閑話 皇太子ご夫妻の生活  ハボック視点

 私はハボック・アルカラーネ。皇太子セルミアーネ様の侍従長を勤めさせて頂いております。階位は伯爵です。


 侍従というのは帝宮において、主に男性のお世話をする仕事です。主人である皇族の方と、そのお客さまの男性です。特に内宮と離宮においては皇族の男性の身の回りのお世話をして差し上げるのが主要業務になります。


 セルミアーネ様の離宮において、セルミアーネ様の身の回りの世話をする侍従は七名です。二十人近いラルフシーヌ様の侍女と比べれば少ないですが、これは男性は女性に比べてお世話しなければならない事が少ないからです。洋服を着るのに女性ほど面倒がありませんし、身体の肌のケアなどもほとんど必要ありませんし、お化粧もほとんどしませんから。


 それに侍従の数が侍女よりも圧倒的に少ないという事情もあります。帝宮全体で百人程度です。数百人いるという侍女に比べて圧倒的に少数なのです。


 これはやはり、実家の許可とお金さえあれば家が立てられる男性と、結婚しないと貴族に残れない女性との事情の違いによります。女性にとって帝宮侍女は結婚しないでも貴族身分を保つ数少ない手段ですが、男性の場合は騎士になるか男爵として官僚になることの方が圧倒的に多いのです。その方が出世し易いですし。


 私は伯爵家の三男でしたが、親の勧めに従ってなんとなく侍従になりました。そういうのんびりした所が騎士には向いていないと思われたのでしょう。最初は本館侍従から始め、二十歳で離宮侍従となり、三十歳でセルミアーネ様の離宮の侍従長になったのです。二十七歳の時に伯爵位を授かって、帝宮侍女だった妻を迎えております。子供はまだいません。


 侍従長は貴族のお屋敷で言う執事長です。離宮の全ての使用人を統括する立場です。しかしそうは言っても、侍女に関しては侍女長のエーレウラが統括していまして、私は口を出せません。というか出す必要がありません。エーレウラは私よりも先輩ですし、帝宮では有名な厳しい侍女ですからね。私はそれ以外の侍従や使用人を見ていれば良い訳です。


 侍従には殿下のお世話以外にも仕事があります。というのは、男性皇族の方々は全員政治的な公務をお持ちですから、その補佐をしなければなりません。具体的な政務をお手伝いするのは官僚の仕事ですが、お出かけの連絡や護衛の手配、様々な連絡を各方面に行ったり、お供をして出先で身の回りの世話をしたりするのは侍従の仕事です。ただ、実は官僚と侍従の仕事の境目は曖昧で、忙しくなると官僚の領分の仕事を手伝う事も多いのです。侍従が皇族の方の目に留まり、男爵の位を頂いて官僚になる事もよくあります。


 セルミアーネ様は眉目秀麗で体格もお宜しく、威厳もおありになります。皇族に相応しい方なのですが、元騎士だったからでしょう、生活に侍従の手を借りる事をあまりお好みになりません。お風呂の世話は断られて自分でされています。これは男性貴族の場合はままある事です。侍従ではなく侍女にお世話をさせる皇族の方もいらっしゃいます。


 ではセルミアーネ様の侍従が暇なのかというとそういう訳ではありません。セルミアーネ様は離宮にまで仕事を持ち込んで熱心にお仕事をするタイプなのです。特に懸案に関しては離宮のお部屋にも大量の資料を集めさせ、熱心に検討しています。このような時に、侍従は資料や必要書式を集めるために走り回る事になるのです。官僚は離宮に入れませんからね。


 セルミアーネ様の離宮は通称「藤の離宮」と言われています。庭園に見事な藤棚があるからです。帝宮の離宮区画には使われていないものも含めて二十数戸の離宮が建っていますが、全てにそのような通称が付けられ、お住いの方を示す隠語に使われます。因みに、この離宮ですが全く新しいものを建てる事も勿論可能で、皇帝陛下が現在お住いの内宮は皇帝に即位された時に新たに陛下のご趣味で建てられたものです。セルミアーネ様は特に拘りが無いとの事なので、即位されてもこの離宮を内宮として使われる事になるでしょう。


 離宮はサロンやダンスホールなど主に社交で使われる区画が大部分を占めます。これは主に妃殿下がお茶会などの女性社交で使われます。セルミアーネ様もご夫婦で開催される離宮での夜会や、男性貴族を招いて行う将棋やカードを楽しむゲーム会や酒宴などの男性社交でお使いになりますね。ただ、殿下は公務がお忙しいので男性社交はあまり行う暇がございません。


