【KAC20229】 野田家の人々:猫の手を借りた結果

江田 吏来

第9話 猫の手を借りた結果

 俺は朝から超ご機嫌だった。


 従姉の千紗姉ちゃんが、オトンと同じ系列の会社で働くことになったから、近所のアパートに引っ越してくる。その手伝いを頼まれたのだ。

 俺の思い人。心の女神が助けを求めているなら、喜んで手を貸そう。


「大船に乗ったつもりでまかせとけ」

「お兄ちゃんがやる気になるって、なんか怖いわね。家の手伝いすらやらないのに」


 心配性のオカンが疑いのまなざしを突き刺してくる。

 まあ、日頃の行いが悪いから仕方がない。


「叔父さんが軽トラックでやってきたら荷物を運ぶだけだろ? 我がしもべもいるし、平気だって」


 弟を指さすと、オカンは少し安心したようだ。


「今日は猫の手も借りたいほど忙しいから、頼んだわよ」


 その言葉に、弟が素早く反応する。

 

「猫の手って、なんだよ。誰でもいい。役立たずでも構わないから手伝えって意味だろ。兄貴は猫の手役立たずでいいけど、こっちまで一括りにされるとやる気が出ない」


 休日をつぶされたから、面倒くさそうな面持ちでブツブツ文句を言い出した。

 しかもナチュラルにディスってくるから、満面の笑みで一発ぶん殴ろうとしたが、オカンが止めた。


「お外でケンカはしないの。母さんから見れば、どっちも猫の手役立たずよ。そうじゃないって言うなら、証拠を見せて」

「どうやって?」


 オカンはブリキのバケツとぞうきんを俺に、部屋の鍵を弟に押しつけた。


「千紗ちゃんたちが来るまでに、部屋の掃除よ。母さんは昼食の準備があるから家に戻るけど、床や壁をしっかり磨いて役立つところを見せてちょうだい」

「え、それって面倒な掃除を俺たちに押しつけ」

「違うわよ!」


 話の途中で口を挟まれた。

 オカンは昼食の準備意外にも、千紗姉ちゃんに近所を案内したり、大家さんに挨拶したりと忙しいようだ。


「掃除もできないような男は、猫の手以下よ。わかった?」


 そう言い残して、オカンはいったん自宅へ戻る。

 俺は千紗姉ちゃんがこれから暮らす部屋に、いち早くは入れることに喜びを感じていた。まだなにもない、ガランとした部屋だけど。

 弟は仏頂面のままだ。

 この場をなごませるにはどうすれば良い?

 ここにあるのは、バケツとぞうきんのみ。 

 

「……なんか懐かしいな。小学生の頃、バケツを振り回さなかったか?」

「遠心力で、水が落ちないとかだろ。兄貴、まさか⁉」


 俺はバケツに水を入れていた。


「部屋でバケツを回す気か?」

「そうだけど」

「あかんって。水浸しになるで」

「大丈夫だって」

「ここは千紗姉ちゃんの新居だぞ。もしバケツの水がこぼれたら、兄貴のせいだからな。こっちを巻き込むなよ」


 さすがの俺も、それを言われたら引くしかない。


「それじゃ、外で」


 バケツに水が入っていてもこぼれない、遠心力パワー。

 とてもくだらないことだけど、弟はついてきた。

 駐輪場の近くで、人がいないことを確認してから俺はバケツを回す。

 グルグル回しても水はこぼれない。

 どうだ、すごいだろう。と、声をかけようとしたら。


「リバース・ターン!」


 弟が叫んだ。


「え? なに?」

「なんだ、兄貴はリバース・ターンを知らないのか。バケツ、貸して」

「お、おう」


 バケツを渡すと、弟は俺と同じようにバケツをグルグル回す。そして、


「これがリバース・ターンだッ!」


 叫び声と同時に、前に回していた腕を後ろ回しに切り替えた。

 

「うお、すげぇー」


 思わず声をあげていた。

 水の入ったバケツをグルグル回す。これは簡単そうに見えるが、失敗すると大惨事なので勇気がいる。それに加えて、回す方向を急に変えるとは。

 切り替えることによって大惨事になる可能性も高くなる。普通に回すより、数倍の勇気がいる。


「どうだ、すごいだろう」


 ドヤ顔をされると、ムカつく。


「俺だって、それぐらいできる!」


 弟からバケツを奪い取った。


「よぉーく、見とけよ」


 最初は振り子のように腕を動かして、徐々に揺れを大きくする。準備が整えば、腕を力強く回転させて、グルグル回す。ここまでは完璧だった。水は一滴もこぼれていない。問題はここからなのだ。

 リバース・ターンを発動させるタイミングが難しい。ひとつ間違えれば、頭から水をかぶる。だからこそ勇気が試される。


「よし、ここだッ。リバース・ターン!」


 と、叫んだ瞬間、俺の手からバケツが消えた。

 遠心力が強すぎてすっ飛んでいった。


「ぎゃあああぁぁぁっぁぁあ!」


 バシャァーッ、と水がぶちまけられる音と共に、オカンの悲鳴が耳に飛び込んできた。

 バケツは直撃しなかったものの、自転車を置きに来たオカンに水が命中。全身ずぶれだった。


「オ、オカン。汗だくだな」

「ほほぅ、あんたにはこれが汗に見えるのかい?」

「兄貴、ここは水も滴るいい女とか言ってごまかせよ」

「いい女? オカンが?」


 ゲラゲラ笑うとオカンはぶち切れた。


「一足先に、あんたたちの昼食を持ってきたのに。掃除もしないで遊びほうけて、この役立たずッ!」


 ずぶ濡れのカバンの中に、水浸しのお弁当が。


「これなら本物の猫の手を借りたほうが、イライラしなくてすんだわよッ」


 猫の手役立たずを借りた結果、オカンはずぶ濡れ。

 俺と弟は水に濡れたおにぎりと、から揚げにウィンナー……どれも俺たちの好物ばかりのお弁当が。


「なんか、いろいろゴメン!」


 弟とふたりで謝っても、しばらく口をきいてくれなかった。 








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