番外編

番外編 ラルフシーヌの浮気

 私が皇太子妃になってそんなに間が無い頃だったわね。


 私は毎日毎日の社交にも少し慣れ、同時に少し退屈を感じ始めていた。


 社交は気は使うし頭も多少は使うけど、身体はほとんど動かさない。それに比べて狩りは、全身全霊を使っての仕事だ。五感を研ぎ澄まし、頭脳はフル回転、その状態で全力で駆け回る。一瞬の油断が命取りになる、その真剣さに比べれば、いくら社交は貴族夫人の戦場だなんて言ったってラクチン過ぎて欠伸が出てしまうわ。


 欠伸なんてしたらエステシアに叱られるからしないけどね。でも、だんだん退屈を感じ始めてしまって、社交に身が入らなくなり掛けていたのだ。悪い意味で慣れてしまったのだと思う。


 なので社交の準備もちょっとおざなりになっていた。社交には事前準備が必須なのだけど、これが結構大変なのだ。


 身支度が大変なのは言うまでも無いけど、準備はそれだけではない。まず、そのお茶会なり夜会なりの目的を理解しておく必要がある。


 社交には必ず目的がある。単なる親睦を深めるだけが目的という場合も無いでは無いが、特定の人物を皇太子妃である私に引き合わせたいとか、セルミアーネに提案してもらいたい腹案があるとか、領地争い後継者争いを有利に運ぶために私の口利きが欲しいなど、主催者出席者には思惑があって私を招待して社交を開くのだ。


 これを事前に把握しておかないと、出席者と私の意思疎通が不十分になり、社交開催の目的が果たせないこともあり得る。なので事前の把握と検討は必須なのだ。


 これが面妖なことに、はっきりとこれが目的なんですよ、なんて主催者も出席者も言ってはくれないのである。なのでこちらの方で出席者の面々を見て会の目的を類推するしか無い。


 例えば、五人いる出席者の中に、一人だけ私と初対面になる若い女性が入っているとなれば目的は明確だ。これはこの若い女性に皇太子妃との面識を持たせたいのだな、と分かる。


 あるいは出席者の全員が同じ一族の出身だった場合はその一族の情勢を調べてみる。すると、領地経営に失敗した家が一族の中にあり、経済的に困窮している、なんて事情を抱えていたりするのだ。とすると皇帝資産からの融資を頼みに来ている可能性が高いと分かるわけである。


 このように事前に出席者の事を事細かに調べて検討し、覚え、受け答えまで大体決めてから社交に臨むのが、皇太子妃としては常識なのだ。社交の間の休憩時間や、下手をすると着替えながらエーレウラエステシアとこの打ち合わせをしなければならない。


 ぶっちゃけ大変面倒くさいのよね。これ。それで慣れて社交を舐め始めた私は、この事前準備の手を抜き始めてしまったのである。


 だって、そんな真剣に打ち合わせをしなくても、社交が始まってから話をすれば出席者が考えていることなんて分かるじゃない。無駄よね。それより休憩時間は貴重なんだから、庭園を散歩したり軽い体操でもして少しでも体を動かしたいわ。


 という訳で、私は打ち合わせもそこそこに散歩に出掛けてしまったり、聞いているふりをして生返事をしたりしていた。エステシアは「妃殿下? 社交を侮るとその内とんでもない目に遭いますからね?」と警告してくれていたのだけど、私はその貴重な忠告を聞き流してしまっていたのだ。


 そのせいでまさかあんな騒動に巻き込まれる事になろうとは……。


 その日の夜会は帝宮の中規模のホールで行われた、シューベルジュ侯爵主催のものだった。出席者は四十人くらいで、これにそれぞれ侍女や従卒が付くから、会場内には百名ほどの人がいることになる。流石は侯爵家主催の夜会である。結構な規模の夜会だ。


