コミカライズ記念番外編 野人皇妃 八話

 翌日は朝から雨になった。それほど強い雨ではないけれど、周囲は水幕に烟り、湿度が上がって身体からじっとりと汗が滲み出る。


 そして見る間に河の水は増え、流れは荒くなった。私たちの寝床はなるべく高い位置に設営したから、そうそうは水に浸かる事はない筈だけど、油断は出来ない。いざとなったら木に登らなければならないかもしれないわね。


 そして魚は全く獲れなかった。雨の中結構頑張ったのだけどダメだったのだ。魚というのはものすごく釣れる時もあれば、それが嘘のように全然釣れない日もあるものだ。長期に渡る野営時の食料として頼り切るのは危険かもしれない。


 幸い、ワニ肉と魚を干したものがまだある。数日ならこれでなんとかなるだろう。水は、雨が降っているのだから不足する事は考えないでもいい。


 雨の中あんまり動き回る気にはならず、私とアリエスは寝床の屋根の下でジッとしていた。流木と木の枝、葉っぱや草で造った屋根は完璧ではなく、所々から雨漏りがしたので、枝を動かして微調整する。


 暇ねぇ。やる事がないとひたすら暇だ。かといってこんなに蒸し暑く不快な気候では、のんびりお昼寝という気分にもなれない。私は寝転がってぼんやりしていた。こんな所エステシアに見られたら怒られるな、と思いながら。


 が、アリエスはどうもこの陰気な気候、やる事もなくじっとしている状況に気が滅入り始めたようだ。突然、シクシクと泣き出したのである。


「ど、どうしたの? アリエス!」


 私は跳ね起きて、蹲って泣いているアリエルの顔を覗き込んだ。彼女はベソベソと泣きながら顔を涙でビショビショにしながら言った。


「申し訳ございません。妃陛下。私がもっと注意していればこんな事には……」


 確かに、アリエスが不安定な船の上で立って日傘を差し掛けていたからだとは言えるけど、それは彼女の職務だったのだから仕方がないわよね。


 それに……。


「アリエスが気に病む事はないわ。アレは多分わざとだから」


 アリエスがびっくりしたように顔を上げる。ベタベタな顔で。あーもう。


「可愛い顔が台無しじゃない」


 私は布切れで彼女の顔を拭ってあげる


「そ、そんな事より、妃陛下! わざととはどういう事なのですか!」


 アリエスが叫ぶ。ふむ、元気が出てきて何よりだわ。


「そりゃね、あんな小舟に皇妃を乗せるなんておかしいとは思ったのよね」


 確かに私たちが船に乗った河沿いの港には、私たちが乗ったような小舟しか無かったのは確かだ。十人くらいしか乗れない、露天の平底船。漁師が漁に使ったり、渡し船にしたり、荷物を運んだりするための船だ。


 しかし、私は道中で目にしたけど、アリステル河には幾つもの港があり、もっと大きな船もいくらでもあった筈なのだ。話によればそのまま海に出られる船まであるらしい。


 だから私が河を渡って密貿易港を視察すると言い出した時、そういう大きな船を他の港から手配しようとすれば出来た筈なのである。


 それなのに、皇妃たる私をあんな小さな船に乗せた。船の手配をしたのはこの地方の代官の一人だった筈だ。その代官が意図して小さな船を用意したと考えるのが自然だろう。


 あまりに小さな船なので、警備の騎士は難色を示したし、馬車ごと乗れる船を呼び寄せるまで待ってはどうかという意見もあったのだけど、私は小舟でも怖くないし、早く仕事を終わらせたかったから小さな船でも構わないと言ったのだった。私のそういう性格も利用されたのかもしれない。


 水の上に出てしまえば、あとは事故を装って私を水の中に落としてしまえばいい。船頭を抱き込めば簡単だ。水上では騎士だろうが皇妃だろうが、船頭の技術に全てを委ねざるを得ないんだから。


