エピローグ 帰郷
「もうすぐよね!」
はしたなくも馬車の窓にかじりつき、外を喰いいるように眺めながら私は言った。ここ数日何度同じ言葉を叫んだか分からない。まるで子供のような様子の私にセルミアーネが苦笑する。
「そうだね」
とはいえ、まだ数時間は掛かる筈だ、と呟くセルミアーネだが、私は聞いちゃいなかった。ソワソワとして落ち着かない。何しろ三十年ぶりの帰郷なのだ。
数カ月前、セルミアーネと私は退位して上皇、上皇妃となった。一人息子であるカルシェリーネとその妻に位を譲ったのだ。
私達が即位する前年に生まれたカルシェリーネももう二十七歳。五年前には妃との間に待望の男の子も生まれた。突然跡継ぎに押し上げられたセルミアーネと違って幼い頃から帝王教育もしっかり受け、成人してからは皇太子として経験も積んでいる。ついでに言えば促成栽培の皇太子妃だった私と違って妃のイルフォリアはしっかり皇太子妃教育を施されてもいる。これなら皇帝になっても苦労は無いだろう。ということで譲位する事にしたのだった。
しかし譲位の話を持ち掛けるとカルシェリーネは呆れ顔になった。
「どう考えても母上が好き放題やるための譲位だとしか思えませんが?」
流石は息子である。良く分かっている。
皇妃として即位してから二十六年。私は頑張った。皇妃の仕事は無茶苦茶に忙しく、本当に大変だったのだ。セルミアーネと分担する中で直轄地の経営と外交はほとんど私が受け持つ事になったし、社交関係はカルシェリーネが妃を貰うまでは私とエベルツハイ公爵夫人とで回していた。これは歴代の皇妃としても非常に多い業務量だと言って良い。セルミアーネはその分、軍事関係や貴族間の調整、立法と司法関係に集中してもらった。
セルミアーネはまず名君と言って良く、その治世の間に様々な施策を行った。街道の整備を行って山賊退治を徹底して治安を回復させ、貴族たちに働き掛けて領地の境の通行税を段階的に廃止させ、流通を盛んにしたのが一番大きな功績だろうか。そのおかげで広大な帝国の内部で交易が盛んになり、商業が活性化した。
私も手伝ったが法主国の衛星国を懐柔し、何カ国かを併合して帝国化した。当然法主国は怒り、軍事的衝突に発展する場合もあったが、セルミアーネが軍を率いて敗れる事は遂に無かった。法主国は未だに健在で相変わらず帝国との関係は悪いが、即位時に比べればその勢力はずいぶん後退したと言って良いだろう。
他にも下位貴族を政治に関わらせて上位貴族と関わらせる機会を増やし、下位と上位の婚姻を進め易くした。これは上位貴族の近親婚を薄めさせる意味合いがあった。血が薄まると魔力も薄く弱くなってしまうため、これまでは上位貴族は下位貴族と婚姻を結びたがらなかったのだ。
だが、竜との戦いで大規模魔法を使って戦った貴族の中に魔力が大きく上昇した者が出た。それで魔力は限界まで使う事を繰り返すことで後天的に高めることが出来る事が明らかになったのである。これまでも騎士として戦うと魔力が高まる事は分かっていたのだが、それが魔力を大量に使うためだと明らかになったのだ。
そのため、上位貴族が魔力の奉納にまだあまり関わらない若い貴族の子弟を騎士にしたり、公共事業の時に大規模魔法を使って協力させるようになったのである。因みに後天的に高めた魔力はちゃんと遺伝した。その為、貴族全体での魔力の総量が増えて、領土の拡大が可能になり、法主国への攻勢を強める事が出来るようになったのだ。
後天的に魔力が増やせるなら(それほど容易に増やせる訳では無いにせよ)下位貴族との婚姻は極端に忌避すべきものでは無くなった。むしろ家の勢力を増やすために下位貴族を婚姻政策で積極的に取り込もうという動きが出たのである。魔力の奉納が出来る貴族が増えれば、それだけ多くの貴族を土地に封じる事が出来る。そして土地を肥やす事が出来る。貴族の不足で不毛の地にしておくしか無かった土地を幾つか豊かな地に変える事が出来た。