 シューベルジュ侯爵は私の二番目の姉の夫で、つまり私の義兄になる。二番目の姉は私よりも十九歳も年上だから、侯爵も二十も年上だ。親子でもおかしくない年の差がある。もちろん初対面では無いので、侯爵とお姉様が並んで簡単な挨拶をするのを受けるだけだ。もちろん私はセルミアーネと一緒である。


 ただこの日、セルミアーネは政務を残しているとのことで、入場して主要な者達の挨拶を受けて、私とダンスを三曲踊ったらすぐに中座した。


「すまない」


 と言い残して足早に去って行く。うーむ。家の旦那忙し過ぎじゃ無いかしらね。皇太子になる前も忙しそうだったけど、なってからも更に忙しくなっているようだ。今度美味しいものでも作ってあげましょうか。でも皇太子妃が料理なんてしたら駄目なのかしらね?


 セルミアーネが居ないので、出席者の残りの者の挨拶は私が一人で受ける。そして男性から申し込まれればダンスもする。ダンスは好きだし、身体を動かせてストレスの解消にもなる。疲れる貴族会話をするよりずっと楽しくて楽だ。


 そうやってそれなりに楽しく社交を楽しんでいると、一人の男性が私の前に跪いた。


 黒髪の長身の男性だ。目は緑。結構整った顔をしていた。セルミアーネほどじゃないけどね。紺色のスーツを着ている。


「エビタージュ伯爵の次男、コルイーデでございます。皇太子妃殿下には初めてお目通りさせて頂きます。以後、お見知りおきを」


 といって彼は微笑んだ。……のだが私はすぐには返事を返せなかった。誰だっけ? この人?


 社交の前に出席者の名簿は見た筈だ。その日に初対面になる人は重要なので、覚えておいた方が良いのだ。その者が誰のどのような関係の人間かを知らないと迂闊な受け答えをしてしまうかも知れないからである。皇太子妃の発言には責任が伴うので、軽々しく好意を示したり逆に敵意を見せたりしてはいけない。私の兄姉の関係者である場合、ぞんざいに扱うと気分を害されて兄姉が困る事も有り得る。


 えーっと、エビタージュ伯爵はシューベルジュ侯爵の弟よね。その次男だから思い切り侯爵の一族だ。そうそう思い出した。十七歳で騎士団に籍を置いている筈ね。だから身分は騎士。本来であれば帝宮の夜会に出るような身分じゃ無い筈だけど、実家の招待でここに来ているのだろう。騎士や男爵で実家が上位貴族の場合そうやって身分違いの社交で上位者に繋がりを作って出世に繋げる場合もある。


 見れば指輪は金なので、成人後に騎士団に入っているようだ。騎士にはこの辺の事情が複雑な者が多い。セルミアーネみたいに成人時に騎士見習いになり、指輪は銀の物を授けられる場合と、実家で成人して金の指輪をお披露目式で貰ってから騎士団入りする場合があるのだ。騎士になってからの扱いは全く違わないんだけど、裕福さは違ってくる。


 と、私はエビタージュ伯爵令息の事を見ながら数秒考え込んでしまった。これが後々問題になってくるとも知らず、その後私は気にせず、何食わぬ顔で彼に声を掛けた。


「ああ、エビタージュ伯爵のご子息ですか。初めまして。確か、騎士でしたね。皇太子殿下から噂は聞いていますよ。優秀な騎士ですと」


 これは嘘である。リップサービスだ。社交では有りがちなもので私は特に大きな意味を持たせたつもりは無かった。


 しかしエビタージュ伯爵令息は頬を赤らめ嬉しそうに言った。


「皇太子殿下にお目を掛けて頂けるとは望外の幸福にございます。殿下には殿下が騎士でいらっしゃった頃に何度か任務をご一緒させて頂いた事がございます」


 ……少し微妙な発言だった。セルミアーネが騎士であった事は誰でも知っているけども、あんまり大っぴらには言わないことに、社交界では暗黙の了解が出来ている事だったからだ。別に恥では無いが私が領地育ちであるのと同じように、話題にすると何とコメントして良いか分からず場がギクシャクするだけなので、何となくタブー化してしまっていたのだ。上位貴族の者達はけして口に出さない。


