恐怖の靴下(前編)

アヤネとクミは、小学校に入学したときからずっと、親友どうしだった。

同じ通学路を通って登校し、同じクラスで真面目に授業を受け、流行はやりのドラマやアニメの話をしながら給食を食べ、休み時間は校庭の隅で花飾りを作って交換し、同じ通学路を通って帰る、それが二人にとって、低学年のときのルーティンであった。三年生になってからはクラスが別々になったので、授業や給食の時間は別行動になったが、それでも休み時間や登下校は、常に一緒だった。

また、入学してから一貫して、休日はほとんど、どちらかの家にもう片方を招く形で、一緒に宿題をしたり、ケーキを食べたり、折り紙を折って見せ合ったりした。



五年生になってクラス替えしても二人は、最初のうちは登下校を共にしたり、休日も一緒に遊んだりしていたが、クミはときどき体調不良を理由に学校を休んだり、爪を噛むようになった。それまでお下げにしていた髪も、編まずにほったらかすようになり、前髪が目元を覆っていることが多くなった。ときどきうつむいて黙り込んだり、ため息をついたり、目の下に隈をつくって登校したりするクミを見ているうちに、アヤネは何やらずっしりと重いものを感じるようになり、だんだんとクミではなく、クラスメート達と一緒に過ごすようになった。成績優秀かつ文武両道なアヤネは、クラスメート全員からの人気者になっていたし、アヤネ自身もまた、クラスメート全員に分け隔てなく積極的に会話を持ちかけたり、勉強を教えたり逆に質問したり、昼休みのスポーツに参戦したりして、クラス全体の充実した日々のために貢献していた。放課後は夕方五時までグラウンドに残って、スポーツ好きの男子達とドッジボールやサッカーをするようになり、休日はクラスの女子達と集まってビーズアクセサリーを作ったり、時にはあまりスポーツを好まない男子たちと六時過ぎまでコンピュータゲームをしたりもしていた。髪も、三つ編みにしたりツインテールにしたり、バッサリ切ってショートヘアにしたりした。ネタ切れに苦しむ新聞係たちが、アヤネにわざわざインタビューして、髪型や服装、アクセサリーなどの特集記事を作った。もはやクラスメート全員と親友どうしとなったアヤネにとっては、キャンプファイヤーも修学旅行も、授業も長期休みも、全てが充実していた。



とうとう迎えることになった卒業式。

アヤネは、他の卒業生と同じように卒業証書を受け取るときでさえ、注目の的になり、体育館じゅうに人一倍大きな拍手と歓声が鳴り響いた。一方、クミが卒業証書を受け取るときは、アヤネのときの半分くらいしか拍手は聞こえず、歓声など誰一人上げなかった。そのせいで先生であろう男の咳払いが、拍手の音に混じって聞こえた。その野太い咳払いに反応し、最前列に座っていた五~六人の男子たちがクスクスと笑った。

アヤネの頭の中の中には、証書授与のあとに行われる所謂“別れの言葉”の、自分のセリフのことしかなかった。皆で声をそろえて言う所だけでなく、一人で“振り返れば、この六年間、様々なことがありました”と言う部分が、与えられていたからである。



小学校の卒業式の四日後、昼の一時半。

その日は、クミの家にアヤネが招待された。クミの家を訪れるのは、丸一年と七ヶ月ぶりだった。

アヤネは、“川本”と書かれた表札の横にあるインターホンを鳴らすと

「すいませーん、菱野アヤネです、クミちゃんいますかー?」

とだけ言った。

「はあーい」

クミの華奢な声が、インターホン越しに返事をした。

玄関のドアが開き、クミが姿を現す。

「アヤネちゃん、上がって」

「うん!」

アヤネは濡れそぼった黄色い傘を閉じて傘立てに差し込むと、桜色の靴を脱いでクミの家に上がった。そして、万が一失礼のないようにと、リビングに向かって誰にというわけでなく