そんなこんなでセルミアーネの治世は順調に推移し、数々の問題は起こったにせよ、まずは平和で豊かな時代を築けたと思う。
私達が譲位を口にした時、反対意見は非常に多かった。カルシェリーネに不満がある訳ではないが、まだ四十代でまだ二十年は軽く生きると思われるセルミアーネの退位を多くの者が惜しんだのである。
「せめて皇子が成人し、立太子出来るようになってからでもよろしいのではありませんか?」
などと言われた。いや出来れば皇子が妃を迎えるまで。という意見もあった。皇太子妃がいないと皇妃から社交の負担が抜けないからだ。イルフォルニアに負担し掛かり過ぎると言うのである。
だが、セルミアーネは強く譲位を希望した。私達が即位した後、先の皇帝陛下、皇妃陛下は七年間御健在だった。即位したばかりで安定しなかったセルミアーネの政権にとって、上皇ご夫妻のバックアップは非常に頼もしかった。セルミアーネはその時の思いから、カルシェリーネに同じ安心感を得て欲しいのだ。と言った。
ただ、カルシェリーネが一発で看破したように、セルミアーネが譲位を言い出したのは私のためだった。
きっかけは私が去年に病を得て、二ヶ月程寝込んだ事である。結婚以来風邪一つ引いた事が無い私の病にセルミアーネは大変狼狽し、医者を何人も集めるわ神殿を挙げて祈らせるわで大変な騒ぎになってしまった。病自体は生命に関わるような物では無かったのだが、この事でセルミアーネは自分と私の寿命について真剣に考えるようになったらしい。
帝国貴族の平均寿命は、幼児死を除けば六十歳くらいである。しかしながら当然個人差はあり、私の父母は七十まで生きたし、兄姉は六十を超えて皆健在だ。しかし三十歳前に亡くなったセルミアーネの兄君の例もある。人寿命は神のみぞ知る。絶対は無い。
セルミアーネが譲位の話を私に持ち掛けて来た時、私は驚いた。私はセルミアーネは死ぬまで皇帝をやるつもりだと思っていたからだ。カルシェリーネには教育も経験も十分である。という事は上皇のフォローは必要無いという事でもある。カルシェリーネの後に生まれた娘二人には婿を取らせて公爵家を興させているから、政治基盤も盤石だろう。経験が浅く皇帝としての政治的基盤が弱くて上皇の後見を必要としたセルミアーネと違うのだ。セルミアーネが上皇になる必要性は薄い。
しかしセルミアーネは言った。
「私達もいつまでも健康な訳では無い。元気なうちに退位しないと、やりたい事が出来なくなってしまう」
やりたい事?私が首を傾げるとセルミアーネは何とも言えない、悔恨を感じさせるような表情を浮かべた。
「君を故郷に連れて帰る、という約束が果たせなくなる」
私は驚いた。ずいぶんと古い話が出て来たと思ったからだ。そんな話はすっかり忘れていた。しかしセルミアーネは結婚した時にしたその遠い約束を未だに気にしていたようだった。
私の方はもうそんな話は気にしていなかった。故郷の父ちゃん母ちゃんはもう二十年くらい前に亡くなっていて、その時は強烈に帰りたかったが、帰れない理由も十分に分かっていたから仕方のない事だと諦めた。即位してからは本当に忙しかったからだ。お忍びでさえ半年に一回くらいしか出来ない有様で、その小規模な狩りにさえ護衛騎士が十人も付くのだ。とても好き勝手は出来なかった。フラストレーションは溜まったが、それを業務の忙しさにぶつけて解消して紛らわせる事を覚えたので、大きな問題は起こさなかった。何事にも慣れるものだ。
もっとも、今では私の筆頭侍女になってるアリエスに言わせれば「皇妃陛下が大人しくしているなんてお塩が甘くなるよりも有り得ません」との事である。ま、まぁ、騎士の大会には毎回欠かさず参加していたし、帝都近郊の山賊退治や害獣退治に参加してみたり、帝都防衛の演習と称してぼんやりしていた警備兵に不意打ちを仕掛ける役目を買って出たりしたので、まったく大人しくしていた、などと言う気は無いけどね。ちゃんとセルミアーネの許可は貰ってやったのよ?本当よ?