 まぁ、滅多に社交に出て来ない騎士だからね。仕方が無いでしょう。しかも以前の同僚。もしかしたら親しかったのかも知れない。その関係で私にアピールして出世に繋げようとしたのかも知れないわね。まぁ、私は弱い騎士を贔屓するようにセルミアーネに勧めたりはしないけどね。私は黙認することにした。


 彼との会話はこれで終わった。その後、お誘いを受けたので彼と三曲ダンスを踊って、それで終了。初対面の貴族男性に社交でお会い時の紋切り型の対応だったから、私は何の問題も無かったと思っていたし、その後に問題が起ころうとは欠片も考えていなかった。



 ところがである。この数日後、離宮を訪れたヴェルマリアお姉様が眉をひそめて私にこう言ったのだ。


「ラルフシーヌ。あなた、浮気をしたのですか?」


 はー!? 私は思わず口に含んだお茶を吹き出し掛けた。なんとか我慢したが盛大にむせてしまう。アリエスが背中を叩いてくれた。なんとか息を整えると、私はお作法などどこかに放り投げて叫んでしまった。


「何ですか! それは!」


 たとえお姉様とは言え、この私に浮気の嫌疑を掛けるなんて許せない! 私が浮気なんてする訳無いでしょう!


 私には皇太子妃になって今でも庶民的な感覚、価値観が残っている。特に男女間の倫理関係については庶民そのものである。なので貴族的な倫理観には未だにちょっとついて行けない部分があるのだ。


 庶民の世界では、特に私が育った田舎では、夫婦は厳密に一夫一妻。生涯、余程の理由が(子供が出来ないとかいうやむを得ない理由がなければ)無い限り離婚はしない。特に理由も無いのに離婚などしたらまず再婚は出来ないし、下手をすると村を追い出されてしまう。田舎の村は村人全員が血縁で有る場合も多いからね。


 そして浮気、不倫は男女ともに厳禁だ。特に女性の浮気、不倫はこれも村を追い出されても仕方が無い程の重大な罪と見做される。もちろん男性だって大変な事になるわよ? まず奥さんから半殺しにされ、村人からは怒られに怒られ、当分は口も聞いて貰えないような扱いを受けることになる。


 そんな庶民の世界から来た私にとって、お気軽に浮気や不倫をなさるお貴族様たちはちょっとおかしい、爛れているとしか思えない。いや、愛妾や愛人の存在が家を保つのに必要である、という話は説明されてなんとか理解した。納得はした。でも生理的嫌悪感は消えないわよね。気持ちが悪いのだ。こればかりは生まれて以来染みついた倫理観なので仕方が無いのよ。


 兎に角、私は浮気も不倫もしない! セルミアーネを旦那に決めたその日から、私はセルミアーネ一筋。彼の貞淑な? 妻として一生彼に添い遂げる事を決めているのよ。それに、私はその、今ではもう彼の事が好きだ。愛している。だから浮気なんて絶対にしない!


 それなのにどこからどうしたら私が浮気した話なんて出てくるのよ! どこの誰なのよそんなデマを飛ばした奴は! 半殺しにしてやるから私の前に出て来なさい!


 息巻く私に、ヴェルマリアお姉様は溜息を吐いて手で座るように促した。


「落ち着きなさい。まぁ、誤解だとは思っていました。ですがね。これはお姉様が仰っていたのです」


 お姉様? 不審に思って聞くと、ヴェルマリアお姉様は少し厳しい顔をなさった。


「お姉様の夫であるシューベルジュ侯爵が吹聴していたらしいのです。皇太子妃殿下はエビタージュ伯爵の次男を愛人にするかも知れないと」


 私の頭の中で「?」が盛大に飛び交った。一体どこからどうしてそんな馬鹿な話が出て来たものか。私には全然そんなつもりはないし、そんな気配を出した事も無かったはずだ。しかしヴェルマリアお姉様は言った。


