最終話 即位式

 竜の襲来の影響は大きかった。帝都の城壁に大穴が空き、街が焼かれ、他の場所へ襲来されるより少なかったとはいえ数百名の犠牲が出た。戦いによって十数名の騎士が命を落とし、兵士や協力してくれた市民にも多数の犠牲者が出たのである。それ程の損害を受けながら相手が竜では領土も賠償金も得る事は出来ない。それどころか城壁の修理や犠牲者への見舞金、市街の復興などで莫大な費用も発生する。踏んだり蹴ったりだ。


 しかしながら、辛うじて得たものはあった。これまで竜が出た場合、街が焼かれ領地に大被害が出た他に、竜が消滅してしまった後その土地の地力が衰えてしまうというのがあったのだが、今回は直轄地の地力がほとんど減らなかったそうなのだ。やはり消滅を待つのではなく、討伐した事には意味があったのである。


 私としては竜と戦い勝った事は嬉しい事だったし、誇らしい事だったのだが、どうもセルミアーネは違った感想を持ったようだった。


「竜はどうして城壁近くでは飛べなかったんだと思う?」


 セルミアーネはある時言った。私もそれは気になっていた。


「どうやら、初代皇帝陛下がお創りになった防御が竜の侵入を防いでるようだ。当初は聖域だけだったものが、帝宮の内城壁、外城壁、帝都城壁と範囲が拡大しているようだな」


 帝国創設期には現在よりも強い魔力で奉納が行われたらしく、大神獣が頻繁に出ていたらしい。そのため魔法防御と城壁で大神獣の侵入を防いでいたのだそうだ、その魔法防御のお陰で竜が飛んで帝都の中に入れなかったのだし、帝都の奥までは攻め入らなかったという事らしい。流石は初代皇帝ね。


「なんで防御範囲が広がっているのかというと、聖域に歴代の皇族が埋葬され、聖霊になっておられるからのようだ。聖霊になられた皇族の魔力を使って帝都を防御しているのだろう」


 セルミアーネは大神殿の神官に神殿に伝わる書籍をなどを調べさせたのだが、その過程で分かった事が幾つかあったらしい。大神殿は昔、全能神信仰が盛んだったころは今より栄えていたのだが、段々人々の信仰心が衰えてしまうと、各種儀式と奉納を機械的にこなす組織になってしまい、忘れられてしまった事が沢山あるらしい。


「という事は、竜が出ても帝都に籠っていれば安心という事だ。帝都西部はまだ防御が弱かったとはいえ、飛んでは入れなかったのだし。次回竜を出してしまった場合は、帝都に閉じこもって消滅を待とう」


「え?ちょっと、そんな事をしたら近隣の街や村が・・・」


 私は驚いたのだが、セルミアーネは少し暗い顔で言うのだ。


「今回は仕方が無い。だが、君も見たように竜はやはり神の獣で神の意志の代弁者だ。その竜を無理やり討伐して神意に背く事は、すべきでは無いと思う」


「でも、民衆を守るのも皇帝の仕事じゃない!民衆を守るためなら神にも背くべきよ!」


 私とセルミアーネはこの件についてちょっとした言い争いになった。セルミアーネはどうもこの竜との戦いで全能神への信仰心を深くしたようだった。私は特に変わらなかったから、その差が出たのだろう。ただ、セルミアーネは近隣の町や村の事を見捨てたのかというと、むしろ逆で、大神獣が出た場合には帝都に避難させ、帝宮の中に受け入れる手配の方法をあらかじめ作っていた。私が作らせた煙幕材は有効だとして城壁の集積所に常備させたり、それまでは帝都に攻め寄せる者などいないと安心しきってダラダラしていた警備の兵士を定期的に配置換えして鍛え直す事で、帝都の警備を厳しくした。


 まぁ、結局、セルミアーネの治世の間は大神獣は一度も帝都を襲わず、全ての準備は使わずに済んだ。使わないに越した事は無い。ただ、私はまた竜が来たらこうやって戦おう!と色々考えていたのにそれらも無駄になった。ちょっぴり残念だ。


 竜襲撃の後始末をしながら私達は即位式の準備を進めた。即位式には各国に招待状を送っているので、日程の変更は余程の事が無い限り出来ない。これには法主国の使節も来ることになっている。法主国の使者は竜の襲撃前にも一度来て、捕虜を買い取る事及び賠償について話をしたのだが。私は法主国の言葉が分かる事を利して彼らを徹底的に追い詰めた。通訳越しだと誤魔化したり韜晦されたりする所を、直接問い詰めて私の怒りを思い知らせた。おかげで良い条件で賠償させることが出来た。


