三十四話 ラルフシーヌの出産  セルミアーネ視点

 ラルフシーヌ懐妊の知らせを聞いて、私は嬉しかった。


 嬉しかったがそれ以上にホッとしたというのが、本音だ。皇太子になってから二年。子供が出来ないと言っても結婚してからでもたかが四年に過ぎなかったのに、その間は本当に大変だったのだ。


 皇太子、というより皇族にとって一番重要な役目は子孫を増やす事だ。それはもう、何よりも優先される事だと言って良い。どんな善政を行い、どんなに戦争に勝った皇帝でも、子孫を断絶させたらそれだけで全ての功績は無に帰する。それくらい子孫繁栄は大事なのだ。これは帝国が繁栄し、多くの臣民がその繁栄を享受していればいる程大事になる。皇統の直系は今まで絶えた事が無い(私のように庶子がギリギリで継いだ事は何度かあったらしい)。もしもこれが傍系に皇統が移った場合、全能神と聖霊が果たして皇統の継続を認めてくれるのか、誰にも分からないのだ。


 全能神がもしも皇統の継続を承認せず、皇帝との契約が成されないと、帝国の国土に降り注ぐ全能神の加護は消えてしまう事になり、帝国の豊穣は約束されなくなってしまう。そうなれば帝国はその瞬間に事実上滅亡する事になる。この危険があるために皇統の継続は非常に重大視されるのである。


 それは当然私にも分かっていた。なので私とて早く子供が生まれないかと思っていた事は間違い無い。結婚して気ままな騎士暮らしをしていた頃には、別に子供などいらないと思っていたが、皇太子になってからは一刻も早く子が生まれるようにと全能神への祈りを欠かした事は無い。


 だが、こればかりは全能神と妊娠出産の神の思し召し。人の力ではどうにもならない。早く子供を作れと言われても、する事をちゃんとやっている以上、他にどうしようも無いのだ。しかしながら、それでは済まない。周囲が許してはくれない。帝国臣民にとって皇統の継続は他人事では無いのだ。周囲の期待と不安は私よりラルフシーヌに襲いかかった。皇太子の子作り能力を疑うより皇太子妃の子を産む能力を先に疑うのはある意味やむを得ない。


 ラルフシーヌは結婚当初から子供を産みたがっていた。何でも平民の間には子供が産め無い妻は離縁されても仕方がないという風習があるらしく、それは女性にとって不名誉な事であるらしかった。人一倍誇り高いラルフシーヌである。自分にそんな不名誉なレッテルが貼られる事には我慢が出来なかったのだろう。しかし、彼女のその誇り高さは彼女自身を追い詰めてしまう事になる。


 ラルフシーヌはそもそも皇太子妃として物凄く頑張っていた。あれほど貴族的な事を嫌っていた彼女が誰よりも貴族的でなければならない皇太子妃になって、立派に皇太子妃を務めているのである。私はそれを見ているだけでひたすら申し訳無い気分になるのだ。それなのに自分にはどうしようも無い不妊についても頑張って何とかしようとしてくれるのである。私が彼女の希望をなんでも叶えようとするのは当たり前である。抜け出して遊び歩くくらいで彼女の気が済むなら安いものだ。


 ラルフシーヌは身体能力も頭脳も判断力も優れているし、根性もあるし努力も惜しまない。ラルフシーヌは自信家だがそれだけの裏打ちがあるのである。ラルフシーヌは自分に自信がある故に、障害にぶち当たった時にけして逃げないで正面から乗り越えようとする。彼女は常にそうやって人生の色々な事を勝ちとって来たのだろう。だが、その性向は自分ではどうにもならない問題にぶち当たった時には自分の逃げ場を塞いでしまう事になる。ラルフシーヌはその自分に逃げを許さない性向ゆえに子供が産まれないのを何もかも自分のせいだと思い詰めてしまっていたのである。


 不妊が長引くと、彼女はしきりに私にこう言う様になった。


「私が産むから、浮気はしないでね」


 なかなか子供が出来ない私達を見かねて、彼女や私の周囲が、私に愛妾を娶る事を勧めてくるようになったのである。彼女はそれを浮気と見做し、私に浮気をしないでくれと訴えるようになったのだった。


