なら考えられない」


 深山さんは目を逸らさず、真っ直ぐに私の目を見て言う。

 こんなに真剣な顔を見るのは初めてかもしれない。それだけ本気の質問、ということか。


「……確かに、普通の人なら断るだろうね」

「うん……」

「でも、私は家庭科部を残したかったの。あると色々便利だし。活動さえしてれば、最低限の部費は貰えるでしょ? それを使って料理すれば、夕ご飯の代金が浮く。裁縫道具だっていっぱいあるからハンカチとか靴下ぐらいなら作れる。これも買わなくて済むでしょ」


 私の説明に、深山さんが驚いたように丸くした目を何度もまばたきさせた。

 私だって人間だから、物欲が無いわけじゃない。でも生活に問題ないレベルで親の収入があるとしても、無駄遣いなんてしない方がいいに決まってる。それにこっちは学校に学費を払っているんだから、それぐら利用したっていいじゃん。

 ケチと言うなかれ。これも節約術の一つだ。

 ……ちなみに家庭科部に入部したての頃、爽にそれを話すと、「真面目なのか不真面目なのか分かんないなー」と笑われたけど。


「じゃあ……それだけの、ために……?」

「それだけってね……。深山さんにとってはそれだけかもしれないけど、私にとっては重要なことなの」


 私が少し怒ったような口調で言うと、深山さんは「ごめんなさい……」と項垂れた。ベッドに横になっているのに、項垂れるというのは変だけど、確かにそうした。


「冗談だって。本気で怒ってるわけじゃないから」

「……うん」

「他には? この際だし、聞きたいことがあれば全部聞いていいよ」


 私の言葉に深山さんはなぜか躊躇うように視線を泳がせてから、


「……栗原さんは、寂しくないの?」


 と言った。

 寂しい……とは?


「どういう意味?」

「お母さんが亡くなって、お父さんも仕事で遠くにいるんでしょ……? それが小さい頃からなら、ほとんど一人ぼっちだったことになるから……。寂しくなかったの?」


 ……そっか。

 自分と同じような環境なのに、どうして自分と同じように甘えん坊にならなかったのかが不思議なんだ。


「そりゃ……最初は寂しかったよ?」

「そうなの?」

「もちろん。ただまぁ……私の場合、元々お母さんに甘えようとしてなかったし」

「どうして……?」

「言ったでしょ。私のお母さんは元々体が弱かったって。だから私、少しでもお母さんが楽出来るように、小さい頃から家事を覚えて手伝ってたの」


 甘えたい気持ちが無かったわけじゃない。

 ただ個人的には、家事を覚えて上達していく方が楽しかった。

 料理も洗濯も掃除も、上手く出来たらお父さんもお母さんも褒めてくれた。

 それが嬉しかったというのもある。


「で、お母さんが死んじゃったわけだけど……今日、見たでしょ? 商店街のおじさんとかおばさん。あの商店街って、まぁ、お節介というか、世話焼きな人が多くてさ。私のことをめちゃくちゃ気にかけてくれたわけ」


 最近は地域のコミュニティとか、隣近所の繋がりが弱くなった、とか言われている。

 けど、私はそうは思わない。それはあくまで、それを言う人達の周りがそうだってだけで、ちゃんと繋がりが残ってる地域だってある。

 義理とか人情は、現代でもちゃんと残っている。私はそれを身をもって知っている。


「私の元々の性格ってのもあるんだろうけど……周りの人達のおかげで、一人ぼっちでも平気になっていった、って感じかな」


 お父さんはいるし、今でも仲が良い方だから、厳密には一人ぼっちとは違う気がするけど。


「そう、なんだ……」

「うん。そうなんだ」


 私には周囲の助けがあった。だから一人が平気になった。

 深山さんには助けが無かった。だから一人が耐えられない。

 でも、今は違う。

 今の深山さんには、私という助けがある――なんて言うと、私は何様だよと思うけど。

 でも、私が周囲に救われたように、私がほんの少しでも深山さんの救いになればと思う。

 だから、最初は仕方なくやっていた『いっちゃんのママ』だけど、今は……乗り気とまではいかないけど、それなりに前向きにやっていたりする。


「だから、まぁ……深山さんだって、そのうち慣れて平気になると思うよ」


 首を傾け、深山さんの顔を見る。

 常夜灯の淡い光の中、深山さんの綺麗な瞳が揺れていた。


「……私、も……?」

「うん。きっとね」


 シーツから手を出し、深山さんの頭を撫でた。

 安心させるように、何度も、優しく。しかし――。


「っ……」

 深山さんは一瞬口を開き、しかし結局何も言わずに私の胸に顔を埋めてきた。

 驚いて体を離そうとしたが、深山さんが今までよりも強い力で私を抱き締めていたのですぐに諦めた。……一体どうしたんだろう。


「お~い……? 深山さ~ん……? それとも、いっちゃんかな~……?」


 返事も、離れる気配も無い。

 よく分からないけど……ま、いいや。


「……おやすみ。いっちゃん」


 溜息交じりに言って、深山さんの背中をぽんぽんと叩き、目を閉じる。

 しばらくして意識が途切れる寸前、深山さんの声が聞こえた。


「……おやすみなさい――」


 栗原さんなのか、ママなのか。

 結局どっちで呼ばれたのかは、分からなかった。

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