閑話 狩人奥様の事 ケーメラ視点
私はケーメラと申します。セルミアーネ様のお屋敷で侍女を務めております。
私は元々帝宮侍女でした。先代の皇妃陛下の元で下級侍女となり、先代皇妃陛下がお亡くなりになって今の皇妃陛下付きになりました。
その時、一応は子爵夫人の称号を授かりましたが、夫も私も結婚が遅かった事もあり、結局は貴族としての家を興さずに貴族身分持ちの平民のままでおりました。貴族になってしまうと色々面倒事や経費も発生しますからね。
そして現皇妃陛下付の下級侍女になった時、私はフェリアーネ様と知り合ったのです。当時、フェリアーネ様は二十歳かそのくらいで、まだ若い侍女でしたが、皇妃陛下からの絶大な信頼を受けておいででした。腹心とも親友とも言えるご関係でしたね。
私とフェリアーネ様の関係は、ベテラン侍女の私をフェリアーネ様が上手く扱うことで上手く行っておりました。それで、フェリアーネ様が皇帝陛下のご愛妾になられ、その後何故か帝宮を下がって帝都郊外のお屋敷に隠棲なさる事になった時に、皇妃陛下のご差配で私と夫のハマルが付けられたのです。
当時私はもう四十歳になっており、そろそろ帝宮を下がる年齢でしたからね。それで丁度良いと思われたのでしょう。四十歳を超えて帝宮に残る侍女は珍しいです。普通はその前に引退して上位貴族の侍女長として迎えられるか、貴族夫人として家を立てるかしますので。
フェリアーネ様が帝宮を下がられた事情は複雑でした。どうもフェリアーネ様が皇帝陛下や皇妃陛下の懇願も聞かずに帝宮を飛び出したというのが実情に近いようですね。あの方は聡明で意思の強い方でしたが、やや思い込みが激しいところがあったのですよ。
皇妃陛下を慕うあまり、皇妃陛下を裏切って皇帝陛下の愛妾になってしまったと深く後悔しているようでしたね。実際には皇妃陛下は、セルミアーネ様という男子を帝室に齎したフェリアーネ様に感謝なさっていたのですが。
本来はご愛妾様ですから、帝宮の離宮に住むべきですのに、帝宮を出て下位貴族のお屋敷が並ぶ一角に屋敷を構えたのです。小さいお屋敷でしたから、侍女を何人も入れたら逆に狭く不便になってしまいます。なので私は検討の結果、侍女は私ともう一人だけにして、洗濯などは帝宮の下働きに出す事にしました。
それと、なにしろ皇帝陛下もお通いになるお屋敷ですから、両隣の家は買い取って護衛の騎士の詰め所に致しました。元々住んでいた家には迷惑な事だったと思いますが、さして広くもないお屋敷には騎士を置く場所がなかったのでやむを得ません。
帝宮との連絡も密にして、いつ何時皇帝陛下や皇妃陛下がおいでになっても良いように気を配りましたよ。実際、お二人と皇太子殿下はお忍びでよくフェリアーネ様を訪ねていらっしゃいました。皇帝陛下が帝宮を出るなんて本来は大事件なのですがね。それくらいフェリアーネ様の事を両陛下は大事に思っていらっしゃったのです。
フェリアーネ様は一切社交はせずにお屋敷に閉じこもってお過ごしでした。お庭にすらほとんど出ない有様で、私は健康に宜しくないと苦言を呈しましたが、フェリアーネ様は取り合いませんでした。人目に触れたくなかったのと、どうやら長生きなどしたくもないとお考えだったようですね。
実際、フェリアーネ様は早くにお亡くなりになってしまいました。ご本人が止めたせいで帝宮に危篤のご連絡をするのが遅れ、両陛下が臨終の時に立ち会えなかった事を今でも悔やんでおります。両陛下の嘆きようは大変なものでしたよ。
セルミアーネ様は幼少時は活発な、利発な少年でしたよ。夫や私にも懐いて色々イタズラを仕掛けるような楽しい子供でした。
ですが、フェリアーネ様の方針で、可哀想な事に他の貴族の子女との交流が一切なされませんでした。普通は同じくらいの階級の子女と交流して交友関係を作って行くものですのにね。だから遊ぶのはお屋敷の中だけ。相手は私のようなおばあちゃん。これではセルミアーネ様の将来が心配になってしまいます。
