恐怖のトチノキ

この庭のトチノキを切ってはいけないよ。

トチノキの神様の怒りに触れてしまうからね。


僕は五歳の時、祖父にそう教わった。


祖父がそう言うんだからこの木を切ってはいけないんだな、と当時の僕は鵜呑みにした。


母方の祖父母が住んでいた二階建ての一軒家には、一本のトチノキがあった。三月になると青々とした大きな葉っぱをドレスみたいに広げるので、相対的に幹が細く見えた。五月が始まると乳白色の小ぶりな花束を掲げるので、小型の蜂が周囲を飛び回って危ないから、僕は迂闊に近寄れなかった。ただ七月を迎えると、時折蝉が幹に止まって、彼らにしか歌詞のわからないヘヴィメタルを披露するので、僕は虫取り網を持って接近し、ハンティングに失敗して蝉のおしっこをもろに食らった。一度だけ、蝉ではなくコクワガタに遭遇し、捕まえて家族や友達に見せびらかしたことがある。その後クワガタがどうなったのかはよく覚えていないが、脱走されたとか死んでたとかそういうショッキングな別れだったとすると今頃トラウマになっているはずなので、たぶん自分ですぐ逃がしてやったんだと今では解釈している。…話をクワガタからトチノキに戻そう。九月になると、トチノキはたくさんの実をつける。そしてそれらの実が十月頃に落ちてくるので、祖父が収穫するのを僕も手伝った。十一月中にはすっかり葉を落とし、危険な虫もほぼいなくなるので、僕は十歳くらいまでは木肌を触ったり幹にしがみついて巫山戯ていたのだが、掌や服にべたべたする汁がつくのが嫌になっていたので、小学校を卒業する頃にはもう触らなくなっていた。収穫した実は年明けになると、とち餅になって帰ってくる。料理など祖母に任せっきりで、せいぜい作り置きの味噌汁を温めるくらいしかできなかった祖父が、唯一始めからこしらえるのが、このとち餅だった。小四のとき一度だけ囓ったが、なんともいえない苦みと癖があって、子どもの舌ではとても受けつけなかった。ひょっとすると、今食べてみたら美味しいかもしれない…。



僕が中三のときに祖母が持病の悪化で他界し、それから一ヶ月もしないうちに、祖父は急に小便を部屋中まき散らして歩いたり、数分前にとったはずの食事のことを忘れて安物のパンを貪るようになった。そんな祖父の姿を見た父が

義父とうさん、認知症かもしれないぞ?」

と口にしたのをきっかけに、母が病院に連れて行くと、残念ながら父の予想は的中していた。一般的な老人ホームは高くつくか、或いは安いところだと暴力などの問題が発生しがちなので、一度は家で面倒を見たのだが、食事の用意やオムツの交換のみならず、水たまりと化した小便や床に散乱したウンコ、何より四六時中機嫌が悪く怒鳴り散らしたり暴れまわったりする祖父の存在そのものが負担となってのしかかってくることになった。もはやかつての知性も面倒見の良さも、僕と母の前では一切見せることがなくなったのだが、それでも勉学に限った頭の出来と外面の良さだけは残っているようで、他人であるはずの父やデイサービスの介護士の前では、計算ドリルや漢字ドリルをあっさり解いたり、屈託のない笑顔で世間話をしていた。父の出張中、杖を振り回して一晩中暴れまわったので、さすがに家具の破損や怪我のもとになる、ということで、結局は施設に預けることとなった。発覚当時より病状が悪化していたというのもあるが、幸い、ケアマネージャーさんの血のにじむような奮闘と、ある特養施設の方々の救いの手のおかげで、その特養で引き取っていただけることになった。部屋は清潔感に満ちており、食事の栄養バランスもよく考慮されていて、第一介護の人たちはとても丁寧にケアをしてくれて、にもかかわらず祖父は、本人の“老い”という死神からは逃れられないようで、毎日様子を見に行っていた母曰く、日に日に弱っていくのが目に見えているらしかった。食べたものを消化する力が残っていないのだという。あまりに衰弱がひどいのを心配して担当のかたが病院に連れて行ってくださったのだが、一緒に病院について行った母が医者から聞かされた延命の手段は、腹に管を刺して栄養を補給する、というものだった。本人が決断できるならまだしも、今の状態だと、記憶がない状態で自分の腹に謎の管が刺さっているのに気づいて、最悪自分で引っこ抜いたりでもしたら取り返しがつかない。介護士さんが匙でそっと口元に運ぶ流動食を、顔をしかめて細い腕で払いのける祖父の姿をその目で見てきた母は、どちらにせよどこかで非情にならざるを得ないという残酷な二者択一を前に葛藤を繰り返して悩みに悩んだあげく、結局は祖父の人間らしい最期を尊重するという決断を下した。仕事で忙しく一週間に一回しか祖父と面会できない父も、さほど義父の命が長くはないことを察していたようで、母が買い物に出かけている間の父子二人での留守番中に

