恐怖の雑誌

岩山角三

恐怖の雑誌

「来ねえじゃねえかよ…」

 岩木は、無人の駅のホームで腕時計を見ながら不平をこぼした。時計の針は0時23分を指している。本来、17分に来る終電に乗るはずだった。そのために、トイレを済ませたうえで10分から待機していた。ということは、乗り遅れたわけではなさく、どうやら列車の方が遅れているのだろう。トラブルでも起きたのだろうか?それにしては、アナウンスがなく駅内が静まりかえっているが…。

「やっぱりタクシー使えば良かったなあ」

 ホームの天井を見上げながら、岩木はぼそりと言った。ひんやりと光る照明に、一匹の小さな白い蛾がまとわりついている。

「蜘蛛の巣に引っかかるのは時間の問題だな」

 フッ、と鼻で笑い、岩木は脂ぎったスポーツ刈りの黒い髪をかき上げた。空色のネクタイがワイシャツと擦れ合う。金曜日だからと20ほど年上の上司に付き合って焼き鳥屋で酒を飲んだことを、この痩身の男は後悔していた。

 暇を潰したいが、今ここを離れたら終電を逃してしまいそうだ。売店でもないものかと、辺りを見渡す。自動販売機が一台、ぽつんと設置されているだけだ。財布を開け、小銭を確認する。プラスチックの粗末な椅子から腰を上げると、ふとホームの端に雑誌が落ちているのを見つけた。財布を鞄にしまうと、ホームの端まで歩き、その雑誌がどのようなものか確認した。


 紺色のビキニを着た女性が、表紙を飾っていた。年はおそらく十代後半から二十代前半だろう。色白でむっちりとしていて、髪と目はしっとりと黒く、唇は桃色に光っている。前かがみで両腕を寄せているので、胸の谷間がくっきりと目立つ。

「これはいいものを拾ったぞ」

 口の端を緩めた岩木は、左手で雑誌を拾い上げ、右手の骨張った指で表紙をめくった。


「えっ?」

 岩木の下心丸出しの期待を、雑誌のページ達が悉く裏切った。ページの一枚一枚が、墨に浸したかのように全て真っ黒だったのである。

「何だよこれ…」

 がっくりと肩を落とした岩木が雑誌を捨てようとしたその時だった。


 何者かが、岩木の右手首をむんずと掴んだ。驚いた岩木が右手首を見ると、骨の細そうな、それでいて肉付きのいい白い左腕が雑誌の下から伸びて、細い指を岩木の右手首に巻き付けていた。岩木の目の前には誰もおらず、それどころか岩木以外誰一人その場にいないのに、である。ぎょっとした岩木は、その何者かの左手を振りほどこうと右腕を揺さぶった。すると、めくられていたページがパラパラと閉じて、最後に表紙も閉じた。


 表紙の中の女が、飛び出す絵本みたいに左腕だけを紙面から突き出して岩木の手首を掴んでいた。


「…は?」


 岩木が顔をしかめた次の瞬間、女の両目が風船みたいに膨れ上がり、はじけて飛び散った。その残骸が、岩木のネクタイとワイシャツにかかった。

 続いて女の唇がめくれ上がり、歯と歯茎がむき出しになった。生きた貝の中身が貝殻から這い出てくるみたいに、女の口から白い歯の並んだ歯茎が隆起して、トラバサミのように開閉し、カチカチカチ、と音を立てた。あるべき眼球を失った二つの洞穴が、岩木をじっと見ていた。


「…うわああああ!!」


 岩木は雑誌を放り出した。が、雑誌から生えた腕によって岩木の手首と繋がっているため、雑誌は糸を使って降りてきた蜘蛛みたいにゆらゆらと垂れ下がった。

「放せ、放せええええ!!」

 雑誌の腕を振りほどこうとして、岩木は彼自身の右腕を上下に揺さぶった。すると、雑誌の腕は岩木の手首を握りしめたまま、蛇のようにぐにゃぐにゃと曲がりながらにょきにょきと長く伸びた。振動で、雑誌の本体はホームの地面に何度も叩きつけられ、バサッバサッと乾燥した音を立てた。

「くそう…」

 岩木は自分の右手首に巻き付いた雑誌の指を、左手で引き剥がそうと爪を立てた。雑誌の指はミシミシと音を立てて岩木の手首を握りつぶそうとした。

「ぐああああっ!!」

 岩木は口の端から唾を飛ばしながら、のけぞって頭を左右に振った。彼が悶絶している間にも、雑誌の腕は元の長さに戻ろうとして縮みはじめ、本体がスルスルと岩木に近づいてきた。表紙の女の歯が、より一層紙面から突き出してカチカチと音を鳴らした。

 岩木は咄嗟に、雑誌の腕の、本体に近いところを左足で踏みしめた。ゴムのような感触が、革靴を通して足の裏に伝わってきた。雑誌の女は獣のように低く野太い悲鳴を上げ、腕は岩木の手首からほどけて地面をのたうちまわった。