「健康な内に退位して、ある程度身軽な上皇になれば、色んな所に行くことが出来るようになる。君の故郷。それに海が見て見たいと言っていただろう?」
セルミアーネの言葉に私は胸がむずかゆいような心持になった。この人は結婚以来変わらず私の事を大事にしてくれる。私の言った事を逐一覚えていて、私の希望をなんだって最大限叶えようとしてくれるのだ。
「それに少し遠くに行けば、少しは好き勝手に狩りが出来るだろう」
それはちょっと心惹かれるわね。まぁ、私ももういい歳なので、猿みたいに木々の間を飛び回るのはちょっと難しくなっちゃってるけどね。森の中を駆け回る事が出来るのも後数年だろう。そう考えるとまだ動ける内に退位するのは悪い考えでは無い気がしてきた。
「それに」
セルミアーネは皺が増えてきた目元を細めて微笑んだ。
「私も君と旅をしてみたい」
うん。それを聞いて私も退位を決断した。私のためだけでは無く、セルミアーネの希望でもあるなら、協力するのは妃の務めだろう。私はその日の内にカルシェリーネを呼び出してセルミアーネと私の退位の意向を伝えて、カルシェリーネに呆れられたのだった。
散々揉めたがセルミアーネと私は意向を通し、無事に退位してカルシェリーネの即位を見守った。カルシェリーネはセルミアーネ程は武勇を好まないが、頭が良く、私が教えた事もあって法主国語も完全に話す事が出来た。貴族の間からの評価も高く、大神殿で歓呼の声に讃えられてカルシェリーネは皇帝カルシェリーネ一世となった。そして皇妃となったイルフォルニアはイベルシニア侯爵家出身で、私にとっては甥の娘に当たる。つまり私の長姉であるエベルツハイ公爵夫人(今回のカルシェリーネの即位でエベルツハイ公爵家は侯爵に下がるが)の孫だ。この事からも分かるように、帝国貴族界はカルシェリーネの代でもエベルツハイ侯爵家とカリエンテ侯爵家が主流となるだろう。この先は分からないが。
そうして上皇と上皇妃になった私達であったが、住む場所は帝宮の同じ離宮のままで変わらない(呼び方が内宮から離宮に戻っただけだ)し、カルシェリーネをフォローするという名目上、全く暇な訳では無い。私は社交に出るし、セルミアーネは上皇の執務室に出仕して業務を行わなければならない。ただし、退位前に比べれば明らかに仕事は減った。特に私は業務をほぼ全てイルフォルニアに譲り渡したので社交を楽しんでいれば良いのでほとんど失業状態だった。
ここ二十年以上も目まぐるしく働いてきたのである。暇になるとどうにも退屈だった。皇妃の時は内宮を出るだけでも物々しい護衛を引き連れなければならなかったが、上皇妃になると皇太子妃時代程度には身軽になった。これなら帝宮内部くらいなら動き回れるんじゃない?と考えた私は護衛騎士を二人連れただけで帝宮内部の街にお忍びで行ったり森に狩りに出掛けたりして、それを知ったカルシェリーネにしこたま怒られた。むぅ、お堅い息子だ。誰に似たのかしら。
そんな事を言われたって何もしなければ暇を持て余してしまう。カルシェリーネの目を盗んでお忍びを繰り返し、どうやら帝宮内部の各所でお騒ぎを起こした挙句、カルシェリーネから旅行の許可が出たのだった。騒ぎを起こすなら自分の目の届かない範囲で起こしてくれ、と考えたらしい。
そうして私達は準備を整え、カリエンテ侯爵領へと出発したのだった。