 法主国の弱点は、我が帝国と食糧取引をしないと自分たちが飢えてしまうという点で、そんな国に攻め込んで来るなよと思うのだが、平和にやっているとそれはそれで「異教徒と仲良くしている」と時の法主が責められるという救いようが無い事になっているらしい。強力なパイプであり食料を垂れ流してくれたマルロールド公爵領が消えた今、帝国とあまりにも深刻に対立し食料が輸入出来なくなると国が立ち行かなくなることは、法主以下現実的な者たちは重々承知していた。特に使者の一人であったゴスペラという者は話が分かり、法主の信認も厚いようだった。私は彼と主に交渉して講和条約を取り決め、皇帝陛下とセルミアーネの承認を貰った。


 以降、私が皇妃となってからも、法主国の言葉が話せる私が法主国との交渉は主に担当した事もあり、ゴスペラとは長い付き合いとなった。この男は現実がよく分かっている上に信仰心と現実を「これはこれそれはそれ」と分けて考える事が出来る男だった。彼が生きている内は法主国からの無茶な侵攻を心配しなくて済んだのである。


 帝国の東には法主国に従属する至高神信仰の国が複数あるのだが、それらの国は今回の法主国の大敗で法主国に見切りを付け始めた国も多かった。こういう時、私が法主国の言葉が喋れて至高神信仰の教義を理解出来るという事は大きな意味を持つ。私は即位式を前に彼の国の使節と積極的に会い、法主国との同盟を切り崩しに掛かった。これらの国と帝国の関係の最大のネックはやはり全能神と至高神という信じる神の違いで、至高神信仰の国では非常に宗教が重視されているので簡単に信じる神を変える訳にはいかないそうだ。


 帝国では土地を肥やすという実務的な意味で、領主が全能神に対して祈る事は必須である。まぁ、もしもこれらの国が帝国に降り、王が領主になった場合、彼ら一代の間は魔力が無いからそもそも魔力が奉納出来ないので、信じる神は問われなかろう。ただ、魔力が奉納出来無い者は上位貴族にはなれない。必ず嫁を異教徒である帝国の貴族から取り、子孫に帝国貴族の血を入れて全能神に魔力を奉納してもらう必要がある。果たしてそれが許容出来るかどうか。私はその辺をきちんと説明して彼らの国で話し合ってもらう様にした。


 国内の貴族たちはもうセルミアーネの皇帝即位について何の心配もしていなかった。あの竜退治で皆で必死に戦ったという仲間意識があり、私とセルミアーネが陣頭に立って戦っていた事を皆が見たのである。私やセルミアーネに隔意を抱いていた者もそれまでいない事は無かっただろうけど、あれで誰もがセルミアーネを皇帝となるに相応しいと認めたようだ。


 貴族で無く平民の間では戦いに参加した兵士や荷物運びに従事した者達の間から「竜殺しの皇太子」の噂は瞬く間に広がったらしく、その凄い皇太子が皇帝になると言うので平民たちは大騒ぎしているらしい。自分たちのために竜をも倒してくれた皇族に対する信頼と尊敬は絶大らしく、誰もがセルミアーネの皇帝即位と私の皇妃即位を祝ってくれているそうだ。それは良かった。


「他人事のように仰いますがね」


 新皇妃室予定の帝宮の部屋で私が頷いていると、市街の話を聞かせてくれていたベックが呆れたような顔をして言った。


「『竜狩人の皇太子妃』も十分話題になってますからな?」


「狩れて無いわよ。止めを刺したのは旦那だもの」


「だけど、その前に致命的な一撃をくれたのは妃殿下だとみんな見てましたからな」


 うーん。狩人の常識的には最後の止めを刺した人の獲物だという考え方があるからそう言われても微妙だなぁ。次は是非最後の一太刀まで私一人で何とかしたいものだ。


 社交をしていると分かるが私が竜に一撃をくれた事は、戦いに参加した上位貴族達から貴族の間に知れ渡っているらしい。しかも神のお力をお借りしての大魔法でも倒せなかった竜を弓の一撃で叩き落とした、とやや不正確に伝えられているらしく、社交でお会いするご婦人方の私を見る目は畏れに満ちていた。いやいや、私のあの矢も火の神のお力を借りてましたからね?まぁ、皇妃になるのだから舐められるより畏れられる方が良いのは確かだ。


 マルロールド公爵家が消滅した今、エベルツハイ公爵家とカリエンテ侯爵家にはライバルさえ存在せず、その後援を受ける私とセルミアーネの権力は盤石となった。ただ、エベルツハイ公爵もカリエンテ侯爵も私とセルミアーネに対しては従順だった。そのため、セルミアーネの治世の間、帝国には権力闘争に悩むような事は無かったのである。ある時私はお兄様であるカリエンテ侯爵に尋ねてみた事がある。