 貴族的な考えでは、愛妾を娶る事は浮気とは言わない。だが、皇太子妃になってなお、ラルフシーヌはどうしても平民的な倫理観を引きずっている。一夫一妻それ以外は浮気とみなす平民的倫理観を持つ彼女にとっては愛妾など許せない存在なのだろう。


 本当は彼女にとって私が愛妾を娶る事はマイナスではない。彼女は貴族界に認められた皇太子妃である。これは家柄的にも最早覆らない。そして私にとってもラルフシーヌは唯一無二の愛妻なのだ。彼女の立場は絶対的であり、私に愛妾が出来ようが何だろうとその地位は揺るがないのである。


 この状態であれば私が子供を作るためだけに愛妾を娶ったとしても、ラルフシーヌの地位も立場も小動もしないだろう。もちろん念のため愛妾に娶るのはラルフシーヌより階位が低い者で、彼女の実家であり私の後ろ盾であるカリエンテ侯爵家に敵対しない家から娶る事になるだろう。カリエンテ侯爵家の分家の伯爵か子爵からが望ましい。皇帝陛下の愛妾であった私の母は皇妃陛下の実家の分家の出である。


 実際、カリエンテ侯爵やその弟のコルエンは私にカリエンテ侯爵家の分家の令嬢を何人か紹介してきた。特にラルフシーヌの持ち込み侍女であるアリエスをしきりに勧めてきた。どうやらこういった事態になった時に愛妾入りさせるための人材として最初から想定していた娘だったようだ。


 だが、彼らは兄とはいえラルフシーヌと付き合いが浅く、ラルフシーヌの事をよく知らない。ラルフシーヌにとって愛妾は浮気相手にしか見えない存在だ。もしもラルフシーヌがアリエスが私の愛妾候補だなんていう事実を知ったなら、アリエスの命が危ない。私は断り、逆にアリエスには意識して近付かないようにした。


 私に愛妾を娶らせる話が色々な所から聞こえ始めると、ラルフシーヌは物凄く不安がり、傷付いていた。皇妃陛下や彼女の姉からすれば、不妊に悩むラルフシーヌへの善意なのだが、ラルフシーヌにしてみれば、それは私への浮気の勧めであり、彼女に対して子供が産めないという烙印を押す行為であった。


 ラルフシーヌは私の浮気を物凄く警戒し始めた。いくら私がそんなつもりはないと言っても、周囲が私やラルフシーヌに愛妾の事を持ち掛け続けている現状では説得力が無い。彼女は私が未婚の女性に近付くのを嫌がり始め、一番酷い時には私が侍女に世話される事にすら拒否反応を示したのである。私はラルフシーヌのしたいようにさせ、出来るだけ社交の場でも令嬢とは話さないようにした。


 私はラルフシーヌが不憫でならなかった。子供が産まれない事など彼女の価値を何一つ損なう事ではない。そんな事でラルフシーヌが傷付き悩む必要など無いのだ。私が皇太子になどならなければラルフシーヌがこんな苦労をすることは無かったのに、と思うと、皇太子の地位さえ疎ましく思えた。


 私は考えあぐねた挙げ句、ラルフシーヌに提案してみた。


「ラル。養子を取ろうか」


「養子?」


「エベルツハイ公爵家、つまり君の長姉の子供を養子にして暫定的な猶子にしよう。そうすれば取りあえず後継ぎが出来る。もちろん、君と私の子供が出来たらそちらを優先して後継ぎにすると約束の上で」


 色々問題だらけの計画だが、こうすればラルフシーヌに子供を産むようにという圧力が掛かる事が無くなるし、私が愛妾を娶らずに済む。後継ぎさえ決まっていれば、私達の子供はゆっくり考えれば良いのだ。


