恐怖の靴下(後編)
クミの死の知らせを聞いた日の夜。
アヤネは、顔面蒼白でありながら、それでもいつもと同じ行動をとるしかなかった。
中学の勉強と陸上部で腹を空かせて帰ってきた以上、食事も喉を通らない、などとは言っていられない。人間など、所詮は生き物の一種に過ぎない。気分がどうであってもお構いなしに胃袋は悲鳴を上げる。夕食の鶏唐揚げを、味わうことなくひたすら喉に押し込んだ。三十分の食休みのあと、英語のワークを鞄から取り出し、宿題のページを開いた。
どうやらクミは、引っ越し先の自宅で首を吊ったらしい。
シャープペンシルを握るアヤネの手が、力任せに英単語をワークの空欄に書き込んでいく。
中学デビューしてからずっと薔薇色だった毎日を、あいつの訃報で台無しにされた…
シャープペンシルの芯が、ポキン、と折れる。カチカチとクリックして、芯の先を押し出す。再び、空欄を埋めていく作業に取りかかる。
なんで自殺なんて湿っぽいマネするのよ、気持ち悪い。別々の中学になって正解だったわ。あんなのとずっと一緒にいたら、こっちまで鬱になりそうだもの…ああもう、三単現の“s”の表記、ミスったじゃない…もういい、あいつのことはとっとと忘れよう…
アヤネは、書き間違えた字を消しゴムで強引に抹殺した。
その日の翌日くらいまでは、アヤネの顔色はいつもよりミリ単位で優れなかったが、勉学と部活動に打ち込んでいるうちに、いつもの血色の良さを取り戻した。結局、アヤネ自身が決心したように、クミのことなど綺麗さっぱり忘れてしまった。
六月一日。
いつも通り六時に起床したアヤネは、いつも通り制服に着替え、靴下を履こうとしてタンスの一番上の引き出しを開けた。
「…え?」
靴下が、
引き出しの中で少々乱雑に散らばっているハンカチの群れをかき分けても、見つからなかった。
「おかーさーん!?」
アヤネは普段、家事の全てを母親に任せっきりにしている。消えた靴下一同のことなど、自分では見当もつかない。
「何?」
「靴下、ない!!」
「あーごめん、洗うの忘れてた!」
「嘘でしょ!?」
キッチンから届いてくる母親の声と、会話をラリーし合う。
「しょーがないじゃない、お母さんいつも忙しいんだから」
「どーすんのよ!!」
「どーするったって…お母さんの履いてく?」
「ぐぬぅ…」
親の靴下を履いて登校するのはさすがに嫌だ。最も、おしゃれ好きの母の靴下なら、別にデザインがダサいとかということはないだろうが…兎角、他に何かしらの手立てはないだろうか。
ふと、一足の靴下が頭をよぎった。
白いハイソックス。
ワンポイントの、ピンク色のウサギの顔。
プレゼントされてから、まだ一度も履いていない。
勉強机の足元に視線を移す。
赤いロゴの書かれた白い袋が目に留まる。
袋を持ち上げ、表面に溜まった埃を払いのける。
袋の中身を取り出す。
靴下は、袋の表面と違って、埃を被ってはいなかった。
靴下を履き、朝食を食べ終え、学生鞄とスポーツバッグを持って七時に家を出る。
雨が、ザラザラと降っていた。
ゴールデンウィーク中に買った、黒地に水色の水玉模様の傘を差す。
傘の膜にぶつかった雨粒たちが、バラバラと重い音色を奏ではじめた。
あいつに最後に会いに行った日も、こんな風に雨が降ってた。
傘というものは、持ち主の足元までを完全に雨からかばってくれるわけではない。
長靴ではなくスニーカーを履いているので、歩く度に雨水がちょっとずつ靴下に染みこんでくる。
おまけに、道路には中途半端に雨水が溜まっているため、時折ピチャピチャと跳ねては靴の中に滑り込んでくる。
学校に着く頃には、靴の中はぐっしょりと濡れていた。
結局、アヤネは靴箱の前でスニーカーを脱ぐと、靴下も脱いでしまった。そして、素足で上履きを履いた。
足の裏に
ポタポタと滴をしたたらせる靴下を指先でつまむと、アヤネは教室へと向かった。
教室の時計の針は、おおよそ七時二十分を指していた。
アヤネは自分の机に学生鞄を、机の横にスポーツバッグを置いた。
さて、この靴下、どうするか。
まだ雨が降っている以上、窓際へ干すわけにはいかない。かといって、他にいい手立ては…。
ふと、アヤネは、教室を見渡した。
クラスメートは、まだ五人ほどしか来ていない。いずれもアヤネとはこの中学校に入学したときからあまり喋ったことのない男子で、今だってだれもアヤネに挨拶しようともしていない。それどころか,アヤネのほうを見てもいない。
視線の先が、再び靴下に移る。
捨てちゃえ。
アヤネの耳元で、アヤネ自身が、悪魔となって囁いた。
左手で靴下をつまんだまま、学生鞄からファイルを取り出すと、すでに用済みとなった四月分のプリントを一枚だけ引き抜く。靴下をプリントで
その不細工な