「お兄様は私に大変良くしてくださいますけど、私はお兄様にそれほどご恩返しが出来ていない気が致します。何かお望みの事があればおっしゃって下さい」


 カリエンテ侯爵は苦笑した。


「既に沢山の便宜を計って頂いておりますからお気になさらずに。妃殿下がその地位におられるだけでカリエンテ侯爵家は安泰なのです」


 それはそうだろうけど。欲の無い事だと私が思っていると、お兄様は苦笑して言った。


「私個人としては、家としてきちんと教育を施してあげられなかった末の妹に、カリエンテ侯爵家が引き立てられていることに、忸怩たる思いがあるのですよ」


 意外な事を言われて私は驚いた。


「そうなのですか?」


「父は妃殿下の教育費と、私の息子の教育費を秤に掛け、私の息子の方を取りました。妃殿下は領地に送られ、危うく貴族にもなれないところでした。そのような仕打ちを受けながら、妃殿下は何も言わずに実家であるカリエンテ侯爵家をお引き立て下さる」


 ちょっとまって。私は慌てて口を挟んだ。


「それは、当然ではありませんか。家を継ぐ直系の男子と十一番目の娘では重要度が違いますもの。それに、私は領地で楽しくやっていましたし」


 親が放任していたのを良いことに好き勝手にやっていたのに、それを冷遇していたと気に病まれても困る。


「そう言って頂けると心が休まりますが、私と、エベルツハイ公爵夫人は妃殿下に申し訳なく思っているのですよ。彼女も自分の結婚の費用のおかげで妃殿下を領地にやってしまった、と思っていますからね」


 それは事実だろうが、決めたのはお父様お母様で、お兄様お姉様には何の責任も無いだろうに。


 私は何にも気にしていないし、お兄様お姉様にはむしろ皇族入りしてから助けられてばかりだと思っているのだが。カリエンテ侯爵家とエベルツハイ公爵家がこれほど絶対的に支持してくれていなければ、セルミアーネの即位はこれほど順調にはいかなかっただろうから。


 結局はそういう風にお互いに少しづつ引け目を感じ合っていたのが良かったのかも知れない。私とカリエンテ侯爵家、エベルツハイ公爵家との関係はセルミアーネの治世の間、最後まで良好だったのである。



 セルミアーネと私の即位式の日は冬の終わりだというのに物凄い大晴天になった。雲一つない青空で、日差しも暖かい。


 大神殿の門から大神殿の敷地内に築かれた即位式の為だけに造られた大礼殿まで続く石畳を神具で清めを行う神官に先導されながら進む。セルミアーネも私も儀式正装を着ているが、皇太子夫妻の着る青と桃色のものではなく、皇帝の象徴色である青と金の服だ。それに加えて私の礼装には皇妃の象徴色である朱色も使われている。


 左右に儀式鎧で着飾った騎士達が旗を持って並び、儀式正装を着た侍女侍従に囲まれながらその間を進むのは立太子式と同じである。二回目なのだから多少は気楽かと思ったのだがそんなことはもちろん無かった。


 大礼殿は石造の神殿に対して白木造の素朴な建物だった。即位式のためだけに造られたこの建物に、この時だけ全能神がご降臨なさり、新たな皇帝陛下とご契約なさるのだという。そのため、大礼殿に入る事が出来るのは皇族だけである。傍系皇族でも入れない。カルシェリーネも成人していないので入れない。なので大礼殿には上皇様と上皇妃様。セルミアーネと私だけが入ることになる。


 通常、皇位継承は先の皇帝陛下が崩御してから行われるのだが、今回は先の皇帝陛下はお元気である。なのでこの日の朝に先の皇帝陛下は大神殿で退位の儀式を行われて既に上皇様となられている。そのため、上皇様の着ていらっしゃる儀式正装は既に紺色主体のものになっている。セルミアーネが大礼殿の儀式の間に入ると、上皇様と上皇妃様は跪き、頭を下げた。


 上皇様のお顔は随分とホッとした表情だった。セルミアーネに無事に皇位が継承出来る事への安堵が滲み出ている。上皇妃様もニコニコと嬉しそうだ。お二人は実の子を全員亡くされ、庶子であるセルミアーネを後継に据えなければならなくなった訳であり、特に上皇妃様に蟠りがあってもおかしくないと思うのだが、上皇妃様のご様子には何の翳りもない。


