第弐話 我、尸となりて〈二〉

 まるで沈みかけの夕焼けでも見ているかのような、目の前に広がる赤々とした炎の海をそれまで村の代表として民を導いてきた男――布瓜フカは、絶望のあまり足元がふらつき、酒が並々残る盃が畳の上に零れ落ちた。同じく動揺して膳を丸ごとひっくり返して縁側に飛び出した家臣が、塀の向こうの村の異常な様子にすっかり酔いが醒めて叫び声を上げる。


「な、何事だ! 他に誰もおらぬのか!?」


 家臣の男が屋敷内にいるはずの使用人たちに向けて怒声を上げるが、屋敷内はこの状況下であるにも関わらず静まり返っており、誰一人として返答は返ってこなかった。村の方から立ち昇る黒い煙の中から微かに聞こえてくる逃げ惑う声に、異常事態を肌身で感じた布瓜はハッと我に返り、座敷を飛び出して屋敷内を駆け回った。どの障子を開けても、誰一人として使用人たちの姿を認めらず、やがてその足取りは重くなっていく。これはまさか、六花むすめの祟りではないか、とさえ思い始め、徐々に顔から血の気が引いていく。

 絶望に染められた布瓜の意識を浮上させたのは、ガタッ、という物音。音がしたのは普段あまり立ち入ることのない台所であり、その中に誰かがいるかもしれないという希望を抱きながら、恐る恐る戸に手をかけてゆっくりと開いて中を覗いた。開いた戸の隙間から漂ってくる血生臭いニオイと、とめどなく流れ出してくる赤い液体、それらがこの後布瓜が見るであろう惨劇の光景を既に予見させ、自然と手汗が滲み出してくる。それでも決死の思いで戸を開くと、そこに広がっているのは、『赤』だった。石の床に広がる一面の赤い池の中、そこに沈んでいる者たちの冷たい肉体を無情な瞳で見つめる一人の影があり、その姿は布瓜が思い浮かべていた人物のものではなかったことに、それまでの恐怖に震えた表情を一変させてその人物に向けて怒声を浴びせた。


「――何者だ!? 一体どこから入り込んだ!」


 激怒した布瓜フカの声で彼の存在に気づいた人影はゆっくりと振り向き、暗闇の中で二つの碧い光が浮かび上がる。碧い光は布瓜を見つめたままの人物は、闇の中で動かした右腕らしき影の先から細く伸びる“赤い何か”を伸縮させ、腕の中に縮めてしまうと、ようやく口を開いた。


「…お前が、ここの主か。なら、“六花リッカ”の名前に聞き覚えがあるだろうな?」

「り、六花…!? お前は一体…っ」

「僕の正体なんてどうでもいいだろ。強いて言うなら、幼い魂の無念を晴らすため蘇った、悪霊とでも名乗っておこうか」


 闇の中で不敵に笑う影はゆらりと右腕で上げて布瓜を指さしてきたのを見て、瞬時に腰の刀を握ったが、布瓜が刀を鞘から引き抜く前に右腕から蛇のようなものの先端にきらめく銀は真っ先に彼の首元に。予想だにしなかった首の痛みに刀の柄を握る手が強張り、喉奥からせり上がってきた鉄臭い液体を唾液と共に吹き出した。焦点のブレる視点を下へと向けて首元を注視すると、そこにあったのは蛇の頭などではなく、銀に光る『苦無くない』であり、その切っ先が布瓜の首に深く捻じ込まれていたのだ。布瓜の首を貫いたのを確認した影が小さな声で「水虬みずち戻れ」と囁くと、その苦無は意志があるかのようにずるり、と首が抜け出し、蛇のように赤い紐をくねらせて影の腕の中に戻って行った。突き刺さっていた栓が抜け、ぽっかりと開いた傷口からやがてとめどなく鮮血が噴き出しはじめ、布瓜は慌てて両手でそれを塞ごうとするも時既に遅く、床に流れ出した己の血を見つめながらそのままべしゃ、と顔から倒れ込んだ。

