閑話 侍女が見たラルフシーヌ クローディア視点
私はクローディアと申します。子爵家出身で、現在は皇太子妃ラルフシーヌ様の離宮の新人下級侍女です。
帝宮の侍女には階級がありまして、大まかには上級侍女、下級侍女、そして本館侍女、離宮侍女に分かれております。同じ上級、下級の区分けの中なら離宮侍女の方が階級が高いと見做されます。別格なのは皇帝陛下がお住まいになる内宮の侍女で、内宮侍女になった時点で例え男爵家出身の者でも上級侍女として扱われます。侍女は実力社会ですので、そういう事も稀にあります。
私は皇太子妃殿下のお住まいになる離宮の侍女ですので離宮侍女です。しかも妃殿下は将来的に皇妃陛下になられます。という事はこのまま行けば私は内宮侍女になれるわけです。子爵家出身の私がなんと内宮侍女になり上級侍女になれるのです。内宮侍女になれば最低でも子爵夫人の称号と領地を授かる事は確実で、そうなれば実家から独立して家が立てられます。これは凄い事です。
・・・それはまだまだ未来の話です。まずは一生懸命お勤めして、皇太子妃殿下のご不興を買って離宮を追い出されないようにするのが先です。
妃殿下がお使いの上級侍女は五名、下級侍女が一七名おります。この内、上級侍女には妃殿下が実家から持ち込まれた持ち込み侍女であるエステシア様とアリエスが含まれています。中でもエステシア様は別格で、皇太子妃殿下の腹心というか先生とも言える立場です。アリエスの方は私と同じ子爵家出身で、上級扱いされてはいますがそれは持ち込み侍女だからですね。ただ、妃殿下からのご信頼は格別なものがあり、皆から羨ましがられています。
別格と言えば離宮侍女長のエーレウラ様は上級侍女の人数には含まれません。自ら仕事をする事はほとんど無く、侍女の監督と侍従との分担の調整が主業務だからです。大変に厳しい方で、離宮入りしてから私も何度怒られたか分かりません。しかし公平な方で、良い仕事をするときちんと褒めて下さるので人望は高いです。
上級下級の違いは、妃殿下からの近さの違いです。妃殿下のお身体に触る事は基本的に上級侍女にしか出来ません。なので御髪の手入れ、お化粧、お風呂の世話、マッサージなどは上級侍女の仕事です。特に御髪の手入れとお化粧はアリエスが任されています。アリエスよりもお化粧が上手いとされる者よりも「アリエスが良い」と妃殿下が望んでお任せになるのです。これはある意味当然で、無防備に自分のお身体の事をお任せになるのですから、より信頼出来る者しか行わせられないのです。ですから、上級侍女は下級侍女よりも信頼出来る者と見做されているという事になります。そのため、妃殿下が信頼出来ると思われれば、階級を飛び越して上級侍女に任命される可能性があります。侍女が実力社会と言われる所以です。
下級侍女のお仕事は上級侍女の仕事以外で妃殿下に関わる事です。すなわち、妃殿下のお部屋のお掃除、家具の手入れ、ドレスの整理と手入れ、宝飾品の手入れと整理、お部屋にある化粧品、香、飾るお花、飾りなどの管理と手配。洗顔やお風呂の準備。その他妃殿下の命じられる雑用諸々です。妃殿下のお身に触れる可能性のあるものや、頻繁にお目に入るものは基本的に下級侍女管理です。洗濯や水汲み、妃殿下のお部屋以外の部分の掃除、庭仕事、力仕事全般などは下働きの仕事です。
皇太子妃殿下は非常に寛容な方で、侍女が不手際をしでかしても全く怒りません。これには驚きました。私も子爵家出身ですから、現在も自室に帰れば侍女(帝宮では下働きに分類されますが)を使っています。その侍女が何か失敗すれば当たり前に叱責を致します。それが妃殿下は私がお茶会の準備をしていてお菓子をぶち撒いてしまっても、お笑いになるだけで怒らないのです。何という寛容なお方でしょう。我が身を振り返って反省です。当然侍女長には滅茶苦茶に怒られましたけど。