 お二人にとっては大事なのは皇統の継承であって、実子である庶子であるというのは二の次三の次なのだ。帝国を背負い、帝国のために全てを捧げてこられたお二人。私はこれからその後を継いで代わりに帝国を背負わなければならない。果たして私に出来るだろうか。あそこまで自分を捨てられるだろうか。


 無理だろう。私には無理。帝国のためにセルミアーネに愛妾を取らせるのは無理だし、自分を捨てて大人しくしているのも無理。良いのだ。私は私なりの皇妃になろうと決めたのだ。セルミアーネもそれで良いと言ってくれた。


 儀式を前に緊張も露わなセルミアーネを見上げる。最近は皇太子の立場にも慣れ、こんなに緊張している彼を見るのは久しぶりだ。私に見られているのに気がついて、セルミアーネも私の事を見る。青い瞳が出会った頃と変わらない優しさを浮かべて細められる。


 ふふっと笑う。こんな時でも二人で目を合わせれば笑い合える。良い夫婦になったものじゃないの。プロポーズを諦め気味に受諾した時には想像もしなかったな。


 板張りの儀式の間の奥にはこれも白木で造られた全能神の像があり、色々な供物が捧げられ、香が炊かれている。その前に誰も座っていない椅子がある。毛皮で覆われた豪奢な椅子だ。セルミアーネと私はその椅子の前で三度跪いた。そして私は跪いたまま待つ。セルミアーネは立ち上がり、一歩前に出て祈りの言葉を唱えた。


「我は偉大なる血を受け継ぐ者なり。天にまします全能神よ、我が祈りに応え、我が血の盟約に応えたまえ。我が捧ぐは祈りと命。我は新たなる皇帝として御身との契約を望む。帝国の大地と水と人々を永久に富ませるため、御身の御力を与えたまえ」


 セルミアーネが唱え終えた瞬間、儀式の間の空気が凍り付いたように引き締まった。全身の毛が逆立つような感覚がする。な、何事?驚いて思わず伏せていた顔を上げてしまう。


 セルミアーネの前にある椅子。見た目には何もいないその椅子に、何か尋常では無い何者かが「いる」。圧倒的な存在感。竜をもあるいは上回る威圧感。私の狩人としての勘が、それには手を出してはいけない、と告げていた。


 今、あの椅子に全能神が御降臨なさっているのだろう。少し離れていても冷や汗が止まらない有様だ。正面から存在と対峙しているセルミアーネは大丈夫だろうか?


 と思ったのだが、なんだかセルミアーネは苦笑するような表情を浮かべていた。何だろう?どうやら私には見えない何かが見えているようだが・・・。




 祈りの言葉を唱え終えると、次の瞬間、周囲の風景が一変した。


 木で作られた広間で儀式を行なっていたはずが、辺りが突然広い草原になったのだ。それも只事でない広さだ。見渡す限りというか、見えなくなるまで続く草原で、空と地の境は曖昧だ。空には雲一つない。明るいのに日の光は無い。


 な、何だここは。何がどうした?私は辺りを見回して、少し後ろに控えて跪いていたラルフシーヌや更に後ろに跪いていたはずの上皇様ご夫妻がいない事に動揺した。


 ちなみに上皇様はこの契約の儀式について「まぁ、やれば分かる」と仰って何の説明もして下さらなかったのだ。こんな非現実的な事が起こるのなら言って下されば良かったのに。


 周囲を見渡し、視線を正面に戻すと、そこに一人の女性が立っていた。麗しい美貌の女性で、薄絹の軽い衣服を身に纏っていた。長い銀色の髪と、金色の瞳をしている。・・・見覚えがある。というか見知った顔だ。というか私が彼女の顔を見間違える筈が無い。私は思わず苦笑した。


「ラル?」


 しかしどう見てもラルフシーヌそのものの姿をしているその女性は返事をせず、妖艶にも見える薄い微笑を浮かべるだけだった。おかしい。私は気が付いた。ラルフシーヌはこんな笑い方はしない。そもそもラルフシーヌは今、儀式正装を着ている筈だ。


 ラルフシーヌに見えるのにラルフシーヌではないその女性は、私の事をじっと見ていたが、唐突に手を伸ばし私の額に触れた。普段なら他人に無警戒に顔を触られる様な事は無いのだが、混乱していたのと相手の容姿がラルフシーヌだったので反応が遅れた。


 彼女の指先から何かが流れ込んできた。私は驚いたが既に動けない。それは程なく私の身体を満たした。特に苦痛もあるいは快楽も無い。彼女は手をすっと離すと、微笑みつつ言った。