 社交区画以外が皇太子殿下ご夫妻の生活区画です。社交区画とはしっかり区分けされており、来客がうっかり立ち入らないように警備の騎士共々私達も目を光らせています。


 生活区画は大まかに分けてセルミアーネ様の私室区画、ラルフシーヌ様の私室区画、お二人の共用区画、その他からなります。厳密に言えば、このお二人の生活区画に近接した所に私達使用人が使用する使用人区画(下級侍女の使用人部屋も含む)がありますが、こちらまで説明すると大変なので今回は除きます。


 生活区間、特にご夫妻の共用区画はラルフシーヌ様のお好みでかなり改装いたしました。そもそもこの離宮は少しアンティークで装飾が多い内装だったのですが、妃殿下が気に入らず、ゴテゴテした装飾は全て取り払い、簡易でシンプルな装飾で統一させました。妃殿下はドレスのお好みを見ても分かるようにすっきりしたデザインがお好きです。ただ、やや派手好みなので、完全の妃殿下のご趣味に統一すると色合いが金ぴかなってしまいます。なので、そこはセルミアーネ様が少し口を出し、少し落ち着いた装飾になっております。


 両殿下はお仲がよろしいので、お二人共に離宮にいらっしゃる時には殆ど共用区間でお二人で過ごされます。夜着にお着替えになってサロンで談笑され、そのままお二人揃って寝室に向かわれる事も多いです。皇族の方としては珍しいくらいの仲睦まじさです。例えばセルミアーネ様の兄君であられたカインブリー殿下は妃殿下との関係は非常に良好でしたが、離宮では殆どお互い一人で過ごされ、食事の時と寝室でのみご一緒になるという具合でごさいました。皇族の方は公務や社交で忙しいので、一人でリラックスする時間を大事にする傾向があります。


 ちなみに、共用区間での両殿下のお世話は侍女の仕事です。私のみお世話のために侍る場合もありますが、エーレウラに丸ごと任せてしまう場合も多いです。私や侍従はその間にセルミアーネ様の公務の準備などの仕事をします。これは妃殿下にリラックスして頂くために、男性の視線を減らしたいからです。妃殿下は共用部では夜着で化粧も殆ど落としてしまう事も多いですからね。もっとも、ラルフシーヌ様は気になさらないかもしれませんが。


 セルミアーネ様が私室で過ごされるのは、ラルフシーヌ様が離宮にいらっしゃらない時と、妃殿下とご就寝の後に抜け出して私室で仕事をする時だけです。殿下専用の寝室は、全く使われる事はありません。ただし、妃殿下ご懐妊の折には寝室を分けられる事になるでしょう。事故があったら困りますからね。


 お二人はこれ程仲睦まじいのに、お子になかなか恵まれませんでした。これにはラルフシーヌ様がかなり苦しまれ、妃殿下を愛する事この上無いセルミアーネ様も悩まれていました。皇族はあまり子供が多く生まれない傾向があると言われておりまして、それをカバーするために多数の愛妾を娶る例が多いです。しかし、セルミアーネ様は周囲がいくら勧めてもご愛妾を娶る事はありませんでした。


 ご愛妾候補として離宮の侍女が勧められ、侍女自身もチャンスではないか?と考えてセルミアーネ様にアピールする様子を見せる場合もありました。しかし、セルミアーネ様はその様な侍女は即座に遠ざけました。おかげで侍女が不足してエーレウラが困っていましたね。


 ラルフシーヌ様は気性こそ激しいものの寛容で、仕え難い主ではありませんでした。貴族女性にありがちな男性使用人を忌避する事もなさらず、気さくに我々にも声を掛けられ、気軽に用事を言いつけられます。どうやらセルミアーネ様が騎士として過ごされている間には下級貴族として庶民にも接していたらしく、下働きにすら平気で話し掛けて侍女に止められていた程です。


 セルミアーネ様も穏やかなご気性で、侍従としてはお仕えし易い主人です。ただ、私室で仕事を始めると没頭してしまい、しばしば徹夜なさいます。そうするとラルフシーヌ様が怒るのです。健康に悪いと仰って。妃殿下はカインブリー様が早死になされたのを随分気になさっておりまして、殿下の健康には非常に気を配っておいででした。セルミアーネ様が徹夜などなさると侍従にかなり強い調子で怒ります。そういう時、私たちはセルミアーネ様のご希望とラルフシーヌ様のご要望の板挟みになって困ったものです。