 しかしラルフシーヌは私を睨み付けた。


「あなたも、私には子供が産めないと言うの?」


「いや、違うよ。別に急いで産む必要は無いというだけで」


「同じ事じゃない!」


 ラルフシーヌは叫ぶと、悔しそうに俯いた。目が赤くなりつつある。そして同時に、目が潤んでもいた。


「ラル・・・」


 私は思わず立ち上がり、ラルフシーヌの前に跪いた。彼女の手を取る。ラルフシーヌはポタポタと涙を落としていた。


「急がなくても、いくらでも方法はあるんだということを言いたかったんだ。君を侮辱する意図は無かった。すまない」


 私はきつく握りしめられたラルフシーヌの手を取った。


「別に私の子供を産む必要なんて無いんだ。皇統なんかよりも君の方が大事なんだから」


 しかし、ラルフシーヌは首を横に振った。


「皇統なんて、関係無い」


 私に向けられた視線は甚大な決意を秘めていた。


「私があなたの子供を産みたいの。ミア」


 私は呼吸が一瞬止まるほどの衝撃を受けた。頬が熱くなり、自然と口角が上がって笑顔になってしまう。なんというか、私はこの瞬間まで、ラルフシーヌは世間体や見栄、意地の為に子供を産もうとしているのだと思い込んでいたのだった。それがラルフシーヌは、純粋に私の子が産みたいのだと言ってくれたのだ。


 私は、この時まで、実はラルフシーヌに愛されている自信が持てないでいた。何しろ迎えに行った時に怒られたように、私は彼女に直接求婚するのではなく、カリエンテ侯爵家に強くアピールする事で彼女を娶ったのだ。恋愛結婚ではない。そして彼女を振り向かせるために口から出まかせに近い約束をした挙句、何もかもその約束が守れないという醜態を演じてもいる。挙句の果てに結婚してまで自分の素性を隠していた上に、彼女の同意無く彼女に皇太子妃の座を押し付けてしまった。


 正直に言って、ラルフシーヌが内心私に対して怒りを覚えている、もしくは呆れ果てている可能性もあるだろうと思っていた。そこへ来てこの問題だ。私は内心、ラルフシーヌがいつか「もう耐えられない!離縁しましょう!」と叫ぶのではないかと怯えてさえいたのだ。だから彼女に我慢させないよう、怒らせないようにと、彼女の願いはなんだって叶えてあげようとした。


 しかし、彼女は私の子が欲しいのだと、純粋に子が欲しいのだと言ってくれた。それを聞いて私は初めて、彼女が私の事を愛してくれているという実感を得られたのである。


 私はラルフシーヌを抱きしめた。


「大丈夫。きっと子は出来るよ。きっともうすぐ」


「・・・うん・・・」


 ラルフシーヌは私の肩に顔を埋めた。


 ラルフシーヌの懐妊が発覚したのはそれから程なくしての事だった。



 懐妊が発覚してラルフシーヌが喜んだのは言うまでもない。その喜び様は彼女の周りの温度が上がったかのように錯覚するほどだった。社交用の笑顔以上の幸せそうな微笑みを浮かべるラルフシーヌを見て察した貴族婦人が触れ回ったせいで、あっという間に懐妊の噂が貴族界に広まったほどである。


 ただ、すぐにラルフシーヌは悪阻に苦しみ始めた。全身が怠いし眠いと言って、朝に起きられなくなってしまい、社交ギリギリまで寝ているようになった。起きてからも調子が悪いようだ。いつも元気なラルフシーヌが調子が悪くて起きられないなど信じられない。悪阻になった女性を初めて見た私は狼狽えて、エーレウラに諭された。


「落ち着かれませ、妃殿下の悪阻はこれで軽い方ですよ」


「これで軽いのか?」


「ひどい方になると、立ち上がるだけでも吐いてしまうくらいですよ」


 私は迂闊にもこの時に初めて、妊娠出産が女性にとって大変で危険なものだという事を思い出したのだった。出産に失敗して亡くなる女性は少なく無い。私は毎日礼拝堂で全能神と妊娠出産の神に祈りを捧げて魔力を奉納し、ラルフシーヌとお腹の子の無事を願った。


 ラルフシーヌの悪阻は次第に酷くなり、一時は社交に出る事も出来ずに離宮で寝たきりになった程だった。ラルフシーヌ自身も自分の体が思うように動かない事が信じられないらしく、不安を漏らしていた。私は彼女を慰めながらも、自分も不安だった。私達にとって子供が出来るというのは何もかも未知の出来事だったのだ。