夫である皇太子殿下はそれはもう驚いてしまうような美男子で、侍女達の憧れの的です。妃殿下との仲は非常に良好で、仲睦まじく、お二人だけの時には「ラル」「ミア」と呼び合われます。妃殿下は殿下のお世話を侍女がするのを好まず、殿下のお身体に触れるようなお世話は妃殿下自らして差し上げています。殿下の肩や首のマッサージを妃殿下がなさったり、妃殿下の脚を殿下が揉んで差し上げたりとじゃれ合われる事もよくあります。お二人は毎日毎日非常に忙しく、お疲れになるからか、お二人でリラックスしている内に妃殿下が寝てしまったり、逆に殿下が寝てしまったりする事があるのですが、そういう時はお互いにお相手を起こさずに、自分でお相手を抱え上げてベッドに寝かされます。そうです。妃殿下があの大柄な殿下を軽々と抱え上げてベッドに運ばれた時には何事かと思いましたね。
妃殿下は毎日毎日社交で大忙しです。一日二回は確実。これに加えて奉納の儀式が毎日。各種儀式が週に一回は確実。それ以外の大イベント、園遊会、大規模な祭祀、大規模な謁見の儀、帝都市民への顔見せなどが入るのですから、ほとんどお休みなどございません。私は離宮の侍女になった時に、こんな殺人的なスケジュールをこなせる人間がいるのだろうかと慄いたものです。いました。妃殿下はそのような予定を涼しい顔でこなしていかれます。お顔に余裕のある微笑みを浮かべながら、次々と着替えては次の社交に出掛けて行くのです。凄まじいです。気力体力共に人間技とは思えません。
そんな妃殿下の事をお支えするのですから、離宮侍女も大変です。毎日が戦場のようです。まず、朝に妃殿下が起きて来られるまでに、侍女長を筆頭に全侍女が集合してミーティングを行い、今日の全ての社交についての段取りをします。それから午前中の社交の準備を致します。ドレスと宝飾品の準備をして持ち物のチェック、社交をする場所や出席メンバーの再確認、時間と会場の準備が整っているかの確認をして、妃殿下が起きて朝食を終えられるのをお待ちします。そして殿下がいらっしゃったら侍女総出で着付けとお化粧です。貴族のドレス。特に妃殿下がお召しになるような豪奢なドレスは一人では着られません。着付け要員が一人でも無理です。妃殿下のお身体に触れられるのは上級侍女だけですから、着せるのは上級侍女ですが、上級侍女に次々とドレスの部分部分や宝飾品を手渡すのは下級侍女の仕事です。段取りが悪かったりモタモタとリズムが悪かったりすると上級侍女に怒られます。時間が無いのです。本来数時間掛かるような着付けを一時間程度で終わらせなければならないのです。
嵐のような勢いで着付けが終わると、妃殿下は優雅に社交に向かわれます。一安心・・・、ではありません。次の社交に向けて私達は慌てて準備を始めます。侍女長や上級侍女の一部は妃殿下と一緒に社交に出てしまっていますから、事前に段取りを組んでおくのは重要です。これが上手く行って無くて、ドレスを間違えたり宝飾品の組み合わせがちぐはぐだったりして何度青い顔をする羽目になった事でしょう。ドレスや宝飾品の準備は勿論、妃殿下は社交や儀式によっては何も食べられない場合がありますから軽食の準備などもします。暑い季節には軽く水浴びが必要な場合もありますし、逆に寒い場合には温石などの準備もしておきます。そして妃殿下がお帰りになればまた大急ぎで着付けです。これが多い日には三度も四度もあります。儀式正装にお着換えになる時はもう侍女も涙目です。あれは物凄く衣装のパーツが多い上に、飾り紐や飾り布の位置や角度にまで厳密な決まりがあり、お着換えの後に儀典省の官僚がチェックするのです。間違えたらやり直しで貴重な時間が無駄になります。
これが大規模な夜会で途中でお召し替えがあったりする場合は、夜中まで延々と続きます。尋常ではありません。私も毎日毎日ぐったりです。下級侍女で補助的な仕事しかしない私でこれですから、一緒に社交に出る事も多い上級侍女のプレッシャーは並ではありません。私はアリエスとは仲が良くなっていて、よく話をするのですが、彼女曰く侍女服を着て出るお茶会も、自分もドレスを着て妃殿下の随伴をする夜会も、もう何が起きているのか分からないくらい緊張するそうです。自分のミスは妃殿下の醜聞。妃殿下が見られている時は自分も見られていると思いなさい、とエーレウラ様に言われているそうで、常に注目の的である妃殿下のお側に侍る事の大変さをアリエスは震えながら語っていました。単純に上級侍女への出世を夢見ていた私は反省いたしました。私には無理かもしれません。