持ってきたそれを、ゴミ箱の中に落とす。
ドサッ、と重く鈍い音がする。
これなら捨てたことは、絶対にバレやしない。
もうあいつとは、永久におさらばだ。
どす黒く引きつった笑みを顔に貼り付けたままくるりと右を向いたアヤネは、教室に入ってきたカスミと目が合って凍り付いた。
「お、おはよ…どうしたの、アヤネ」
カスミは、中学に入ってから新しくできた友達の一人だ。ふんわりとした茶色の長い髪が特徴で、サッカー部のマネージャーを務めている。普段はひまわりの擬人化みたいに心からの笑顔でいる彼女が、いまこの瞬間は、アヤネの禍々しい形相と鉢合わせしたことで、瓦解寸前の作り笑顔をどうにか保たざるを得なくなっていた。両目がカッと見開かれ、下の瞼が痙攣している。無理に両端をつり上げられた唇が、少しずつピンクから紫に変わっていくのをアヤネは見たが、カスミ本人は自分の顔色の変化に気づかなかった。
「え、あ、あー、なんでもない!」
「そう…?なんかいま、ゴミ箱見ながらすごい顔してたから」
「ほんッとになんッでもないからぁあ!!」
思わず巻き舌になるアヤネ。
「そ、そう、わかった」
これ以上踏み込んではいけないと察したのか、あるいはとりあえずアヤネの言葉を信じることにしたのか、とにかくカスミは素直に自分の席に向かった。
一限の数学の授業中も、一限と二限の間の休憩時間も、二限の国語の授業中も、自分が捨てたブツが誰かに見つかるのではないかとアヤネはヒヤヒヤしていたが、誰一人、ゴミ箱の中身に気づく者はいなかった。途中、国語の藤田(四角い眼鏡をかけた三十代くらいの細身の男性教員で、時折教科書の端をパラパラ漫画みたいにめくる癖がある)に名前を呼ばれたときは、アヤネの背筋が絶対零度を下回ったが、教科書本文の五十四
二限の授業が終わると、三限の音楽に備えてクラスメート全員が動き始めた。縦笛が入った茶色い革のケースと青いファイルと教科書を持って、音楽室へ向かうのだ。
アヤネも皆と同じように、三点セットを整えたが、暫くはゴミ箱の前で誰かが秘密に気づかないかと、それとなさそうなそぶりで見張っていた。そして自分以外全員が教室を出たのを見計らって、自分も音楽室へ向かおうとした。
「アヤネちゃん…」
背後で、クミの声がはっきりと聞こえた。
「ヘェッ!?」
アヤネがブルルッと肩を震えさせて振り向くと、そこにはマリナが立っていた。一度廊下に出たものの、アヤネを心配して戻ってきたのだ。クミの声だと思ったのは、マリナの声の聞き間違いだった。
マリナはパッツンストレートの長い黒髪と切れ長の目が特徴で、学年屈指の優等生だ。部活は恐らく所属してはいるのだろうが、何部に所属しているのかまではアヤネは知らない。ちょっと性格の冷たそうな見た目に反して、何かとクラスメートを心配したり、世話を焼いたり手伝ったりと、まるで保護者みたいな行動に出ることが多い。
そういえば、こいつら声似てたわ…
アヤネがほっとして息を吐き出すと、マリナが口を開いた。
「どうしたの?朝から様子が変だよ?顔色悪いし。保健室行く?」
「ううん、大丈夫」
「ほんとに?カスミちゃん心配してたよ?ゴミ箱覗き込んで怖い顔してたって、だからなにかつらいことでもあったんじゃないかって」
「…あのヤロー、チクりやがったな」
アヤネの足の裏が、じんわりと汗をかき始める。上履きの内側が汗を吸って、素足にへばり付いてくる。脳裏で、ドヤ顔のカスミがケタケタと笑った。…なお実際のカスミは、誰かを馬鹿にして笑うような人物ではなく、今回の一件に関しても、チクったというよりはアヤネを本当に心配して、つい我慢できず周囲に朝のことを漏らしてしまっただけなのだが…。
「アヤネ…ちゃん?」
「ふざけんな…」
足の裏ににじみ出た湿気が、足首までのぼってくる。
「やっぱり変だよ、アヤネちゃん…」
「お前、マリナじゃないだろ」
「え…?」
「お前、ほんとはクミだろ!!」
思わずマリナの胸ぐらを掴む。
「な、なに言ってるの!?アヤネちゃ」
「軽々しくアヤネちゃんなんて呼ぶんじゃねえ!!いいか!!菱野さんだ!!ひ、し、の、さん、と呼べ!!てかもうつきまとってくるな!!てめえみてえなネクラはもうウンザリなんだよ!!一緒にいたらこっちまで鬱になる!!だいたい首吊ったのはてめえの自己責任だろぉうが!!なんで化けてまで出てきやがるぅ!!」
「…菱野、さん…」
マリナの声が震えているのに気づいて、アヤネは我に返った。いま目の前にいるのはクミじゃない、紛れもなくマリナだ。
「ご、ごめん、ちょっと最近疲れちゃってて。いまの話、全部なかったことにして。気軽にアヤネって呼んでくれていいから…」
「そっか…しょうがないよ、誰だっていろいろあるから」