 しかしお腹の子が安定するとラルフシーヌは悪阻も大分治まり、離宮の中でだけは社交に復帰していた。彼女の姉たちは既に全員経産婦で、しかも複数の子を安産で産んでいた。そのため色々なアドバイスをしてくれたそうだ。末姉のラフチュ伯爵夫人は特にラルフシーヌを心配してくれて、毎日のように顔を出して事細かにラルフシーヌに気を使い、ラルフシーヌに負担が掛からないようにとすぐに帰って行った。


 離宮の侍女たちはラルフシーヌの懐妊が発覚してから目の色を変えてラルフシーヌを支えてくれていた。離宮侍女長のエーレウラは普段から冷静沈着な侍女だが、懐妊期間中は少し血走ったような目をしていたものである。その姿はどんな隙も見逃すまいとする、戦っている最中の騎士を思わせた。他の侍女もピリピリとした雰囲気をしてラルフシーヌを必死に支え、守ってくれた。


 懐妊期間中、ラルフシーヌは「どうしても男の子を産みたい」とまた自分に重圧を掛けていた。私はそんな事を気にする必要はないと言ったのだが、こればかりはラルフシーヌの心の持ちようだったからどうしようもない。どうせ今更子供が入れ替わる訳では無いのだから好きにさせるしか無いだろう。


 皇帝陛下、皇妃陛下はラルフシーヌが懐妊したことに大いに喜んだが、同時にラルフシーヌの事を非常に心配もした。実はお二人にとって息子の妻が妊娠した経験はこれが二度目である。一度目は兄上、前皇太子殿下の妃が懐妊したのだが、出産時の事故で妃も子供も命を落としている。ちなみに亡くなった子は女の子だったそうだ。両陛下にとって嫁の懐妊は良いニュースだと無邪気に喜べない事だったのである。


 しかし、両陛下にとって私達、特に密かに心配されていた私が子を作る能力を持っている事が証明されたことは何よりも朗報だった。私に子を成す能力が無いとなればその瞬間皇統の断絶が決まるのだからこれはやむを得ない。


 皇妃陛下は暗に、今回の子がどうあれ、愛妾を何人か娶って子作りに励むべきではないかと仰った。皇統の先細りを考えたら無理からぬ考え方だが、ラルフシーヌが妊娠で苦労している今考える事ではない。私は皇妃様にはっきりと断り、ラルフシーヌには今後愛妾の話はしないように再度強めにお願いした。


 皇帝陛下は、私の母は愛妾なのだからと愛妾を娶る事自体は否定なさらなかったが、ご自分が娶られたご愛妾が母を含めて三人全員早世してしまった事が心の傷になっておられるらしく、早急に愛妾を増やせとは仰らなかった。


 皇帝陛下は皇妃陛下を愛されていて、本来は愛妾を娶る気は無かったと仰った。母のことは愛したから愛妾になさったのだが、後の二人のご愛妾は私が生まれてかえってもっと子供を作れという要求が各方面から出たために、気乗りがせずに仕方無く娶った愛妾だったそうで、本気で愛してやる事も出来なかったのに離宮に籠の鳥にした挙句若くして死なせてしまったと深く後悔なさっておられた。なので私が無理に愛妾を娶る事には反対だと仰った。


 私も初めて聞いたお話だったが、皇妃陛下も初めて聞いた皇帝陛下のお考えだったそうで、皇妃陛下は目を潤ませて皇帝陛下と私に謝罪なさっていた。


 やがてラルフシーヌの出産が間近に迫り、離宮の空気はいよいよ緊迫した。だが、ラルフシーヌは大きなお腹を抱えながらも「歩いた方が安産になるらしい」と庭園をひょいひょい歩き回っていた。周囲の侍女にしてみれば気が気ではないようで、戦場で皇帝陛下の護衛をする近衛騎士のような顔でラルフシーヌの身体を支えていた。