「お前も、そろそろおじいちゃんに会っておきなさい」

と、腕組みしながら目を伏せて重い口を開いた。祖父が僕の存在を僅かであっても覚えている可能性は微塵もないだろう、覚えていたとしても今の僕を識別できないはずだ、僕が知ってる祖父は、もうどこにもいない…そういう捻くれたこだわりから、僕だけはずっと祖父に会いに行かず、宅配便を親の代わりに受け取っておいたり、足りなくなってきた消耗品の買い出しを担当したりしていた。しかしそのときばかりは断るわけにもいかず、あくまでも母の付き添い兼荷物持ちという立ち位置で、祖父との数週間ぶりのご対面を引き受けた。



病室に入ってすぐ、目にしたのは。


介護用ベッドの白いシーツの上に、カリカリに痩せ細った老人が横たわっている。背丈は一メートルに満たないように見える。髪と眉は一本残らず白に染まっていて、目は開いておらず、注意深く観察しないと息をしているかもわからない。肩より少し下のところまでシーツと同じ白い綺麗な掛け布団を被っている。


「お父さん、啓太が来たわよ」

母が、小さい背中をさらに小さく丸めて、祖父の枕元で囁く。


祖父の目が、二ミリ開く。こっちが見えているのかもわからない。


僕のほうから顔を覗き込む。


「お父さん。ほら、啓太」

母の言葉を理解したのかは定かではないが、祖父の黒目だけが動いた。そして…


目が合った。


「お母さん、介護の人と契約の話があるから」

そう言うと、母は病室を後にした。


再び、祖父に視線を移す。


「…啓太」


面食らった。喋ると思わなかった。

そんな体力があったとは、とそのときは驚いたが、あとになって思い出すと、あれは最後の力を振り絞って出た言葉だったのかもしれない。


「…トチノキを、切るな…」


「じいちゃん、僕はトチノキは切らないよ」

切らないよ、の“い”か“よ”ぐらいのタイミングで、母と介護の人が部屋に入ってきた。



それから三日と経たないうちに祖父は老衰で亡くなった。


葬儀のあと、祖父母の家は管理しきれないということで、売りに出すことになった。中の物は売ったり捨てたりして、ダンボール箱一個分だけ僕らの家に持ち帰った。

荷物の整理が終わって、そろそろ帰るという時間になったとき、僕は庭に出てそっとトチノキを見上げた。

「ばいばい、トチノキ。新しい人とも、上手くやれよ。達者でな」

鼻の奥がツンとして、涙が頬をなぞっていく感触がした。



祖父母の家に買い手がついてから、四ヶ月後の年明けのある晩。


寝苦しくて目が覚めた。冬だというのに蒸し暑い。

喉の渇きを潤すため麦茶でも飲もうと、台所へ向かう。

裸足でペタペタと木目の廊下を歩いていると、襖の隙間から赤い光が漏れているのに気づく。

開けようとして手を前に伸ばしてはじめて、僕は自分の身に起きている異変に気づいた。


パジャマの袖には、見覚えのあるたくさんの小さな車の柄が。

子どものとき着てたやつだ。


…子どもに戻っている!?