「おじゃましまーす」

とだけ挨拶した。


アヤネが来たときはいつもそうするのだが、クミはアヤネを自分の部屋に案内した。

桃色のカーテンは、その後ろのレースのカーテン共々、開けられて左右に寄せられていた。網戸の向こう側ではザラザラと音を立てて雨が降っていて、湿ったアスファルトの匂いが部屋の中まで届いている。白いカーペットは、少しばかり水分を含んでいるように思えた。

「ジュース、持ってくるから」

クミの声が、力なく、それでいて低く、湿気を突き刺した。

アヤネは、カーペットの真ん中に座った。デフォルメされた茶色い犬の顔が、カーペットの中で笑っている。

クミが、首を前に傾けたまま無言で、ゆらりとドアを閉めた。

アヤネは、部屋の中で一人になった。


なんで、ジュース持ってくるだけでわざわざドア閉めるのよ…


アヤネの脳裏に、薄汚い文句がちらつく。アヤネはすぐに、頭の中のそいつをねじ伏せた。


いけないいけない、せっかく久しぶりにクミちゃんのおうちに来たんだから。もっとたのしそうにしてなきゃ…


アヤネは水色の肩掛けポーチから、小型のゲーム機を取り出した。ゲーム機の本体は白く、真ん中に液晶画面がついている。電源ボタンを押すと、画面が真っ白になり、黒いロゴが映った。さらに“A”と書かれたピンクのボタンを押すと、画面が切り替わり、“伝説!ゴールデンソード”というソフト名と“通信してあそぶ”“ネットにつなぐ”などのメニューが表示された。もう一度“A”ボタンを押すと、画面が一瞬黒くなって、白いロゴが二回ほど表示され、ジャジャジャジャーン、という音とともに金色の“伝説!ゴールデンソード”というタイトルが表示された。このソフトは、アヤネ達が小学校を卒業する二ヶ月前に発売されたものだ。会社側は小中学生男子をターゲットに制作したのだろうが、芥川賞作家が手がけた秀逸なストーリーや人気漫画家によってデザインされた可愛らしいモンスターが話題となり、大人や女子からも圧倒的支持を得ている。…余談だが、観葉植物のゴールデンソードとは一切、関係ない。これはゲームの制作スタッフ達が観葉植物にあまり明るくなかったためである。


ふと、アヤネがゲーム機から目をそらすと、いつの間にかドアが全開になっていて、お盆にガラスのコップを二つ乗せたクミが無言で立っていた。コップの中にはオレンジジュースが、コップ全体の三分の二ほどの高さまで入っている。

アヤネの肩が、反射神経的にブルブルッと震えた。


なんでいきなりそこに立ってるのよ。いるんだったら、いるって言ってくれたらいいのに…


もう少しで飛び出しそうな文句を噛み殺し、アヤネは笑顔を引きつらせて

「ジュース、ありがと…」

とだけ言った。


アヤネはクミに、“伝説!ゴールデンソード”が人気のゲームであることやその操作方法を一通り説明し、試しにやってみて、とゲーム機を渡した。クミはゲーム機を受け取ると、しばらく言われたようにボタンを押していたが、二分もしないうちに細い声で、ありがと、とだけ言って、ゲーム機をアヤネに返してしまった。

アヤネの額に、じわりと汗が浮かんだ。


どうしよう、間がもたない…


オレンジジュースを一口飲みながら、脳をフル回転させる。一瞬、酸味がガツンときて、直後に口の中が甘ったるくなる。


柑橘味の液体を飲み干すと、アヤネは眉を八の字にして申し訳なさそうにクミの顔を見ながら

「折り紙、折ろっか」

とだけ言った。


折り紙を折りはじめても、二人の間には沈黙が流れていて、ただ雨の音ばかりが激しさを増す一方であった。トランプを始めたが、二人でババ抜きや七並べをやってもただの作業にしかならなかった。訪れてからまだ三十分しか経っていないのに、アヤネには五時間ほどに感じられた。


