第三話 初めてのお泊り 中編

「ここが、ママのおうち……!」


 我が家のリビングに足を踏み入れた深山さんが、感動したように室内を見回した。


「こらこら。あんまりじろじろ見ないの」

 ママとして――じゃなくて、マナーとして叱っておく。見られて困る物は無いけど。


「……ねぇ、ママ」


 リビングと繫がっているキッチンに入り、冷蔵庫に買ってきた食材を入れていると、深山さんに呼ばれた。カウンターから「なぁにー?」と頭を覗かせる。

 いつの間にかソファーに膝立ちになっていた深山さんが、背もたれ越しにじつに良い笑顔を見せた。


「ただいま♪」

「あ、何か飲む?」

「むぅ~、ママつめたい~!」


 ボケを受け流した私に抗議するように、ぼふぼふと背もたれを叩く深山さん。初めて家に来たのに、意外と遠慮が無い。でも変に遠慮されるよりは、こっちも気が楽だ。


「たぶん言うだろうな、と思ってたから」

「え……そ、そうなの……?」

「まぁね。――それより、本当にどうする? お茶? それともコーヒー? 二択だからそれ以外だと水だよ。……あ、一応牛乳もあるか」

「じゃあ……コーヒーがいい。甘いの」

「オッケー」


 深山さんのリクエストに加え、自分用に同じものを準備する。

 私の家――栗原家は、先の商店街から徒歩一〇分のところにあるマンション、その三階の一室だ。ちなみに築十五年。全体の間取りは2LDK。一室ごとの広さはそれほどでもないが、住み心地は悪くない。

 お湯が沸くのを待っていると、


「……ママ」

「今度は何? おやつだったら、さっき買ったのがあるでしょ」

「その……。ママのおうちって、広いね」


 その声には、若干困惑が混じっていた。


「何言ってんの。いっちゃんの家の方が広いんじゃないの? あんなにでっかいマンションなんだから」

「広さは、そうだけど、そうじゃなくて……あんまり、物が」


 ようやく深山さんの疑問の意味に気付き、私は「ああ」と頷いた。完成した甘めのカフェオレが入ったカップを手に、リビング側に戻る。


「物を置くのが好きじゃなくてね」


 深山さんにカップを手渡し、私は立ったまま室内を見回した。

 何もない――わけではない。

 置かれているのはテレビ、ソファー、テーブル、そして隅っこに掃除機が一台。以上。

 観葉植物やインテリアなど類は一切無い。

 ちなみにキッチンにある家電は、冷蔵庫と電子レンジと炊飯器だけ。食器棚もあるにはあるが、最低限の皿やカップしか入っていないから、ぱっと見はすっからかんだ。


「……あっちの部屋は?」


 深山さんがリビングから続く二つの扉に目を向けた。


「右側が私の部屋で、左側がお父さんの部屋。どっちもここと似たような感じだよ。見る?」

「う、うん……見たいけど……」


 深山さんがぎこちなく頷く。今さら遠慮……じゃなくて、戸惑ってるだけか。

 私は自室のドアを開けて深山さんを手招きした。ソファーから降りた深山さんが、とととっとこちらにやってきて、ドアの奥を覗き見る。


「ね? 同じでしょ?」

「……」


 私の部屋にあるのは、勉強用の机と、ベッド。壁際に小さめの本棚が一つと、下着類の入ったカラーボックスが一つ――それだけだ。

 普段着はクローゼット中に、それぞれの時期に合わせて着回す物が数着かけてあるだけで、他の衣服はやはりカラーボックスに入れて、奥に押し込んでいる。


「ほ、本は、あれだけ……?」

「うん。辞書と参考書と、好きな小説が何冊か」

「……ぬいぐるみとかは?」

「え? 無いけど?」

「……メイクの道具とかも……」

「化粧しないからなぁ」


 一つ答えるごとに、深山さんがいちいち目を丸くする。そんなに驚かなくても……。


「あ、私の部屋は見ていいけど、お父さんの部屋は駄目だからね?」

「それは、うん……。でも……ママのおうちって……物が少なくない?」


 それは私も分かっている。

 爽や、他の友人の部屋にお邪魔した時は、「物多すぎない?」とこっちが驚いたものだ。


「ん~……まぁ、他の家に比べれば少ないけど、無くても全然困らないよ? そもそもほとんど一人暮らしみたいなものだから、下手に物を増やしたら掃除が面倒でしょ?」

「そうなんだ……え!?」

「ん?」


 突然深山さんが、音が聞こえそうな勢いで私を振り向いた。どうした、どうした?


