閑話 狩人皇妃 ベラスケス視点
俺の名前はベック。まぁ、本名はベラスケス・マクラルだが誰もそんな名前は呼ばない。平民なのに苗字があるのは先祖が貴族だったかららしい。
実家は帝都の商人だったが、子供の頃から帝都の森で遊び歩いている内に狩りが好きになり長じて狩人になった。
帝都の東から北に広がる広大な森は、多種多様な動植物が繁栄する豊かな森で、そこで獲れる獣の肉は百万と言われる帝都の人間の胃袋を満たすためには重要だった。帝都には二百人ほどの狩人がいて、そんな人数の狩人が毎日狩りをしても狩り尽くせない程の豊かさと広さが帝都の森にはあった。
俺は十三で成人すると狩人の師匠に弟子入りし、二十の歳には独立した。主に猪や鹿を狩り、肉は肉屋に毛皮は毛皮屋に卸した。時には熊やそれ以外の小さい動物や鳥も獲ったがね。やはり肉が一番安定して金になるから俺はなるべく大物を狙った。
最初は一人で。やがて弟子を取り、息子が大きくなったら息子にも手伝わせる。狩りは人数が多い方が効率が良いからな。そうやって生活している内に俺の弟子出身の狩人が増え、やがて俺は帝都の狩人協会の会長に推薦された。
狩人協会は帝都の狩人の管理調整機関で、各種狩人免状の発行や揉め事の解決、森で起こった事故や事件の処理などを行う。俺はその頃には四十歳を越えていて、まだまだ若い者には負けなかったが、後進に道を譲り連中をフォローするのが年寄りの役目だとも分かっていたから仕方無く推薦を受けた。因みに、狩人は引退したら大体肉屋になる。
狩人協会の仕事はそれほど忙しくはない。狩人が持ち回りで役員を務め、何か問題があったり依頼があったら解決のために出向く。だが、狩人はそもそも仁義に厳しく決まりは守る連中が多い。ルールを守らないと森は本当に危ないからだ。適当な事をやって狩人同士で誤射して死んでしまった話など幾らでもある。だからそもそも問題が起こらないし起きても些細な事だった。
つまり概ね暇だ。これは貧乏くじ引いたかな、と俺は思ったね。何しろ森を駆け回って生活していたのに、事務所にぼんやり座っているしか無くなったのだ。たまには依頼があって森に出向いてはいたから完全に鈍るほどでは無かったけどな。
そうやって仕方なく退屈な生活を送っていた時に、あのお方がやって来たという訳だ。
その日も退屈なので役員の連中を無駄話をしながら将棋でもやってたんじゃ無かったかな。ドアが開いて彼女は颯爽と現れた。
銀色の長い髪を翻し、大股で協会の事務所に入って来た女性。女性の狩人は珍しいが家の協会にも何人かはいる。だが見た事が無い女性だった。彼女は真っ直ぐ俺たちがたむろしていたテーブルに近付くと、傲然と俺たちを見下ろしながら言った。
「帝都の狩人免状を頂戴」
びっくりするほどの美人だった。銀色の髪と金色の瞳。艶のある輪郭に高い鼻。ニッと笑った唇も麗しい。スタイルも抜群だ。
ただ「おお美人だ」と鼻の下を伸ばすにはちょっと威厳があり過ぎた。手を触れるのも恐れ多いというような、神の偶像を思わせる輝き。俺たちはちょっと引いていたよ。この時の彼女はまだただの騎士の奥さんだった筈なんだがな。
「免状?狩りの経験はあるのか?素人にはやれないぞ」
俺は他の誰も口を開かないから仕方なく言った。他の連中は圧倒されてたんだと思うね。
「勿論あるわよ。故郷ではかなりやったわ」
「故郷?どこなんだ」
「カリエンテ侯爵領よ」
ずいぶん遠い所の名前が出て来たな。そんな遠くじゃ現地の協会に確認を取る訳にもいかない。
「使う道具は?」
「弓、槍、手裏剣、罠。何でも使うわ」
こんな年若い女性が使うにしては物々しい道具ばかりだが、答える彼女の顔は自信に満ちている。はったりでは無さそうだ。