「何でも、伯爵令息との初対面の場面で長いこと見つめ合っていたとか。その後のダンスもお似合いだったという話です。それで噂になっているようですよ?」


 ……見つめ合った? 私は思い出してみるが、全然記憶に無い。私が首をひねっていると、私の後ろに立っていたエステシアが溜息交じりに言った。


「妃殿下。妃殿下はあの方の挨拶を受けた時に数秒、固まりましたよね。それで誤解されたのでございますよ」


 ……確かに、あの時、私は彼の事が思い出せず、思い出そうと頑張った。その時に数秒、いや、ほんの三秒ほど伯爵令息を見ながら固まっていたかと思う。


「そんな事で!?」


「普通は相手のご挨拶には間髪入れずに流麗にお返事を返すものでございます。それが不自然に静止してしまえば、なにかあったのかと思われるには十分でございますよ。伯爵令息に妃殿下が見とれていたと見られてもおかしくはございません」


 そ、そんな馬鹿な! 確かにほんのちょっぴり不自然だったかも知れないけれど、あんな事で社交界で噂になって、ヴェルマリアお姉様にまで届く噂になるなんて! 社交界の噂早すぎない?


「相手にその気が無ければ噂にはならなかったのかも知れませんが、伯爵令息は始めから妃殿下に取り入るつもりであの夜会に来ていましたからね。おそらくご自分でも吹聴して回っているのでしょう」


 何してくれてんのあの騎士は! ていうか、最初から? どういうこと?


「上位貴族が集まる夜会に騎士が紛れ込むなんて、血縁でも不自然でございましょう。そういう者は上位者に『愛人にしませんか?』と紹介する意味を持って出席させるのが常でございます」


 そ、そうなの? なにその乱れた風習は?


「その方が騎士も出世が早くなって助かりますからね。非常に良くある事でございます」


 あの夜会の場合、勿論最大のターゲットは私だったが、それ以外の出席者である上位貴族夫人に取り入っても良かったのだそうだ。そうして上位貴族夫人のお気に入りになり、その口利きで出世して子爵になる例は非常に多いのだという。


 私は開いた口が塞がらなくなってしまった。まさかそんな話があろうとは思いもしなかった。貴族社会は複雑怪奇。ていうか、そういうのは最初に教えておいてよエステシア!


「妃殿下に説明しようとしたらお庭に逃げてしまわれたのではありませんか。だから社交を侮ると大変な事になると申し上げましたでしょう?」


 ……確かに、社交の事前準備でしっかり出席者を記憶し検討しておけば避けられた事態かも知れないわね。どうもそういう愛人候補を紹介された場合、挨拶だけ受けてダンスは断るものらしく、踊ってしまった事で噂が補強された面もあるらしい。


「これに懲りたら事前打ち合わせの手を抜かぬ事ですよ」


 とエステシアは冷たく言った。ううう、反省である。確かにその通り。ちょっと最近慣れて手を抜きすぎていた。


 それにしても、そんな不名誉な噂は放置しておけない。こうなったら今晩の社交ででもキッパリ否定して回らなければ!


「それをやっては駄目だという事はお分かりですよね?」


 エステシアがまた溜息交じりに言った。


「え? 駄目なの? どうして? キッパリ否定しないと噂が広まるばかりじゃ無い!」


「ヴェルマリア様が仰ったでしょう? このお話はシューベルジュ侯爵が吹聴しておられると。それなのに妃殿下が言下に否定したら、シューベルジュ侯爵が嘘を吐いた事になってしまいます。侯爵に恥をかかせるおつもりですか?」


 だ、だって嘘じゃ無い! 嘘を吐いているのは本当の事よね?