そして、今いるこの場所は。


…祖父母の家だ!


なぜこんなことに!?わけがわからない。


襖から、赤い光と一緒に、すすり泣く子どもの声と、


ぎゅう、ぎゅう


という得体の知れない高い声が漏れているのに気づく。


絶対に確かめなければならない気がして、咄嗟に襖をガバッと開けた。


「あっ」

突き刺すようなまばゆい光。

さっきまで暗闇に目をこらしていたせいもあって、一瞬、僕は反射神経的に目をつむった。


おそるおそる目を開ける。


畳に敷かれた布団の上に、和風の寝間着を着た一人の知らないおじさんが横たわっている。首から下は中肉中背で、多少腕毛とすね毛が濃い以外はごく普通だ。掛け布団はめくれ上がり、おじさんの足元に放置されている。


怪異は、おじさんの首から上にもたらされていた。


顔が真っ赤に光っていて、梅干しみたいに歪に膨れ上がっていて、ぐにゃぐにゃとうねっている。

鼻も口も眉も耳も、おそらく埋没しているのだろう、配置すらわからない。

つり上がった小さな菱形の両目だけが、顔の真ん中で見開かれている。


ぎゅう、ぎゅう


エコーのかかったような苦しそうな声が、顔の真ん中から聞こえてくる。


おじさんを挟んだ反対側から子どものすすり泣く声が聞こえたので、僕は視線を移した。


紺色の着物を着た坊主頭の少年が一人、大粒の涙をボタボタとこぼしながら、おじさんを睨んでいる。

会ったこともないはずのその少年に、なぜか親近感がわいたのだが、理由は彼の絞り出した言葉ですぐにわかった。


「こいつが、こいつがトチノキを切ったから、バチが当たったんだあ」


祖父だ。


幼少期の写真なんて見たこともないし、もしかしたらそんな写真そもそも一枚も存在すらしないのかもしれない。だが、少年が祖父であることは間違いない。


「トチノキの祟りだあ」


少年が発したその一言を合図に、少年も、おじさんも、周囲のその他諸々も、全て赤い光を中心に渦を巻いて消えた。



目を覚ますと、僕は高校生に戻っていて、自分の部屋のベッドの上にいた。

「何だ夢か…」

閉じたカーテンの隙間から、朝日が漏れていた。



なんだか胸騒ぎがしたので、その日のうちに真相を確かめるべくかつて祖父母のものだった家を訪れた。

今は他人の家である以上、敷地の外からしれっとトチノキの様子を確かめるだけにする…はずだった。


トチノキが立っているはずの場所に、切り株がちょこんと居座っている。


危うく庭に足を踏み入れそうになったそのとき。

「どなたですか」

か細い女性の声に、ビクッとして振り向く。

喪服を着た中年の女性が、ぼうっとたたずんでいる。

「す、すいません!この家にもともと住んでた者の家族です。もうあなたたちの家なのにお邪魔して申し訳ない。何しろ昨日、変な夢を見たもんですから」

「夢…?」

「ええ、トチノキがどうのこうのっていう…祖父が出てきたもんで、何かあったんじゃないかと、心配になってつい…」

「ああ、やっぱりあれですか。だから言ったのに。切るべきじゃないって」

「あの…何か?」

「あの木、邪魔になるからって、主人が切ってしまったんです。断面から血みたいな赤い汁が出てきたから、やめようって言ったのに、とうとう切ってしまって。それで…」


女性は一瞬口を閉ざし、虚ろな目で地面を見つめると再び口を開いた。


「主人は、昨日亡くなりました」


僕はただ、目を見開くことしかできなかった。何も言えなかった。


「トチノキを切ってから、主人は高熱にうなされ始めたんです。それから顔が真っ赤に膨れ上がって、目元以外は鼻も口も見分けがつかなくなって、お医者様に見せても原因がわからず、あの木を切ってから一週間後にはもう…」

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