しかしながら一番凄いのはやはり妃殿下です。毎日毎日あの忙しさなのに愚痴一つ零さず優雅な微笑みを浮かべつつ社交に出向かれます。よくもまぁ、ストレスが溜まらないものです。私達侍女には交代でお休みがありますが、妃殿下にはお休みがまるでありません。あれでは身体もそうですが気持ちも滅入ってしまうのでは無いでしょうか。
しかし、その話をするとアリエスはなぜか苦笑いをしつつ「妃殿下は気分転換がお上手だから大丈夫よ」と言っていましたね。なんでしょう、気分転換とは。それに忙しい合間に僅かなお休みを作って、お馬に乗ってお出かけして気分転換をする事もあるそうです。それは私は知りませんでした。言われてからよくよく妃殿下のご予定を確認すると、週に一度くらい、半日ほど予定を開けてお休みというかお出かけの時間を取っているようです。私達は妃殿下のお出かけの後の社交の準備に大忙しですし、妃殿下がいない事は社交の時と変わりませんから気が付かなかったのです。そうでしょうね。いくら超人的な妃殿下とはいえ、お休み一つないのは無理ですよ。私はある意味安心いたしました。
ところが、ある時期、大規模な祭祀や外国からの使節の接待、大貴族の結婚式などと園遊会などの大規模社交の予定が重なり、妃殿下がいつも以上に大忙しになってしまった事があります。私達もてんてこ舞いですが、妃殿下のスケジュールはもはや拷問で、夜会が長引きご就寝の時間さえ押してしまい、それなのに朝もいつもよりも早起きして準備をして頂かなければならなくなりました。妃殿下のお休みも全く取れなくなってしまいました。これが、しかも二ヶ月ほども続いたのです。
流石の妃殿下がお疲れの表情をお浮かべになる事が多くなり、侍女長も顔を曇らせる事が多くなってきました。皇太子殿下もご心配なさっているご様子でしたが、妃殿下が大忙しという事は殿下も大忙しなのです。妃殿下と触れ合う時間もほとんど取れない有様でした。アリエスは自身も大忙しなのに妃殿下の事を大変心配し「これ以上妃殿下のストレスが溜まるとまずいです」と言っていました。なんでしょう?まずいとは?
侍女長が色々手配して、何とか数日後に妃殿下のご予定を無理やり明け、僅かに数時間ですが妃殿下のお休みの時間を確保致しました。妃殿下はそれを侍女長から伺って目を輝かせたそうです。アリエスもホッとした顔をしています。私も話を聞いて喜びました。いえ、妃殿下が心配だっただけで、その日は少しは休めるなと喜んだ訳ではありませんよ?本当ですよ?
そしてその日、妃殿下のお休みがある筈のその日は、朝から大雨でした。
妃殿下はお馬に乗るのが好きで、お休みには上級侍女さえ置いて護衛騎士二人だけを連れてお出かけするのだと聞いています。しかし雨がこれほど降っていてはお馬に乗る訳にはいかないでしょう。妃殿下を雨に濡れさせる訳には参りません。
妃殿下はがっかりなさったでしょうが、天候には勝てません。仕方が無い事でしょう。お出かけでは無い方法で気分転換して頂くしかありません。私達はそう思いながら、窓の外を恨めし気に眺めていらっしゃる妃殿下をお部屋の隅から見守っていました。・・・妃殿下のお気持ちも知らずに。妃殿下のお怒りが分かっているアリエスは顔を引き攣らせていました。呑気な気分でいた私は全然気が付きませんでしたが。
そう、妃殿下はお怒りだったのです。そして突然鋭い声でお命じになりました。
「布を持って来て!沢山!」
は?私達下級侍女は意味が分からなくて硬直いたしました。しかし侍女長とアリエスを含む上級侍女は飛び跳ねるように動き出しました。
「布でございますね?どのようなものがよろしいのでしょうか?」
「何でも良いわ!沢山、山ほど持って来て!」
「直ぐにお持ち致します!」
上級侍女がお作法を投げ捨てて駆け出します。え?え?と混乱する私達下級侍女に侍女長が叱責の言葉を叩きつけます。
「何をぼんやりしているのですか!布です!何でもいいからあなた達も探して持ってきなさい!」
私達も飛び上がって走り出しました。な、何事が起きたのでしょう?私はとりあえず自室に戻り、刺繍に使うために購入していた布を数枚手に取りました。・・・これで良いのでしょうか?そして妃殿下がいらっしゃったサロンに戻りますと、そこには布切れの山が出来ていました。布なら何でもという感じで、古いシーツや掃除用の襤褸切れまであります。こ、こんなに布を集めて何に使うのでしょう?