「まぁ、良いでしょう」


 明らかにラルフシーヌの声では無かった。むしろ男性の声に近い。


「代を重ねるごとに魔力が心許無くなってきてしまいましたが、仕方がありません。アリステルとの盟約に従ってそなたと契約しましょう」


「・・・全能神様ですか?」


「あなた達がそう呼ぶのならそうですね」


 ラルフシーヌそっくりな顔で全能神様は微笑んだ。後で記録を調べた所、全能神様はその者が一番美しいと思う人物の姿を借りて現れるのだという事であった。それならば私にはラルフシーヌの姿に見えたのも納得だ。


「アリステルと契約し、彼の者の子孫の力も借りて、この大陸を我が力で覆う計画なのですが、まだ先は長そうですね」


「法主国の至高神と争っているという事ですか?」


「色々ですよ」


 どうも神の世界も複雑らしい。


「アリステルは子々孫々に至るまでの魂を差し出して、我の加護を願いました。其方にもその覚悟があるのなら、私は其方と契約して加護を授けましょう。其方とその血族の魔力を引き換えに、其方の領域を肥え富ませましょう」


 魂と引き換えに、という言葉に、聖域にいらっしゃる皇族の霊の事が頭をよぎった。人は死んだら生まれ変わる筈なのに、生前と同じ姿でそこにいらっしゃるあれは、その全能神様との契約によるものなのだろう。


 そう考えた時、私の心に初めて躊躇が生まれた。私がここで全能神様と契約すると、私だけではなく妃であるラルフシーヌ、そして息子であるカルシェリーネも聖霊として聖域に居続ける事になる。二人、そしてカルシェリーネの子供に至るまでの死後の運命までを今ここで私が決めることになる。


 しかし、躊躇は一瞬だった。ラルフシーヌならそんな事は意にも介すまい。カルシェリーネは、私と違って生まれながらの正式な皇子だ。死んだら聖霊になる事は既に決まっている。


 それに、あの時会った兄上達は笑っていた。あれを見れば聖霊になることが悪い事だとは限るまい。


 私は全能神様の足元に跪いた。


「私とその血族の魔力を引き換えに、我が帝国に御加護を願います。全能神よ。我はその力の限り、帝国を大きく栄えさせ、この大陸に全能神の威光をあまねく届けられるよう努めます。初代皇帝アリステルの名の元に結ばれた盟約を私、セルミアーネともお結び下さい」


 全能神様が優しく微笑んだ気配がした。彼女、あるいは彼は再び私の額に触れた。


「その誓い忘れぬように。我が力をこの大陸に行き渡らせる。そのための盟約。我が加護なのだから」


 先ほどは流れ込むような感覚がしたが、今度は全能神の指先に向けて私の魔力が吸い込まれるような感覚があった。先ほど流れ込んできたものと混じり合った私の魔力を少し吸い取り、全能神様が指先を離す。


「盟約は結ばれた」


 私は顔を上げる。すると驚いた事に全能神様の姿が変わっていた。先ほどまではラルフシーヌそっくりだった姿は、今は私そっくりの姿になっている。


 驚く私に向けて全能神様は笑った。


「我の力を分け、其方の力を我にも入れた。これにて盟約は成立せり」


 全能神様が言い終えると、急に辺りが暗くなり始めた。目に前にいる全能神様の姿がぼやけ始める。


「良く祈り、良く戦い、良く奉ぜよセルミアーネ」


 全能神様の最後の言葉の残響が消えると同時に、風景はかき消えて、私は儀式の間で無人の椅子の前に跪いていた。



 セルミアーネはしばらく全能神のおわす椅子の前に立っていたが、やがてすっと跪いた。その瞬間、セルミアーネの椅子の前から圧倒的な『存在』が唐突に消失した。


 セルミアーネはしばし呆然としていたが、やがて気を取り直したように深く拝跪すると、立ち上がり、こちらを見た。


 あ、なんか変わった。私には分かった。私にしか分からなかったかも知れない。それくらい微妙な差であったが、セルミアーネからこれまでに無い雰囲気が感じられたのだ。おそらくこれが全能神との契約の結果なのだろう。


 そんなセルミアーネを見て上皇様ご夫妻はホッとしたように微笑み、そして深く頭を下げた。


「全能なる神の代理人にして、帝国の偉大なる太陽、輝ける栄光の座、東西南北を統べるお方、剣と天秤の守護者、いと麗しき皇帝陛下よ。全能神のとのご契約をお祝い申し上げます」