 ……だが、エステシアの言わんとしている事は分かる。


 シューベルジュ侯爵は私の二番目の姉の夫だ。お姉様の口利きで義妹である私、つまりその夫であるセルミアーネを支持して下さっている。侯爵家の支持はセルミアーネの皇太子としても地位の安定に極めて重要な要素だ。実家のカリエンテ侯爵家、長姉のエベルツハイ公爵家と並んでシューベルジュ侯爵家はセルミアーネの重要な支持者なのだ。


 しかしながら、私の実家であるカリエンテ侯爵家や、ライバルのマルロールド公爵家に対抗するために皇太子の権威が必要なエベルツハイ公爵家と違い、シューベルジュ侯爵からの支持はやや不安定だ。以前はむしろマルロールド公爵に近いくらいの家だったらしいし。情勢次第ではお姉様の意向を無視してセルミアーネを支持してくれなくなってもおかしくは無い。まぁ、今の時点でセルミアーネの将来的な即位はもう確定的なので、侯爵が勝ち馬から降りるような真似はしないと思うけど、帝国貴族の頂点である侯爵からの支持を失うような真似は、セルミアーネの将来的な政権運営の事も考えればしない方が良い。


 貴族はプライドを極めて重視する。嘘つき呼ばわりされる事など許せないことだろう。たとえ私が事実を言ったのだとしても、間違って嘘を広めたシューベルジュ侯爵が恥をかくのは間違いない。


 なので私が声高に噂を否定して、シューベルジュ侯爵を嘘つきにしてしまうのは避けなければならないという事だろう。なにそれ面倒くさい。


「おそらくはシューベルジュ侯爵もこの噂を利用して、なし崩しに伯爵令息を妃殿下の愛人にねじ込み、シューベルジュ侯爵一族の地位向上を狙っているのでしょう」


 セルミアーネの政権で高い地位を獲得するためには、私かセルミアーネに一族の者を愛人なり愛妾にするのが一番手っ取り早いらしい。なんというか、貴族って本当にめんどくさいわ! そんな男女の愛憎まで貴族界、政界での道具にするなんて。


 兎に角、私から無理矢理に否定して噂を終わらせるのはスマートな方法では無いという事だった。なので出来れば相手、エビタージュ伯爵令息の方から否定して貰い、シューベルジュ侯爵に「あれは誤解だった」と言って貰うのが最善らしい。


「でも、シューベルジュ侯爵も伯爵令息もそもそも私に愛人を送り込もうとしているのよね? そんなの無理じゃない?」


「簡単ではないでしょうね」


 うぐぐぐ、どうしてくれよう……。私が頭を抱えて悩んでいると、ヴェルマリアお姉様がなんという事も無く言った。


「別に、面倒くさいなら本当に愛人にしてしまえば良いのです。別に愛していなくても愛人にするのは珍しい事ではありませんよ。パトロンとして後ろ盾になり、その男を出世させて恩を売れば、シューベルジュ侯爵にも恩が売れて、侯爵からの支持も万全になるではありませんか」


 貴族夫人なら、まして皇太子妃なら、それくらいは甲斐性の内。別に非難されるような事では無い。とお姉様は仰る。でも、私は反射的に叫んだ。


「だめ! 絶対に駄目! 愛人なんて絶対に作りません! 絶対に嫌!」


 私の剣幕にお姉様もエステシアも仰け反っている。二人とも貴族だから私の拒否感の原因が分からないのだろう。庶民である私には愛人など不貞の証明そのものだ。この私の誇りに掛けてそんな存在を許しては置けない。たとえシューベルジュ侯爵の不興を買おうが知ったことか! 私は愛人なんて絶対に作らないし認めません!