 殺す意図まであったかどうかは分からないけどね。貴族のお嬢様であれば、すぐに助け上げられても水に恐れを抱き、二度と船に乗りたがらなくなり、密貿易港の視察を遠ざける事が出来ると考えたのかもしれないし。


 とにかく私の視察を妨害するための小細工だったのだと思うのよ。バカなことを考えるものだと思うけど、それくらいその密貿易港には見られたくない秘密があるのだろうね。


 私の説明を聞いてアリエスは呆然とし、そして真っ赤になって怒り始めた。


「なんという事を! 皇妃陛下に対して! 陛下にもしもの事があったら! 皇帝陛下は激怒なさいますよ!」


「そうよねぇ」


 もしも私がアレ命を落としていたら、セルミアーネがタダでは済ませないと思うのよね。あの人結構私が絡むと恐ろしいところあるからね。


 私が死んだなんて話になったら、この地方の代官どころか直轄地の代官は全員火炙りになっちゃうでしょうし、連座で住民も一人残らず斬首されかねない。皇妃の身命はそれくらい重いと帝国では考えられているし、相対的に平民の身命は軽い。


 私の遺体が見つからないなんて事は許されず、アリステル河の流れを堰き止めて川底を干上がらせて、野生動物を一匹残らず狩り尽くして胃の中身を調べるくらいはやるでしょう。セルミアーネなら。


 まぁ、セルミアーネならまず私が行方不明になっても「死んだ」とは思わないとは思うけどね。私がそう簡単に死ぬ女じゃないことはあの人が一番よく知っているでしょう。


 それでも、皇妃行方不明の連絡を受けたセルミアーネは心配しているだろうな、とは思う。きっと帝都から物凄い多くの人員を派遣して、懸命に私たちを捜索していると思うのよね。……まさか自らこの地方まで来てはいないと思うんだけど。まさかね。


 私はアリエスの頭を撫でて慰めながら、そんな風に思考を帝都の夫のところに飛ばしてぼーっとしていたのだった。


 ……なので、それに気が付いたのは、私よりアリエスの方が先だった。


 アリエスの水色の目が真ん丸になってしまっていた。あれ?


「どうしたの? アリエス?」


「……妃陛下……。あれ……」


 アリエスが震える指で私の後ろを指差した。私はその瞬間、尋常ではない気配を感じて振り向く。


 雨と水煙に包まれた中洲の岸辺。ドウドウと音を立てて河の水が打ち付けられるそこに、ゆっくりと、何者かが現れ始めていた。


「……!」


 私も咄嗟に言葉が出なかった。水の中からヌーっと現れ、ズシン、ズシンと足で地面を踏み締めるその生き物の姿はそれくらい衝撃的だったのだ。


「な、なんですか…。あれは……」


「……分からない」


 私でもそう言うしかなかった。


 ワニである。と言い切れればどれほど良かっただろうか。確かに大きな口、牙、ぎょろっとした目、太い足に胴体に、長い尻尾。背中の黒々とした硬そうな鱗に、お腹の白い鱗。初日に仕留めたワニのような特徴を、こいつも持っていた。


 しかし、ちょっと、大きさが違った。


 確かに、ワニは大きい種類は大きくなるとは聞いていた。なかには人間を一呑みに出来るサイズ、体長五メートルくらいになる奴もいるとは。


 しかし、目の前のこいつはそんな大きさではなかったのだ。


 巨大な口。それだけで五メートルを超えていると思う。足の太さは大木のようで、胴体は私がこの旅行で使っている馬車のようだった。そして尻尾は、口と胴体を合わせたよりも長い。背中の鱗も溶岩の塊のようにゴツゴツしていた。