 岩木は急いで距離をとった。雑誌の手は体勢を直すと、岩木のほうへ指を使ってサソリみたいにトコトコと歩きはじめた。

 ちょうどホームに電車が到着した。岩木は走って乗降口のドアにぶつかり、ドアの間に指を立ててこじ開けようとした。プシューッと音を立ててドアが開いた。ドアが完全に開ききる前に、岩木は車内に滑り込んだ。例の手は車内にまで這い上がってきた。岩木は咄嗟に身を翻し、隣の車両との連結部分のドアをスライドさせた。例の手が飛びかかって、岩木のズボンの裾を掠めた。岩木は連結部分のもう一枚のドアを開け、隣の車両に飛び込んだ。同時に乗降口のドアの閉まる音がした。すかさず立ち上がって、連結部分のドアの窓越しにさっきまで自分のいた車両を見た。例の腕は、もうそこにはいなかった。



 紅色のシートに腰掛けた岩木は、どこかに例の雑誌が隠れているかもしれないと警戒し、鞄を持って身構えていた。無意識に、鞄は放さず持ってきていたのである。そのことが彼自身にとって、なお不思議だった。

 途中、電車は三つの駅を通過した。停車しなかったので、岩木以外に誰かが乗ってくることはなかった。



 目的の駅に到着し、乗降口が開いた。岩木が降りようとすると、連結部分のドアが開いた。例の化け物が来たと思った岩木はポップコーンの粒みたいに跳ね上がったが、姿を現したのは痩せこけた中年男性の車掌だった。

「はあ…」


 岩木がほっとしたのもつかの間だった。


 岩木のほうに顔を向けた車掌の目玉が、風船のように膨れ上がって破裂した。飛び散った眼球の破片が、岩木の顔の下半分にかかった。口の中に入った破片を、岩木はペッと吐き捨てた。

 車掌の目は洞穴になってじっと岩木を見つめていた。めくれ上がった唇の隙間から、綺麗に歯の並んだ歯茎が隆起して、カチカチカチと音を立てた。


「あああああああ!!」


 岩木は電車から飛び出し、改札口に向かって走り出した。車掌はアスリートみたいに整ったフォームで走って追いかけてきた。岩木はもはや切符を取り出している余裕などなく、鞄を抱きしめると這って改札をくぐり抜けた。立ち止まった車掌は、ボウリングの球を投げるみたいに右手を下から上へ振りかざした。車掌の腕が長く伸びて、岩木の右腕を掴んだ。岩木は車掌の手の甲に噛みついた。車掌は大型犬のように唸って転倒した。岩木の腕を放した車掌の手の甲には、前歯の跡がくっきりと刻まれていた。



 駅を脱出した岩木は、すぐさまコンビニを見つけて駆け込んだ。

 レジに坊主頭の若い店員が一人、岩木に背を向けて立っていた。他には誰もいなかった。

 岩木は中腰になって両膝に手をつき、肩を上下させながらゼエゼエと荒い呼吸を繰り返しながら店員を見上げた。


 店員が、くるりと振り返って岩木を見た。両目が、すでに風船のように膨らんでいた。


「…またかよ」


 咄嗟に岩木は、顔の前で両腕をクロスした。店員の目玉が飛び散り、岩木の両腕と頭にかかった。

 店員の唇がめくれあがった。

 岩木はコンビニを出ようとしたが、ドアが開かなかった。

 店員の歯茎と歯がせり出してきた。

「もうやめてくれーっ!!」

 岩木は咄嗟に、傍の棚に並んでいたカップ麺の一つを掴むと、店員の顔に投げつけた。店員の左頬にカップ麺の底が刺さった。店員の首がへし折れ、破れた首から腐った黒い血が噴き出して天井を汚した。

 岩木は腰を抜かし、音速でハイハイをしてコンビニ奥のトイレにたどり着いた。

 ゼンマイ仕掛けのロボットみたいに、首の折れた店員がのろのろと岩木を追ってきた。店員の歯がカチカチと音を立てた。

 岩木はドアの取っ手を掴むと、最後の力を振り絞ってドアをスライドさせ、トイレの室内に滑り込んだ。ドアを閉める瞬間、店員の手が伸びてきて、ドアの隙間に指が挟まった。熊みたいなうなり声が、レジの位置から聞こえてきた。同時に、ドアの隙間から店員の指が引っ込んで消えた。

 岩木はすかさずドアをぴったりと閉め、鍵をかけた。


「はあ…はあ…」


 岩木は、瞼に力が入って、瞬きできなくなっていた。


 手洗いの器に手をついて、やっとこさ立ち上がった。


 鏡と目が合った。


「嘘だろ…」


 鏡に映った岩木の両目は、風船みたいにパンパンに膨れ上がっていた。


嘘だと言ってくれうしょだとぅゆっけけえ


 目だけでなく、口元にも異変が起きた。唇がめくれ上がって、歯茎が前にせり出してきたのである。岩木の意思に反して、顎が勝手に動き、歯がカチカチカチと音を鳴らした。


 岩木の両目が、パン、と音を立てて破裂し、その残骸が鏡に飛び散った。

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