「ママ、一人暮らし……って……?」

「あれ? 言ってなかった?」

「聞いてないよぉ!」


 深山さんが美しい髪を振り回してぶんぶんと首を振る。

 ああ、それでそんなに驚いてたのか。やっと理由が分かった。

 確かに私が一人暮らしだと知らなければ、この家の中を見て殺風景だと感じてしまうのも無理はない。大体の家なら、家族の趣味関連の物を家のあちこちに飾ったりするだろうし。

 しかし我が家はそれが無い。その理由は、今私が言った通りだ。

 無くても生活に問題は無いし、増やせば掃除の手間も増える。わざわざ自分の手で家事の手間を増やす意味など皆無でしょ。そもそも私に趣味らしい趣味が無いし。

 お父さんはお笑いとB級映画が好きなので、自室にはそれ専用の大きな棚があるけど。


「……あれ?」


 とその時、深山さんがリビングに戻り、不思議そうに室内を見回した。お次は何だ?


「……無い」

「何が」

「ママの……お母さんの部屋が、無いよ……?」


 ――? ……ああ。それも言ってなかったっけ。



「いないよ。死んじゃったから」



「っ……」


 深山さんが息をのんだ。

 その手からカップが滑り落ちそうになり、私は反射的に駆け寄り手を添えた。

 間近から私を見下ろすその顔を、どう表現したものか。語彙の少ない私には分からない。

 それでも、深山さんが何かを言いたいがその言葉が見つからず、呼吸すら詰まらせてしまうほど困っている……というのは分かる。


「落ち着いて、いっちゃん。ほ~ら、ママと一緒に深呼吸。す~、は~。す~、は~」


 深山さんの背中をさすりながら、促すように深呼吸をする。


「ぁ……っぅ~……っはぁ……」


 私に合わせて深呼吸をすること数回。ようやく深山さんの表情にも落ち着きが戻ってきた。


「大丈夫?」

「う、うん……ごめんね、ママ……。お母さん、死ん――な、亡くなって……?」

「元々体が弱くて、よく入院してたんだ。で、私が小学校四年生の時に、肺炎になって、それが悪化して、そのまま」


 私は少し熱の冷めたカフェオレを半分ほど飲み、カップを持つ手の指でお父さんの部屋のドアを指差した。


「仏壇はお父さんの部屋に置いてるの。お父さんとお母さん、凄く仲良しだったから、リビングよりそっちの方がいいと思って。……あ、お母さんが生きてた頃はこことは別のマンションに住んでたんだ。場所は近いけどね。ここには、お母さんが死んだあと引っ越したの。だから部屋は二つだけ」


 私が短いエピソード――というほどの物でもないけど――を終えると、深山さんは申し訳なさそうに項垂れた。


「そ、そう……なんだ……。その……ごめんね……?」

「全然。気にしないで。むしろこっちこそごめんね? いっちゃんにはもう全部話したと思ってたんだけどね」


 まさか何も話していなかったとは。

 毎日一緒にいて色々話しているから、すっかり勘違いしていた。


「あ……でも、ママは今一人暮らしって……お父さんは?」

「長期の出張中。これがまた昔から、結構頻繁にあっちこっち行ってるんだ。……しかも戻ってきても、すぐに別のところに行っちゃったりね」


 それだけ会社から信頼されている、ということなんだろう。……いじめとかではないと思いたい。社会人は大変だ。

 その代わり収入に関しては、父と娘の二人だけなら十二分程度には稼いでくれているので、栗原家の暮らしそのものは苦しかったりはしない。むしろ余裕がある。これでお給料が低かったら、洒落になってない。

 時々電話で近況を話したりしてるけど、直接顔を合わせる機会は少ない。だから深山さんに言ったように、一人暮らし『みたいなもの』というわけだ。


「思ったんだけど、うちといっちゃんちの事情って、ちょっと似てるね」

「……そ、そう、だね……」


 深山さんがソファーに腰を下ろしながら、俯くように頷いた。


(……変に気を遣わせちゃったか?)