 そして目が、金色に光っていた。私の普段の瞳の色と同じである。その目の色を見て私は悟った。


「神獣化ね……!」


「し、神獣化ですか?」


「そう。動物が地力を吸い込んで巨大化するの。それが神獣化よ。そうすると、その生き物は通常ではありえないような大きさになるの」


 まだ皇太子妃時代に、キンググリズリーが神獣化して超巨大化した奴を、セルミアーネと騎士団三十人、それと帝都の狩人の協力で退治した事がある。


 あの時も普通の武器では全く歯が立たず、私はほとんど逃げるしかなくて悔しい思いをしたのだった。騎士が方陣を組んで魔力を合わせた攻撃してようやく倒せたのだ。騎士の攻撃は城壁すら吹き飛ばすのだ。狩人が普通の武器を使って勝てる訳がない。


 神獣化した動物は魔力が限界まで高まるから目が金色になる。これが地力の結晶である大神獣になると、魔力が暴走状態になって赤くなるのだ。あのワニの目は金色だから、神獣化したワニで間違いないだろう。


 すっごい獲物! やったわ! 絶対私が狩ってみせる!


 と普段の私なら躍り上がって喜び、立ち向かうところなんだけど、ちょっと待って欲しい。今だけは、今だけはマズい。


 武器がないのだ。小さなナイフと、石器しかない。石槍と石斧。それとオモチャみたいな弓矢。想定していた相手は初日に見たワニね。あれなら十分余裕を持って狩れるという想定で、私は武器を作ったのだ。


 ……あんなのは想定外だ。見るからに魔力に満ち溢れた、全長十メートルでは足りない化け物。正直、熊狩りにも使える私の愛用の弓矢と短槍があっても厳しいと思われる。石器しかないのではもう問題外というしかない。


 正直、この私でも「これは逃げるしかない」と瞬時に悟らざるを得なかった。私は逃げるのは嫌いだけど、どう考えても勝てない相手に挑むのは、勇敢でなくてただの無謀だからね。再び挑むために逃げるのは、けして恥ではない。


 しかし……。


「逃げるったって、どこに逃げるって言うのよ!」


 そうなのである。ここはごく狭い中洲。多少の木々が生えている他は何もなく、隠れる所もない。周囲は増水して渦を巻く茶色い河。もちろん水の中はワニのホームグラウンドだ。泳いで逃げるなんて論外だろう。


 一瞬、木の上に逃げようかとも考えたけど、私はともかくアリエスが上れないし、そもそもあの巨体の体当たりされるか大顎で噛まれて木が倒される未来しか見えない。


 残る道はあの大ワニがこっちを見付けられない、もしくは見逃してくれるか、しかなかったのだが、大ワニはしっかりこっちをその金色に爛々と輝く目で睨んでいた。縦に細長い瞳孔がギョロっと動いてこっちを見る。


 これはどうも観念するしかなさそうだ。私は覚悟を決めた。立ち上がると、アリエスに向けて叫ぶ。


「アリエス! 逃げなさい! 島の反対側に!」


「え? え? そ、それでは妃陛下は!」


「私は戦う! 安心しなさい! むざむざとはやられはしないから!」


 アリエスが顎が外れそうなくらい大きく口を開けてしまう。


「と、とんでもございません! 私だけ逃げるわけにはいきません! 妃陛下こそお逃げ下さい!」


 私は本気でアリエスを怒鳴りつけた。


「アンタがあのワニに食べられたって時間稼ぎにもならないわよ! 足手纏いだって言ってるの! 邪魔だからどいてなさい!」


「ひうぅ!」


 役立たず呼ばわりにアリエスがショックを受けた顔をするけど、事実として彼女が戦闘では役に立たないのは事実だ。そしてここにいられると私が全力で戦えない。


「早く行きなさい! これは命令よ!」


 私の剣幕にアリエスはしばし硬直していたが、私が再度「行け!」と叫ぶと、アリエスは弾かれたように立ち上がり走り出した。……これでいい。あの娘を死なせる訳にはいかないものね。


 アリエスが走るのを見て大ワニがグワっと首を動かして、彼女を追う素振りを見せる。そうはいかないわよ!