「皇帝陛下よ全能神と共に帝国を守り給え」


 今朝まで皇帝陛下であった上皇様上皇妃様が明確にセルミアーネに臣下の礼を取る。この瞬間、皇帝セルミアーネの治世が始まったのである。


 大礼殿を出るとそのまま大神殿に入る。そこにはエベルツハイ公爵、カリエンテ公爵を筆頭とした帝国上位貴族が儀式正装で勢揃いしていた。セルミアーネが祭壇に上がると全員が一斉に跪き頭を下げる。


 セルミアーネの横に私も上がる。セルミアーネは全能神と契約した時点で既に皇帝だが、この時点で私はまだ皇妃ではあるが陛下ではない。これからの儀式が成功しなければ即位が認められないのだ。


 セルミアーネが両手を掲げて祈る。


「我は偉大なる血を受け継ぐ者なり。天にまします全能神よ、我が祈りに応え、我が血の盟約に応え、我にお力の一端を貸し与えたまえ。我が捧ぐは祈りと命。古の盟約に従いて我が願いを叶えたまえ」


 同時に私も両手を掲げて祈る。


「天にまします全能神よ。我が祈りに応え我が願いを叶えたまえ。我が捧ぐは祈りと命。我をして皇妃と認め、御力をお借りする事を許したまえ」


 皇妃は皇帝陛下が長期不在の場合は一人で魔力を奉納する可能性がある。その時に全能神に拒否されないようここでお許しを得るのだ。


 もっとも、私はとっくに知っているが全能神は帝国貴族であれば誰が魔力を奉納しても拒否などしない。マルロールド公爵夫人が直轄地に奉納しても拒否などされなかった。


 なので私はさして緊張もせず祈り、魔力をいつも通り奉納しようとした。のだが。


「?」


 いつもなら魔力はえいやと放出するのだが、この時はスルスルと勝手に出て行くような感触があった。周囲の音が聞こえなくなり、自分の周りの空間が隔絶したような不思議な感覚がある。見上げる神殿の複雑な紋様がぼやけ、そこに何か、懐かしいような、温かいような何かが見えるような気がした。


 それはそんなに長い時間では無かっただろう。気がつけば儀式は終わり、いつものように頭上から金色の粉が降り注いでいた。ただ、この時はその祈りの残滓が温かく、そして何か惜しいように感じたのだった。


 ともあれ儀式は成功し、私はその瞬間から皇妃ラルフシーヌとなった。陛下と呼ばれる身分になったのである。お兄様が感極まったような声で叫ぶ。


「皇帝セルミアーネ万歳!皇妃ラルフシーヌ万歳!」


 上位貴族全員が立ち上がり、一斉に拍手をする。口々にセルミアーネと私の名前を讃えた。万雷の拍手が鳴り響く中、セルミアーネと私は手を上げて歓呼に応えたのだった。



 即位の儀式の最後は立太子の時と同じく聖域での儀式だった。今回は上皇様上皇妃様はいらっしゃらず、向かうのはセルミアーネと私だけだ。とは言っても、本当に儀式を行うのはセルミアーネだけ。セルミアーネが最奥の間に入り儀式を行うのだ。


 騎士に囲まれつつ聖域の神殿に入る。入って直ぐのホールには祭壇の準備がしてあり、二つの冠が捧げられている。皇帝冠と皇妃冠だ。


 戴冠式はあっさり終わる。祈りを捧げ、まずセルミアーネが皇帝冠を自ら頭上に乗せ、続けて皇妃冠を私に被せる。その瞬間、またパチっというような感覚があり、その瞬間私たちの周りに大勢の人々が現れた。


 二度目だから驚かずには済んだが、あまり心臓にいいモノではない。何しろこの方々は死人である。死んだ皇族の方々が聖霊となって帝都を守っているのだと聞いているので、有難い存在なのは分かっているのだが、どうにも私には気味悪く思える。


 面白いことに私に見えるのは女性だけ、セルミアーネに見えるのは男性だけらしい。さまざまな様式のドレスで豪華に着飾った皇族の女性たち。年老いた方が多かったが中にはまだ年若い姿の方もいる。彼女たちは立太子の時にはすぐに消えてしまったが、今回は消えずに私の事を囲んで面白そうに見ていた。思わず顔が引き攣ってしまう。


 彼女たちは見ているだけで何も喋らない。うっかり触れてしまっても何の感触も無い。やはりこの世の者では無いのだ。私は生きて斃せるモノなら竜をも恐れないが、死人では斃せ無いと思うとどうも腰が引けてしまう。だが、セルミアーネが何だか楽しげだ。先立たれた兄君たちを見ているのかも知れない。

 