見ると、妃殿下が椅子にお座りになり、猛然と何かを縫っていました。何事ですか?お裁縫は貴族令嬢教育には必須事項ですから、妃殿下がお裁縫を出来ても不思議はありませんが・・・。妃殿下自ら針を持たれるなど普通は有り得ません。下級侍女が慌てて声を掛けます。
「ひ、妃殿下、私がやります!」
「うるさい!」
「ひっ!」
妃殿下に怒鳴られて下級侍女が身体をのけぞらせます。妃殿下が侍女に声を荒げるなど今までに無かった事です。
妃殿下は一心不乱に手を動かしています。たまにハサミで布をジョキジョキと切って繋いで、またチクチクチクチクと縫って行きます。速いです。あっという間に何かがが出来上がって行きます。何でしょう?お洋服の類では無さそうですが・・・。
ある程度縫えると、妃殿下は出来た袋のような物の中に布切れを詰め込んで行きます。そこまで行けば分かりました。ぬいぐるみです。昔、実家で侍女が作ってくれた事があります。しかし、妃殿下のお作りのそれは大きいです。子供の手にはあまる大きさです。大人でも一抱えはあるでしょう。詰める布が足りなそうなので、私達は慌てて布切れの調達に走りました。
僅か一時間ほどで妃殿下お手製の大きなぬいぐるみが完成いたしました。私達は思わず拍手しそうになりましたよ。妃殿下にこんな特技があるとは知りませんでした。やや不格好ですが、ちゃんと豚に見えます。あんなに短時間で設計図も無しに造ったのですから凄い事です。
しかし、あんなものを作ってどうするのでしょう?疑問に思う私達を尻目に、妃殿下はぬいぐるみを矯めつ眇めつ眺めて満足そうに頷くと、そのぬいぐるみを自ら抱えて、離宮の一番大きなダンスホールに向かいました。?今日は離宮で舞踏会の予定は入っていませんので、今あそこは何もありませんが・・・。そもそも滅多に使われない部屋ですし。
がらんとした広間に入ると、妃殿下が上級侍女に何かを命じました。上級侍女が即座に走ります。そして一人の侍女が木箱を、アリエスがなんと弓と矢筒を持ってきました。な、何事ですか?離宮で普段目にする筈もない物騒な道具に私は目を剥きます。侍女長が命じて広間のシャンデリアに灯りが灯されました。明るくなった広間の一番隅に木箱が置かれ、その上に妃殿下お手製の豚のぬいぐるみが置かれました。妃殿下はお部屋の反対側の隅に弓を手に、矢筒を腰に巻いて向かいます。何が起こるのでしょう。固唾を呑んで見守っていますと、すくっと立った妃殿下は何故かぬいぐるみを厳しい顔で睨み付け、やおら矢を矢筒から抜き、弓につがえました。
そして躊躇無く発射です。愕然とする私を尻目に矢は見事にぬいぐるみに命中致しました。ぬいぐるみは衝撃で跳ね上がります。しかしそこへ目にも止まらぬ早業で放たれた次の矢、三の矢が次々と命中します。ぬいぐるみが空中に浮いている間に五本の矢が命中し、遂にぬいぐるみは木箱から転げ落ちました。アリエスが慌てて走って行って、ぬいぐるみから矢を引き抜き、ぬいぐるみを木箱に置きます。すると再び妃殿下が矢を連射し、ぬいぐるみを矢だらけにします。
私達は呆然とするしかありません。妃殿下はこれを一時間ほど繰り返し、最終的にはぬいぐるみはボロボロになってしまいました。結局一度も妃殿下の矢は目標を外す事はありませんでしたね。
