恐怖の路地裏
路地裏を見ると、いつも思い出すことが一つある。
小学三年生のときのこと。
当時、僕には二人、よく一緒に遊ぶ友達がいた。一人は大きな耳が特徴で、スポーツの得意なゴクウ。もう一人は三白眼がトレードマークで、冷静沈着なサゴジョウ。勿論、ゴクウ、サゴジョウというのは渾名だ。本名は伏せておく、別に明かすメリットもないし。察した人もいるだろうけど、僕の渾名はハッカイ。成人した今でこそ肋骨が見えるほど痩せているけれど、当時はぽっちゃりしていたからである。
一学期の修了式が終わった次の日、言い換えれば、夏休み最初の日、僕らは昼ごろからサゴジョウの家で集まって、宿題のドリルを進めていた。
途中、サゴジョウのお母さんが
「そろそろ休憩してね」
と言って、アイスティーを透明のグラスに入れて持ってきてくれたので、一旦、宿題を切り上げ、僕とサゴジョウは小型のコンピューターゲームで対決をした。その間、ゴクウはテレビゲームに夢中になっていた。
再び宿題を再開し、窓から夕日が差し込んできたあたりで、僕とゴクウはサゴジョウのお母さんにお礼を言って、帰ることにした。サゴジョウが、僕たち二人を近所の公園まで見送りに来てくれることになった。
公園まであと数メートルのところまで来たとき、ゴクウが急に立ち止まった。
「なあお前ら、この世の神秘を見たいと思わねえか?」
そう言うとゴクウは、駄菓子屋とアパートの間の路地にいきなり入ってしまった。
「早く来いよお」
ゴクウの声だけが聞こえる。僕は仕方なく、ついていくことにした。サゴジョウも僕のあとに続いてきてくれた。
僕とサゴジョウが追いつくたびに、ゴクウはさらに奥へと進んでいった。大人になった今ではたいしたことないと思うような道のりだったけど、当時の僕らにとってはその路地は迷路のように入り組んでいた。僕は帰るとき迷わないように、看板やら植木鉢やらを目印にしながら歩いて行った。三人の中でただ一人、当時すでに携帯電話を持っていたサゴジョウは、立ち止まるたびに、歩いてきた道を写真に撮っていた。
しまいに僕ら三人は、大量のゴミが折り重なった狭い路地裏に直面した。パンパンに中身の詰まった黒いビニール袋達も十分に貫禄を放っていたが、骨組みの折れ曲がった赤い自転車や、ところどころ茶色いシミのついた単身者用サイズの冷蔵庫が発していたオーラは別格だった。それらのゴミは僕ら三人の頭と同じくらいの高さまで積まれていて、五メートルほど奥の突き当たりまで続いていた。ゴミの山の上を、数十匹のコバエがランダムに浮遊していて、数秒ごとに夕日に照らされてはキラキラと金色に光っていた。
不法投棄が悪いことなのは百も承知のうえで、二枚のコンクリートの狭い隙間によくこれだけ多くのものを詰め込んだなあ、と僕は子ども心に感動した。
しかしこんなゴミの山があっては、僕もサゴジョウも当然、そこから先へは進めない。だから引き返そうとした。
…僕とサゴジョウは。
ゴクウだけは違った。ゴミ袋の山の上にひょいと跳び乗ったかと思うと、両サイドの二枚の壁に左右それぞれの掌をペタペタとつけながら、サーカス団の一員みたいに器用に進みはじめたのである。
「さすがに危ないよ」
僕は彼を引き留めようと声を投げた。が、彼は二メートル先で立ち止まると、くるりと僕のほうを向いて
「なんだよ、怖がってたら神秘は見られねえぞ?」
と言って、また進みはじめた。
彼が突き当たりにたどり着くのを、僕とサゴジョウは黙って見ているしかなかった。
とうとう最奥までたどり着いたゴクウは、
「…ん?なんかいる」
と言って、右を向いた。
夕日に縁取られて、彼の横顔が影絵として映し出された。
「…え?…待って、なんだあれ…」
彼は、自分の見ているものがだいたい何であるかを理解するのに十秒かかった。僕だったら、もっと時間がかかったかもしれない。
「…ちょ、やばいやばいやばい…」
囁くようにそう言うと、ゴクウは回れ右をして半笑いでこっちへ戻ってこようとした。
彼がまだ突き当たりから一メートルしか距離をとれていないというところで、黒い影が突き当たりの向かって右からヌッと首を突き出した。
一瞬、立ち止まってゴクウが振り返ってその影を見た。
「嘘だろ、おい…来んなって」
笑いながら影にそう言ってゴクウは、また僕らのほうへ進みはじめた。
影はゴクウを追って、ゴミの山の上を伝ってきた。
二枚の壁の隙間に差し込んだ夕日に照らされたことで、その姿がはっきり見えた。
頭から尻尾の先までの長さが、三メートルはあった。全身が、爬虫類の鱗で覆われていた。二足歩行で、前足は小さかったが、前足にも後ろ足にも鋭いかぎ爪があって、夕日を反射して金色に輝いていた。炊飯器みたいに大きく開いた口の中に、ナイフのような歯がびっしりと並んでいた。頭の上には三本の短いツノがあった。全体的には、図鑑に載っているケラトサウルスに酷似した姿だった。
ゴクウの左足が、ゴミの山の隙間に沈んだ。
後にも先にも、僕がゴクウの明確なミスを見たのは、その時だけだった。