 セルミアーネ様の私室区画は何の改装もなさらず、ややアンティークな内装のままでお使いになってられます。全く拘りは無いそうです。セルミアーネ様のこの拘りの無さはほぼ全てにおいて同じ傾向を示します。衣服、持ち物全てにおいてです。何でも良いと仰って、衣服の購入は全て私が任されています。私は仕方無くエーレウラと相談し、妃殿下のドレスと合うような衣服を随時注文することにしております。


 セルミアーネ様は騎士として訓練もしておりますから、かなりの大食漢です。一方、妃殿下もよくお食べになります。なので離宮の、特に朝食はかなり量のある料理が並びます。ほぼ毎晩夜会に出られるお二人は、晩餐がしっかり食べられないからです。


 お二人とも肉料理がお好きなのは同じなのですが、セルミアーネ様は少し脂の多めの肉を好むのに対し、ラルフシーヌ様は赤身がお好きです。ですが、セルミアーネ様がラルフシーヌ様の好みに常に合わせています。それに気が付いてから、私は料理人に指示を出し、お二人の皿の内容を微妙に変えております。


 ラルフシーヌ様は特にジビエ料理がお好きで、鹿、穴熊、ウサギ、時には熊肉を食べたがります。私は料理人も管轄していますから、料理人に妃殿下のご希望を伝えるのですが、あまりに珍しい食材だと入手も料理も難しくて料理人が頭を抱えてしまう事があります。その様な場合は侍従が走って食材や料理人を連れてくるのです。


 お二人とも食べられない食材や料理はほとんどありませんが、お二人共に内陸でお育ちですので、海魚の料理には馴染みがありません。帝都は内陸ですので海魚はほとんど手に入りませんが、干し魚や塩魚は稀に手に入ります。海のある領主から献上されたりするわけですが、それをお出しするとお二人とも微妙なお顔をしていらっしゃいましたね。


 ちなみにお二人は大酒豪と言って良いほどお酒に強く、夜会で散々乾杯で呑んでも、離宮に帰ってきてからまた一杯お二人で呑む事があります。一杯では無いですね。何杯もです。ラルフシーヌ様はお酒が好きな様ですが、セルミアーネ様は実は別にお酒はお好きではありません。強いだけです。一人でお過ごしの時にお酒をご所望になる事はありません。あれは単にラルフシーヌ様と杯を傾けるのが好きなだけですね。


 皇太子殿下は毎日大変にお忙しく、殆どお休みがありません。しかしながらお休みなしではどんなに丈夫な方でも倒れてしまうでしょう。ですから私は殿下とご相談の上スケジュールを調節して、週の内一日か半日くらいのお休みが取れるようにしています。


 しかし、セルミアーネ様はいわゆるご趣味をお持ちでないため、お休みに暇を持て余してしまう様なのです。退屈だから仕事をしたいという有様でした。私は一計を案じ、セルミアーネ様のお休みの日をラルフシーヌ様のお休みに合わせるようにいたしました。


 すると効果は的面です。殿下も妃殿下も大変お喜びになり、二人で楽しく帝宮の中の森で狩りをなさった様です。セルミアーネ様はこれ以降もなるべく妃殿下のお休みに合わせてご自分のお休みも取られるようになりました。ただ、後でエーレウラが言う事には、妃殿下はセルミアーネ様と一緒の時は狩りの際にかなり張り切るらしく、身体に擦り傷など作ってしまう事が多くて社交の時に誤魔化すのが大変だったそうです。


 セルミアーネ様とラルフシーヌ様は、夜会の際には揃って参加される事が多いです。皇太子ご夫妻が参加なさればその夜会の格は大きく上がります。帝宮本館では毎日複数の夜会が様々な名目で開かれます。主催者はこぞって皇太子殿下ご夫妻に招待状を送ってくる訳ですが、両殿下のお身体は一つしかありません。どれかを選んで出る訳ですが、どうしても選び切れない場合は両方に出ます。一度離宮にお戻りになり、着替えてまた違う夜会に出るのです。


 そういうダブルヘッダーや夜半過ぎまで続くような大規模な夜会、皇族主催の夜会で両殿下がお忙しい場合には、上級侍女と私達侍従が複数お供する事もあります。両殿下をお護りし、お世話をし、挨拶に来た貴族達を捌いたり、しつこい者は追い払ったりして両殿下の負担を少しでも軽くするのです。