 私もその隣にぽすんと座り、項垂れ気味の深山さんの頭をそっと撫でた。

 似ていると言っても、収入や生活レベルは深山さんの方が上。何しろ住んでいるマンションのレベルが違い過ぎる。あっちは確か、入り口に警備員とか常駐してるし……。


「あー……と……。で、どうする? 遊ぶ物とか無いんだけど……あ、DVDでも見る? お父さんの趣味だから、古いのが多いけど。ここはやっぱり『ごっつ――」


 重くなりかけていた空気を吹き飛ばすつもりで、明るめの口調でおすすめ作品を紹介しようとした時、


「――ママ」


 深山さんがカップをテーブルに置き、私の肩に頭を埋めてきた。


「ど、どうしたの、いっちゃん……? 遊ぶより甘えたい? 別にいいよ、それでも」


 しかし深山さんは私の肩に頭を埋めたまま、


「うん……それもいい、けど……他にしたいことがあるの」

「ん? 何? 言ってみ」


 わずかに顔を上げた深山さんの目が、私の顔――ではなく、その背後に向く。

 そちらにあるのは、我が家のキッチン。……って、おいおいまさか。


「……ママと一緒に、お料理したい。夕ご飯、一緒に作ろ?」


     §


 深山さんは料理が全くと言っていいほど出来ない。

 ……いや、正しくは『出来なかった』と言うべきか。

 以前、家庭科部で、いっちゃんモードの深山さんを甘やかしていた時のこと。

 ふと、「もし誰かが様子を見に来たらアウトだな」と思った私が、せめてものポーズとして深山さんに料理の基本を教えることにしたのだ。それなら部活動として誤魔化せる。

 ちなみにその頃の深山さんが、どれくらい酷かったかと言うと、


「玉ねぎをくし切りにして」


 という私に対し、


「……くし……? ブラシのこと? ……え、分かんない、ママ教えて?」


 と本気で困っていたほどだ。

 あの時は深山さんには申し訳ないが、「マジか……」と正気を疑った。

 髪のセットに使う道具ってことは分かってるのに、なぜごっちゃになったんだろう。野菜の切り方ぐらい、小学校か、中学校の家庭科の授業で習うはずなのに。調理実習をどうやって乗り切ったのか疑問だが、逆に怖くて聞けていない。

 ともあれ、それは過去の話。

 ここしばらくの私の教えで、基本的な野菜の切り方ぐらいは覚えてくれた――だが。


「ん、しょ……ふぃっ……!」


 玉ねぎに包丁を押し当てた深山さんが、力任せに刃を押し込む。

 どんっ、という音と共に玉ねぎが真っ二つに切断され、まな板に刃が叩きつけられる。続けて同じ要領で、二つに切ったそれらをもう半分に切っていく。


(……見てるのが怖い……)


 野菜の押さえ方や、包丁の握り方は正しい。しかし包丁の切れ味を信じていないのか、深山さんはまだ自分の腕力に頼ろうとするところがあった。


「あぅ~……ママぁ、目ぇ痛いぃ……しぱしぱするぅ~……」

「はいはい……。拭いてあげるから、じっとして。……あぁ、ほら、擦っちゃ駄目」


 涙で滲む目元をハンカチで拭ってあげると、深山さんは「ありがとう、ママ」と笑って再び玉ねぎに挑み始めた。

 今作っているのは、カレー。

 深山さんが超初心者だから最も失敗の少ないメニューにした、というわけではない。念のため。元々作る予定だったのだ。商店街で買った食材も、ちょっとした追加分だけだし。

 既に私は鶏肉のカットと、他の野菜の皮むきを終えている。後は深山さんに野菜を切ってもらえば、本格的に調理が開始できるのだが……まだジャガイモも、ニンジンも切っていなかったりする。