 ぴちゃ、ぴちゃ、と水辺をゆっくりと歩くような音が近づいてくるのを耳にし、布瓜は全身の血の気が徐々に抜けていくのを感じながら、痙攣する瞼を半分開いて必死に上を見上げれば、闇に浮かんでいた影の鮮明な輪郭が格子窓の隙間から差し込む月明かりのもとで姿を現した。

 髪は黒で少し癖がある。瞳は月の浮かぶ水面のような深い碧。肌は病的なまでに白い。ふっくらとした唇から感じるまだ未熟な幼さの残る中性的な雰囲気。全身に黒衣を纏った見覚えの欠片もないその美少年の姿に息を飲み、この場における異常さに恐怖が脳内を駆け巡った。その色の通り冷たく冷気でも放ちそうな両の碧眼で苦しげに息をする布瓜を見下す少年は、彼の目の前で突然しゃがみ込むと、愛らしい唇を不気味に歪めて微笑んだ。


「…はっ いい様。どう? なんにもわからず殺される気分は?」

「…っ!」

「そんな睨まないでよ。元はといえば、お前たちが悪いんだろ。人間の理不尽な悪意をなんにもわからない女の子一人に背負わせて、挙句の果てに殺そうとしたんだから」

「り…っか…」


 死ぬ間際に男が最期に放った言葉は、見捨てた娘の名前。しかし男は決して謝罪の言葉は口にしなかった。それが誤りだと認めてしまえば、今までの自分のすべてを否定することになるからだ。そしてようやく頭の中からも血の気が引いてきて、ぐるりと回った眼球で最期に目にした少年の首に刻まれた赤いツギハギの入れ墨。それが何であるか考える余裕もなく、男は血だまりの中で息絶えた。

 男の死に様を見届けた少年はゆっくりと立ち上がると、次の標的を目指して屋敷内を歩き出した。その道中に偶然目についた一つの部屋の障子戸を開けるとそこは、四畳半ほどの小さな小部屋で何もない殺風景な中に、ぽつりと置かれた仔兎の人形。それを手にして初めて、そこがかつての六花の部屋であったことに気づいた。洞の中で聞いた六花の八年間の孤独な暮らしを思い出し、少年は遣る瀬無い思いに胸を痛め、拾った人形を懐にしまって部屋を出た。


 廊下に出てすぐ、少年は目標の二人の家臣と鉢合わせした。突然なんの前触れもなく現れた見覚えのない少年の姿に目を見開く二人は、すぐさま腰に差した刀を引き抜いて構えた。眼前に向けられた白刃を前にして、少年は一切の動揺を見せることはなく、寧ろ興味がなさそうに欠伸を一つ零すと、黒衣の袖をゆらゆらと揺らめかせながら刀を構える二人に向かって歩み出した。歩み寄ってくる少年の意図を図りかねた二人だが、一人が「覚悟!」と叫んだのを合図に、二人の家臣は少年に向かって刀を振り上げた。しかしその白刃は少年の身体に届く前に家臣たちの頭上でピタリと止まり、動きを止めた二人の間を少年は悠々とした足取りですり抜け、そのすり抜け様に舞い踊る袖の中からしゅるり、と這い出た二本の赤い紐は獲物を狩る毒蛇のように飛び出し、家臣二人の首をその刃で突き、そのまま肉を横に切り裂いた。蛇の毒牙に掛かった二人は成す術なく血だまりに倒れ伏した。

 床に広がった二人分の血だまりで遊ぶように、赤い紐の先端に付いた銀の刃はくるくると円を描くように動いている。それを見て少年はいつものことながら呆れた溜め息をついた。


「…水虬みずち、それくらいにしておけ」


 腕から伸びる赤い“蛇”たちを咎めると、表情などない武器にすぎない二つの刃は少ししょんぼりした様子で少年の袖の中に身を隠した。これでこの屋敷にいる人間は一人もいなくなったことは、少年のこの場においての役目はすべて終わったことを意味した。少年は自分の首に刻まれた赤いツギハギの入れ墨を指でなぞり、そしてそのツギハギの一本に爪を引っ掛けて

 しゅるり、と首から解けた赤い糸は少年の美しい首と胴を離れ離れにするかのように消え、少年の顔が陽炎のように揺らめきやがて歪み始めたその顔は、いつの間にか正反対の幼い六花のものに変わり、身に纏っていた黒衣は流れ落ちて影の中に消えていった。