「そうなると総合免状だが・・・、高いぞ。金貨十五枚だ」
これは帝都で普通の規模の部屋が二年は借りられる値段だ。
「それと年会費。これが金貨一枚」
つまり合計金貨十六枚。普通の猪一頭を肉屋と毛皮屋に売ると合計で大体銀貨五枚になる。銀貨が十枚で金貨一枚になるから、猪三十二頭分だ。これは俺でも一人では一年では狩れない数だ。つまり簡単には元が取れない。若い狩人はこの免状の予算が用意出来ないため、最初は狩人の弟子になり、修行して金を溜めながら罠免状から順に購入して行くものなのだ。
しかし彼女は頷くとテーブルにドンと金袋を置いた。そして中から綺麗な指で金貨をつまみ出すときっちり十六枚、テーブルに並べた。我々は目を剥いたね。簡単に支払える額ではない筈なのに。
「良いのか?帝都の森は豊かだが、そう簡単に元が取れる金額じゃないぞ」
「大丈夫よ。故郷ではこれくらいなら半年で稼いだもの」
自信満々だが、帝都の森は狩人が多いから競争率も高い。そう簡単にはいかないだろう、と俺はこの時は思っていた。
彼女はラルと名乗った。本名ではなくあだ名だろうとは思ったが、別に構わない。勿論、登録書には本名が記載されていた筈だが、俺は別に知りたくも無かったから見もしなかった。
彼女は故郷で狩りをやっていた(本職では無かったそうだが)というだけあって、森でのルールに詳しく、故郷の森と帝都の森とのルールの違いを執拗に確認していた。この辺を勘違いすると大変な事になると言って。俺たちは感心したね、そういう所はもうベテランの狩人のようだった。
そしてラルは帰って行った訳だが、この日がラルの伝説の始まりの日になるなんて、俺たちは誰も想像してはいなかったさ。
ラルが免状を取って数日後、ラルがまた協会の事務所を訪れた。少し困ったような顔をしていたな。俺はまたてっきり「やっぱり私には無理だから止める。金を返してくれ」と言いに来たんだと思ったな。ところがラルはとんでもないことを言った。
「間違って鹿を二頭も狩ってしまったから、回収に協力して欲しいのよ」
なんでも待ち構えていたところに二頭の鹿が現れたので、思わず二頭とも射ってしまったのだとか。とても信じられない話だ。
鹿というのは逃げ足が速くて臆病だ。例えば二頭出たとしても一頭が討たれればもう一頭は一目散に逃げる。そもそも鹿射ちは待ち伏せで、一瞬の勝負だ。とても弓を連射する事など出来ない。二頭出て二頭射つなど俺でも不可能だろう。
しかしラルはなんという事もなく「昨日は猪を一頭射ったと」言ってのけた。二日で猪一頭鹿一頭だと⁉︎ちょっとあり得ない猟果だった。普通の狩人なら一日中歩き回ってもウサギ一匹なんて日も少なくないのだ。
「いやー。ダメね。大物は。持って帰るのが大変なのにあんまりお金になんないわ。もうちょっと小さくてお金になる獲物を知らない?」
猪一頭売れば銀貨五枚にはなった筈だ。金貨十六枚をポンと出せるくせにお金が必要なのだろうか?俺は少し考えて言った。
「・・・ギンイロギツネの毛皮なら金貨一枚で売れる。ただ、そう簡単に獲れる獲物じゃないぞ」
ラルは表情を輝かせてギンイロギツネの特徴や習性を俺に聞いて、意気揚々と去っていった。・・・俺は意地悪のつもりだったんだ。ギンイロギツネなんてあんなもん、一生に一度お目に掛かれれば良いくらいの希少な狐で、そうそう狩れるもんじゃないからだ。
次の日にその幻の狐を二匹もぶら下げてラルが事務所にやってきて、俺たちは肝を潰した。
「ギンイロギツネってこれでいいの?」
平然とラルは言った。
「ま、間違い無い。一体何をどうやって・・・」
「ま、色々とね。やっぱりコレ毛皮にした方が高く売れるのよね?」