私は結婚のために帝都へ旅した時のように騎乗で行くつもりだったのだが、カルシェリーネに怒られた。大丈夫よ。馬には暇さえあれば乗ってたんだし、と言ったのだが、そういう問題では無いらしい。仕方無く旅行用の大きな馬車を仕立てた。心配性のカルシェリーネは十人の騎士と三十人の騎兵を護衛に付けた。セルミアーネの施策によって街道は昔より快適に安全になっているのだから大げさだと思う。
だが、カルシェリーネの妃イルフォルニアは、自分が帝都城壁から出た事も無い事もあってしきりに心配してくれた。この嫁は又姪だけあって容姿は私によく似ているのだが、性格は正反対だった。そこがカルシェリーネのお気に召したらしい。
道中は快適で、快適過ぎてつまらない程だった。日程は完璧に管理されていて、泊まるのは各地の領地の領主のお屋敷。私達が来ると聞いて領主貴族は真っ青になって帝都から領地に飛び帰り、泊める準備をしてくれたのだと聞いた。それでは野宿が良かったとは言い出せない。
途中で通過する森で狩りをするなどとても言い出せる雰囲気ではない。つまらない。むくれる私を見てセルミアーネは笑って、しかしちゃんと「カリエンテ侯爵領では多少は好き勝手しても良いとカルシェリーネから許可は貰っているから」と言ってくれた。それなら少しは我慢しよう。その結果、早く着かないかな?まだ着かないかな?もう着くかな?もう着くわよね?と言い続けてセルミアーネを苦笑させる事になったのである。
そうして帝都を発って十日後、馬車はカリエンテ侯爵領に入った。懐かしい山の形に私はしばし絶句した。
カリエンテ侯爵領はこの時点で西の旧フォルエバー国ともう一つの国を吸収して西に大きく範囲を拡大していた。そのため、領都は西の旧フォルエバーとの境辺りに新たに築かれている。しかし旧領都は新領都から続く街道沿いの街として相変わらず栄えていた。
私達は旧領都の旧侯爵屋敷に入った。流石に私の甥のあたるカリエンテ侯爵は来ていないが、家臣が大量に派遣されていて完全に迎えの用意は整っていた。このお屋敷は子供の頃にお父様お母様が来る時には父ちゃん母ちゃんと一生懸命掃除をし、両親がいる間は私も泊まったので思い出深いお屋敷である。両親は引退後にはこのお屋敷で生活したそうで、その際にお父様の発案で新領都を造る事にしたそうだ。新領都にも侯爵屋敷はあるが、伝統あるこのお屋敷も残す事にしたらしい。
セルミアーネと私は旅の疲れを一日癒し、次の日から行動を開始した。セルミアーネは護衛の騎士に命じて、すぐ脇に付く護衛は四人だけに、他の護衛はなるべく遠くから見守るように命じた。
私が何より優先したのは父ちゃん母ちゃんのお墓参りだった。公爵屋敷の城壁にくっついて作られていた父ちゃんの家は、跡形も無くなっていて少しショックだったが、仕方が無い事ではある。父ちゃん母ちゃんの墓は旧領都の神殿の共同墓地にあった。ごく簡素な墓だったが一応男爵の墓なのでそれなりに立派なものだ。以前から供養料を送っていたからしっかり手入れされて綺麗なものだった。
花と供物を捧げて、私達は跪いて祈った。二人が相次いで亡くなった時にも大神殿で魔力の奉納付きで死者を導く神と、良き生まれ変わりを祈ったものだ。二人は今頃は違う人生を始めている事だろう。そういう意味では私はもう悲しくは無かった。
だが、セルミアーネは祈りつつしきりに父ちゃん母ちゃんに詫びていた。その表情からは後悔がにじみ出ていた。何回か聞いたが、彼は父ちゃんと私達の子供を連れて会いに来ると約束したのだそうで、約束が守れなかったと以前からしきりに嘆いていたのだ。私は彼の腕を抱き、背中を叩いて慰めた。