 お腹の子は暴れるようで、ラルフシーヌは「これは男に違いない」と言ってエーレウラに冷静に否定されていた。私はお腹でおとなしいので女だと思っていたと母に聞いた事があるので、確かにそんな事で男女は分かるまい。この期に及んでは、私は子供など産まれれば何でも良いという気分だった。とにかく無事に。ラルフシーヌが無事ならば子供などなんでも良い。


 その日、私は普通に執務をしていて、特に変わった事は無かった。お昼の奉納を終え、執務に戻ってしばらく書類仕事に没頭していると、離宮から侍従が使者として慌てた様子でやってきたのだ。


「妃殿下に全能神が手を触れて下さったようです」


 これは遠回しにラルフシーヌが産気付いたと言っているのだ。流石に毎日ラルフシーヌの事を見ているので、明らかにそろそろだとは分かっていたからそれ程驚かなかった。しかし、そのまま何食わぬ顔で執務を続けられるほど冷静でもいられない。


 私は執務を切り上げ、先程奉納をしたばかりの礼拝堂に行った。するとそこには既に皇帝陛下と皇妃陛下がご一緒にいらっしゃっていた。私は驚いた。


「どうなさったのですか?」


 皇帝陛下は苦笑しておっしゃった。


「其方と同じだ。何も手助けしてやることは出来ぬが、祈るくらいはな」


「そうですよ。皆でラルフシーヌの安産を祈りましょう」


 私は嬉しかった。両陛下が私達の子供とラルフシーヌの無事を願って下さっている事が。私は頷き、皇帝陛下の後ろに跪こうとした。


「其方が前に立て。其方の妻と子の安全を願うのだから」


 少し恐縮するが、確かに願うのは私の妻と子の事だ。私が主になるべきだろう。私が祭壇の正面に立ち、両陛下が私の後ろに跪いた。


 私は両手を広げ、軽く上を向いて目を閉じた。


「天に坐す全能神。そしてその愛し子たる妊娠出産の神よ。我が願いを聞き届けたまえ。願いを叶えたまえ。我が捧ぐは祈りと命。出産に臨む我が妻とこの世に生まれ出る我が子の無事を我は願う。皇統の継承と帝国の永久なる繁栄のため、我の願いを叶えたまえ」


 魔力を奉納しつつ祈れば、天から光の粉が降ってくる。祈りが届いた証拠だ。後はラルフシーヌの頑張りに任せるしかない。


 だが、出産というのは私の想像を上回って過酷なものであるようだった。私はすぐに離宮に帰るつもりだったのだが、皇妃陛下が「まだまだ生まれませんし、男が出来ることは何もありませんよ」というので執務に戻り、執務を済ませてから急いで離宮に戻った。


 皇妃陛下の言う通りで、エーレウラの話によれば、生まれるのはおそらく夜半を過ぎるだろうとの事だった。昼くらいから始まって夜半過ぎとは。しかも、私の部屋まで薄らとだがラルフシーヌの唸るような声が聞こえて来るのだ。あのラルフシーヌが苦痛の声を上げるのだから余程の痛さなのだろう。


 後でラルフシーヌ自身に聞いたのだが、とても声を出さずに耐えられるものでは無かったのだという。例えて言うならどれくらいかと聞くと「レッドベアーの頭突きをお腹に喰らった時の十倍くらい」というよく分からない返事が返ってきた。レッドベアーの頭突きを喰らったことがあるのか。


 男に出来ることは何も無いというのも本当で、私は自分の部屋にいるしかない。既に出産に入ってるラルフシーヌの顔を見る事すら許されない。彼女の寝室の前にいる事も邪魔なので出来ない。本当に夫は待っているだけなのである。


 さりとて一人だけ食事をして風呂に入って寝る、という気分にもなれない。一人無力さにイライラしながら自室で立ったり座ったりしながら待つしかない。侍従長のハボックが苦笑していたが。こればかりは自分でもどうしようも無かった。ラルフシーヌが心配でたまらず、子供など作らねば良かったなどと埒もない事を考えたりする。結局、気を紛らわすために仕事を始める有様だった。難しい案件に没頭していれば幾分気が紛れたのだ。