毛皮が役立つ獣はそのまま毛皮屋に売るよりも、自分で鞣しまでやった方が高く売れる。そういう事もラルはちゃんと知っていた。
ラルはそれからその年の冬一杯、ギンイロギツネを専門に狙って荒稼ぎをした。確か三十匹くらいは狩ったんじゃないか?終いには帝都でギンイロギツネの毛皮の価格が下がるほどだったそうだ。もちろん他の獣も狩っていたから、彼女が森に入って手ぶらで帰って来る事は無かったさ。
俺たちはもうシャッポを脱ぐしか無かったな。若い連中がラルの狩りの秘密を探ろうと後をつけた事があるんだが、とても着いて行けなかったそうだ。何しろ猿みたいに木々を飛んで行っちまうんだとか言ってたよ。
彼女は特に熊狩りが好きでな。レッドベアーが出た時は大喜びで止めるのも聞かず飛んで行った。こっちはあんな化け物相手にしたく無いから騎士団に依頼するんだが、その騎士団から派遣されてきたのがラルの旦那だっていうセルミアーネ様だった。そのセルミアーネ様が投げ飛ばした熊の止めをラルが刺したと聞いた時には夫婦して非常識なのかと呆れたね。
その頃にはもうラルは帝都の狩人の有名人だ。アイドルだよ。帝都の市場でもいつも人が周りに集まっているような状態だったな。親分肌というのかな、面倒見が良くて、困っている人を見ると放っておけないタイプだった。特に嫌ったのが弱い者いじめや差別で、外国の商人に無体な取引をふっかけていた商人を見咎めて、ラルが口を出してやりこめているのを見た事がある。
ところがな、協会に顔を出すようになって一年後だったかな。突然ラルの姿が見えなくなってしまった。みんな驚き、心配したが、それっきりだった。噂になったが、元々が帝都の人間じゃ無いから行方を辿るツテがない。ぷっつりと消息が途絶えてしまった。みんな残念がってたよ。
ただ、俺はラルの旦那が騎士だと知っていたから、もしかしたら旦那が出世して上の方の貴族になって、流石に奥さんであるラルも狩りになんて出られなくなったのかもな、と想像していた。・・・実際はそれどころでは無かったわけだがな。
ラルが消えてしまって半年か、もう少し経った頃だったかな。帝都の森にキンググリズリーが出た、という報告が上がってきた。キンググリズリーというのは灰色の毛をした馬鹿でかい熊で、レッドベアーよりも一回り大きい。とてもとても狩人の手に負える生き物じゃない。俺はすぐに騎士団に報告し、狩人や街の連中には退治が終わるまで森に出入りしないよう要請した。
騎士団が向かえば大丈夫だ。と、安心していたのだが、なんと騎士団が敗れたという知らせが届いたのには驚いた。騎士といえばレッドベアーを投げ飛ばしたセルミアーネ様みたいのがいるところだ。あんな凄い連中が勝てないなんてどういう熊なんだ。
それにしてもこれ以上森に入れないのは困る。狩人はもちろん、市民も森で木の実の採集や小動物の狩りをして生活を森に依存しているからだ。おまけに東の街道まで封鎖されていて物資も滞っている。どうしたもんかと思っていたら、なんと皇太子殿下が騎士団を率いて熊退治に出てきなさるという知らせが来た。これには驚いた。
狩人協会も協力を要請されたので、狩人協会は総出で協力することになった。俺も森へ向かったさ。狩人が皇太子殿下に無礼でもはたらいたら困るからな。
そうして森に行って、あらかじめこの辺りに出るだろうと予測した場所で皇太子殿下とその一行を待つ。やがて皇太子殿下達が騎乗で現れた。森の道なき道を騎乗で登って来るとはさすがは騎士団だな。そう感心している俺の目に異様な格好の人物が入ってきた。
白い鍔広の帽子。なんだか気どった紫色の鳥の羽の飾りなんかがついてる。そして鮮やかな青いマントだ。・・・どう見ても女物で、身長や雰囲気からしてやはり女性だろう。なんだありゃ。どう考えても害獣退治の場には場違いだろう。