「たいしたことじゃないんだけどね…勉強、難しいし、それに雨のせいで気が滅入っちゃってて」
「雨かあ…そうだよね、靴下だってビチョビチョになっちゃうし」
マリナのその一言で、アヤネは自分の両足を覆っている違和感に気づいた。
湿った感触が、足首に巻き付いている。
咄嗟に、視線をアヤネ自身の足先に向ける。
捨てたはずの靴下が、両足にきちんと収まっていた。
「…うあああああああ!!!」
濡れた靴下を急いで脱ぎ捨てると、ゴミ箱の中へ乱暴に放り込んだ。
「くそっ…なんで…」
「アヤネちゃん…?」
アヤネの奇行を目の当たりにしたマリナは、目と口を開いてその場で石みたいに固まった。
「なに見てんだよ…」
血走った目で、マリナを睨みつける。
「…お前やっぱりクミだろ!!」
足を踏みならしながら間合いを詰めると、ケースからリコーダーを取り出し、マリナの頭をリコーダーで五回ほど殴りつけた。
音楽室では、音楽の松井(新人の女教師で、生徒と見まがう童顔でありながら、首から下はダイナマイトボディであり、しっとりした黒く長い髪と黒のパンツスーツのせいもあって、一部の品のない男子からはジロジロといやらしい目で見られている)が出欠をとっていた。
欠席した数名の他に菱野アヤネと早乙女マリナがまだ来ていないことに、クラス代表のシュウイチが気づいて銀縁眼鏡の四角いレンズ越しに目をパチクリさせた。
「あのう…先生、菱野さんと早乙女さんは、今日は欠席ではありませんが」
「え?じゃあまだ来てないのかしら。でも、もう授業開始のチャイムは鳴ったのに。菱野さーん、早乙女さーん、来ていたら答えてください」
「サボって抜け出したんじゃねえのか?」野球部のタツマが茶化す。
「そんなわけないでしょ、あの二人に限って」サナエが、きつい口調で制した。
「先生、僕が見てきます。クラス代表としての責任があるので」シュウイチが音楽室を出ようとしてドアを開ける。
「待って、先生も一緒に行くわ。他のみんなはここで待ってて。できるだけ静かに」松井があとに続き、音楽室を出てドアを閉めた。
結局、松井に言われたことなどどこ吹く風、音楽室は二分足らずで雑談の嵐となった。特にタツマが、テレビで見た漫才師の真似をして「こーんにーちはー!!」などと叫んでふざけるので、男子の笑い声が凄まじいものとなっていた。
シュウイチと松井が音楽室を出てから、二十分が経過した。
「…あら?なによこれ。誰が置いたの?」サナエが、隣のアヤネの椅子に置かれた、白いなにかを見つけた。
一足の濡れた靴下。
ワンポイントのピンクのウサギの顔がついている。
「うっ!!」
その靴下を見た瞬間、カスミは立っていられなくなり、椅子をガタンと鳴らして音楽室特有のカーペットに倒れ込んだ。
「どうしたの?」
「大丈夫?」
「カスミ?」
周りの女子達がカスミの身を案じる。
「ごめん…それ見たら具合悪くなっちゃって。それ、結構やばいやつかも」
「やばいやつ…?」
「みんなには黙ってたんだけど、実はちょっと霊感あるんだ。別に幽霊見たりとかはないんだけどさ。…偶然具合悪くなった場所に限って、実はそこが心霊スポットだって、あとからわかったこととか何回かあって…」
女子達の悲鳴が上がる。
次の瞬間。
教室のドアが開いて、まず松井が、そしてシュウイチが現れた。
二人とも、額に汗をかいて顔を真っ青にしている。
松井が口を開いた。
「早乙女さんが、教室で頭を怪我して気を失って倒れていました。保健室の先生に応急処置してもらいましたが、救急車が到着する予定です」
マリナは病院に運ばれたが、幸いにも一命を取り留めた。意識を取り戻したと連絡が入ったので、シュウイチとカスミが見舞いに行った。
「アヤネちゃんは?」
「それが、まだ行方不明らしい。警察が付近を捜索しているが」シュウイチがマリナの問いに答えた。
「そう…」
不意に、マリナの顔に影が差す。
「にしても、なんでよりによってマリナちゃんを殴ったりしたんだろ…」カスミが、頬杖をつき口の先を突き出して言った。「アヤネちゃん、そんなふうに見えなかったけど」
「それが…気を失ってる間、変な夢を見たの。音楽室でたった一人、アヤネちゃんが椅子に座ってぐったりしてて…音楽室の中なのに、雨が降ってて。それで、それで…」
マリナの声がつまる。
「それで?」
カスミがその先を問う。
シュウイチは、黙って話に聞き入ろうとしている。
マリナは大粒の涙をこぼしながら、声を絞り出して答えた。
「…アヤネちゃんの膝から下が溶けて、カーペットに流れ込んでた」
音楽室で見たあの靴下が、カスミの脳裏をよぎった。
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