神殿を出て、旧領都を歩いた。街の様子は変わったようであり、変わらないようでもある。元々が古い街であるので街並みにはあまり変化は無いが、そこここにフォルエバー風の服を着た人が歩いていたり、それ以外の変わった服装の人々がいて、それに影響されているのか元々の住民の服装もどことなく変わっていた。
当たり前だが見知った顔はいない。あの頃はこの街の全員が顔見知りで、歩けば知り合いに声を掛けられ、暇であればお茶なり酒なり食事なりに誘われ、周りを巻き込んで毎回大騒ぎになったものだ。田舎町に似合わない護衛の騎士を引き連れた身なりの良い中年夫婦を皆不審げに遠巻きにして見ている。
その時、ある建物から一人の男性が出て来た。少し太ってはいるが体格の良い男性で、髪の毛は薄くなっていた。彼は私達を見て驚いたような様子を見せ、しかし関わりたくないという風に直ぐに顔をそむけた。
のだが、すぐに驚いたようにもう一回私の事を見ると、食い入る様に凝視してきた。警戒した護衛が私と彼の間に入ろうとするのを私は止める。そう。私も彼に注目していたのだ。見覚えが、ある。
「・・・ペタ?」
「ら、ら、ラルか!」
私が大きく頷くと、ペタは信じられないという様に目をこすり、そして何回も瞬きした。
「おおおお、ラル!本当にラルか!」
ペタは叫ぶと猛然と駆け寄って来た。護衛が慌てて取り押さえようとするが、私とセルミアーネはそれを制した。ペタは勢い良く駆け寄ると私にがっしりと抱き着いた。
「ラル!」
「ペタ!久しぶり!」
ペタは泣きながら私を抱き締め、離れるとしげしげと私を見た。
「幻じゃなかろうな?間違い無くラルなんだな?」
昔の子分の一人、ペタは涙を流しながら私の事をベタベタと触った。護衛達が青くなるが私は構わない。
「そうよ。ちょっと歳取ってるけどね。間違い無く私よ!」
「はー、確かにラルだ。歳はお互い様だぜ。だが相変わらず親分は格好良いな」
「あんたはちょっと禿げたわね」
「うるせえ。孫もいるんだ。貫禄もつこうってもんだろうが」
私達は大声で笑い合った。
「こうしちゃいられねぇ!皆にラルが帰ってきたって触れ回って来る!おおい!ラルだ!ラルが帰ってきたぞ!」
ペタは叫ぶと大声で私の帰還を叫びながら走り出した。あ、ちょっと、と思った時には遅かった。ペタの声を聞いて、街のあちこちから中年以上の男女が飛び出して来たかと思うと私の事を見つけ、一目散に駆け寄り始めたのだ。
「ラル!ラルじゃ無いの!」
「ベル!久しぶり!」
「ラル!いったいどこで何してたの!」
「トーラ!元気だった?」
「ラル!本当にラルなのか?」
「ボーイス!あんた私がそれ以外の誰に見えるっていうの?」
昔の子分、女友達が我も我もと押し寄せて来て私はもみくちゃになった。皆同世代で五十歳前後くらいだ。孫もいるような世代の彼らが子供のように顔を輝かせ、目を潤ませて私に抱き着くのを見て、周囲の彼らの息子や娘と思しき人々は唖然としている。
セルミアーネはニコニコと笑っているが、護衛の騎士たちは呆然としている。人々の何人かはセルミアーネの事も覚えていて、セルミアーネにも懐かし気に声を掛けていた。どうやらこの街の誰一人としてセルミアーネが先ごろまで皇帝だった事は知らないし、私が皇妃だった事も知らないらしい。
後で聞いた話だが、私が騎士であるセルミアーネの嫁になったのは皆知っていたが、騎士が何なのか、どういう身分なのか誰も良く知らなかったようだ。騎士は貴族だというおぼろげな知識から、今回の帰郷で私達が護衛を引き連れているのも「流石に貴族の所に嫁に行っただけはあるな」くらいに思われていたらしい。まぁ、私も詳しい説明は避けた。私達が皇帝夫妻だったと教えてもここの連中には理解が追い付くまい。