 しかしながら、事は意外に重大だ。私一人で判断出来る事では無い。私は仕方なくセルミアーネに相談することにした。



 話を聞いたセルミアーネは驚いていた。私は必死に言いつのる。


「私は浮気なんてしていないし、その男に色目なんて使っていないし、全然一つもそんな気は無いの! 絶対、絶対に愛人なんて作らないから!」


 言いながらちょっと涙目になってしまう。ううう。申し訳ない。ただでさえ子供が居ないことで愛妾を娶るべきでは? などと言われているセルミアーネは、沢山の愛妾候補を紹介されても一顧だにしないでいてくれているのだ。それなのに私がうっかり愛人候補に迂闊な対応をして噂にしてしまうなんて……。


 しかしセルミアーネはしょんぼりする私を抱き寄せて頭を撫でてくれた。


「君が浮気をするなんて思わないよ。大丈夫だ。しかし、コルイーデか……」


 セルミアーネ曰く、以前からの同僚は同僚だが、その頃から伯爵令息である事を傘に着て、セルミアーネにも横柄な態度を取っていたものらしい。それがセルミアーネが皇族になって随分と驚いていたのだそうだ。


「自分の容姿に自信を持っているようだったし、私への対抗意識から君に取り入ろうと考えたのかも知れないな」


「ごめんなさい。私が迂闊なせいで……」


「いや、最初から少し無理矢理にでも、コルイーデを君の愛人にしてしまうつもりだったんだろう。君のせいじゃないよ」


 優しい旦那様だ。絶対に、私は浮気なんかしない! たとえお姉様と喧嘩することになっても断ってみせるんだからね!


 しかしセルミアーネはここで、ちょっと不穏な黒い笑みを見せた。ニヤッとちょっと悪っぽい感じで笑ったのだ。この人たまにこういう笑い方をするのよね。


「シューベルジュ侯爵は強引な男だ。放っておくとこの手の話が頻発するかも知れない。この辺でちょっと釘を刺しておく必要がありそうだね。そうは思わないか?ラル」


 そう前置きしてセルミアーネは説明を始めた。それを聞いて私の目が思わず輝いたのは言うまでも無い。



 その日、セルミアーネは日課である騎士の訓練に向かった。皇太子は一日に一度、騎士との交流を目的として、騎士の訓練所に滞在する。戦えない皇太子なら訓練を見学するだけだが、一流の騎士であるセルミアーネは実際に騎士としての訓練にも参加する。


 訓練内容はその日によって異なる。集団戦闘の訓練の日や、武器の使用方法の確認をすることもあれば、各々が武芸を磨くだけの日もある。その日も自由度の高い訓練の日で、騎士たちは数人で組んで格闘や剣術の訓練をしていた。ちなみに、ちゃんと騎士団の上司が見張っていて、サボると叱責が飛ぶ。


 セルミアーネは一通り訓練をすると、汗を拭ってから歩き出した。――エビタージュ伯爵令息コルイーデの方へだ。


「コルイーデ」


 セルミアーネが声を掛けると、エビタージュ伯爵令息は驚いた様子だった。それはそうだろう。何しろ彼は今、セルミアーネの妻である私の愛人候補だともっぱらの噂なのだから。しかし、すぐに表情を整えると、貴族的な社交笑顔で言った。


「これは殿下。どうかなさいましたか?」


「ああ、ちょっと其方と訓練がしたくなってな。付き合ってくれないか?」


 エビタージュ伯爵令息はちょっと嫌そうな顔をした。セルミアーネは文句なく騎士団最強の人物だ(騎士じゃ無いけど)エビタージュ伯爵令息では全然相手にならない。そもそも伯爵令息は魔力はあるが、訓練を真面目にやらないのでそれほど強い騎士ではないらしい。


 しかし皇太子殿下のお誘いだ。断れない。


「ありがたき幸せにございます。私でお相手になりますでしょうか」


 セルミアーネは頷くと、彼を促して歩き出した。


「どこへ行くのですか? 殿下」


「屋内だ。今日は日差しが強い。日焼けしたら大変だ」


 エビタージュ伯爵令息はちょっと訝ったが、社交によく出る皇太子が真っ黒に日焼けしていては不味いのだろうと思い返してセルミアーネの後ろに続いて屋内訓練場に入った。それまでセルミアーネが日焼けなど気にしていた事は無かったと、セルミアーネをよく見ていれば知っていたはずだが。つまりその程度の付き合いだったのだ。


