第一話 ママといっちゃん、誕生 前編

「っ――」

「へ?」


 短い悲鳴に続き、何かが床に落ちるような音が聞こえ、私は思わず背後を振り向いた。

 しかしそこには今まで歩いてきた廊下があるだけで、私以外は誰も――いや、いた。

 少し離れた階段の下。ちょうど廊下の角になっていて見えにくかったが、そこからほんの少しだけ人の足が見えている。

 もしかして、階段から落ちた……!?

 慌てて引き返しその人物の方へ向かい、相手の顔が見えたところで――思わず声を上げた。


「み、深山さん……!?」


 そこにいたのは、クラスメイトであり、学校一の美少女、深山一華さんだった。

 どういう姿勢で落ちたのか、両足を投げ出した格好で床に尻餅をついている。

 校則で指定された長さをきっちりと守ったひざ丈のスカートの裾から覗く、深山さんの白い足。同性でも思わず目を惹くほど美しく、例にもれず私も見惚れるほどだ。

 ――って、そんな場合じゃなかった。


「深山さん、大丈夫!? 怪我してない?」

「く、栗原さん……?」


 私が屈んで視線を合わせると、深山さんはなぜか驚いた様子で目を丸くし、


「……大丈夫。ちょっと、躓いただけだから」


 そう言って少し頬を赤くして、ついっと視線を逸らせた。


「本当に……? それならいいけど……はい」


 私が手を差し出すと、深山さんは不思議そうに首を傾げた。いや、なんで?


「……何?」

「いや、何って言うか……立つお手伝いを……」


 そこでようやく差し出した手の意味を理解した、深山さんが「ああ……」と頷いた。おやおや、深山さん……実は天然だったりするのかな。

 本当に足を捻ってはいなかったらしく、深山さんは私の手を取って普通に立ち上がった。

 頭一つ分……とは言い過ぎだけど、一〇センチ近い差があるので、少し見上げる形になる。

 とその時、『きゅぐるりゅぅう』と、新種の動物の鳴き声のような音が聞こえた。

 ……深山さんのお腹から。


「……深山さん、お腹空いてる?」


 深山さんの頬がかぁっと赤くなった。

 しまった……。同じ女子として、今の一言は無いよね。

 でも今は昼休みになったばかり。まだご飯食べてないんだろうし、早弁してなきゃお腹が空いてるのが当たり前なんだから、恥ずかしがる必要は無い。……なんてフォローは逆に意識させてしまいそう。


「と、ところで深山さん。どうしてこんなところにいるの?」


 誤魔化しのつもりで言ってはみたが、気になるのは本当。ここは校舎一階の、裏庭に続く通路だ。この廊下から行ける場所と言えば、職員室と保健室、後は事務室ぐらい。

 もちろんここから食堂や購買に行けないわけではないけど、結構遠回りになる。


「……別に、何となく。静かなところに行きたかっただけ」


 つっけんどん、って程ではないけど、それでも他人を拒絶するような口調だった。


「あ、ああ、そう……? まぁ、私が詮索することじゃないよね、ははは……あ」


 私が誤魔化し笑いを浮かべた瞬間、また深山さんのお腹が鳴った。深山さんが恨み半分羞恥半分の赤い顔で私を睨む。いや私、悪くないんだけど……。というか転んだ心配までした相手を睨むかね。

 さすがに少し思うところがあり、深山さんの目を睨み返そうとして――気が付いた。


「……深山さん……寝不足?」

「っ……ど、どうして分かるの?」

「目のとこ、クマがあるからさ」


 普段の深山さんには、恐れ多くて誰も近づかないからバレなかったのだろう。でも今、こうして間近で見ると、よく分かる。肌が白いから余計に。


「ていうか、顔色もあんまり良くないみたいだけど……もしかして具合悪い?」

「別に、そんなことは……あ……」

「ちょちょちょ!? ふらついてるじゃん! 全然大丈夫じゃないでしょ!?」


 空腹の上に寝不足とくれば、体調がおかしくなって当然だろう。さっきのだって、躓いたんじゃなくて、立ち眩みで階段を踏み外して落ちたんじゃないのか?


「とりあえず、保健室行こう? ね?」


 私は深山さんの手を取り、保健室へ向かって歩きだした。

 深山さんも抵抗することなく私についてくる。

 ……私、結構大胆なことしてる?