俺は内心、皇太子殿下は害獣退治と言いながら、女連れで物見雄山に来たんじゃあるまいな、と呆れたものだ。ところが俺が皇太子殿下の前に跪き、挨拶をすると皇太子殿下はああ、と頷き「よろしく頼む」と仰った。・・・聞き覚えのある声だ。顔を上げるとそこにいたのはセルミアーネ様だった。俺は口がポカーンだ。狩人協会にラルと一緒に来た事もあるし、市場を二人で買い物に歩いているのも何度も見掛けたから間違い無いとも。そもそもあんな大男で女みたいに綺麗な顔してるんだ。間違いようがない。
愕然としている俺に更なる声が追い討ちを掛けた。鍔広帽の女がふふふ、と笑いながら言ったのだ。
「よろしくね、ベック」
俺は思わず全力で顔を振って女の方を見たよ。間違い無い。この声はラルだ。そして実際、帽子の鍔から除く瞳は金色。髪は銀。間違いなくラルだった。
俺はもう大混乱だよ。セルミアーネ様が皇太子殿下だと?騎士だと聞いていたのに?待てよ?セルミアーネ様が皇太子だというならラルは皇太子妃だということにならないか?一体どういう事なんだ!一緒にいた狩人全員も大混乱だよ。ラルを知らねぇ奴なんていないからな。
するとラルは気どったマントと帽子を脱いで従卒に渡すと、セルミアーネ様に許可を取ってからニコニコしながら森に分入った。着ていたのは上等だが動き易そうな服だったな。そしていつものように木にスルスルっと登って消えてしまった。俺は呆然としながら、思わずセルミアーネ様に聞いてしまった。本来なら皇太子殿下に平民が声を掛けるなんて大それた事なんだけど。
「い、良いのか?」
するとセルミアーネ様は何食わぬ顔という顔の見本のような表情で言ってのけた。
「何をかな?」
俺は悟った。ああ、そういう事か。無かったことにする気なんだ。皇太子妃が木の登って行ってしまうなんて有り得ない。有り得ない事は起こるわけがない。だから起こらなかったのだ。
俺も悟ったが周りの騎士達も同様にセルミアーネ様のご意向を理解したようだった。無表情で頷いている。無理もない。
結局この時はラルの大活躍とセルミアーネ様の的確な指揮と武勇の宜しきをもって、体長七メートルなんていう化け物キンググリズリーの討伐に成功した。狩人は斥候と囮くらいの役にしか立たなかったけども、セルミアーネ様は褒賞を下さった。俺はこれは口止め料だと理解したね。まぁ、口止めなんぞしなくても、狩人達は皇太子妃とラルがどうしても結び付かず、誰も噂にはしなかったがね。
それからまた結構経って、俺はラルの事をほとんど思い出さなくなっていた。何しろ平民のところに貴族の事情が聞こえて来ることなどほとんど無い。まして皇族の噂なんて一切入ってこない。ラルは俺たちにとっちゃあ全能神のおわすところにも等しい帝宮の奥の院に行っちまったんだな、と俺は理解していた。
ところがその日、たまたま俺一人が狩人協会の事務所でうたた寝をしていた時の事だった。事務所のドアが聞き覚えのある軽快なテンポで開いた。そう。まるでラルが事務所に颯爽と現れていた時のような音だ。俺は目を開けて、目を剥いた。
それは紛れも無くラルだった。この間と違って庶民服を着ているが、スカーフの隙間から覗く銀髪、金色の大きな瞳。そして勝ち気な表情は間違いようがない。他にいるはずもない。
肝を潰す俺に手を振りながら、皇太子妃殿下は言った。
「こんにちわ。久しぶり『ラル』ですよ」
俺は眩暈がした。つまり今日の自分はお忍びで狩人のラルだと言いたいのだろう。無理にも程がある!はっきり言って、既に帝都の狩人は噂にしないだけでラルが皇太子妃だということを知っている。そんな状態でちょっと髪を隠したくらいの変装で街を歩いて来るなんて!