 屋内訓練場の稽古場は天井が高く、剣や槍を振り回しても大丈夫な作りになっている。その一つにセルミアーネと伯爵令息は入った。


 すると、稽古場のドアが閉められた。高いところに光り取りの窓があるので明るさは保たれている。しかし伯爵令息は不穏な空気を察したらしかった。


「な、何ですか? 殿下。何が始まるのですか?」


「それは私から説明いたしましょう」


 戸惑う伯爵令息に声を掛けたのは他ならぬこの私である。稽古場の中で待ち受けていたのだ。格好はドレスだが、靴だけは動き易い革靴にしてある。壊したら大変だから宝飾品の類いは身に付けていない。本当は男装か狩人装束を着ようとしたのだが、エーレウラにもエステシアにも「絶対駄目」と言われたのだ。


 私の姿を見つけて伯爵令息は驚愕したが、すぐに余裕のある笑みを浮かべた。


「これは妃殿下。この間はありがとうございます。妃殿下が私を呼んで下さったのですか? 光栄でございます」


 どうも私がセルミアーネに自分を呼んで貰った事を違う意味に取ったようだ。というのは貴族夫人の愛人は夫公認の場合も多いらしいから、そういう意味でセルミアーネが自分を愛人と認めるために私と面前で引き会わせたと考えたようなのだ。よく分かんないのよね。その辺が。貴族社会は複雑怪奇よ。本当に。


 しかし、勿論私には彼をセルミアーネ公認の愛人にする気なんて無い。逆よね。でもそんな内心は隠して私はニッコリと微笑んだ。


「なんでも貴方が私の愛人になりたいとかいう噂が聞こえてきましたの。それならば確かめなければならないことがあると思いまして」


 私が愛人という言葉を口に出した事で、伯爵令息の誤解は更に深まったらしい。彼はさっと跪くと私に言った。


「そうですか! なんなりと仰って下さいませ。妃殿下のためならこのコルイーデ。何でも致しますとも!」


 よし、言ったわね。その言葉忘れんじゃ無いわよ!


「貴方の強さを確認させて下さいませ」


 私がそう言って、横に居たアリエスから短槍を受け取ると、伯爵令息の目が点になった。


「は?」


「私、弱い男は嫌いなの。強い男にしか興味はございません。私より弱い男に愛されるなんて虫唾が走ります。私と戦って私よりも強いことを証明なさいませ」


 伯爵令息は愕然とし、私を凝視し、そしてセルミアーネの方を恐る恐る見た。セルミアーネは涼しい顔だ。


「ああ。私も妃とは戦ったとも」


「そうですよ。皇太子殿下は私よりもちょっと強かったですわ。貴方はどうかしらね」


 私が赤くなった瞳で睨み付けると、伯爵令息は明らかに怯んだ。しかしながら、貴族は面子を重視するし、騎士である自分が女に挑まれて逃げる訳にはいかないと考えたのだろう。生唾を飲み込むようにして立ち上がるとそれなりに気合いの入った目で私を睨み、頷いた。


「よろしゅうございます。それでは私の本気を証明いたしましょう!」


 ふふん。私は上機嫌だ。久しぶりの戦いだ。ドレス姿で動き難いし「絶対に怪我はしないようにして下さいませ」とエステシアたちに厳命されているけど、怪我しなきゃ何してもいいという意味でもあるからね。皇太子妃にとって貴重な大暴れの機会だわ。


 伯爵令息は剣を構えると私と向き合った。私はチラッとセルミアーネを見た。彼は鷹揚に頷いた。やって良いって事ね! 皇太子殿下の許可が出たんだもの。遠慮はしないわよ。


 私は地面を蹴って低い姿勢で伯爵令息に一気に接近した。どうしたものかと考えていた様子の伯爵令息は対応出来ない。


「え?」


 などと言っている間に私は槍の石突きを伯爵令息の脚の間に突っ込むと、捻った。たまらずバランスを崩した彼の襟首を左手で掴み、そのまま巻き込んで背負う。


「うわー!」


 悲鳴を残して伯爵令息が宙を舞い、背中から地面に叩きつけられた。「おおー」とセルミアーネを護衛している騎士が驚いているが、事前に口止めしてあるからこの事が公になる事は無い筈よね。


 伯爵令息は大の字になって、信じられないという顔をしている。何よこいつ。弱すぎじゃ無い? 騎士団、こんなんで大丈夫なの?