 状況が状況とはいえ、全校生徒の憧れの的である深山さんの手を握るなんて……。

 想像以上に細く、ちょっと冷たい深山さんの手の感触に密かにドキドキしながら保健室に入ると、あいにくと保健の先生は留守だった。


「んー、しゃーないか……。深山さん、昼寝すれば少しは楽になるんじゃない? 気休め程度かもしれないけど」

「で、でも……午後の授業が……」

「大丈夫だって。ちゃんと起こしてあげるから」

「起こすって……でも、栗原さん、お昼食べるんじゃ……」


 深山さんが指差したのは、私の持っていたお弁当箱が入った巾着袋だ。


「平気、平気。ここで食べちゃえばいいんだし」


 本当は、職員室で鍵を借りて、部室で食べようかなと思っていたんだけど、さすがに深山さんを放っておくわけにはいかない。


「あ、忘れてた。深山さんもお腹空いてるんだよね。購買で何か買ってこようか?」


 空腹のままじゃ寝づらいだろう。しかし深山さんはノータイムで首を横に振った。


「購買は、嫌い。美味しくない」

「そ、そうかな……? じゃあ……私のお弁当でよかったら、ちょっと食べる?」

「お弁当……。いいの……?」

「うん。ま、私の手作りだから、口に合うかは分かんないけどね」


 近くにあった丸椅子を持ってきて、ベッドの横に腰を下ろすと、私は巾着を開いて弁当箱を取り出した。

 中身が深山さんに見えるように「ほら」と蓋を開ける。

 本日のおかずのラインナップは、卵焼き、ミートボール、筑前煮、ほうれん草の胡麻和えに、ひじきの煮物。炭水化物の量を気にしているので、白ご飯よりおかずの比率が少々多め。

 手作りお弁当としては及第点だと思う。


「凄い……! これ、全部栗原さんが……!?」


 体を起こした深山さんは、目を丸くして私の顔と弁当とを何度も見比べた。


「別に凄くないよ。小さい頃から作ってるから、慣れてるってだけ」

「それでも、凄い……」

「そりゃどーも。じゃあ……はい。あーん」


 深山さんの大袈裟なリアクションに苦笑しつつ、私は箸で卵焼きを一切れつまみ、彼女の口元へ差し出した。


「えっ……!?」

「……? ああ、ごめん。何となく流れで……。さすがにこれは恥ずかしいよね」

「あ……! ご、ごめんなさい……そうじゃなくて……。少し、驚いただけで……恥ずかしくはないから……」


 慌てた様子で深山さんが首を振ったので、私も引っ込めかけた手を止めた。

 まぁ、本人が平気ならいいけど。


「じゃあ改めて……はい、あーん」

「い、いただきます……。あ……ん」


 体調不良とは違った感じで頬を染めた深山さんが、おずおずと口を開く。

 唇の間から見えた歯並びや、肉感的な舌の妙な色っぽさに、ちょっとドキッとしたが、それを隠して卵焼きを口の中へ。


「どう? ちょっと甘めなんだけど」

「――っ……美味、しい……!」


 ごくんと卵焼きを飲み込んだ深山さんの表情が、スロー再生のような速度で明るくなっていく。どうやらお気に召してくれたらしい。


「良かった。じゃあ次はミートボールね」

「うん……!」


 私が差し出すおかずを、深山さんは全て美味しそうに食べてくれた。

 一口食べるたびに深山さんは幼子のように微笑み、それを見る私も思わず頬が緩む。


(誰かに食べてもらうのって、こんなに嬉しかったっけ……。忘れてたなぁ)


 そして弁当箱の中身が半分ほどになった頃――。


「ふ、わぁ……。あ……ご、ごめんなさい」

「あはは。食べたら眠くなってきた? 寝ちゃっていいよ。ちゃんとここにいるから。あ、寝る前に、歯磨きする? て言ってもブラシが無いけど」


 冗談を言う私に、深山さんはくすりと笑い、もぞもぞとシーツの中に潜り込んだ。


「ありがとう……栗原さん。それと……さっきは、ごめんなさい」


 さっき? ああ、保健室に来る前の態度のことかな。


「気にしないでいいから寝なよ。なんなら子守唄でも歌おうか?」


 ついさっき、階段下で彼女を助けるまで、私は深山さんに対して畏敬の念に似た感情を抱いていた。話しかけることすら恐れ多い、遠巻きに眺めて「ありがたや」と手を合わせるだけ、みたいな。

 なのに今は「子守唄でも」なんて冗談すら言えるなんて。正直、自分でもびっくりだ。そこまでコミュニケーション力強かったっけ?


「子守唄?」

「あ、ごめんごめん、じょうだ……深山さん?」


 ……どうしてそんな物欲しそうな目で私を見ていらっしゃるのでしょうか?

 しかもシーツの端を握りしめ、顔を半分出すなんて、甘えん坊の子供みたいな仕草で。可愛いんだけど。


「……子守唄……いる?」

「……聞きたい」


 深山さんがこくりと頷く。

 その瞳は、私の冗談に対して冗談で返した、といった感じのものではない。本気の目だ。

 ま……まぁ……リクエストなわけだし……もし笑ったら、その時はさすがに怒ろう……。


「う、うん……分かった……。あ、でも有名なのしか知らないよ? 歌詞も、正直うろ覚えだから、途中で変になるかも――」

「大丈夫。……お願い」


 静かな、しかし有無を言わせぬ深山さんの言葉に、思わず「あ、はい」と頷く。

 そして――。

 しばらくの間保健室の中に、少しの緊張を含んだ小さな歌声と、穏やかな寝息だけが、優しく響いていた。

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