妃殿下は弓を下ろすと、満足そうに頷きました。が、直ぐに「これじゃない」というようながっかりしたお顔をしてしまいました。アリエスが駆け寄って弓と矢筒を受け取り、しきりに何か声を掛けて妃殿下を慰めているようでしたね。
完全に満足なさりはしなかったようですが、妃殿下は大分すっきりしたお顔で次の社交に出掛けられました。あ、その前に先ほど怒鳴りつけた侍女にいたわりと謝罪ののお言葉を掛けていかれましたよ。
ちなみに、妃殿下のぬいぐるみ作成能力は、後にカルシェリーネ殿下がお生まれになった時に存分に発揮され、ちゃんと良い布と綿で丁寧に作られた妃殿下お手製のぬいぐるみがカルシェリーネ殿下のお部屋に溢れたものです。しかし私は、それを見る度に、矢でボコボコにされていた大きな豚のぬいぐるみを思い出して微妙な気分になったものでした。
さて、その様な事があった数日後、相変わらず過密スケジュールの中にいた妃殿下はようやく夜会を終え、離宮に帰って来て、ソファーに座って皇太子殿下と談笑していらっしゃいました。妃殿下は皇太子殿下とお話しになる時には、いつも貼り付けている社交用の微笑とは違う、より明るい表情でお笑いになる事が多いです。
しかし、この時は妃殿下は眉を顰めていらっしゃいました。
「なんでダメなの?」
妃殿下のご要望を殿下が断ったからです。皇太子殿下が妃殿下のご要望をお断りになる事などあまりありません。しかしながら今回のご要望は傍で聞いていた私にも無茶苦茶だと思える内容でしたので、無理も無い事です。
「別に格闘戦をやろうってわけじゃないのよ?矢の訓練とか、体裁きの訓練とか、重量挙げとか、走り込みとか。そういう基礎訓練を騎士の訓練所で場所を借りてやりたいだけなのよ!」
「ダメに決まってるだろう。騎士の訓練場は騎士のための場所だ。皇太子妃が私用で使って良い場所じゃない」
「ミアはそこで訓練しているじゃない!」
「皇太子は騎士でもあるから良いの」
「皇太子妃だっていざという時は戦う国是なんでしょう?なら訓練は必要じゃない!」
皇太子殿下は無表情に首を横に振ります。
「兎に角、ダメ。そもそも基礎訓練だけでラルが満足出来る筈が無い。何やかや言って騎士と格闘訓練をしたがるに決まってる」
一瞬、妃殿下がなぜバレた、というようなお顔をなさいました。まぁ、皇太子殿下であれば簡単にお見通しな事だったのでしょう。
「お願いだから!このままじゃ身体がなまっちゃう!ストレスで奥さんが死んでもいいの?」
「この過密日程ももうすぐ終わるから。そうしたら丸一日くらい休みを取れるようにするから。そうしたら丸一日帝宮の森で狩りが出来るように手配してあげるから」
「丸一日?なら帝都の森に行きたい!」
「ダメ。流石にそれは無理だよ」
「帝宮の森には熊はいないじゃない!」
妃殿下は叫びました。・・・熊?後で聞きましたが妃殿下は熊狩りに参加なされた事があるそうです。
「いたら困るだろう。鹿や猪はいるからそれで我慢して」
妃殿下はご自分のご希望が次々と却下されて、うぐぐっと唸りました。そしてガッと立ち上がって、殿下の事を見下ろします。何だかお目が赤く光り出したような?
