恐怖の作者(前編)

岩山いわやま 角三かくぞう(仮名)は、ネット上で小説の投稿をやっていた。

というより、やろうとしていた。


ネ タ が な い


それが、角三の悩みであった。

角三は生まれてからこのかた、芸術や文化といったものに手を出したことがなかった。興味を持ったことのあるフィクション作品といえばせいぜい幼少期に見た特撮ヒーロー番組ぐらいで、それも小学校に入る頃には既に飽きてしまっていたし、専ら趣味と言えるものはグラウンドで楽しむドッジボールであった。かといって悪ガキ呼ばわりされるほどやんちゃというわけでもなく、勉強はそこそこできて宿題を済ませるのが早く、無遅刻無欠席で空気を読むのも上手い、要領のいい生徒であった。彼がクラスの中で唯一目立つのは、出来の悪い他の生徒が宿題を忘れたり遅刻したりするのを、イジってクラス中の笑いものにするときであった。イジられた側は、ただでさえミスをして嫌な思いをしているのにこれ以上悪目立ちさせてほしくない、と内心思っていたようだが、角三にしてみれば、本来ならクラスの空気を暗くしているところを笑いに変えて、オイシイ立場にいさせてやってるのだから寧ろ感謝してほしいくらいだった。

中学に入ってからは野球部に所属し、きつい練習に耐えながら学業とそれなりに両立していた。音楽の時間に女子には聞こえないよう小声で下ネタを連発したり、弱い生徒をパシリに使う程度にはグレていたが、優秀な成績と表面上の態度の良さが功を奏して、大人達に悪事がバレることはなかった。公立高校の外国語科に進学し、ハイレベルな授業になんとか食らいつきながら、テニス部では爽やかな汗をかいて、いつしか女子の注目の的になっていた。野球をやめたのは、一つは授業との両立が難しいと判断したからで、もう一つはテニス部のほうがモテそうだったからである。案の定彼の目論見は成功し、バレンタインには他の男子に大きく差をつけて大量のチョコをもらったり、女子の告白を受け入れてデートするまでに至った。…が、家で一人でいるときはというと、ネットで検索した成人向けの画像にクラスの女子の顔を合成したり、妹が脱いだパンツを夜中にこっそり洗濯かごから取り出して履いたりと、プライベートのほうはかなり歪んでいた。

ここまではオンとオフを器用に使い分けてきた角三だったが、第一志望の大学を落ちたばかりか滑り止めの第二志望にも引っかからず、やむを得ず底辺の私大に進学してからは、ヤケになって所謂“セフレ”を量産したり、アルコール度数九パーセントの缶酎ハイでひっくり返ったりしていた。だが、偏差値と学部のレベルの低さが幸いし、どうにかきっちり四年間で卒業した。このときは単位を落として悩んだり留年や退学の憂き目に遭う理系の眼鏡どもを、遠目から観察してコケにしては同じ学部の友達と嘲笑っていたが、在学中から書き始めたエントリーシートは悉く敗れ去り、卒業後はアルバイトを何件も繰り返した挙げ句、やっとこさ正社員としての立場を手に入れた。

ちなみに以前彼が見下していた理系連中はというと、ドロップアウトして引きこもりになった情けない者もいれば、諦めずに八年かけて卒業しエンジニアとなった者、或いはガラッと方向転換してお笑い芸人となり、コンビ結成一年目にして早くも漫才師としての頭角を現している者もいる。中には大学を逆恨みして工学部の建物に火を付け、警察のご厄介となったどうしようもない馬鹿もいるが…。



あるマンションの一階に入っている、洋食のチェーン店。ここではハンバーグやオムライスといったメインディッシュをはじめ、パフェなどのデザートやドリンクも提供している。

そこに、角三は店長として勤務していた。この店舗ではたった一人の店長である。他にはバイトリーダーがたったの二人と、あとは大学生及び社会人のバイトが五人、残りの七人くらいは高校生である。

飲食チェーン店である以上、この職場はバイトの出入りが激しい。

だから求人サイトやアプリには、いつも広告が載っている。それも“あと一週間で締め切り”などという急かし文句を付けて。本当は期限を過ぎたら新しく張り直すくせに、だ。

開店は朝の七時で、閉店は夜の十一時。客層は主に朝は通りがかりの会社員、昼間が主婦層で夕方は中学生から大学生、夜は二十代の若者たちだ。特に夕方から夜にかけては注文が殺到する。笑顔が資本の接客業だが、キッチンと客席の間を夜遅くまで駆け回っていると、騒がしくて段々笑えなくなってくる。まぶしい明日なんざ何一つ思いつかねえ。