 そうしている内、本当に夜半過ぎ。余りに時間が掛かるため、流石に心配がピークを超えた私がエーレウラに進捗を聞こうとラルフシーヌの部屋の前に来た時だった。


 ラルフシーヌの悲鳴と同時に「おぎゃあぁぁぁ!」という産声が聞こえたのだった。私は余りの大きな鳴き声にビックリし、呆然と立ち尽くした。部屋の中から女性の叫び声が聞こえてきた。


「ご誕生です!皇子ご誕生!」


「おめでとうございます!皇子です皇子様ご誕生です!帝国万歳!」


 私の周囲にいた侍従や侍女達が歓喜の声を上げた。


「おめでとうございます!殿下!」


「帝国万歳!」


 産まれた、のか。私はちょっとまだ信じられない気分でいた。しかし、すぐに出てきたエーレウラから皇子の誕生とラルフシーヌの無事を伝えられた。


「ラルフシーヌに会えないのか?」


「妃殿下はお疲れですから、すぐにお休み頂きます。起きてからにして下さい」


「分かった」


 その代わり、しばらく待っていると、エステシアに抱かれて驚くほど小さな赤ん坊が部屋がら出てきた。こ、これが私とラルフシーヌの子供か?何しろ大柄な私の子とは思えないほど小さい。と、思ったのだが、別に小さくは無く普通なのだという。


 すぐに乳母に預けるとの事で少しの間だけ子供を見た。私によく似た髪色で、整った顔立ちはラルフシーヌに似ていると思えた。そこでようやく、私は我が子に対する愛情と慈しみを覚えた。それまではどちらかと言うとラルフシーヌが心配で、子供はおよそどうでもいい気分だったのだ。


 この小さな存在が、私の子として、私の次の皇太子、いずれば皇帝として、帝国を背負って行くのだ。そう思うと私はこの息子に申し訳ない様な気分になった。そして同時に、息子に背負わせるのであれば、私が皇帝の重圧から逃げることは許され無い、とも思ったのである。


 困難から逃げる事がないラルフシーヌの子であるこの子なら、きっと帝国をしっかりと治める立派な皇帝になる事だろう。私はその子に恥じ無い皇帝に、自分がならなければならない。それが親の責務だろう。


 翌朝、ようやく私はラルフシーヌに会うことが許された。ラルフシーヌは疲れてはいたが元気そうで、そして物凄く幸せそうだった。私はようやく自分も喜びと幸せを覚えた。残念だったのは子供が既に子供部屋に入ってしまい、乳母の手に委ねられていた事だった。二人で子供を愛でながら話が出来ればもっと幸せな気分になれただろうに。


「それで、ミア。子供の名前は考えてあるの?」


 ラルフシーヌが期待に目を輝かせて言った。・・・一応、考えてはいた。皇族は生誕して一カ月後に全能神への誕生の報告と命名の儀があるので、その時までに考えれば良いかと思っていたのだが、その事を言ったらラルフシーヌに「一カ月も名無しじゃ可哀想じゃない!」と怒られたのだ。それで考えてみたのだが、いまいち良い名前が思い浮かばず大変だった。男だか女だかも分からないので余計だった。


 ただ、昨晩に赤ん坊を見た後に、幾つか考えていた名前の中で一つあの子の感じに重なるものがあった。カリエンテ侯爵領について調べた時に、当地の鳥の一種類を古い言葉でこう呼ぶのだ。


「カルシェリーネはどうかな」


 ラルフシーヌは目を丸くして、そしてクスクスと笑った。


「あの鳥は羽が赤茶だからって事?」


 やっぱりラルフシーヌはその名前を知っていたらしい。


「ダメかな」


「良いんじゃない?カルシェリーネ。悪くないわ。懐かしい故郷の言葉だし。そうね。愛称はリーネでどうかしら」


「ちょっと女の子みたいじゃないか?」


「それが良いんじゃない」


 ラルフシーヌは笑い、何度もカルシェリーネ、リーネと繰り返しては笑っていた。


 命名、カルシェリーネ。その名の元になった鳥は大型の猛禽類で、頭は白く翼は輝く赤茶色だ。別名をハクトウオオワシ。あるいは「皇帝鳥」と呼ばれる事もある鳥である。


 


 


 

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