 私たちは聖霊たちに取り囲まれた状態で奥に入って行った。因みに大勢いる護衛騎士には聖霊は見えていないらしいが、何しろここは皇族が葬られる墓所でもある。巨大なホールに棺が並ぶ厳粛な空間を歩くのだから騎士たちも緊張だけではなく不気味にも思っているようだった。それにこのホールには窓が無い。真っ暗なのだ。騎士たちの一部が松明を掲げているので周囲が見えないという程では無いが。


 墓所である巨大なホールを抜けると、最奥の間に続く廊下がある。私が入れるのはここまでだ。ここから先は皇帝陛下しか入る事が出来ない。セルミアーネは私の事を見て微笑むと言った。


「行ってくる」


 私が頷くと、セルミアーネは一人で暗い廊下を進んで行った。




 最奥の間に続く廊下は暗かった。光の精霊を宿した松明を持ってはいるが、数m先も良く見えない。父はここの事も「行けば分かる」と何の説明もしてくれなかったのでこの廊下がどれくらい続くのかも分からない。


 以前に聞いた話では、皇帝はこの先の最奥の間で全能神様との年一回の契約の更新があるという話だったが、先ほどの契約の儀式からすると全能神様はそうそう現世に降りて来られ無いような気がする。何しろわざわざ御降臨を願うために白木造りの大礼殿を造営しなければならなかったのだ。


 だとすれば、この先に待っているモノは何なのだろうか。


 と、廊下が途切れ、どうやら広い空間に出たようだ。しかし真っ暗だ。気が付けば墓所のホールで周りにいた聖霊は一人もいなくなっていた。


 と、正面に何かいる。暗くて見えないのでは無く、段々と浮かび上がるようにそれは現れた。人の姿をしてはいるが、人ではないだろう。恐らくは聖霊だ。あまり飾り気の無い鎧に身を固めた壮年の男性である。白が混じった茶色の髪を後ろに撫で付けている。身長は私と同じくらいだから大男だ。整った顔立ちでどことなく父に似ていた。


 皇帝しか入る事が許されない最奥の間で待つ聖霊。私にはもう見当が付いていた。


「初代皇帝アリステル」


 思わず口をついて出てしまう。この帝国を創設した男であり、全能神と最初に契約を結んだ人であり、私の遠い祖先だ。記録の断絶があるので正確には分からないが千年近く昔の人物である。


 初代皇帝は私の事をじっと見ていた。表情は柔らかく、こちらに敵意があるような様子では無い。だから私は少し油断していた。


 初代皇帝の聖霊は私を柔和な表情で見つめたまま、突然腰の剣を抜き放ったのである。私が驚いた時には既に大きく踏み込んで斬り掛かって来ている。私はこの時儀式正装で剣など持っていない。護衛の騎士もいない。私はとっさに松明を掲げ、初代皇帝の放った鋭い斬撃に合わせた。光の精霊を宿らせるための木の棒(儀礼用なので装飾は付いているが)である。とても鋼鉄の剣による攻撃に耐えるようなものではない。気休めにもなるまい。


 が、それ以前の問題だった。初代皇帝の剣は松明をすり抜けて、更には私の左の肩から右の脇腹まで何の抵抗も無く通り過ぎた。痛みも何も無い。考えてみればホールの所にいた聖霊たちも私たちに触れても何の抵抗も感触も無かった。


 振り回したせいで松明から光の聖霊が逃げてしまい。辺りは真っ暗になる。私は斬り掛かられ、剣が我が身に落ちて来た事に驚き恐怖したせいで咄嗟には動けなかった。松明を掲げた姿勢でしばらく硬直していた。心臓は高鳴り、額には汗が浮かんでいる。


 ずいぶん時間が経ってから私はようやく身を起こし、光の精霊を呼び出して松明に灯りを灯した。


 光の届く範囲にはもう誰もいなかった。私はしばらく待ったが何の変化も無い。私は思わずため息を吐いた。これで合格という事で良いのだろうか?一体何のための儀式なのやら。


「悪ふざけにも程がありますよ。初代皇帝陛下」


 来年来る時には私も剣を持って来よう。一方的に斬られるのは性に合わない。そう誓いながら私は踵を返し、廊下に入って墓所のホールに戻った。



 最奥の間から戻って来たセルミアーネは何だか不機嫌だった。額に薄っすら汗もかいている。私は何があったのかと聞いたのだが、セルミアーネは教えてくれなかった。なによ教えてくれても良いじゃ無いの。私は一生入れないんだから。


 この最奥の間の儀式で一連の長い長い即位の儀式は終了である。ただ、儀式は終わりだが即位の祭典はまだ終わりではない。この後帝宮の一番大きな大謁見室で全貴族と外国からの来賓の前で即位の宣言を行い、祝意を受けなければならない。その後、帝宮外壁の塔から帝都の市民に即位の宣言を行い、各地の平民の代表者からの祝意を受ける。その後は帝都全体で十日間にわたるお祭りが行われ、帝宮でもその間連日祝宴が開かれる。その間に外国の使節との会議や面談を行い、直轄地を巡って即位のお披露目もしなければならない。