ケラトサウルスが、ゴクウの右肩に齧りついた。
果実のようなジューシーな音がして、ゴクウの悲鳴と混ざり合った。
サゴジョウはもう、その場にいなかった。僕も一瞬、逃げようとしたが、足元に転がっている潰れたコーラの缶を見て、食われそうになっている友人を救うために囮になることを決意した。
缶を拾い上げて、ケラトサウルスに向かって投げた。ちゃんと当たったかどうかはわからなかったけれど、ケラトサウルスは僕のほうを向いた。
鷹のような目が、僕の顔をじっと睨んだ。
次の瞬間、僕は走り出していた。
振り返って後ろを確認しなくても、ケラトサウルスが追いかけてきていることは気配だけでわかった。
路地を五回ほど曲がったところで、行き止まりになってしまった。
来た道を戻れるほど冷静ではなかった所為だ。
ケラトサウルスが、曲がり角からゆっくりと姿を現わした。
オレンジ色の光を背に、木の根のような逞しい二本の足がしっかりと立っていて、その上に乗っている胴体が、ポンプみたいに収縮と膨張を繰り返していた。
西部劇の決闘みたいに、ケラトサウルスは一歩ずつ地面を踏みしめながら、僕に近寄ってきた。
僕は尻餅をつき、ズリッ、ズリッ、と音を立てながら後ずさりした。
生臭く、生ぬるい吐息が、だんだんと近づいてきた。
パンッ、と乾いた音がした。
火薬の匂いがした。
ケラトサウルスは、僕の目の前でドサッと音を立てて横向きに倒れた。
曲がり角の陰から、二重代後半くらいの男性の警官が、ピストルを構えたまま静止していた。銃口から煙が出ていた。
彼の背後から、彼と同い年くらいの女性の警官が現れ、僕を抱きかかえてその場を離れた。
サゴジョウは、僕らを見捨てたわけではなかった。警察に電話しながら、駄菓子屋の前まで引き返していたのだ。サゴジョウの道案内のおかげで、警官たちは僕らを発見できたのである。
ゴクウは一週間ほど入院することにはなったものの、大事には至らなかった。本人は傷のことよりも、貴重な夏休みが一週間削られたことを嘆いていた。噛まれた跡も、時間とともに目立たなくなっていった。
ケラトサウルスのことは、なぜかニュースにもならなかった。ゴクウが退院した次の日、僕たち三人のそれぞれの家に校長から電話が掛かってきて、今回のことは秘密にしておくように、と言われた。
あとで調べてわかったことだが、従来のケラトサウルスは全長六メートルもあるらしい。
僕らが見たケラトサウルスはなぜ小型だったのか、そもそもケラトサウルスで合っているのか、だいたいなぜ恐竜がいたのか、なぜ隠しておく必要があるのか、全てが謎のままである。
ゴクウはあの一件が良薬になったのか、それとももとからそうなる素質があったのかはわからないけど、とにかく年月が経つにつれて、しっかり者になっていった。偏差値60以上の大学を卒業し、今では技術者として働いている。
サゴジョウは、芸術系の大学に進学し、仲間とロックバンドを組んだ。固定ファンから圧倒的な支持を得ており、テレビのオファーも来た。ただし万が一、音楽だけでやっていけなくなったときに備え、ITの資格も取得した。
僕はというと、大学受験に失敗して浪人したり、やっと受かったら今度は単位を落として留年したり、学費が払えなくて退学したり、バイトで失敗してクビになったり、認知症の祖父が漏らしたウンコの片付けをさせられたりと、情けない日々を送っている。
久々に、サゴジョウから連絡があった。僕ら三人で、思い出話をしよう、ということだった。
「本当は焼肉屋かカラオケ店にでも集まりたかったんだけど、コロナの影響があるからオンライン飲み会に決定した」
と言われた。
PCのメールアドレスを口頭で伝えると、会議用のリンクが送られてきた。
予定時刻に合わせてテーブルに缶ビールとおつまみを用意し、リンクを開いた。画面には二つの映像が並び、それぞれの枠内に一人ずつ、友人が顔を近づけて映っていた。懐かしい顔を見たことで、鼻の奥がツンとして、ひとりでに涙がでた。
オンライン飲み会は、とりあえず今どうしてるとか、そういう並みな話から始まったが、どういう流れか例のケラトサウルスの話になった。そして、ゴクウの口から新事実が語られた。
「…あの時な、俺本当は、恐竜だけを見たわけじゃなかったんだ」
缶ビールを片手に、彼は目を伏せて話を続けた。
「あの路地裏の奥、空き地に繋がってたんだ。そこにあの恐竜がいてさ。恐竜の足元に、白い防護服を着た人たちが、三人くらい血まみれで倒れてた。たぶんその人たち死んでたんだと思う」
僕は思わず裏声でヒエッと叫んだが、サゴジョウは顔色を変えずに、あーそうだったのか、とだけ返した。
が、ゴクウがさらに話を続けたとき、僕は悲鳴すら上げられずにただただ目を見開いて息を呑んだし、サゴジョウの顔も引きつった。
「しかも、その空き地の中には日本の国旗が立っててさ、隣にトラックが停まってて、荷台が空っぽだったんだ」
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