 静まり返る屋敷の中で一人小さく呼吸する六花は、閉じていた双眸をゆっくりと開き、自分の足元に転げ落ちた二人の見知った男の姿を見て、一瞬驚愕したものの、あぁついにやってしまった、と自分の犯した罪を達観した。どこか他人事のように感じていた六花に現実を突きつけたのは、六花の腰元に括り付けられた少し大きい紫色の巾着の中で笑う少年の声だった。


「…何を落ち込んでいる。君が望んだことだろう」

「わかってる。意地悪なこと言わないで、朔夜サクヤ


 巾着を開いて中に隠していた髑髏しゃれこうべを手に取り、六花はぷっくりと頬を膨らませて見せると、その髑髏はカタカタと動いて更に笑いながら謝罪をする。


「ごめんよ。で、僕の提案した『縁ノ緒えにしのお』のご感想は?」

「すごいのね。本当に私の身体を朔夜に貸してあげられるなんて」


 数十分前の洞の中、朔夜が思わず提案したのはとある術であった。

 主人である六花の願いを叶えるには身体が必要。しかし朔夜の本当の身体がこの場にない以上、他のなにかで代用するしかないが、下手にその辺に転がっている死体を使って暴走したらと思うと得策とは言えず、そこで朔夜が思い出したのは古い文献に書かれていた『一時的に他人に身体の一部を貸し与える術』の存在であった。貸し与える箇所の付け根に部分に赤いツギハギの入れ墨を術を使って刻み、それを解くのを発動条件に他者に身体を貸す術。どれだけの時間借りることができるのかは残念ながら思い出せないが、朔夜は六花に『願いを叶える時と、命の危機と感じた時のみの使用。それが終われば返す』という制約を結び、その制約のもと六花に術を施した。六花の場合は、首から下を丸ごと貸し与えるため、首に入れ墨を刻んでそれを糸のように解くと、首が朔夜のものと挿げ変わるという仕組みらしい。

 なにせ朔夜自身も使用するのは初めてで、使ってみて六花と同じように驚いていた。


「まさか、首が変われば身体の方も生前の僕に似通ってくるとは思わなかった。それに、“神器じんぎ”まで使えるとは」

?」

「主人の魂としか共鳴して操ることのできない特別な道具のこと。僕のは代々兎君ときみに受け継がれる、水蛇の象徴たる暗器『水虬みずち』。神器は魂から作られるものだから、僕の魂が乗り移った六花の身体を主人の肉体と認識して顕現したんだろう」


 朔夜は六花に説明しながら、自分の持つ神器『水虬』と対になると、その持ち主のことを思い出し、密かに思いを馳せる。同じ日に生まれ、同じ時間を共に過ごし、お互いのことを誰よりも愛して生きてきた己の美しい半身。輝く相貌の双子の兄のことを思い出しながら、朔夜は六花にこの後のことを問う。


「…さて、これで君の願いであるこ奴等の始末は終わった。次はどうする?」

「……地下に行こう」




 六花の生まれ育ったこの屋敷には、ごく一部の者しか知らない隠し通路が存在する。その場所を六花が使うのは初めてだが、どこにあるのかは嫌というほど知っていた。まだ物心ついたばかりの頃、六花はある日突然母親の腕の中から引き離された。父親に引きずられるように母親が連れていかれるのを呆然と見つめていた六花が視線の先に捉えたのは、父親の私室の扉。母親はその後、その扉から出てくることはなかった。その扉の向こうに隠し通路の入り口があることを六花は、その時既に知っていたのだ。

 しかし入るのは初めてであり、今しがた主人のいなくなった部屋に無断で入り込むと、容赦なく値打ちものらしき掛け軸を壁からはぎ取れば、その裏に隠していた小さな穴の奥に続く階段を見つけた。ひんやりと冷気の漂ってくる洞穴の中へ躊躇なく入り込んだ六花は、中腰のまま苔むした石の階段をゆっくりと下っていく。肌身のない朔夜だが、骨身に感じるうすら寒さに居心地の悪さを訴える。


