恐怖の朝
その一日は、いつものように一杯のコーヒーを飲むところから始まった。
「ダディ!」
息子が、窓の正面に立って外の何かを見つめながら私を呼んだ。
「なんだ?」
「そらから、へんなものがおちてくる」
私は息子の背後に立ち、窓ガラス越しに空を見た。
ところどころ白く光っている、灰色の曇り空。
その分厚い雲を背景に、紫色の火球が緩やかなカーブを描いて地面へと降りていく!
「なんだあれは!」
火球は、私の感嘆に答えるかのごとく一瞬だけ発光すると、青々と生い茂った木々の向こう側へ沈んだ。
あれの正体を確かめなくては!
私は、猟銃を担いで現場へと向かうことにした。銃社会は色々と負の側面が多いものの、未知の恐怖に対する護身用としてはうってつけだ。
息子には
「ママと一緒にいなさい」
と留守番を任せた。武器を所持しているとはいえ、危険かもしれないものを見に行くのに我が子を連れ出すのは、あまりに愚かだ。私の身に何かあっても咄嗟に連絡だけはできるよう、携帯電話を所持しているし、妻にも用事の内容を伝えておいた。
勿論、妻からは
「危ないんじゃないの?」
と心配されたが、私にしてみればよくわからないものをよくわからないまま放置し、妻と息子を得体の知れないそれと隣り合わせにしているほうが、よほど不安である。
私は血統としては日本人だし、この世に生を受けたときから高校に至るまでをずっと日本国内で過ごした。しかし大学のときアメリカ留学して、仕事の生産性や異文化の魅力に心を奪われ、日本での人生設計に迷っていたこともあって、大学卒業後はアメリカに移住することを決意した。
妻のオリビアとは留学中のホームステイ先で出会った。そのときはただお互いに友人としての関係を築いていたものの(ただし、私のほうは実は最初から恋愛感情を抱き始めていた。オリビアのほうはどう思っていたのか不明だが)、大学卒業後に私がアメリカへ移り住んだときに再会し、交際を重ねた上で結婚、現在に至る。妻のブロンドの髪と青い目は、今年の八月に五歳の誕生日を迎えた息子のレイモンドにしっかりと受け継がれている。
日が昇ってから間もないので、一歩外に出ると嫌でも冬を実感させられた。こんな季節でも針葉樹は細く尖った青い葉っぱを広げている。それらの木々や地面のあちこちに、昨日振った雪が残っている。雪というものは遠目に見ているとふんわりしていそうだが、うっかり足を突っ込むと横滑りするから危険だ。
家の周りからずっと続いている針葉樹林を抜けると、目の前に五メートルほどの桟橋が現れる。六年前に作り直されたというのもあって、結構頑丈な作りだ。右側から川が静かにながれていて、左側の湖へと繋がっている。
橋を渡りきると、再び針葉樹林が広がっている。といっても左、湖の沿岸になっている部分には木が立っておらず、道になっていて通れるのだが。
火球が落ちたのは右側、林の真ん中あたりだ。私はその林へ足を踏み入れた。
針葉樹林の隙間から、紫色の炎がチラチラと見え始める。
どうやら、そう時間をかけずに目的地に着けそうだ…と、ほくそ笑んだときだった。
その炎の方角から、
アアアアアアアァァァゥゥ
若い男と思われる悲鳴が上がった。
肩からぶら下げていた猟銃を前に回し、いつでも撃てるように安全装置を外して構えると、私は炎のほうへ走った。
近づくに従って、炎は段々と大きくなってくる。どうやら、炎の高さは私の腰の位置まであるようだ。
木々の間を駆け抜けて、漸く炎と目と鼻の先まで来たとき、私は思わず足を止めた。
ゆらゆらと燃える紫の炎と、そこから立ち上がる煙。
その向こうがわに、私が目にしてしまったもの。
頭から血を流した上半身裸の青年が一人、金属製のポールのようなものに縛り付けられてぐったりしている。
その周りを、灰色の三角帽子と黒いローブを身につけた者達が数名、取り囲んでいる。いずれも私に背を向けて青年のほうを見ているため、顔は見えない。
私は即座に来た道を引き返した。
巻き込まれる前に、奴らが私に気づく前に。
家に戻って、警察に連絡しよう。
それしか考えられなかった。
あの青年には申し訳ないが、猟銃があるからといって無駄な応戦はできない。
そう思っていた。
…が。
針葉樹林の静けさは、幸か不幸か、私に現実の恐ろしさを伝えてきた。
逃げる私の背後から、足音が聞こえてきたのだ!