 まだまた先は長い。ただ、儀式は終わりなので漸くこの重くて動きにくい儀式正装が脱げる。そのため一度内宮に戻って着替えるのだが、そこで少しは休憩が取れるだろう。そう思うと少しホッとした。


 私達は聖域の暗く陰気な建物から出た。聖霊の皆様には悪いがあんまり来たい建物では無い。まぁ私も死んだらここに埋葬されるんだろうけど。外は相変わらず良い天気で、建物を囲む森は緑豊かである。どうせならこの森の中に埋葬して欲しいものだ。そんな事を考えながら私が森に見惚れていると、唐突にセルミアーネが言った。


「そんなに聖域に葬られるのが嫌なら、君は外に埋葬しようか?」


 私はびっくりした。


「どうして考えている事が分かったの?」


「そりゃ、そんなに出てくるなり晴れ晴れした顔をしていたら分かるよ。他ならぬラルの事だしね」


 セルミアーネはいつも通りに優しく笑う。


「死んでからだって君の事だから、こんな暗い建物に閉じ込められたら耐えられずに外に飛び出して行きそうだからね。君が望むなら君だけは外に埋葬するように決めておけば良い」


 口調は冗談めかしているが、セルミアーネは本気のようだった。私だけ外に埋葬されれば、私は聖霊にならず、生まれ変わってまた別の人生を歩むことになるのだろう。それが自然であり、普通の事だ。死してまで聖域に捉われ、帝国を護り続ける役目を負わされる皇族の方が不自然で例外なのである。


 セルミアーネは実際に全能神に会ったのだし、最奥の間で帝国の何か秘密に触れたのだろう。それで私を聖霊にしたくないと考えたのかも知れない。この人は私の事を最優先で考えてくれる優しい人だ。


 そしていまいち分かっていないところがある。私は思わずセルミアーネの頬に手を伸ばして抓った。セルミアーネも驚いたし。侍女達や護衛の騎士たちも何事かと仰天している。何しろ皇帝陛下のほっぺたを抓ったのだ。


「ラル?」


「あなたね。私がそう言われて、ハイそうですか、っていう人間だと思うの?」


「え?」


「あなたと、カルシェリーネに聖霊のお仕事を押し付けて、私だけのうのうと次の人生を歩めるとでも?」


 そう言うとセルミアーネは納得したと同時に慌てた様子を見せた。


「いや、違う。そういう意味じゃない・・・」


 何か言おうとする彼を、私は彼の右手をギュッと握ることで黙らせた。


「それにね」


 私はセルミアーネの青い瞳を見上げる。誰よりも私を理解し、私を大事にしてくれる、私の大好きな旦那様。誰よりも強く、誰よりも慈悲深く、これからも帝国と私たち家族を強く導いてくれるだろう。


「あなたと死んでまでもずっと一緒にいられるのなら、それはそれで素敵な事だと思うのよ?」


 セルミアーネと一緒なら幽霊になるのだって怖くは無い。カルシェリーネやこれから生まれるだろう私たちの子供も一緒なら、あの暗く陰気な場所でも耐えられる。と思う。


 微笑んで見詰める先でセルミアーネは驚き顔から、頬を赤らめ少し恥ずかしそうに微笑んだ。こらこら。照れるのは止めてよ。言ったこっちが恥ずかしくなるじゃないの。


「ま、まぁ、私はまだ当分死なない予定だし、その時になって気分が変わっていないとも限らないけどね!」


 その瞬間、セルミアーネは儀式正装の広い袖をバサッと振るうと、私の事をギュッと抱き寄せた。


「私は生涯、変わらず君を愛すると誓うよ。君も変わらないでいてくれると嬉しい」


 うぐ・・・。どうなんだろう。セルミアーネのこういう所は皇帝陛下として適格なのか、不適格なのか。いつまでも嫁が大好きな所は夫としては最高なのは間違い無いけど。


「わ、分かったから。さぁ、そろそろ行きましょう。まだまだ即位式は先が長いんだから」


 セルミアーネは私の頬に軽くキスをすると、身を離し、フフッと笑った。


「そうだね。とりあえず離宮に戻って休憩しよう。カルシェリーネの顔も見ておかなくては」


 私たちは笑顔を見せ合うと、内宮に向かうために、皇帝専用の大きな馬車に乗り込んだのだった。


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