集まる皆と旧交を温めている内に、いつの間にか周囲が更に騒がしくなってきていた。家々からテーブルや椅子が運び出され、飾り付けが始まっていた。これはあれだ。私は慌てて止めた。
「何をしているの!」
「何って、お祭りの準備だよ!ラルが帰ってきたんだ!盛大にお祝いしなきゃ!」
などと叫んで女友達が腕まくりして娘たちに指示を出している。いい歳をしたおじさんになっている昔の子分達が各々の部下だか息子だかを使ってあっという間にお祭りの準備を整えてしまった。あれよあれよという間にテーブルには料理が並べられ、酒樽が運び出された。既に真っ赤な顔で歌い踊り始めている連中がいる。
だめだこれは。もう止めようが無い。田舎町には娯楽が少ない。何かというと宴会をやりたがる。そのネタが祝い事なら最高で、葬式だって立派に宴会のネタになるのだ。
今回も私の結婚の時の大お祭り騒ぎに匹敵するような騒ぎになってしまった。ペタは人を出して領地中の町や村に私の帰還を触れ回ったらしく、時間が経てば経つほど人が増える有様となった。街にいた旧フォルエバーの住民からは旧フォルエバーにまで連絡が行ったらしく、馬を夜通し駆けさせて朝方に辿り着いた者達もいた。
街の中央広場に連れていかれ、台上に上がらされて既に酔っ払っているペタから「この領地で過去最強のガキ大将だったラル」と誇大な紹介を受けて乾杯の大歓声を浴びた後はもうお決まりの無茶苦茶コースだ。飲めや歌えや踊れやの大宴会。誰も彼も私の名前を呼びながら飲み喰い、歌い踊る。当たり前だが流石にもうこの街には私の事を知らない者の方が多い筈だ。だが皆そんな事は気にしない。誰も彼もが私と乾杯し、一緒に踊りたがった。
セルミアーネの元にも大勢の者達が集まって乾杯をして共に歌い、踊り、笑っていた。誰も彼が皇帝だったなんて知らないのだ。セルミアーネはここではラルの夫であり、昔私を攫って行った憎い奴であり、今ではそれも良い思い出なのだった。因みに
護衛の騎士たちも巻き込まれて吞み潰されてしまい、護衛の役には立たなくなっていた。ただ今はその方が都合が良い。
「ラル!お帰り!」「ラル!元気だった?」「ラル!会いたかったぜ!」と声が掛かる度に、長い皇妃生活の間に身体に溜まっていた淀みというか、強張りのようなものが溶けて行く気がした。流石に身に付いて固まっていた貴族としての自分が剥がれ、本来の自分が表に出て来るような気がする。それが何とも心地よかった。
朝まで大宴会をやらかした後、私はセルミアーネと領地の色んな所を回った。とはいえカリエンテ侯爵領は私がいたところの数倍になっていたから全ては行けなかったが。是非にと乞われて旧フォルエバーまでも行った。大歓迎を受け、様々な贈り物を貰い、一晩泊めてもらった。新領都にも行き、当代の代官から歓迎を受けたりした。
旧領都に帰って来た後はセルミアーネと森に入って狩りをした。森の様子は昔と何一つ変わらない。護衛の騎士を二人だけ連れて、一日中森を駆け回った。レッドベアーを一人で狩ってみせると護衛の騎士は驚愕していたわね。
そんなこんなで私達はカリエンテ侯爵領に一月ほど滞在した。もっともっと居たかったが立場的になかなかそうもいかない。私はペタ達に使いを出し、数日後に帝都に戻る事を告げた。