だがラルは全然気にしていないような顔をしている。全然分かっていないのだろう。自分がいかにとんでもないことをしでかしているか。
「ちょっとお願い事があるの。狩人協会が一番詳しいと思って。報酬は弾むわ」
そう切り出したラルの話は、帝国中で最近の害獣の発生傾向がおかしいから調べたいのだという事だった。聞けば確かに偏りがあっておかしい。それと最近帝都西部で起こっている大規模な山賊騒ぎを結びつけると・・・きな臭い香りがするな。
だが、帝都の狩人協会の権限はあくまで帝都近郊の森に限られる。帝国の直轄地の他の森、まして領主のいる領地は全く管轄外だ。知り合いぐらいはいないことはないが、頼み事をするにしてもタダというわけにはいかない。
俺がそう匂わせると、ラルは頷いてボディスの胸ポケットから無造作にそれを取り出した。俺は一見して肝を潰したね。
それは見た事もない大きさの澄んだルビーだった。それが金の鎖に繋がってペンダントになっている。ラルはニッコリ笑って言った。
「前金です。同時に、金の部分に皇帝の印が入っています。それを見せれば『皇太子妃からの』依頼だとすぐ分かるでしょう」
とんでもねぇ!俺は危うく叫ぶところだった。こんな途方も無い宝石。まして皇帝の印が入っているこんなモノを宝石屋に持ち込んだら宝石屋が卒倒してしまう。
こいつ、狩人免状を購入する時に眉一つ動かさずに金貨十六枚を払った時から何も変わってないな。つまり彼女は目的のためには手段を選ばないのだ。狩人になるためにはなけなしの(後で自分でそう言っていた)金貨をポイと払うし、自分が知りたい情報を集めさせるためになら、平民に国宝級の宝石を投げて寄越すわけだ。自分の目的が最優先。それは自分が正しいのだ、という圧倒的な自信によるものだろう。
だめだ。こいつには言ってやらにゃあダメだ。俺はそう思った。自信を持つのは結構だが、やって良い事と悪い事がある。ましてこいつは、この方は皇太子妃ではないか。自分の好き勝手がどれほど周囲に迷惑を巻き起こすのかを自覚してもらわないと、いつかとんでもない破局が起こりかねない。
「もう二度とここに来るなよ。ラル。あんたはもう俺たちとは住んでる世界も責任も何もかも違うんだ」
俺がそう言うとラルの表情が曇った。自分を見捨てるのか?俺を詰問するような表情だった。それで、俺はラルが自分の希望でもって皇太子妃になったのではない事を知った。本当は狩人を続け、庶民生活を続けたかったのだろう。
そうじゃない。俺は首を横に振った。
「ラル。あんたが帝都の、いや、帝国のために頑張っている事は知っている。帝都を守るためにあんな化け物みたいなキンググリズリーを倒してくれたんだからな。あんたの力はああいう、俺たちの手に負えない事に使うべきだ。こんなお使いは部下にやらせれば良いんだ。人を使え。人を」
俺はラルを諭し、帝都の以前の仲間達も彼女に期待しているのだと伝えた。皇太子妃になっても俺たちとの交流を忘れないラルなら、皇妃になっても俺たちを慈しみ守ってくれるだろう。俺は本当にそう期待していた。彼女なら平民と貴族の厚い壁を少しくらいは崩してくれるだろうと。
俺のお説教を聞いて、ラルは神妙な顔で帰って行った。俺はその日の内に使者を立て手紙を書き、「皇太子妃の命令」だとして各地の狩人協会に情報の提供を求めると共に、帝都にあるツテを総動員してラルの必要としていた情報を集めた。集めた情報はラルが指定した屋敷に届けさせた。
ラルの寄越した皇帝の印の威力は絶大で、渋ったり懐疑的だったりした地方の狩人協会は、使者にこれを持たせて見せてやれば、驚き慄いて途端に協力的になった。
だが帝都の連中にはそんなものは必要無かった。「ラルの頼みだ」と言えば市場にいる連中は仕事を放り出しても協力してくれた。特に狩人連中は情報の収集から、最終的には森に隠れていた法主国軍の捜索、斥候、攻撃時には撹乱任務まで請け負ってくれた。俺だって不眠不休で頑張ったさ。俺たちはラルの味方だと行動で示してやるつもりだった。