「ふぅ……。これでいい、ママ?」

「え~と……うん、オッケー。よく出来ました。いっちゃん、偉い♪」

「……ほんとに? 玉ねぎだけなのに、時間かかったけど……」


 いつもなら褒めれば無邪気に喜ぶ深山さんだが、さすがに今回は喜ばなかった。

 確かに少し時間をかけ過ぎではあるけど――。


「いっちゃんはまだ慣れてないんだから、遅くても仕方ないよ。それなのに一度も、もうヤダって言わなかったよね? ……学校で教えてる時は、投げ出しかけたこともあったのに」

「うぅ……ご、ごめんなさい」

「怒ってるんじゃなくて、褒めてるんだよ。……本当に、偉いと思うよ」


 深山さんが不安そうな上目づかいで、私を見る。

 私が力強く頷くと、深山さんもやっと「……えへへ♪」と頬を緩めた。


「さて……とはいえ、この調子だとちょっと出来上がりが遅くなっちゃうよねぇ……」


 私だけなら、別に完成を急ぐ必要もない。

 ただ今日は、言い出しっぺでもある深山さんがいる。

 彼女もほとんど一人暮らしみたいなものだろうから門限は無いとしても、あんまり遅い時間に帰らせるのは心配だ。何しろ見た目だけは、芸能人も裸足で逃げだすレベルの美少女だし。


「ねぇ、いっちゃん。この後はママが作ってもいいかな? いっちゃんも早くご飯食べたいだろうし、遅くなると困るでしょ?」

「だ、大丈夫だよ?」

「でもこのままだと、いっちゃんが帰る頃には、外が暗くなっちゃうし」

「う、うん、分かってる……」


 これは、分かっていない。隣町も含め、この周辺は治安が良い方ではあるけど、それでも何かがあってからでは遅いんだから。

 説得のために私が言葉を続けようとすると、それよりも先に深山さんが口を開いた。


「あ、あのね、ママ……! 私……!」

「……?」

「今日、ここに……ママのおうちにお泊りしたい……!」

「………………………………へ?」


 うちに、泊まりたい……? え、急に何を言い出すんだ、この子は……?

 あまりに突然のお願いに、頭が軽く混乱し、言葉が出てこない。


「今日もお母さん帰ってこないから、連絡とかはいらないし……。それに、明日は学校もお休みだし……」

「……ああ……うん、そうだね……」


 言われてみれば、今日は金曜日。明日は土曜なので学校は休みだ。


「それから……じ、実は……替えの下着も、持って来てるの……」

「そうなの!?」


 ということは……深山さんは今日、最初から泊まるつもりで……。


「っはぁ~~~……もう……。あのねぇ、いっちゃん……。それなら最初からそう言ってくれないと」


 私が頭を掻くと、深山さんがびくっと肩を竦めた。


「ひぅっ……ご、ごめんなさい、ママ……! 怒った……?」

「別に、怒ってはいないけど……。いや、ごめん嘘、ちょっと怒ってる。どうしてちゃんと言わなかったの?」

「……駄目って、言われるかなって……」

「それが嫌だから、先に家に行ってからお願いしようって? まったく、この子は……」


 断りづらい状況を作ってからお願いするとか、さすがにちょっとズルい作戦だ。

 私はスマホで時間を確認してから、溜息と共に肩の力を抜いた。


「ま、ママ……?」

「――いいよ。泊まっても」


 苦笑と共に頷くと、深山さんの顔にあった不安の色がパッと掻き消えた。


「あ、ありがとう、ママ♪」

 満面の笑みを浮かべた深山さんが、胸に飛び込んでくる。

 自分より背の高い甘えん坊の体を抱き留めると、私は彼女の背をぽんぽんと叩き、


「――でも、後でちょっとお説教するからね?」

「え~……やぁだぁ~」

「やぁだぁ~、じゃないの」


 まったく……。叱られるっていうのに、どうしてちょっと嬉しそうなんだか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る