セルミアーネ様と唯一活発に遊んであげる事が出来たのは七歳上の皇太子殿下で、普段お屋敷の中で退屈していたセルミアーネ様をお庭に連れ出して走り回り取っ組み合って遊ぶ様は、流石にご兄弟という仲の良さでしたね。
しかしながらその事をフェリアーネ様は喜びませんでした。兎に角フェリアーネ様はセルミアーネ様を皇族にはしたくない。皇子にするわけにはいかないと思い込んでいらっしゃるようでした。皇妃陛下への義理もありましたし、セルミアーネ様に重荷を背負わせたくないという思いもあったように思います。
フェリアーネ様がお亡くなりになったのはセルミアーネ様が十二歳の時です。貴族は十三歳で成人ですから直前でしたね。突然の最愛のお母様の死に、セルミアーネ様は呆然としていらっしゃいました。フェリアーネ様の葬儀は本人のご意志でご愛妾様としてではなく子爵夫人としてひっそりと行われました。取り仕切ったのは皇帝陛下でしたけどね。セルミアーネ様は涙を見せる事無く気丈に振る舞っておいででしたよ。
セルミアーネ様を皇族にすることに反対していたフェリアーネ様がお亡くなりになったのですから、セルミアーネ様は皇子として皇帝陛下と皇妃陛下に引き取られる、と思われていました。私も夫も当然そうなるだろうと考えていましたよ。
ところが、セルミアーネ様がこれを固辞なさり、自分は騎士として成人し、独立すると強固に言い張ったのです。皇帝陛下も皇妃陛下も大弱りでしたし、私も夫も懸命に説得いたしましたよ。しかしセルミアーネ様はフェリアーネ様が乗り移ったかのような頑固さで意思を通してしまいました。
騎士になったセルミアーネ様はすぐにお屋敷を出て騎士寮に入ってしまいました。セルミアーネ様は私と夫に長年の労をねぎらい、お屋敷を譲渡しようとまで仰ってくださいました。もちろん、そんな訳にはいきません。お給料も何も要りませんから、このお屋敷は我々がお守りしますから、何時でも帰ってきて下さい、ご結婚なされたらお家が居るではないですか、と夫と二人で懸命に説得いたしましたよ。
実際、私達のお給料は帝宮の侍女扱いで皇帝陛下から頂いておりました。お屋敷の維持費も人員も皇帝陛下が差し向けて下さっていたのです。セルミアーネ様は騎士のお給料から夫に屋敷の維持費にとお金を入れて下さっていましたけど、本当は必要なかったのです。ですが、そういう機会でもないとセルミアーネ様とお話をする機会も無くなってしまいますから、夫も私もあえて黙っていました。
セルミアーネ様は成人なさって凜々しい美男子に成長なさいましたが、何というか、いつも無表情というか楽しくなさそうでしたね。子供の頃の闊達さを知っている私にはそれが悲しくてなりませんでした。ご結婚でもなされば気分に張りも出るだろうと思うのですが、セルミアーネ様は皇帝陛下の勧めた縁談に見向きもしないようだと皇妃陛下付きの侍女が嘆いておりました。
セルミアーネ様はご本人がなんと思おうとも、皇帝陛下の第四皇子です。帝国には当時、皇帝陛下の跡継ぎが皇太子殿下しかいらっしゃいませんでした。ですから、セルミアーネ様のご結婚は国家的な重大事だったのです。セルミアーネ様がまだお若いから皇帝陛下はセルミアーネ様の意思を尊重して、秘密裏にお妃候補を探すくらいで済ませていますが、もう少しセルミアーネ様が成長されて、しかも皇太子殿下が次のお妃様をなかなか娶られず、跡継ぎを得られないような事態になれば、当然もっと大々的にお妃選びが行われる事になったでしょう。
ですが、その前にセルミアーネ様はご自分でお妃を見付けてきてしまいました。それがラルフシーヌ様です。
ある日突然セルミアーネ様に「結婚する事になった。結婚後はこの屋敷に住む」と言われて私も夫も驚愕いたしましたよ。しかもお相手は侯爵令嬢だと仰るではありませんか。騎士が侯爵令嬢とどこで知り合ったのでしょう? もしかして皇帝陛下のご仲介でしょうか?