バイト連中でさえ泣きそうになる職場だから、店長の角三にとってはもはや地獄でしかない。バイトリーダーが入れないシフトには自分が入らざるを得ないし、シフト管理やマネジメントなどの仕事も掛け持ちなのだ。おまけに売り上げが良くないと、上の連中にボコられる。正社員という安定した立場と一月三十万の給料、わずかな休日の前日の夜中に飲むビール。そしてバイトの半数を占める、十代後半から二十歳までの女子達。以上が、角三をこの職場につなぎとめている理由であった。特に女子高生バイトに少々セクハラを帯びた無茶ぶりをすると、明らかに返答に困って気まずそうな顔をしてくれるのが、角三の角三を密かに刺激した。曲がりなりにもモテていた大学時代ならともかく、下腹が太ってきて顔もたるんできた今では、結婚や恋愛はおろか、セフレすら諦めていた。そんな角三にとって、女子高生が無理に気を遣って仕方なく愛想笑いしてくれるのは、勤務時間中ではただ一つの救いであった。



ある日やってきた新入りは、四角い黒縁眼鏡をかけた痩せぎすの男であった。猫背気味で、おまけに真っ黒いジャンパーを着ているため気味が悪い。若白髪の混じった焦げ茶色のくせっ毛は生え際がかなり後退しており、一見ハゲているようにすら見えるが、額が変に広いだけのようだ。目つきはぼんやりとしていて、顔全体も血色があまりよくない、正直どんくさそうな男である。


この新人こいつは仕事ができない


角三の直感が、真っ先に根を上げた。



その新人の名前は、貝沢かいざわ 出雲いずも。難関国公立の理学部を目指していたが何浪しても受からず、やむを得ず入学した電気系の私立は学費が高くて入学金だけ払うのが精一杯、それでも奨学金を借りるのが怖いから入ってそうそう中退した、という経歴を持つ。ちなみに働いたことはないらしい。年齢は二十七歳。今までの人生で何やってたんだこいつ…。ちなみに角三は二十五歳。なんと格下の貝沢のほうが年上である。二十七、八のバイトならリーダーを除いて他にも二人いるが、別のバイトをいくつか経験済みであり、そして二人とも、別のバイトを掛け持ちしている。

角三は、貝沢出雲を雇いたくなかった。しかし、人手不足だから雇うしかなかった。



角三の嫌な予感は的中した。

貝沢出雲は、まともに仕事ができない。

まず遅い。注文を受けるのもキッチンで作業するのも、清掃でさえも何から何まで時間がかかる。最初はサボっているのかと思ったが、様子を見ていると原因がわかった。一挙手一投足がそもそも遅すぎるのだ。本人は見るからに焦っているので何とも言えないが、動作がドタドタしてぎこちないし、反応も極端に鈍い。

だから当然、気が利かない。他のバイトがトラブルに困っているのを尻目に、黙々とルーチンワークに打ち込んでしまう傾向がある。わざと無視してると思った角三が本人にそのことを伝えたところ、本当に気がついていなかったのだと言い訳が帰ってきた。それでは駄目だ、もっと周囲に気を配れ、と注意してやったら、何を勘違いしたのか今度は他人ひとが途中までやってる仕事を奪おうとするようになった。本人は手伝おうとしているのだろうが、問答無用で横から手を出されるなんてこっちからしたら迷惑でしかない。

あとミスが多い。そろりそろりと馬鹿丁寧に食器を運んでおきながら、最後の最後に集中力を切らして全部落として割る、ということが雇ってから一ヶ月の間に三回起こった。それに注文もちょくちょく間違えるし、調理も下手だし、モップがけもビショビショ。

おまけに声が小さい。低い粘り気のある声でもぞもぞと喋るから、客がしょっちゅう聞き返す。腹から声を出すように命じたら、こわばった顔で怒鳴ってるみたいな声を出し始めたので、即刻撤回した。どうもこいつは、反省すると裏目に出るという悪い癖がある。

そして一番まずいのは、こいつがやたら一匹狼だという点である。キッチンでは暇な時間であっても雑談なんかしないし、勤務時間を過ぎても他のバイトと喋ってる様子はない。プライベートを明かそうとしないのだ。これだけなら、物静かでストイック、寧ろいい人材だと思えるかもしれないが、その影響が仕事にまで及んでいるのが問題だ。最初は新しい仕事を自分から教わろうとしなかったし、そのことを注意したところで、自ら教わりにいくようにはなったが飲み込みが遅く精度も低い。本当なら教わるんじゃなく“見て覚える”ことをしてほしいのに。

