恐怖の屋敷
「ソーゾクってなに?」
幼稚園児の美穂には“相続”という言葉の意味がわからない。
「相続っていうのはね、うーん…」
美穂の母は説明しようとするが、うまく伝える言葉が思いつかない。自分はわかっていても、相手に理解させるのは、その相手がまだ言葉を多くは知らない子どもであれば尚更、難しいのである。
「もうちょっと美穂が大きくなったらわかるよ」
ちょうど信号待ちで車をストップさせた美穂の父が、ハンドルを握ったまま助け船を出した。
美穂は不機嫌そうにそっぽを向いて窓の外を見た。街灯が発しているナトリウムランプの橙色の光が、座席まで染みこんでいる。その橙色を浴びているアスファルトの地面とガードレール、等間隔で並んでいる三角コーンくらいは目視できるが、それ以外は暗闇に塗りつぶされている。
オレンジとくろばっかりでつまんない。
美穂が愚痴をこぼそうとしたときだった。
窓の外に、猫の顔が現れた。ナトリウムランプに照らされているため色はわからないが、頭に縦向きの三本線が入っているのを見るに、恐らくトラネコだろう。窓ガラスに反射した美穂のちょうど肩に乗っかるような位置に、その顔はあった。
信号が赤から青に変わり、車が再び走り出す。
猫の顔は、車にピッタリと追いついたまま、縦長の二つの瞳で美穂をじっと見ている。
現れてから十秒も経つと、猫は煙のように消えてしまった。
同時に、美穂がもう少しで正体を掴みかけた違和感も、どこかへ立ち去ってしまった。
目的地に到着し、父が車を
「なんか、くるまのなか、へんなにおいしてる」
少し気分を毒された美穂がそう言うと、
「エアコンのにおいだよ」
と父が答えた。なるほど、確かに暖房のスイッチが入っている。十二月の二十時過ぎは冷え込みが厳しいので、乗ったときから暖房を強めにしておいたのだ。
車のドアを父に開けてもらい、チャイルドシートから降りる。小さな足を二つ地面につけて立ち、外の空気を吸い込むと、ようやく車内の嫌なにおいから解放された。
「お屋敷はこちらです」
不意に、低くねっとりとした男の声が、美穂の斜め上のほうから聞こえた。
見上げると、執事らしき服装の、身の丈百八十センチはあろうかという男が立っている。美穂との身長差もあって、暗いせいで顔はよく見えない。
「あ、管理者さん」
美穂の母の口調からすると、面識がある人物のようだ。
「ご案内いたします」
そう言うと、“管理者”は先に立って歩き始めた。
駐車した場所から十五分ほど歩くと、例の屋敷にたどり着いた。美穂の祖母が親戚から相続した…と電話で伝えられ招待されたのだが、詳しいことは美穂はもちろん、父も母も聞かされていない。
レンガ造りの洋館で、大きさは小学校の校舎ほどもある。暗くて色はわからないが、円錐状の屋根が五本ほどそびえ立っており、美穂はいつもお絵かきに使っているクレヨンを連想した。十数個の窓から、橙色の
「こちらが玄関です。さあどうぞ」
“管理者”が、ギイ、と軋ませてレストランのそれみたいな木製のドアを開けた。
まず母が、続いて父が、最後に美穂が屋敷の中に入る。
ドアが閉まった。
“管理者”は、入ってこない。
血のように赤いカーペットが、広々とした一階の四方の壁まで広がっている。天井には黄金色のシャンデリアが五つぶら下がっている…掃除が大変そうだ。部屋全体を照らしているナトリウムランプは、車の中から見たあの猫の顔を、美穂に連想させた。
どこでそうすべきかわからないなりに、美穂は靴を脱ごうとした。
「美穂、ここでは靴を脱がないの」
母にそう命令され、美穂は脱ぎかけた靴を慌てて履き直した。
横幅の広い階段を上がって二階に上がる。
二階は横長の廊下になっていて、五枚ほどのドアが等間隔で並んでいる。一番左端のドアが開けっ放しになっていて、部屋の中は真っ暗だった。
母が部屋の明かりをつけると、黄色く照らされた薄暗い部屋の真ん中に、祖母の姿があった。
「ばーちゃん…?」
美穂は、祖母の様子がいつもと明らかに違うことに気づいた。