何はともあれ、懸念されていたセルミアーネ様のご結婚が決まったのは嬉しい事ですし、お相手が侯爵令嬢であれば皇子の妃として身分的にも何の問題もありません。
むしろ私は侯爵家のご令嬢が、こんな小さなお屋敷に住まうことに不満を漏らさないかが心配でしたね。さぞかし気位の高い女性がいらっしゃると思っていましたから。セルミアーネ様がお選びになったのですから、人格的には素敵な方がいらっしゃるとも信じていましたけど。
この時点でお屋敷には私と夫しかいませんでした。長らく私と夫しか入っていなかったお屋敷です。手入れが行き届いていないところも多かったですから、お妃様が来る前に必死で大掃除いたしましたよ。
そしてご結婚式を終えて、侯爵家の大きな馬車からセルミアーネ様に大事に抱き抱えられるというお姿のラルフシーヌ様と、私は初めてお会いしたのです。まぁ、お二人はそのまま寝室にお入りでしたから、言葉を交わしたのは翌日になりましたけど。
ラルフシーヌ様は背が少し高く、スタイルが良く、そして大変お美しい方でした。銀色の髪と金色の瞳で、クッキリして凜としたお顔立ちです。
印象的なのは非常に姿勢が良く、動作が機敏な事でした。貴族はゆるゆるとした動きを好みますので、最初はびっくりしましたね。何でもカリエンテ侯爵領で平民のようにお過ごしだったということで、貴族的な振る舞いは知らないし出来ない、という事でした。それはまた変わったご経歴です。
気さくな方で、気取ったどころか私や夫に対しても使用人相手ではなく、年上の人間として尊重して下さるような方でした。特に私には「育ての親に似ている」と仰って、非常に丁寧に接してくださいましたね。
私も夫も気難しい方ではなかったことに内心で胸を撫で下ろしました。しかしながら、ラルフシーヌ様が貴族基準で物凄く変わった方であるということはすぐに明らかになりました。
なにしろ、家計を助けるために狩人として働き出したのです。最初にその事を伺った時には私は何を言っているのか理解出来ませんでしたよ。実家から届いた荷物から槍ですとか弓矢ですとか手裏剣ですとか、物騒なものが山ほど出てきまして、それを持って出掛けて行き、小動物をぶら下げて帰ってきた時には、私は危うく卒倒するところでした。
そして「これは毛皮が高く売れるのよ」と言い出しまして、お庭の井戸の側で獲物の小動物を切り刻み始めたのです。……狩りを好む貴族女性は、いないとまでは申せませんが、自分で毛皮にまでしてしまう方はラルフシーヌ様お一人でしょう。間違いありません。前代未聞です。
ですが、奥様お一人にお仕事させるわけには参りません。私は奥様の侍女でございます。奥様のお仕事をお助けするのが仕事です。私だって侍女ですからお料理の修練は積みました。ですから包丁で小動物を捌くくらいの事は出来ますとも。
そうして奥様に教わりながら色々やっている内に、私は毛皮舐めしを一通り出来るようになってしまいましたよ。他にもお肉の干し方とか薬草の処理の方法とか、まぁラルフシーヌ様付き侍女以外では絶対に使わないスキルが色々身に付きましたね。
ラルフシーヌ様は田舎でお育ちになったからか、古風な所がございました。それと、使用人を使うのに慣れていらっしゃらなくて、私や夫に命じて何かをさせる事に抵抗がおありのようでしたね。
ですから「夫の食事を用意するのは妻の務めだから」と毎晩必ずセルミアーネ様の夕食の支度をご自分でなさいました。奥様もお忙しいのですから私がやりますと言っても、手伝わせはしましたが、決して私に全面的に任せる事はありませんでした。必ずご自分でメニューを考えて手を尽くされていましたよ。
お屋敷全体は兎も角、寝室や居間や食堂のお掃除もなるべくご自分でするようにしていましたね。平民ならそれが当然の事らしいのです。
お庭の手入れもお好きで、暇さえあればお庭に手を入れていましたね。これも下働きに命じるのではなく、ご自分でハサミやノコギリを持って脚立に登り枝を落とすのです。養父が庭師だったそうで、その技術は本職顔負けでしたよ。