 何しろ、夜会は人数が多い方が華やかになりますので、場合によっては人数合わせに格の低い貴族が呼ばれている事があります。そういう格の低い貴族にとっては皇太子ご夫妻にお会い出来るなど滅多に無い機会ですので、しつこくアピールしてくる者もいるのです。そういう者には往生します。諦めが悪いですからね。


 ある夜会で、やはりそういうしつこい貴族、下位の伯爵がしきりに両殿下に近づいて来た事があります。一度挨拶を許したのですが、その後もなんだか執拗に皇太子殿下ご夫妻に付き纏い、声を掛けようとします。私たちは危険と判断し、その伯爵の接近を妨害しました。


 ところが、その時私の後ろから声が掛かりました。


「ハボック。その者は私達に用があるのではない?取り次いで頂戴」


 ラルフシーヌ様です。妃殿下にそう仰られては仕方がありません。私は伯爵を両殿下の前にお連れしました。この時、両殿下は少しお疲れ気味で、長椅子に二人並んで座っていましたが、伯爵はその前に滑り込むように跪きました。


「こ、皇太子殿下、並びに妃殿下におかれましてはご機嫌うるわしゅう!」


 少し太めですが、顔立ちはそこそこ整った男性です。身なりも良く、格が低い割には裕福な様でした。


「ヘルジェン伯爵でしたね。先ほど挨拶は受けたかと思いますが、何か用なのですか?」


 妃殿下は優しく問い掛けます。そう言えば妃殿下は下位の者にはお優しい方でした。下位の者が必死に何かを伝えようとしていればお話を聞くくらいのことはするでしょう。無条件に排除してはいけない場面でした。


 ヘルジェン伯爵は少し迷うそぶりを見せましたがやがて決心したように顔を上げ、言いました。


「私の事を覚えておいでですか、妃殿下」


 ラルフシーヌ様が驚き、首を傾げます。


「ごめんなさい。分かりません。何時にお会いしましたか?私は離宮に入る前にはあまり社交に出てはおりませんが・・・」


 すると、伯爵は頷きどこか懐かしそうに言ったのでした。


「妃殿下のお披露目の時でございます。私もその時にお披露目を受けました」


 それを聞いても妃殿下はわからない様でした。眉を軽く顰めています、しかし、その時皇太子殿下が「あっ!」と仰いました。どうやら殿下には分かった様です。


「まさか、其方・・・」


「そうです。皇太子殿下。あの時、妃殿下の飛び蹴りをくらった者でございます」


 妃殿下が目をまん丸くしました。微笑で全ての感情を押し隠すのが習い性の皇族としてはあまり誉められた表情ではありませんが。それほど驚いたのでしょう。


「あ、あの時のいじめっ子伯爵令息!」


「そうでございます」


 ラルフシーヌ様は立ち上がり、ヘルジェン伯爵の前に出てしゃがみ込まれました。侍女が慌てています。


「はー、そう!あなただったのね。どうだった?肋骨折れなかった?手加減はしたつもりだけど」


「三日三晩うなされましたが、幸い骨折はせず、後遺症もありませんでした」


 妃殿下はホッとしたようなお顔をなさいました。


「そう、良かったわ。でも、あれは貴方も悪いんだからね?そりゃ、いきなり脚が出た私も悪かったけど」


「重々承知しております。妃殿下のあの飛び蹴りを浴びて以降、私は改心しまして、下位の者を虐めるような事はしておりません。本日は、その事のご報告をしようと、厚かましくも参りました」


 伯爵と妃殿下、そして殿下はそれからしばらく談笑され、最後は妃殿下が「お詫びに」と自分がお着けになっていたルビーのブローチを下賜なさいました。格の低い伯爵であるヘルジェン伯爵にしてみれば、皇太子殿下ご夫妻と親しく歓談して、宝石を下賜していただいた事は家の格が一段上がるくらいの出来事です。お披露目会の時に何があったかは存じませぬが、十分な対価を得たと言っても良いのでは無いでしょうか。


 私はそれからは、格の低い貴族が夜会で群がってきても一律には排除せず、両殿下の意向を聞いてから対応する事にしました。妃殿下はその事を喜ばれましたね。


 ある時、この時も妃殿下が話を聞きたいと仰った、格が高目な子爵を両殿下の所にお連れし席を設けました。皇太子殿下ご夫妻とその子爵が話を始めてすぐに、そのテーブルに無遠慮に近付いて来た者があります。