クミが、一旦部屋を出て、何やら白い小ぶりな袋を持ってきた。店のロゴと思われる赤い英文字がプリントされている。

「これ、渡そうと思ってたの。うち、来週引っ越すから」

「え!?」

アヤネの目が、大きく見開かれた。

「うそ、なんでそんな、急に、ええ…」

「お父さんの、仕事の都合で…」

「…」

「…これ、ほんとは去年の誕生日に渡すはずだったの。サイズ合うかわかんないけど、大きめにしといたからたぶん…大丈夫なはず」

そう言って、クミは袋をアヤネに手渡した。

袋の中身を恐る恐る取り出すアヤネ。


中身の正体は、一足の白いハイソックスだった。ワンポイントとして、可愛らしいピンクのウサギの顔がついている。なるほど、確かに少し大きめなので、これなら中学に上がっても履いていけそうだ。


「こんなの用意してくれてたんだ…もっと早く言ってくれたらよかったのに」


クミにプレゼントを用意させておきながら、自分は手土産の一つもなしで来てしまった。そもそもプレゼントの存在にすら気づかなかった。


アヤネの目に、うっすらと涙が浮かぶ。


「ごめんねクミちゃん…ごめん…」


涙を拭うアヤネ。


視線の先で、クミがホッとした様子で微笑んでいた。

およそ二年ぶりに見る、クミの笑顔だった。


クミは再び部屋を出ると、ジュースのおかわりと二人分のケーキを持ってきた。

それから二人は、絵を描いて見せ合ったり、あやとりをしたりした。同時に、中学に入ったらどんな部活に入りたいとか、最近どんなアニメを観ているかとか、低学年のときと同じように楽しそうに会話した。とりわけ、最近観ているドラマと、それに出演している男性アイドルについては、二人の好みが一致したためか、その会話自体がメインとなった。そのせいで、再び折りはじめた折り紙が中途半端なところで暫くストップしたまま放置されることになった。雨の音も聞こえなくなり、窓の向こうからは日の光が降り注いだ。


気がつくと、壁掛け時計の針が六時を指していた。

「そろそろ帰らないと」

そう言いながらアヤネが、ポーチに荷物を押し込む。

「これ、忘れないでね」

クミが、アヤネの傍の、プレゼントの入った白い袋を指差す。

「うん…ほんとにありがとうね、大事にするから」

アヤネは、白い袋の持ち手をぎゅっと握りしめた。



翌月。

中学の入学式が終わってすぐ、アヤネはクラスの中で新しい友達をつくった。クラスの中には、当然同じ小学校からの友達もいたので、クラスメートの女子全員と友達になるのに、さほど時間はかからなかった。クラスの男子の中には、思春期を迎えたからか、アヤネと目が合う度に顔を赤く染めてモジモジする者や、逆にわざとらしく喧嘩腰になる者、関わろうともせずただ遠巻きにチラ見しているだけの者もいたため、新しい男子の友達は、せいぜい三人ほどだった。アヤネはスポーツに興味があったので、陸上部に入った。同じく入部した同級生ともやっぱり友達になり、先輩からも可愛がられた。学業に関しては、数学だけちょっと蹴躓いたが、それ以外は軒並み優秀だった。


充足感と忙しさに囲まれているうちに四月が終わった。


三月に引っ越していった親友のことなど、忘れてしまっていた。



五月の下旬。

学生鞄を持ちスポーツバッグを肩にかけたアヤネが六時過ぎに帰宅すると、母親がおびえたような顔つきで言った。

「今朝…ちょうどあなたが学校に行った後、川本さんから電話があったんだけど」

「川本さん…?」

「クミちゃんのおうちのかたよ。ほら、三月に引っ越した」

「ああ、クミちゃんね…」

アヤネは、部活帰りで疲れているのと、腹を空かせているのと、このあとやらないといけない宿題のこともあって、ひどくぶっきらぼうに答えた。


…が、次に母親が発した一言を聞いて、アヤネは真っ青になった。


「クミちゃん、自殺したって」

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