「立ちなさい! その程度で私の愛人になろうなんて許しがたし! 鍛え直してやる!」


 伯爵令息は起き上がり、今度は流石に真剣な顔で剣を構えたが、私はそこへ、ずかずかと接近した。伯爵令息は決心したように剣を打ち付けてきたが、何よそのへなちょこは! 私は槍で払うとそのまま槍を突いて伯爵令息の顔面寸前で止める。


「ひいい!」


「ほら! 真剣にやらないとその自慢のお顔に傷付けるわよ!」


 破れかぶれになった伯爵令息は今度こそ本気で剣を突いてきたのだが、全然駄目だ。私は身体を捻ってかわすと、彼の襟首を掴み、足払いを食らわせてぶん投げた。


「どういう訓練しているの! それでも騎士なのあんた!」


 転がる伯爵令息の腹に槍の石突きでゲシゲシ突きを食らわせる。弱い。弱過ぎる! こんな弱い男が私の愛人に擬されるなんて屈辱よ。末代までの恥よ!


 私はそれから彼を無理矢理立たせてあと三回くらいぶん投げてやった。最終的には伯爵令息が泣きながら止めてくれと懇願してきたわね。


 私は止める代わりに、私に二度と近付かない事、愛人であると吹聴しないこと、シューベルジュ侯爵に自分は皇太子妃の愛人になどなれないとはっきり言うこと。そしてシューベルジュ侯爵に言うのは構わないが、他の者に今回のコレは言わないこと。を約束させた。伯爵令息は涙ながらに了承した。


 ふん。私が満足してアリエスに槍を渡すと、今度はセルミアーネが真っ黒な何かが漏れ出すような笑顔で伯爵令息に言った。


「コルイーデ。次は私とやろうではないか。どうも其方は訓練が足りないようだ。この際徹底的に鍛え直してやろう」


 伯爵令息が悲鳴を上げるが、皇太子殿下の命令は断れないよね。私はセルミアーネに促されて先に稽古場を出されてしまったので、その後、伯爵令息がどうなったのかは分からないのよね。


 あーあ、あんな弱い男と戦ったのではかえってストレスがたまってしまったわ。ちぇ。あんな奴と戦うくらいなら、私と戦ってくれれば良かったのに。セルミアーネめ。



 ということで、何故かエビタージュ伯爵令息はその後、社交界にまったく姿を現さなくなり、シューベルジュ侯爵も私の愛人についての話を一切しなくなった。皆様不思議がったけど、真相は僅かな人間が知っているほど価値が出るってものよね。侯爵の妻であるお姉様は私に謝ってくれて、二度とこんな事はさせないと言って下さった。侯爵にもその後、今後皇太子妃を侮辱するような事はせぬようにと、皇帝陛下からぶっとい釘が刺さったようだったわ。


 そして私は社交の恐ろしさを知り、社交に臨む際の事前準備を入念にするようになったのだった。私のミスで旦那に迷惑を掛けたら大変だものね。


 まぁ、もう一回くらい馬鹿が出て、またああやってドレス姿で良いから大暴れする機会が出来ないかしらね? とはちょっと思っていたけどね。


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いよいよ三月三日「貧乏騎士に嫁入りしたはずが!?」の一巻二巻が同時発売になります! 「野人令嬢」と大きく書いてある表紙が目印です。格好良い表紙なので男性にも女性にもお勧めです!よろしくお願い致します! そして「私をそんな二つ名で呼ばないで下さい!」も好評発売中です。こちらもよろしくです! 皆さん買ってね!買ったら続きが出ます!

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