 見ればバンドリュア伯爵です。侯爵家に匹敵する大領地の持ち主で、皇帝府で大臣も勤める名門貴族でした。彼は侍女の制止を無視してテーブルに近づくと、座っていた子爵をいきなり怒鳴りつけました。


「おう!邪魔だ!子爵風情が皇太子殿下ご夫妻の御前で席に着くなど不遜であろう!」


 座っていた子爵は飛び上がり、慌てて席をバンドリュア伯爵に譲ろうとします。ああ!不味いです。私は慌ててバンドリュア伯爵を止めようとしました。しかし、間に合いません。


「待ちなさい!」


 皇太子妃殿下の鋭い怒声が響き渡りました。聞くだけで背筋が伸びるようなお声の迫力です。バンドリュア伯爵も席を立ち掛かった子爵も、驚いて硬直しています。


「その子爵は私が話を聞くために招いたのです!それを何ですか!其方こそ不遜でしょう!」


「し、しかしですな。皇太子殿下と妃殿下ともあろうものが子爵などと話をしては、お二人の格が・・・!」


 話の途中でバンドリュア伯爵が絶句します。


 ゆらりと立ち上がったラルフシーヌ様の金色の瞳が見る間に真紅に染まっていきます。その場にいる誰もが息を呑みました。バンドリュア伯爵を無表情で睨み付けるラルフシーヌ様に普段の寛容さは欠片も残されていません。


「其方が私達の格を計ろうというのですか?バンドリュア伯爵」


「い、いえ、そのような・・・」


「其方は身分を絶対視している様ですが、その身分を何時までも維持出来ると思わぬ方が良いですよ。伯爵」


「な、何ですと?」


「其方のように無礼な者は、いつ子爵以下の身分に落ちるか分からないという意味です」


 バンドリュア伯爵が顔色を失います。つまりこれは、皇族への不敬を理由に身分を剥奪してやるぞ、と脅しているのです。そんな事が出来るはずが無いと言いたい所ですが、もしも妃殿下がそう強く望んだ場合、皇太子殿下が妃殿下の要望を却下する事は殆どあり得ませんから、殿下が皇位を継がれた暁には本当にバンドリュア伯爵家が取り潰されてしまう可能性があります。


 実際、妃殿下はあのマルロールド公爵夫人にも領地を砂漠に替えてやらんと言い放って、公爵夫妻が平謝りに謝罪した事があります。公爵でさえあの有り様です。伯爵などひとたまりも無いでしょう。バンドリュア伯爵は慌てて跪き、頭を下げました。


「も、申し訳御座いませぬ。妃殿下。け、けして妃殿下に対する不敬の意図など御座いません!」


 妃殿下は真紅の瞳を光らせて伯爵を見下ろしています。周囲の者まで恐怖で息を呑むような迫力です。


「謝罪の対象が違うでしょう」


「は?」


「其方が謝罪すべきはこちらの子爵に対してです。さぁ、其方の忠誠に嘘が無いのであれば謝罪しなさい!」


 妃殿下の迫力に抗しきれなかった伯爵は、子爵に謝罪を余儀なくされました。下位の者に自分の過ちを認めて謝罪するなど、余程の罪を犯したと見做されてしまいます。伯爵の格にさえ関わる大問題です。ましてこれで皇太子ご夫妻の心証を著しく悪化させてしまったわけですから、次代の皇帝府に彼の席は無くなったと思われます。バンドリュア伯爵の評価はがた落ちになりました。


 この後になりますが、セルミアーネ様は皇帝陛下にも根回しをして、バンドリュア伯爵に件の子爵への報復などさせないよう、陛下から釘を刺して頂いたようです。当然ですが、妃殿下のご機嫌を損ねたバンドリュア伯爵に対しては皇太子殿下も塩対応になってしまい、バンドリュア伯爵はご機嫌を回復して頂くために懸命となりました。それまでは大臣である事を笠に着て、経験が浅い皇太子殿下に対してやや上から目線で対していたのですがね。


 この一件でラルフシーヌ様は下位の者を故無く見下す者を嫌う事。妃殿下のご機嫌を損ねた場合、皇太子殿下のご心証まし悪化してその者の貴族社会での未来まで終わってしまう事が知れ渡りました。おかげでそれからは社交の場で身分を理由に居丈高に振る舞う者は減りました。侍従や侍女に乱暴な振る舞いをする方も減って私達も仕事がやり易くなって、妃殿下に感謝したものです。

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