俺たちの活躍もあって法主国の陰謀はご破産になったそうだ。狩人達はなんと自ら法主国軍を奇襲しに森へ出陣して来た皇帝陛下に、直々にお礼の言葉を賜ったそうだ。もちろん、ラルからは礼の手紙と物凄い額の報酬が届いたよ。
俺達はラルのために役立てた事を喜んだ。帝都の狩人協会はラルからもらった皇帝の印と皇帝陛下からの称賛で組織としての格も上がり、他の狩人協会から一目置かれるようになった。めでたしめでたし。
だと思っていたのだが・・・。
ある日、やはり事務所でのたくっていた俺の元に、立派な衣装に身を固めた厳しい使者がやって来たのだった。驚愕する俺にその帝宮からの使者は「皇太子妃殿下がお召しであるので、三日後の午後に帝宮に上がるように」と宣告しやがったのだ。
皇太子妃ってラルの事じゃねえか!とは思ったが、今回は狩人ラルでは無く皇太子妃としての命令だ、無視は出来ない。それどころかすぐにも準備をしなければ間に合わない。帝宮に上がった事など無いが、狩人装束で立ち入れる場所では無いことぐらいは分かる。衣装を仕立てるには三日では無理なので、俺は慌てて知り合いに片っ端から聞いて、貴族との社交に出ている商人から衣装を借りた。
衣装、馬車、贈り物などの準備を三日でどうにか終え、俺は真っ青な顔で帝宮へと向かった。
生まれた時から帝都に住んでいる俺だが、帝宮に入った事などない。普通の平民は入れないと聞いている。中で働く平民は貴族の血が入った者だけで、その意味では俺にも資格があるのだろうが、そもそも俺は入りたいと思った事もなかった。
なんだかよく分からないが。帝宮の門には連絡が入っていて、騎馬が先導してくれて俺が乗った馬車は馬鹿広い帝宮内部を進み、もう一つの門で身体検査を受けた後、更に進んで呆れるほど巨大な帝宮本館の車寄せで止まった。促されて降りたは良いものの、どうだいこの場違い感は。まるで森の中に紛れ込んだドブネズミだ。注目してくる人々の視線にいたたまれない。
随分と歩かされて豪壮華麗、巨大な部屋に通される。テーブルを挟んだソファーに案内され、座って待つことしばし「妃殿下がおいでになりました」という声が掛かった。俺は慌ててソファーから飛び降り、跪き頭を深く下げる。
ドアが開き人が入って来る気配がして、俺の前に立った。
「楽にして良いですよ」
言葉が掛かり、俺はゆっくりと顔を上げた。そこに俺が初めて目にする「皇太子妃ラルフシーヌ」が立っていた。
・・・本当にラルなのか確信が持てない程の変わり様だった。銀色の長い髪、金色の瞳は同じだが、ふわっと曖昧な微笑みはラルが絶対にしなかっただろうものだった。ラルの表情はいつもはっきりしていたからな。化粧もしているから顔立ちも違って見えた。
濃い緑色のドレスに身を包み、白い細長い靴を履き、両手にはやはり白い長手袋をしている。身体中に華麗な装飾品を付けていた。俺には女性のドレスの事は全く分からないが、とにかく絢爛華麗、そして良く似合っていた。
俺は唾を飲み込んで、ようよう用意していた挨拶を暗唱し始めた。
「こ、皇太子殿下のご尊顔を拝し奉り、えー、きょうえつ・・・」
「良いから。わざわざ来てもらって悪かったわね。ベック。座りなさい」
ラル、いや、妃殿下に促され、俺はカチコチに緊張しながらソファーに座った。妃殿下は優雅に対面に腰を掛ける。彼女はしばらく典雅な所作でお茶を飲んでいたが、やがてニッコリと、嫌な予感がするくらいニッコリと笑った。
「あなたを男爵にします。それで私の皇妃室で仕事を手伝いなさい」
「はぁ!?」
俺は反射的に叫んで妃殿下の後ろに立っていた侍女に物凄い顔で睨まれた。た、確かに不敬だった。だが待って欲しい。今何か、俺を男爵にするとかとんでもない台詞が聞こえた気がするんだが。
妃殿下は恐ろしいまでの優雅な笑顔で更に言った。
「あなたにこの間のお礼をしていませんでしたしね。あなたは直轄地の町や村に顔が広そうだし、商人とも繋がりがある。私の求める人材に合致すると判断しました。私の仕事を手伝いなさい」
仕事?そう言えば皇妃室とか言ったな。妃殿下はその内皇妃になる。皇妃になると政治にも関わってくるのだろうか。それを手伝えと?