「こらー! 化け物! お前の相手はこの私よ!」


 私は叫び、手に持った石槍を突き付けた。


「この帝国皇妃! ラルフシーヌが自ら相手になってやる! かかって来なさい!」


 言葉が分かった筈はないけど、大ワニは顔をブンと振って私を睨んだ。私も睨み返す。ワニの事は知らないけど、獣を相手にする時は気迫で負けたらお終いだ。私は自分の中の魔力を高め、目に力を込める。


 これだけ私が本気でガンを付ければ、クマでさえ少しは怯むと思うんだけど、大ワニは表情一つ変えなかった(ワニの表情なんて分からないけど)。


 そしてぶっとい足をズシンと踏み出した。地面が震えるような迫力だ。長い尻尾を大きく振り、のたうつ様に前進してくる。完全に攻撃体勢だった。大きな口を開くと生臭い臭いが吹き付けてくる。牙の長さは私の腕くらいあるわね。


 やるしかない。方法は一つしかなかった。私は石槍を天に掲げて叫ぶ。


「天にまします全能神と、炎と浄化の神よ。この槍に御力を宿らせたまえ!」


 祈りを捧げて魔力を全力で奉納する。目が眩むような感覚がして、魔力がごそっと引き出され、それが天に向かって飛んで行く。


 次の瞬間、身体がカッと熱くなり、石槍が瞬時に真っ赤に灼熱する。炎の神が私の身体と石槍に宿ったのだ。


 竜退治の時に竜を墜落させた、あの時にお借りしたお力と同じである。神々のお力を借りるには強い祈りと膨大な魔力が必要だ。私にもそう何度も使えない。


 つまり私の最後の手段。奥の手、必殺技だ。炎が私を中心に広がり、寝床を吹き飛ばし、雨を払い、流木を燃え上がらせる。炎の神のお力を宿された私は燃えないけど、それ以外はお構いなしだ。だからアリエスを逃したのよ。


 炎を纏う私を見ても大ワニは驚いた様子は見せなかったわね(ワニの表情なんて分からないけどね)。一瞬だけ足を止めたけど、再びズシンズシンと這い寄ってくる。私は出来るだけ引き付けて機会を待つ。


 そして大ワニが私を丸呑みにすべく大顎を開いた。その瞬間。


「今!」


 私は赤熱した石槍を大きく振りかぶり、大ワニに向けて投擲した。


 石槍は炎に包まれながら飛び、大ワニの口の中に突き刺さった。かに見えた。


「ちっ!」


 私は思わず舌打ちをする。外した。いや、当たったことは当たった。しかし、私はワニの大口の中に炎の槍を叩き込む筈だったのだ。


 しかし、石槍では炎の神のお力に耐えられなかったのだろう。私の手を離れた瞬間、石槍は瞬時に燃え尽きてしまった。おかげで軌道が逸れ、炎の魔法は大ワニの口の中ではなくワニの背中に当たってしまったのだった。


 しかし魔法自体は命中したので、その瞬間大爆発が起こった。爆風で砂塵や小石が舞い上がり、私は両腕で顔を庇う。凄まじい威力。流石は炎の神の神霊魔法だ。


「やった、か?」


 ……しかし、そんなに甘くはなかった。煙が晴れると、そこには巨大な影があったのだ。巨大な尻尾が地面を怒ったようにドーンと叩き、そして砂地をえぐって力強く足を踏み出してくる。


 煙に包まれた中で、金色の目がギロッと動いて私を睨む。今度は分かった。これはかなり怒ってるわね。


 私は大ワニを睨み返しながら、思わず口元に笑みが浮かんでしまった。そんな場合じゃないと思いながらも口角が上がるのを止めることが出来ない。疑いなく歓喜の笑みを浮かべながら、私は言った。


「……なかなかやるじゃないの!」

 

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活き活きとしたラルフシーヌがとっても素敵だから是非読んで下さいね(*゚▽゚)ノ

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