予想はしていたがまたお別れの大宴会が開かれた。今度は急にではなく準備万端だったので前回に参加出来なかった者も含めて領地中から人が集まって大盛況になってしまった。これだけ集まったらお酒や料理の用意も大変だろう。私は前回の宴会の後、こっそり帝都に使いを出し、お酒や食料品を届けさせておいた。
皆、私達との別れを惜しんだ。宴の翌日、侯爵邸を馬車で出ると、街の人々が馬車を取り囲んだ。
「またな!ラル!」
「元気でね!ラル!」
昔の仲間からその息子や娘まで目を潤ませて叫んで手を振る。私も馬車の窓から身を乗り出して叫んだ。
「みんな!元気でね!またね!」
皆は街の境まで馬車を追い掛けて見送ってくれた。私も皆が見えなくなるまで手を振った。空気を読んだ護衛たちは、私が皆との別れを終えるまで馬車から離れていてくれた。
私は馬車の席に座り直すとハンカチで涙を拭った。歳を取ると涙脆くなって困るわね。昔の子分に涙を見せるなんてみっともないと思って我慢していたのだが。
またね、とは言ったが、恐らくはもう来ることは出来まい。カリエンテ侯爵領は遠いし、実家とはいえ上皇夫妻が何度も同じ貴族の領地に出向くのも政治的に問題があるだろう。結婚の時はすぐにまた来るからと思っていたが、今回はもう二度と来れない事を覚悟しなければならなかった。
それでなくても、平民の寿命は貴族のそれよりも少ない。十年後に来る事が出来ても昔の仲間はほとんど生きてはいないだろう。私も今以上に動けなくなっているだろうし、今回のように故郷を楽しむことはもう出来ないだろう。
そういう色々な事を考えると、涙が次々と溢れて止まらなくなってしまった。私はしばらく俯いて涙を流した。向いに座っているセルミアーネはその間何も言わなかった。あえて黙って私を見守ってくれた。
ようやく涙が収まった私はハンカチを横に座っているアリエスに渡した。アリエスは微笑みながら軽く化粧を直してくれた。
「ありがとう。セルミアーネ」
私は言った。何もかも彼のおかげだった。彼が手を尽くしてくれたから、まだ昔の仲間がほとんど生きていて、私が故郷を満喫出来るこの時の帰郷が叶ったのだ。
セルミアーネはうん、と嬉しそうに頷いた。
「また来よう」
そう言ってくれた。私はその言葉にまた泣いてしまいそうになったけれど、その言葉に甘えるのは私の自尊心が許さなかった。私は彼の妻なのだ。妻は夫を甘えさせるものだ。今度は私が彼を甘えさせる番なのだ。
「いいわよ。もう。次はあなたの行きたい所に行きましょう。あなたも南の海を見てみたいって言ってたじゃない」
セルミアーネは戦役で北の海に出向いた事はあるのだが、荒涼としていて寒々しくてあまり良い思い出では無かったようなのだ。伝え聞く南の海の様子に興味を持っていた事を私は知っている。
私の言葉にセルミアーネは少し目を見開いたが、すぐに昔からまるで変わらない優しい微笑みを浮かべた。
「そうか。じゃぁ、今度は私の好みに付き合ってもらおうかな?奥さん?」
私はセルミアーネの手を取って、とびっきりの笑顔を浮かべる。
「喜んで。いくらでも付き合ってあげるわ!」
私達は声を出して笑い合った。それから私達は帝都までの道中、お互いに帝国の行ってみたい所を上げて、次の旅の計画を話し合ったのだった。
その結果、気分が盛り上がってしまった私は帝宮に帰り着くなりカルシェリーネに「すぐに次の旅に出発するからね!」と叫んで皇帝陛下の頭を抱えさせる結果になったのである。
おわり
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