・・・ちょっと待て、政治だと?帝国の政治に関われというのか?まてまて。無理に決まっているだろう!俺は一介の狩人で平民だぞ!
「ま、待ってくれ!俺にも都合というもんが!」
「次期皇妃からの命令です。聞きません」
妃殿下は更に恐ろしい笑みを深めた。
「この度のあなたの働きは見事なものでした。私は来年には即位して皇妃になり、主に直轄地の経営業務を引き受けます。その際にあなたの手腕と知識、人脈は私に必要です。私の役に立ちなさい」
もう決定だというのである。そりゃ、皇太子妃の命令に平民が逆らう術なんてあるわけが無い。無いが、あまりにも一方的過ぎるだろう。俺はうむむむ、と唸って返事が出来なかった。すると、皇太子妃殿下はふっと表情をやわらげた。
「私には貴族の頭の良い連中よりも、帝都や直轄地についての血の通った知識のある者が必要なのです。私の知る限り、あなたが最高の人材です。あなたを逃すわけには参りません。あなたの要望は何でも引き受けましょう。だから私の助けになってください」
妃殿下は少し悲しそうにも見える微笑を浮かべていた。その笑顔には以前「ラル」の面影が少しは見えた。・・・今はそれが精一杯なのだろう。皇太子妃が平民に対して遜るような態度は見せられないのだから。そう思って見れば、妃殿下の切実な事情も見えてくる。皇妃になったら業務を引き受けなければならないのに、人材がいない。伝も無い。俺に声を掛けたのは苦肉の策なのだろう。
まったくこいつは。相変わらず目的のためには手段を選ばないな。自分の目的のためには躊躇無く自分の全財産をも賭ける。出来る限りの努力をする。思いつく限りの最善を目指す。それがラルだ。いつだって全力疾走。その姿はいつも少し眩しい。そのラルの最善のために俺は望まれた。名誉に思うべきなのかどうなのか。
俺は少し目を閉じ、開いて言った。
「分かりました。お引き受けします。ですが男爵は結構です」
「ダメです。男爵にならないと帝宮本館に入れません」
俺の希望は速攻却下された。おい!さっき俺の要望は叶えると言わなかったか!
「それと、あなたの知っている最高の人材を何人か連れて来なさい。全員男爵にして皇妃室の人員に登録します。頼みましたよ」
そしていきなりの無茶振りである。おいおい!人材って言われてもな・・・。妃殿下はニコニコ笑って優美な指でカップを取り上げてお茶を飲んでいる。
「ど、どのような人材かご希望はお有りで?」
「任せます。この後、私が引き受ける業務内容を説明させますから、それを見て候補を決めなさい」
丸投げである。俺は頭を抱えた。や、やっぱり引き受けるんじゃなかった・・・!
妃殿下はそんな俺の事を見て意味ありげに微笑んだ。
「あの時のあなたのお説教は私の胸に響きました。あのような意見を私に言えるのは夫と、ベック。あなたくらいですよ。これからも私の過ちを正してください」
それは最大の誉め言葉なのかどうなのか。後でこの事をお会いしたセルミアーネ様に言ったら「ラルフシーヌを諭せるとは凄い」と大層驚き、喜んで「ラルフシーヌが暴走しそうになったらよろしく頼むぞ」と頼まれた。もうすぐ皇帝になる方からだ。そんな過大な期待を掛けられても困るのだが・・・。
こうして男爵となり、皇妃室の首席官僚になった俺は案の定、暴走するラル、いや皇妃陛下に引き摺られて狩人として森を駆け回るよりも充実した日々を過ごすことになったのだった。
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