両膝をついて床に座っており、その両脇に左右の腕を力なく投げ出している。虚ろな目は、右と左で焦点が揃っているようには見えない。
「だい…じょうぶ?」
心配そうに美穂が声を掛けるも、反応がない。
「…お母さん久しぶり!元気そうでよかった!」
美穂の視界の中に、いきなり母の背中が声と一緒に入り込んできた。
祖母の様子と母の言葉は辻褄が合っておらず、美穂の不安を一層、悪化させた。
「ママ?」
「ねえ美穂!」
そう言ってくるりと振り向いた母の顔は、笑顔の模範ともいうべきであろう満面の笑みだった。
「お婆ちゃん、美穂に会うのをとっても楽しみにしてたみたいよ!」
「う、うん…」
美穂は、母に話を合わせるしかなかった。
「ママちょっとお茶淹れてくるから、お婆ちゃんとお話でもしてて」
そう言って、母は二人を置き去りにして部屋を後にした。
「ばーちゃん…」
恐る恐る美穂が話しかけるも、祖母の反応はない。
沈黙が訪れた。そのせいで美穂は、どこからか流れてくる、何か呪文のようなものを唱える声を聞き取った。
「…おきょう…?」
よく聞くと、念仏のようなものを唱える声は、半開きになった祖母の口から漏れている。
美穂は部屋を飛び出した。祖母の姿をした別の何かと、同じ空間にいられなかった。
さっき上がってきた階段を駆け下りると、お盆にティーカップを載せた母と、危うくぶつかりそうになった。
「あら美穂、どうしたの?」
「やっぱりへんだよママ!ばーちゃん、おきょうみたいなのとなえてた!」
「気のせいよ。ほら、あったかいお茶飲んで落ち着きなさい」
そう言って母が、美穂の小さな手にティーカップを持たせる。
「うん…ごめんなさい」
ティーカップに口をつけようとした美穂は、中身がお茶ではないことに気づいた。
白くツヤツヤとした陶器の中で、数匹のムカデがとぐろを巻いて蠢いている。
「ぎゃっ!」
美穂は思わず、ティーカップを放り出してしまった。ガリン、と音を立てて割れたカップ。その破片から、うねうねと毒虫たちが這い出してくる。そのうちの一匹は、よりにもよって美穂のほうへ向かってくるではないか。
「うわあああっ!!」
涙目になって、美穂は玄関に向かって走り出した。
玄関にたどり着く。
背を伸ばして取っ手を掴み、ドアを開ける。
父が、目の前に仁王立ちしていた。
左手にペンチを持っている。
「これ、楽しいぞ。美穂もやってみろよ」
そう言って父は右手を、甲を上に向けて見せてきた。
五本の指の先から、ボタボタと血が滴っている。
爪がない。
「うおああああああっ!!!?」
涙と鼻水をまき散らしながら、美穂はUターンして走り出した。
とはいえ、どこに逃げればいいのかわからない。
両親そっくりの別の何かから身を隠そうと、バシャバシャとまだらに方向転換する。
ん、バシャバシャ…?
足元に視線を移す。
血のように赤いカーペットはいつの間にか、本物の血溜まりに差し替えられていた。
「びゃあああああっ!!!!!!?」
仰天したのと、足元がぬるぬるしているせいで、ずるりと足を滑らせて尻餅をついた。
お気に入りのふんわりした黄色いスカートを通過して、水よりちょっと重たいものが外側からパンツに染みこんでくる。
「やだ!!!!やだあああああああ!!!!!!」
発狂しながらも、ザバッと音を立てて立ち上がる。
見ると、さっき上がったのとは別の、幅の狭い木の階段がある。
美穂は、死に物狂いで階段に飛び込んで、そのままの勢いで駆け上がった。
一階から二階へ、二階から三階へ、橙色の薄明かりの中を、途中にある部屋を無視して駆け上がる。
どす黒く小さな靴の跡は、だんだん薄くなっていく。
何階に着いたのだろうか。
とうとう、最上階らしきところまで来てしまった。階段がもう、上には続いていないのだ。
目の前の廊下を進むしかない。天井にポツンポツン等間隔で取り付けられた申し訳程度の豆電球を覗けば、明かりは一切ない。微かに、埃とカビの混ざったにおいがする。
小さな足を、一歩ずつ、一歩ずつと、恐る恐る踏み出していく。その度に、後ろ側だけ新聞紙みたいにパリパリになってしまったパンツが、お尻に擦れて痒くなる。染みこんだ血が乾燥したのだ。