私は猟銃を構えながら振り返った。
そして見てしまった。
奴らの顔を。
顔立ちはサルに似ているが、肌は銀色の魚の鱗で覆われていて、日の光を反射してところどころピンクや水色にテカテカと光っている。
眼球は蠅のそれによく似た真っ赤な複眼。
顎周りを覆う茶色の髭は、ミミズのようにいくつも節があって、一本一本がにょろにょろと蠢いている。
追ってきたそれらは三体。
私はそのうちの一番近くまで来ている一体に狙いを定め、引き金を引いた。
パァン
乾いた音が、針葉樹林に木霊する。
火薬のにおいが、木々の香りと混ざり合う。
放たれた弾丸は、目の前のそいつの脇腹に命中した。
黒いローブの裂け目から、乳白色の黄色いドロッとした液体が飛び散る。
グモオオオオ!!
くぐもった低い叫び声を上げながら、奴は傷口を押さえてうずくまった。
他の二体もひるんだのか、足を止めた。
私は再び背を向けると走り出した。
奴らの視界から消えるために、木々の間をジグザグに進んだ。
無我夢中で駆け抜けた。
脇腹が痛くなっても、座り込みたくなっても、足を止めるわけにいかなかった。
桟橋までたどり着いた、そのとき。
「ダディ」
桟橋の向こう側に、息子が現れた。
私を心配して、ここまで来てしまったのだろうか。
息子はその小さい足で、こちらへ向かって桟橋を渡ろうとしてくる。
「逃げろーっ!!」
私は走りながら叫んだ。
息子は、びくりと身震いしてUターンする。
私は桟橋を駆け抜ける。
漸く橋を渡り終えたときだった。
背後から、トコトコと橋を渡ってくる音がする。
来やがった!
後ろを振り向くと、
追ってきたのは、黄ばんだシャツと茶色いオーバーオールを身につけた小太りの男。
顔なじみだ。
「ジョンソン!」
ジョンソンは桟橋の向こう側の土地に住んでいる知り合いだ。何故私を追って橋を渡ってきたのか?
…その答えは、彼が私と同様に抱えている猟銃を見てわかった。
彼も私と同じく、火球の落ちた場所を確かめに現場へ向かったのだ。そして奴らに見つかり、逃げてきた。
「いやあ参ったよミヤモト、あんな得体の知れない化け物に遭遇するなんて」
「それはそうと、奥さんは大丈夫なのかい?きみの家は向こう側だろう」
「いや、妻なら大丈夫だ。ちょうど今、友達と三人でパリに旅行に行ってる。だが明日の午後には帰ってくるから、それまでにケリをつけないとなあ」
「だが、一体どうやって仕留めるんだ。こっちには
「なあに、簡単なことさ。奴らは僕らを追って、桟橋の上を走ってくる。そこを狙い撃ちするってわけさ。二人がかりなら、外すこともないだろう」
そう言って銃を構え、桟橋を挟んだ向こう岸に狙いを定めるジョンソン。
私も彼に習って、同じ方角に銃口を向け…ようとしたそのとき。
「ダディ!!みずのなか!!」
息子が叫んだ。
私は咄嗟に湖のほうへ銃口を向けたが、
バオオオオオオオオオオオ!!オオオオォォ
水面から飛び出した最初の一体は、私を体当たりで突き飛ばし、そのままジョンソンに飛びかかった!!
「うおっ!?ひ、卑怯な真似をしやがってこんちくしょう!!」
ジョンソンとそいつは取っ組み合いに。覆い被さっているのは例の化け物のほうだが、ジョンソンも負けじと奴の顎に連続右フックをおみまいしている!