「…なんとも辛気臭いところだな」

「ここは多分、昔から一族の中から出た罪人なんかを閉じ込めていくために使われてたんじゃないかな。結局父にとっても母様は…っ」


 六花の母親がここに閉じ込められているということは、父親や他の家族たちにとって彼女が罪人であるという考えは変わらないということ。六花を産んで育てるという母親として当然のことをした彼女に対してのこの酷い仕打ちに、六花の沸点は既に振り切られていた。所々水漏れした石の壁を伝って遂に最後の一段を下りると、石でできた壁や天井に反響して、微かに誰かの歌が聞こえてきて二人は耳を澄ませる。


「…子守歌?」


 その歌に六花はどこか懐かしさを感じ、暗い記憶の底から溢れてきた温かい温もりの思い出と共に、初めてその瞳に映した母親の顔をはっきりと思い浮かべた。まだ生まれたばかりで母の腕の中に優しく抱かれ、嬉しそうに手足をばたつかせる自分の姿を満面の笑みで慈しんでくれる母の顔が、六花の足取りを速めた。

 左側の壁際に並ぶ鉄格子の檻を三つ通り過ぎ、一番奥の檻に近付くにつれて大きくなっていく歌を辿って細い両腕を伸ばして四つ目の檻の鉄格子を掴んで中を覗き込んだ。そこはまさに、地獄。冷たい石の床の上に申し訳程度に敷かれたむしろの上、死に装束のような白い着物一枚に身を包んだ乱れ髪の女が一人、膝をついて項垂れている姿があった。痩せ細ったその唇から零れるように流れる子守歌は、彼女の目の前に置かれた女童めのわらわの人形に向かって歌われ、それはまるで我が子を寝かしつける母親の姿のようであった。

 随分と朽ち果てた姿をした母親の姿に心底絶望した六花が鉄格子に縋りつくようにしてその場に膝をつくと、そんな六花の状況を理解した朔夜が優しく声をかける。


「…大丈夫か、六花」

「うん…。大丈夫」


 どうしようもない想いを全部吐き出したいのを抑え、絶叫を飲み込んだ六花は立ち上がると、自分に気づくことのない憔悴した母親に優しく語り掛ける。


「母様、久し振り。わかる? 私、六花だよ。もうこんなに大きくなったんだ」

「…ねぇ、ごめんね。ほんとは、もっと早く会いにいきたかったんだけど、こんなに時間がかかっちゃった…」

「こんな寒くて、暗いところにずっといさせて、ごめんね。でも、もういいよ。もう、ここで苦しい想いをしなくていいよ」


 六花は懐に隠し持った短刀を取り出し、鞘を無造作に放り投げるとその刃を檻の扉を固く閉ざしている南京錠に突き立てた。既に滴る水滴で錆び付いていた南京錠だが、中々壊れることがなく六花は今までの憤りをすべてぶつけるように何度も何度も、刃を突き立て続けた。


『どうして自分だけ』『どうして自分と母はこんな目に遭わなければいけない』


『どうして自分の周りはこんなに悪意で満ちている』


『どうして』『どうして』『どうして』


「――っどうしてこんなことが許される!?」


 心の内の奥から出た叫び声と共に渾身の力で刃を突き立てると、ついに南京錠は壊れて地に落ちた。錠に何度も突き立てたせいで刃がボロボロになった短刀を投げ捨てると、建付けの悪い格子を開けて、未だ微動だにしない母の前に膝をついて座った。すると、人形の向こうの視界に映った六花の膝頭にようやく反応を示し、母親は気だるげに顔を上げて六花の顔をその両目に捉えた。しかし光を失った虚ろな彼女の目は、我が子を映しても尚それが誰であるかを認識することはなく、薄く笑って話し掛けた。


「…あら、こんにちわ。あなた、?」


 ようやく会えた母親は、六花を自分の娘と認識することができなかった。それほどにここにいる時間が長過ぎたためか、彼女の心は壊れてしまっていた。自分の顔を見てももう前のような母親の笑みを見せてはくれないと悟った六花は、上っ面な笑みを浮かべるとやんわりと話を逸らした。