そういう風にお忙しくしているので、ラルフシーヌ様は早起きで、私よりも早く起きてしまいます。私は奥様付きの侍女ですから、本来は私の方が早く起きて朝のお支度の準備をすべきなのです。ですが、ラルフシーヌ様はご自分でサッサと起床され、あっという間に朝の支度を済まされるとお外に飛び出して行ってしまうのです。
そもそも、お洋服もドレスではなく平民服をお好みになりまして、夏場などは薄手のワンピースを纏っただけでお過ごしでしたよ。足元は狩りに行く時以外はサンダルで済ましていました。セルミアーネ様もそれに合わせて平民服でお過ごしでしたから、いくら下位貴族のお屋敷街とはいえ、お二人のご様子は異彩を放っていたでしょうね。お庭には獣の毛皮が干されていましたし。
そのせいか、エミリアン家に社交のお誘いは全然ありませんでしたね。下位貴族にも社交はあり、騎士とはいえ将来有望なでありお屋敷も所有している(裕福だと看做されるでしょう)セルミアーネ様には社交のお誘いがもっとあっても良かったと思うのですが。
ただ、ラルフシーヌ様は貴族の社交がお嫌いで、とにかくドレスを着て宝飾品を身に付けて着飾るという行為が苦手でした。動き難い服装は戦い難いから嫌だ、とこぼされていましたね。侯爵家から贈られた社交用のドレスや装飾品はかなり良いもので、それで着飾るとラルフシーヌ様は本当にお美しくなるのですけど。
ラルフシーヌ様が嫌がるのでは、そもそもご本人も社交がお好きではないセルミアーネ様も積極的に社交に出る気にはならなかったのでしょうね。たまに騎士仲間の方がいらしゃったり、ラルフシーヌ様のお姉様だという伯爵夫人がいらっしゃる他は、お二人がご自宅にお客様をお迎えすることすらろくにありませんでした。私としてはせっかくお美しい奥様を着飾らせられないのは残念でしたけどね。
セルミアーネ様がご結婚なされてから程なくして、私は皇妃陛下に呼び出されましてラルフシーヌ様の事を事細かに聞かれました。なんと、セルミアーネ様のご結婚は皇帝陛下にまで話が通っていなかったようなのです。ですから、皇帝陛下も皇妃陛下もラルフシーヌ様がどんな方であるか全然知らず、慌てて私を呼んで情報収集を図ったという訳です。
「貴女も、セルミアーネが結婚するという情報を得た時点で私に報告しなければダメではないですか」
と皇妃陛下に怒られましたが、まさかセルミアーネ様が皇帝陛下にまで内緒でお妃を選ばれたなんて私だって想定外でしたよ。
ただ、皇妃陛下はセルミアーネ様がラルフシーヌ様を溺愛なさっているという事を知ると「それは良かったわ」と目を潤ませていらっしゃいました。なにしろセルミアーネ様はご自身の親友であり腹心であったフェリアーネ様の忘れ形見です。是非とも幸せになって欲しいとお望みだったのでしょう。セルミアーネ様に騎士としての生活をお許しになっていたのもそのためだったのです。
セルミアーネ様とラルフシーヌ様は基本的には非常に仲睦まじくお過ごしでした。お互いを「ラル」「ミア」と愛称で呼び合われ、お家にいる時は常に同じ部屋でお過ごしになりました。二人で街までお出掛けすることもよくありましたね。貴族のご夫妻ではあり得ないほどの距離の近さでしたよ。
ただ、ラルフシーヌ様は気性が激しい方でしたから、セルミアーネ様と喧嘩をなさる事もたまにありました。
きっかけはいつも些細な事でしたよ。ラルフシーヌ様が目的の獲物を狩るために、もっと森の奥に行きたいので泊まり掛けで出掛ける、と仰って、セルミアーネ様がダメだと却下なさった時はラルフシーヌ様はそれは怒りましたね。「約束が違う!」と叫んでいらっしゃいました。
お嫌いな社交にセルミアーネ様が手柄を立てられ叙勲を受けた際に続けて何度か出なければならなかった時には気分を害され、何日かセルミアーネ様と口を聞かなかった事もありました。
逆に、セルミアーネ様が長期の遠征に出られた際に十日ほどお屋敷を留守にされた際には非常に不機嫌になられ、セルミアーネ様はご帰宅なさってからラルフシーヌ様のご機嫌を戻すのに懸命になっておられましたね。
ラルフシーヌ様はそうやって怒ると、貴族夫人とは全く違った怒り方をなさいます。その……。手が出るのです。カーッと怒った瞬間、セルミアーネ様にパンチを放ったり蹴りが出たりするのです。最初に見た時には本当に驚きました。