老朽化した木の廊下を踏みしめるのに合わせて、
ギイイ、ギイイ
と、軋む音がする。
先へ進めば進むほど、埃っぽさとカビ臭さはこってりと濃いものへと変わっていく。
暗くて奥がよく見えないせいで、ずっと続くかに思われていた廊下だが、美穂の足でも突き当たりまでたどり着くのにそう時間はかからなかった。
突き当たりは襖になっていて、隙間から橙色の光が漏れている。
美穂は、ただぼうっと突っ立って、襖を開けるかどうかについて、頭の中だけを一心に動かして考えていた。開けて向こう側へ行けばなんとかなるかもしれないが、とても確かめる気になれない。引き返して屋敷を脱出し、助けを求めたほうが、まだ現実的なように思えた。
回れ右をして、来た道を戻ろうとしたときだった。
さっき美穂がのぼってきた階段を、別の誰かが上がってくる音がする。
美穂は咄嗟に、一八〇度向きを変えると、襖を開けて部屋に滑り込み、襖を閉ざした。
その部屋は六畳の和室で、壁際に黒い仏壇が一つ配置されているほかは、何も置かれていなかった。隙間から見えていた光の正体は、仏壇の蝋燭の明かりであった。
ギイイ、ギイイ
階段を上がってきた何者かが、廊下を進んで和室に近づいてきている。
美穂は隠れる場所がないか探した。さっき開け閉めした襖以外は出入り口などどこにもないし、盾にできそうな家具もない。
仏壇の下の部分、中央に縦向きの取っ手が二つ並行に並んでいるのを、美穂は見逃さなかった。
観音開きの扉になっていて、収納スペースが隠れているのだ。
迷わず、小さな両手を左右の取っ手に引っかけて開けた。
「うっ」
開けた扉の中から真っ黒い煙と熱風が飛んできて、美穂は思わず顔を背けた。
再び収納スペースの中を覗き込むと、なんとどこまでもだだっ広い空間に繋がっていて、その一面どこまでもがメラメラと燃えたぎる炎に占拠されているではないか。しかもそのあちこちで黒い人の影が、炎に包まれたまま蠢いていて、ぎゃあぎゃあ泣きわめいている。
「けほっけほっ…」
美穂は咳き込んだ。煙を吸ってしまったのだ。ゴボッと音を立てて喉から焦げ臭い痰が飛び出してくる。
仏壇の扉を閉め、美穂がようやく安堵して振り返ると同時に、
襖が開いた。
美穂は硬直した。全身の血が、さざ波みたいにサーッと引いていくのを感じた。
和室に入ってきたのは、
執事みたいな服装の長身の男。
“管理者”だ。
左手に、輪っか状にまとめた荒縄を握りしめている。
「こら、悪い子だ」
ドスの利いた声を吐き捨てると、“管理者”は美穂の目の前まで来て立ち止まってかがみ、左手に持っていた縄をきつく、それでいて手際よく美穂の体にグルグルと巻き付けていく。
それまで高い位置にあってはっきりと見えていなかった“管理者”の顔を、美穂は完全に目視することになった。
その猫の顔と、今ここで自分をグルグル巻きにしている“管理者”の顔が、全く同じものなのだ。
「うぁっけほっけほっ…」
美穂は叫び損なった。さっき吸い込んだ煙の所為か、それとも縄がきつくて大きく息を吸い込めない所為か、本人にはわからない。
だが猫の顔を見ているうちに、最初にその顔を見て車内で感じかけた違和感が、ダメ押しと言わんばかりに更なる恐怖となって帰ってきた。
車が走り出してもピッタリと追いついていた顔。
いつものエアコンのにおいとは明らかに違っていた獣臭さ。
あのとき猫は反射して窓に映っていたのだ。
車の外ではなく、内側にいたのだ。
美穂の隣に乗っていたのだ。
“管理者”は、縛り上げた美穂を右肩に担ぐと、そのまま速やかに和室を後にし、
階段を駆け下りて、
キッチンへと移動し、
床下の隠し扉を開け、
無数に陳列された酒樽の中の一つを引っ張りだし、
円盤状の蓋を開け、
赤葡萄がぎっしり詰まったその樽の中に、縛ったままの美穂を力ずくで押し込んで、
蓋を閉め、美穂が詰まったその樽を元の位置に戻した。
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