加勢しなければ!
私は化け物を引き剥がそうと、奴の来ている黒いローブに掴みかかった。
が、後ろから両脇を引っ張られてバランスを崩し、私は地面を転がった。
態勢を立て直し、状況を確認すると、なんとジョンソンともみ合ってるのとは別の二体が、私を取り囲んでいる!
「ダディ!!」
「大丈夫だ!!」
私は不安を与えまいと、ちらりと息子のほうを見ながら答えた。
…が。
「ダディ!!」
私は大きな勘違いをしていた。父として情けない。
息子の傍まで、四体目が迫っている!!
「レイモンド!!」
私は息子にだけは手を出させまいと、反射的に地面を蹴って飛び出した!
…が、私を囲んでいた二体が立ちはだかる!
「くそう!!」
四体目が、息子をひょいと抱えて歩き出す。
「ダディ!!ダディイイイイイ!!」
息子が、小さな両足をばたつかせて宙をかき回す。
「このやろう!このやろう!これでもか!!」
視界の外では、まだ一体目とジョンソンが殴り合っている。
エエーファッファッファッファッファ!
二体目と三体目は曇った裏声で笑いながら、私の目の前をピョンピョンと反復横跳びし始める。
エエーファッファッファッファッファ!エエーファッファッファッファッファ!
その二体の向こう側で。
四体目は、息子を抱えたまま湖へと入っていく。
その瞬間。
急な頭痛がして、私は一瞬目をつむった。
瞼の裏で見えたのは、古びた紙面。
そこに書かれているのは、
五十行はあろうかという、ありったけの数式。よく見ると、見たこともない記号がチラホラ混じっている。
その右に、
何を意味しているのかも不明瞭な、謎のグラフ。XY座標でも、極座標でもない、謎の座標軸。
…これに頼るしかない!!
私は即座にしゃがみ込むと、傍に落ちていた短い木の枝を手に取った。
その枝で、足元の土の上に、さっき見えた数式を書き殴っていく!
グモオオオオオオオオ!!オオオオオオオ!!
頭上で、奴らの悲鳴が聞こえる。
尚も数式を書き連ねていく。私が、というより、手がひとりでに。
二十行を過ぎたあたりで
ゴワアアアアアァァアアアァアァアア!!!!
奴らの苦悶の絶叫が響き渡った。
顔を上げると、
奴らが、喉を掻きむしりながら、
その醜い顔と、灰色の三角帽子と、黒いローブが、
無数の数字と大小のアルファベット達の集合体に変化して、
あっという間に、空中で消えてなくなった。
同時に、私がさっき書いた数式も、すうっと消えてしまった。
ふう、とため息をつく。が、まだ仕事は残っていた!
「ダディ!!」
息子の声と、バシャバシャという
未知の脅威は去ったが、今度は自然が息子を連れ去ろうとしている!!
「レイモンド!!」
私は咄嗟に水の中へ飛び込むと、冷たい水をかき分けて息子のところまでたどり着き、息子を抱きかかえて岸に戻った。
陸に上がるとき、ジョンソンが手を貸してくれた。
水の冷たさと恐怖から息子はブルブルと震えていたが、怪我をしたとか水を飲んだとかいうことはなかった。
あのあと息子は軽い風邪を引いたが、大事には至らず、三日後にはすっかり元気になった。
警察に連絡して現場を調べてもらったが、未知のものの痕跡があまりに多い故か、現在も捜査中だ。噂によるとFBIやCIAまで調査に関わってきているらしい、とあとでジョンソンが教えてくれた。
残念ながら生け贄にされていた青年だけは、彼自身どころか持ち物すら見つかっていない。
今になって私は、万が一奴らがもう一度現れたときに備え、そして私が元来数学好きなのもあって、あのとき見た数式とグラフを再現しようとしている。
今度はただ写すだけでなく、その意味も理解したくなったのだ。
だが、どんなに思い出そうと紙の上で手を動かしても、あのとき見た数式とグラフ、特にあの未知の記号と座標軸だけは、どうしてもぼやけて思い出せないでいる。
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