「…ねぇ、ここで何してるの?」

「わたしはね、いま娘を寝かしつけてるのよ」

「娘?」

「そう。六花リッカっていうの。可愛い、かわいい、わたしの子」


 そう言って母親が愛おしそうに撫でるのは、筵の上に転がっている人形。作り物の黒髪を梳かすように撫でながら、嬉しそうに人形を抱き寄せる。まるで赤子を抱くように揺らす姿を羨ましいそうに見つめて涙が零れそうになるのを必死に抑え、朔夜の入った巾着袋の中に一緒に入れておいた小さな包みを出し、母親の前に差し出す。それを不思議そうな表情で受け取った母親が、これはなに? と聞けば、六花は微笑んで答えた。


「…これで、苦しいことも悲しいことも、全部忘れられますよ。これからは、誰のことも守らなくていいんです。自分のことだけ、想ってください、雪菜ユキナさん」


 六花の言葉の意味を理解できない母親——雪菜ユキナは虚ろな瞳で首を傾げるのを見て、六花は彼女の手にした包みを取り丁寧に開くと、そこに入っていたのは一粒の小さな錠剤。それを抓んで、雪菜の口元に差し出した。それが何であるかを六花は勿論、預かっていた朔夜も知っている。錠剤を持つ手が震える六花の様子に雪菜は何を思ったのか、その手を自分の両手で優しく包み込んだ。その手のぬくもりに気づいて六花が顔を上げれば、目の前には懐かしい笑みを浮かべた母親の顔があった。


「…、最期に会いにきてくれてありがとう」

「…っ!?」

「これから一人で大変かもしれないけど、どうか無理しないで、元気で、いってらっしゃい」

「…うん、うん。いってきます、母様!」


 ようやく会えた母親に六花は涙でぐしゃぐしゃの顔で別れを告げると、雪菜は満足気な笑みを浮かべて差し出された錠剤を躊躇なく口に含み嚥下した。錠剤の効果はすぐに現れ、重くなる瞼に逆らうことなくゆっくりと閉じ、力の抜けていく腕がぱたりと落ちたのと同時に、冷たくなった雪菜の身体はもたれかかるように六花の肩口に顔をうずめて倒れた。鼓動の完全に止まった雪菜を筵の上に寝かせると、その腕に人形と、自分がずっと可愛がっていて先程朔夜が拾っておいた仔兎の人形を一緒に抱かせて手を合わせる。願わくば、母の来世は光に満ち溢れたものであるように、と。

 別れを終えた頃を見計らい、それまで黙っていた朔夜が六花に指示を出す。


「…さぁ行こう。やり方は、わかるね?」

「うん。さっき村でもやったから」


 六花は檻を出ると壁に設置されていた火の点いた蝋燭を燭台ごと外し、格子ごしにそれを雪菜の眠る檻の中に投げ込んだ。筵に引火したのを見届けて急ぎ足で地下から逃げ去る。地上に戻った後も同じように火種という火種を床に転がし、あちこちに引火した火は大きな炎となって無人の屋敷をあっという間に包み込んだ。

 村が炎に包まれたのも勿論二人が仕組んだことであり、燃やした松明を手にした六花が寝静まる家々に次々と火を点けて回ったせいである。その炎はまるで、自分と母を侮蔑した者たちへの怒りそのもののように燃え広がり、誰一人として逃げられた者はいなかった。

 燃え盛る生家を黙って見つめる六花の顔はなんとも言えない哀愁が漂い、それでもどこか吹っ切れた表情をしていた。共に彼女の手の中で眺めていた朔夜はそんな彼女の背中を押した。


「…行こう。もうここに用はない」

「そうだね。行こうか、朔夜の身体とお兄さんを探しに」


 こうしてとある日の夜、一人の少女と一体の髑髏しゃれこうべはこの村から忽然と姿を消した。



 ❖ ❖



 それから暫くして、空が白み始めた頃に異様な静けさに包まれたその村に、想像もしない来訪者が現れる。

 栗毛の馬に跨り現れた四人の集団は、一人の金髪の青年を先頭に畑の横道を進み、後ろ三人は片手で手綱を握りながらももう片方の手では常に腰の刀の柄を握り、周囲を警戒していた。先頭を進む青年は彼等の主人であり、三人は青年の選んで連れてきた護衛だった。青年にはとても重要な目的があってここに来たが、村に辿り着くまでに特に何もない風景ばかりを目にしてきたせいで些か退屈を感じ始めていて、護衛に隠すことなく大あくびを一つ零した。それを見ていた護衛の中で一番の年長者であろう初老の男が駆け寄り、心配そうに青年の顔を覗き込んだ。