と思ったら、上級侍女達が慌ただしく動き始めました。な、何事ですか?侍女長が私達下級侍女を小声で叱責します。
「なにをボサッっとしているのですか!あなた達はこのお部屋の壊れ物を至急片付けなさい!急いで!」
私達は驚き慌てて動き出しました。流石に両殿下の御前ですので。お作法の範囲内で出来る限り素早く動いて、色々置かれている陶器や置物を撤去し、違う部屋に避難させます。お二人の間にあったテーブルも可能な限りそっと移動し、ティーセットも大急ぎで片付けています。な、何が起こるというのでしょう。そしてあらかた片付いた頃、皇太子殿下が溜息を吐かれながら立ち上がりました。
「ラル・・・」
それを合図にするように、妃殿下が目を赤く光らせて皇太子殿下に襲い掛かりました。え?私達の目が点になります。あり得ないことが起こっているような。
妃殿下は目にも止まらぬパンチを皇太子殿下の顔面に躊躇無く叩き込みます。しかも一発ではありません。何発もです。殿下はそれを手で捌いたり顔を背けたりして躱します。それをしばらく続けた後、妃殿下はぐっと身体を沈めたかと思うと、膝蹴りを皇太子殿下の腹にぶち込みました。容赦ありません。しかし殿下はそれを自分の膝を上げて受けます。ですがそれは妃殿下の狙い通りだったようです。
妃殿下は皇太子殿下の襟首を掴むと、殿下の懐に潜り込み、瞬時に腰で担ぎました。良くは分かりませんがお二人の身体が竜巻のように動いて、皇太子殿下の大柄なお身体が綺麗に宙を舞いました。投げ技です。私はその見事さに思わず感嘆致しました。
しかし皇太子殿下も負けてはいません。空中で身体を捻ると、身体を床に叩きつけられる事も無く、フワッと着地してしまいます。妃殿下はそれを確認する事も無く、今度は殿下のお腹に頭から体当たりをなさいました。流石の皇太子殿下も「うっ」と呻いています。妃殿下はその隙を見逃さず、今度は足を飛ばして皇太子殿下の左足を払い、今度こそ皇太子殿下のお身体を床に叩きつけようとします。
ところが、皇太子殿下の脚は根でも生えているかのように動きませんでした。妃殿下の足は弾き返され、逆に妃殿下の姿勢が乱れます。皇太子殿下はその隙に妃殿下のお腹の所を両腕で抱いてぐわっと抱き上げてしまい、驚きバタバタと暴れる妃殿下を、ご自分が座っていたソファーにどさっと寝かしてしまいました。そしてその上に伸し掛かり、妃殿下の顔を間近から見つめて仰いました。
「ラルはよく頑張ってる。偉い。凄い。だからもう少し我慢して欲しい。出来る限り君の希望に沿えるようにするから」
そして妃殿下の頭を愛おしそうに撫でて額にキスをされました。妃殿下も不承不承という感じで頷きました。いつの間にか真っ赤だった瞳は金色に戻っています。皇太子殿下は頷くと立ち上がり、侍女長に妃殿下のお世話を命じました。
妃殿下はお身体を起こすと怒っているのか笑っているのか、照れているのか微妙な表情を浮かべていらっしゃいました。髪型は乱れてしまっていますが、お身体には何の異常も無いようです。そして悔しそうにおっしゃいました。
「やっぱり、もう少し鍛えないとダメね。旦那をねじ伏せられないようじゃ妻の名が廃るもの」
・・・そういうものなのでしょうか?私は結婚していないから良く分かりませんが。
後でアリエスに聞きましたが、以前には怒った妃殿下と殿下が大格闘戦を演じてお部屋が一つダメになった事があるそうです。それ以来、妃殿下は一応、お片付けが終わるまで殿下に襲い掛かられるのをお待ちになってくださるのだとか。・・・意外に冷静ですね。というか、つまりあれは喧嘩では無いのです。妃殿下のストレスとお怒りを皇太子殿下が受け止めて下さっているという事なのでしょう。実際、妃殿下はそれからはご機嫌良く予定をこなされ、過密日程を乗り切られましたよ。
私はそれからずっと妃殿下にお仕えして、念願叶って妃殿下が皇妃陛下になってからもお仕えする事になったので知っているのですが、それからもごくごく稀にですが、妃陛下が皇帝陛下に襲い掛かるという他に知られたら一大事件になってしまうような事が、何度か起こりましたね。勿論、内宮の最高機密ですよそんな事は。誰にも言えません。
何しろ竜殺しの皇帝陛下と竜狩人の皇妃陛下の戦いです。毎回凄まじい戦闘になった訳ですが、結局、皇帝陛下は一度も皇妃陛下に負ける事は有りませんでしたよ。お負けになった皇妃陛下は毎回非常に悔しそうなのですが、お顔はいつも満足そうに笑っていらっしゃいましたね。
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