セルミアーネ様は騎士ですからラルフシーヌ様の攻撃を上手く受け流して事なきを得ていますが、皇子たるセルミアーネ様を怪我でもさせたらラルフシーヌ様もタダでは済みません。私はラルフシーヌ様をお諌め致しましたが、セルミアーネ様は私にこう仰いました。
「アレでラルの気が晴れるならその方が良いんだ。大丈夫」
実際、セルミアーネ様をひとしきり攻撃した後は、ラルフシーヌ様は気が済んでしまうらしく、お怒りが後を引く事はありませんでしたね。
ただ、ある日の夫婦喧嘩はちょっと深刻なものでした。ご結婚から三ヶ月くらい経った頃の事でしたか。
いつも闊達なラルフシーヌ様が数日、ちょっと暗いお顔をなさっていました。どうしたのかと伺ってみると、どうやら故郷の(ラルフシーヌ様はカリエンテ侯爵領でお育ちです)夢を見たという事でしたね。それで、ちょっと里心が出てしまったようでした。
それである日、ラルフシーヌ様は一度里帰りがしたいとセルミアーネ様に申し出ました。カリエンテ侯爵領は遠いです。馬で行っても十日近く掛かると思います。ラルフシーヌ様は一人で騎乗して帰ると申されましたが、いくら何でも奥様を一人で危険も多い旅に出すわけには参りますまい。
案の定、セルミアーネ様はダメだとおっしゃいました。するとラルフシーヌ様が怒りました。
「約束が違うじゃない!」
そう叫んだ瞬間、ラルフシーヌ様の金の瞳がルビーのように赤く染まりました。私はびっくり仰天です。初めて見ました。魔力の高い方は魔力が高まると瞳の色が変わることがあるというのを聞いたことがありますが、お怒りのあまり奥様の魔力が高まったという事なのでしょうか?
セルミアーネ様は必死に説得なさっていましたよ。それは大事な奥様を一人旅に出すわけには参りませんもの。ラルフシーヌ様のお望みがまず無茶なのです。セルミアーネ様はもう少しで叙勲の褒賞などで貰った休暇が貯まるから、そうしたら帰ろうと説得なさったのですが、ラルフシーヌ様は聞きません。
「結婚してもいつでも帰れるって言った!」
とゴネにゴネました。実際、そういうお約束を二人がしたのは事実らしいのですが、それにしたってラルフシーヌ様お一人で里帰りさせるなんて無理です。無茶苦茶です。
結局怒るラルフシーヌ様と譲らないセルミアーネ様の間で大乱闘になってしまいました。ラルフシーヌ様がセルミアーネ様の胸ぐらを掴み、えいやとばかりに投げようとし、セルミアーネ様が身体を捌いてそれに耐えます。ラルフシーヌ様の肘打ちをセルミアーネ様が自分の肘で防ぎ、セルミアーネ様がラルフシーヌ様を押さえようとすると今度は奥様の頭突きが……。
という感じで居間の調度を跳ね飛ばしながらの戦いに、私と夫は壊れ物をなんとか救い出すので精一杯でしたよ。それにしても騎士として相当お強い(あの皇帝陛下の御子ですから弱かろう筈はありません)筈のセルミアーネ様が額に汗を浮かべて必死に戦わなければならないのですから奥様の戦いの実力は相当なものですね。
いつもであれば一頻り戦うとラルフシーヌ様は満足されてご気分を立て直されるのですが、今回ばかりは違いました。最終的にセルミアーネ様がラルフシーヌ様をなんとか抑えて「なんとか来年には里帰り出来るようにする。約束する!」と仰って、奥様も不承不承頷いたのですが、その晩は大変珍しい事にお二人は同衾されず、ラルフシーヌ様は客間のベッドで寝てしまいました。
翌日も塞ぎ込む様子のラルフシーヌ様に、私は流石に苦言を呈しましたよ。今回ばかりは奥様がちょっと我儘過ぎます。セルミアーネ様にもお仕事がありますし、奥様を大事に思うからこそ、お一人での危険な旅を許可なされないのですから、妻としてはその事情を受け入れねばなりません。
私は珍しくお出かけをせずに、昨日荒らしてしまった居間の片付けをしてらしたラルフシーヌ様にそのような事を少しきつめの口調で言いました。ラルフシーヌ様は金色に戻った瞳で私の事をジッと見つめて、私のお話を聞いてくださいましたよ。
そして、私にこう仰ったのです。
「……ケーメラ。……今だけで良いから、ラル、って呼んでくれない?」
私は驚きました。奥様は以前から私に「ラルと呼んで!」と仰っていましたけど、まさか奥様を愛称で呼ぶ事など出来ません。