「…“白秋ハクシュウ様” お疲れでしたら、わたくしめの馬にお乗りになりますか?」

「…いやいい。男のお前と一緒に乗ってもつまらん。それより、例の村にはまだ着かないのか?」

「いえ。地図上ではそろそろかと…」


 初老の男が脳内に細部まで刻み込んできた地図を思い出しながら道の先を見つめた瞬間、目を疑った。目的地があるであろう場所から立ち込める原因不明の黒煙に驚く一行の中で、好奇心旺盛な青年——白秋ハクシュウは真っ先に駆け出した。それに慌てて護衛たちも続く。近づくにつれて漂ってくる焦げ臭いニオイが強まるのに顔を顰めながらも、白秋の走らせる馬は目的地の村に足を踏み入れた。手綱を強く引いて馬を止めた彼が目にした村の光景に、開いた口が塞がらなかった。


「こ、これは一体…?!」


 そこは完全なる更地となっており、まるで戦火が通り過ぎたかのような荒れ様。家屋の焦げた形跡から大きな火事があったことを物語る惨状に、後から着いた護衛たちの警戒も高まる。ひとまず馬を降りた白秋は燃えカスだらけのかつて村だった場所を歩き回って観察する。物も人も残らず炎の中に消え、残ったのは炭だけの村の中心に建っていたであろう屋敷の跡を見つけて、そこに僅かに残った焼死体に目を向ける。白秋が手を触れるのを屈強な色黒の護衛が止め、代わりにその遺体を調べるとあることを発見する。


「…白秋様。この遺体、死因は焼死ではなさそうです」

「なに?」

「詳しいことは調べてみないとわかりませんが、首のところに刺し傷があります。恐らく、死因はこれかと」


 幸い損傷少なく残った遺体の首には、僅かだが刺し傷があり、それを目敏く発見した護衛がそう伝えれば、白秋は黙って考え込んだ。死因がその傷であるのであれば、これはただの火災による死ではなく、誰かの手による計画的な殺人。そう考えれば、村の全焼もその犯人の犯行であると仮定できた。しかしこんなことをする人物が、果たしていたのだろうか、という疑問が残る。


「…調査は後にする。に急ぐぞ。あそこは無事だといいが」


 白秋の指示で屋敷跡を後にした四人は、村はずれにあるはずの墓所を目指して歩き出した。幸い火災を免れた村の墓所には変わらず墓石が並び、もう来ることのない墓参者を待って佇んでいる。その墓石の列を素通りして白秋たちが向かったのは、墓所の外れでひっそりとその口を開けている、うろ。かつて陰陽国の役人たちの亡骸を処分した呪われた洞を覗き込み、闇に包まれて中の様子を伺えないことに白秋は肩を竦め、代わりに懐から取り出した物を洞に向かって翳す。彼が取り出したのは、まるで血のような紅色の宝石がはめ込まれた銀の耳飾り。それは“とある人物”の遺品であり、その人物を探し出すための唯一の道具である。

 しかし洞に向かって翳してみても、耳飾りの石はうんともすんともいわず、白秋は当てが外れていることに驚愕する。


「そんな…。確かにここだと」

「…誰かに先を越されたのかもしれません。を欲しがる者は他にもいますから」


 用途は違いますが、と初老の護衛が聞こえないほどの声で付け加える。それが聞こえていない白秋は、悔しさで美麗な顔を顰めると用済みになった洞に背を向け、足早にその場を去った。


「っ帰るぞ! 伯都ハクト、この村で何があったのか徹底的に調査しろ!」

「かしこまりました」


 初老の護衛――伯都ハクトにそう命じて馬を置いてきた場所へ急ぐ白秋は、手にした耳飾りを一瞥して呟いた。


「――絶対に手に入れてやるからな、朔夜サクヤ!」

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