こんなボロカスおじさんなんかさっさとクビにしたいが、解雇されるようなことだけは器用に避けてくるのだから最悪だ。入れてやったシフトには必ず出勤するし、その時間もちゃんと間に合わせる。ひどいときには三十分も前から黄色のユニフォームに着替えてバックルームで待機してやがった。こんな使えないどころか足を引っ張るようなのがよりにもよって無遅刻無欠席とはどういうことか?連勤にしようが十時間ぶっ続けにしようが容赦なく出勤してくる。そして何か教わる度に震える手でちまちまとメモを取る。で、いざやらせてみるとミスをする。しぶとい。というかもはや、しつこい。勤務態度にしても、真面目と言えば真面目だ、悪い意味で。寧ろ言葉や仕草は吐き気がするほど腰が低い。主体性に欠けるが、怠慢といえるかは微妙である。

いっそバックれるか、くたばるか、事件を起こしてムショにでも行ってくれたら…と角三は思っていた。



どうしようもない貝沢出雲だが、彼にはただ一つの強みがある。

そしてそれは、このバイト先においては、勤務中ではなく、店じまいの作業が終わって退勤を切ったあとに発揮された。



最初のお披露目は、貝沢が採用されてから三ヶ月後。角三が休みを取っていてその場にいないときだった。バイトリーダーの石田(角三より年下の二十三歳)という男。それから、バイト歴はかれこれ四年になるが二十歳になって間もない沖野という女。そして例の貝沢。この三人で勤務を終えた。

「なあ、近所に“幽霊が出る”って噂のトンネルがあるじゃん」

石田が、ふいに話を切り出した。

「え、何ですか?急に」

返事をしたのは沖野だ。

貝沢は、二人に背中を向けている。

「あれ、知らない?霊の出るトンネル」

「知ってますよ、デパート前の歩道橋を過ぎたところにある、あのトンネルですよね」

「そうそう」

「でも、なんで急に」

「いや、今度の休みに、友達が肝試しに行くらしくてさ、俺も誘われたんだけど、行くかどうか迷ってて」


「行かないほうがいいですよ」


突然、貝沢が口を開いた。

他の二人はぎょっとして振り返る。まさか貝沢が雑談に入ってくると思わなかったのだ。

貝沢はいつの間にか、二人のほうを向いている。

「へへっ、まあ、そうだよなあ…俺もさすがに罰当たりだとは思うんだけど、どうやって断るべきか…」

そう言いながら、石田はマッシュヘアを軽くかき回した。

「貝沢さん、そういうの詳しいんですか?」

さりげなく、沖野がパスを出した。会話を続けやすいようにと、些細な気遣いをしたつもりでしかなかった。


「ええ、まあ。詳しいというか…単なる噂話ですが」


貝沢は、そのまま低くねっとりとした声で語り始めた。


「あのトンネル、一般には幽霊が出るって言われてますけど、実際にあそこを通った人たちの中には、幽霊ではない別のものを見たって人もいまして。というか、幽霊の姿を見た、なんて人は、実はいないんですよ。怪現象はちょくちょく起きるんですけどね。霊感が強いと体調を崩す、とか、いないはずの女の声が聞こえる、とか。でもね、姿を見てしまうと、実は違うんですよ、これが。幽霊ってほら、人の姿をしてて、でもよく見たら透けていて、この世のものではない、うわあ。こんな感じでしょう?でも実物を見た人は、もっとおぞましいものだって言うんです。

あれは確か、僕が高校生だったとき。母と二人でタクシーを捕まえて乗ったんです。そのとき、運転手さんが話してくれて。


『あのトンネルには、アースロプレウラが出るぞ』


って。知ってます?アースロプレウラ。古代に生息していた、人間よりでっかいムカデ。今はもう絶滅してるはずのそいつが、トンネルの天井に五、六匹張り付いてるって言うんです。最初は僕も、そんな馬鹿なって笑ったんですけど。そのときの運ちゃんの語り口を聞いてると、とても嘘とは思えなくなってきて。


『女の悲鳴が聞こえたんで、タクシーをとめたが、誰もいない。運転席を降りてトンネルを見渡していると、上のほうからカサカサと音がする。見上げると、明らかに二メートルはあろうかというムカデが、ぞろぞろと進んでいく。怖くなって、車の中に戻ってトンネルを抜け出した。後日、その話を会社の連中に話したが、誰にも信じてもらえなかった』


…まあ、僕は実際に見たわけじゃないですけど。でもトンネルって、


山 を く り ぬ い て 作 る で し ょ ? 」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る