しかしこの時のラルフシーヌ様は見た事がないくらい余裕の無い表情をなさっていました。いつもは勝気に跳ね上がっている眉がしんなりと下がってしまっています。私は仕方無くお呼びいたしました。
「ラル、セルミアーネ様と仲良くしなければダメですよ」
その瞬間、ラルフシーヌ様の表情が大きく歪みました。そして奥様は私に抱きついて、私の肩に顔を埋めました。そして涙声でこう呟いたのです。
「母ちゃん……!」
私はハッといたしました。
奥様はこの時、十六歳だったのです。十六歳で故郷を遠く離れ、見知らぬ土地に嫁がれておいでだったのですよ。それは寂しくて、心細くて当たり前です。ラルフシーヌ様はご気丈な方ですし、いつも楽しそうに生活していらっしゃいましたからつい忘れてしまうのですが、ラルフシーヌ様はまだまだお若い新米の奥様なのです。
帝都貴族の嫁入りの場合、実家はすぐ近くにありますから、何かあれば直ぐに帰れますし、頼りに出来ます。ラルフシーヌ様も勿論、実家であるカリエンテ侯爵家はそれほど遠く無いところにあるのですが、ラルフシーヌ様はご実家との縁が薄くて、お育ちになった遠い故郷と養父母をしきりに懐かしがっていらっしゃいました。しかしあまりに遠い故郷や養父母には容易に行って会えるものではありません。
我慢していらっしゃった故郷や養父母への思慕が、夢見をきっかけに吹き出してしまったのでしょう。ご本人にもどうにも出来ない事なのだと思います。私はもうひたすら奥様がお可哀想で、ただただラルフシーヌ様の背中を撫でて差し上げることしか出来ませんでした。
セルミアーネ様にこの事をお伝えすると、セルミアーネ様は頭を抱えていらっしゃいましたね。セルミアーネ様はご結婚以来順調に出世なさっていて、もうすぐ千騎長、子爵に叙せられるとの事でした。そうすれば休暇がまとめて頂ける筈なので、その際に里帰りをしようとご計画なさっているとの事でしたね。それならば来年にはラルフシーヌ様のお里帰りが叶うことでしょう。
私はホッとしていたのですが、結局、その予定が実現することはありませんでした。
なぜなら翌年に皇太子殿下がご危篤になられてしまい、セルミアーネ様は急遽皇子として皇族に復される事になったからです。同時にラルフシーヌ様はお妃としてこちらも皇族にお入りになりました。ご本人としては晴天の霹靂だった事でしょうね。大騒ぎの末、お二人はお屋敷から帝宮内の離宮に移られました。お屋敷にはまた私と夫だけが残されたのです。
ラルフシーヌ様はお屋敷をお出になる時私と夫を抱擁して労をねぎらって下さいましたよ。そして凜とした表情で帝宮に向かう馬車に乗り込まれました。この時のラルフシーヌ様の服装は最高級の真っ白なドレス、嫁入り衣装もかくやというようなお美しいドレスでした。私はなんだか娘を嫁に出すような、複雑な気分で奥様をお見送りしたものです。
その後の妃殿下のご活躍は知っての通りですよ。あの貴族的な事がお嫌いだったラルフシーヌ様が立派に皇太子妃としてご活躍なさっていると聞いて、私は妃殿下がどれほど努力して、頑張ってそのように振る舞っているか、故郷への恋しさを押し殺していらっしゃるかを思って胸が痛くなるような心地がしたものですよ。皇太子妃、そして皇妃陛下になられてはもう難しかもしれませんが、いつかラルフシーヌ様が故郷にお帰りになる事が出来ますようにと、私は全能神にずっとお祈りしておりました。
お屋敷はセルミアーネ様の私的な離宮として残されまして、引き続き私と夫が管理を任されました。セルミアーネ様とラルフシーヌ様の新婚時代の様々な品々。妃殿下の狩りや薬草採集の為の用具などがそのまま残されまして、どういうわけかたまに、妃殿下の侍女が必要になったからと取りに来ましたね。皇太子妃殿下が狩りの用具を使う機会があるとは思えないのですが。
妃殿下はそれから皇妃陛下になられてからも含めて、ほんの数回ですが、お屋敷にお出でになりました。その時はあの頃のように親しげに私に声を掛けて下さり、優しく温かく抱擁して下さいましたよ。
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