三十話 熊狩りの裏事情 セルミアーネ視点
皇太子の業務は多岐にわたるが、特に軍事に関わる事は基本的には(軍隊の大動員など重大な決定以外は)皇太子府の管轄である。
これは帝国の伝統のようなもので、有事には皇太子が軍を率いるのが基本という事になっているためだ。だが、もちろんだが人間には向き不向きがあり、皇子など本来なら深窓のお坊ちゃまであるため、軍を率いるなど出来ないとして代理で将軍が送られる例も歴史上大変多かったようである。現皇帝陛下は騎士としても将軍としても超一流で、その子供達も早世した一人を除き全員優れた騎士になったが、これは歴代としては例外の部類である。
帝国における軍は中核に貴族出身者で構成される騎士団があり、これが大体平時五百人。有事には貴族として階級を上げたものや引退したものを集めて二千人。平民から徴募した兵士が平時三万人。有事には増員されて今までの例で最大二十万人である。その他にも帝都を含む有力都市を守る警備兵や国境を監視する部隊もいて、その他にも貴族が各領地で抱えている私兵もいて(これは有事には帝国軍に加わる事になる)、それらの予算やら人員の配置、訓練の項目などの認可、承認、決裁が皇帝府に任される。軍というのは巨大組織であり、しかも生産性が無い。壮大な金食い虫であり、しかも放置すると肥大化する傾向がある。しかし弱体化しても困る困った組織なのである。それを適切に管理するのは皇太子府における重要な職務だった。
因みに騎士についてもう少し解説すると、騎士というのは階級であると同時に貴族の血、つまり初代皇帝の血を少しでも引く者の戦士という意味がある。騎士団所属の条件は貴族の家に生まれ、騎士以上の身分、つまり貴族として成人する事で、例えば侯爵家に生まれて侯爵令息として成人しても騎士団に所属する事は出来る。
逆に平民で貴族の血を引く者の中で武芸に優れ高い魔力を持つと認められれば、貴族を代理親として騎士として成人し、騎士になる事も出来る。武芸に優れた平民の兵士の憧れらしく、いつかは騎士になると頑張っている平民の兵士もいるらしいが、残念だが魔力が無く成人済みの兵士は騎士には絶対になれない。手柄を上げて出世した者は男爵に叙せられる。
どうして魔力が無いと騎士になれないのかというと、魔力がある者は身体能力が高くなるし、鍛える事で魔力を高めて更に身体能力を強化する事で、平民では及びも付かない戦力になるからである。高い魔力を持っていると人間離れした運動能力を持つようになる場合もあり、ラルフシーヌの猿のような運動能力は大体魔力のお陰である。
魔力を鍛えた騎士たちは帝国軍の正に中核であり、数々の戦いで帝国を勝利に導いた英雄の集団であり、その騎士たちの忠誠を掴むことは皇帝にとって絶対に必要な事であった。そのため、皇太子は必ず騎士団に所属し、戦えなくても騎士たちと親しく交流し、将来皇帝になった時のために彼らの忠誠を得ておく事が絶対に必要とされていた。実際、騎士団と折り合いが悪くなって騎士たちの忠誠を得ることが出来ず、皇帝になれなかった皇太子もいるらしい。
幸い私は何しろ元々が騎士であったし、騎士団長は結婚の時に骨を折ってくれた恩人でもあるし、共に戦った騎士仲間とは皇太子になってからも関係は良好であった。その意味では戦えない皇太子よりも楽だったと言える。それでも私は騎士団の忠誠を繋ぎ止める努力は怠らなかった。時間があれば騎士団の訓練に参加して、昼食を騎士団の訓練所で騎士たちと騒ぎながら摂る事もあった。まぁ、息抜きを兼ねていたのも確かである。
ある日、報告があった。帝都の東側に広がる森にキンググリズリーが出たという報告である。
私がその報告を聞いて最初に思い出したのは、我が妻ラルフシーヌだった。キンググリズリーは狩人だったラルフシーヌが対決を熱望して、結局出会え無かった大熊である。
キンググリズリーはその森に生息してはいるが、どうやら奥地に生息しているらしく、帝都近郊には滅多に降りてこないらしい。そのため、毎日森に通っても出会う事が出来ず、ラルフシーヌは「奥地まで泊まりがけで狩りに行きたい」と騒いで私を困らせた。結婚の時にキンググリズリーを狩るために協力すると誓った事を持ち出して大分ゴネたが、流石に最愛の妻にそんな危険な事はさせられず、最終的に取っ組み合いの喧嘩になったが何とか説得して諦めさせた。
なので、今回出たキンググリズリーの事を知ったらラルフシーヌは多分何が何でも狩りに行きたいと叫ぶだろうな、と思った。まさか皇太子妃にそんな事はさせられない。だが、ラルフシーヌの事だ。抜け出してでも何とか狩りに行こうとするだろう。私は「極秘」と頭の中でこの情報に印を押し、騎士団に討伐を命じた。
騎士十人が討伐に向かい、私はこの問題は終わった物だと思っていた。大きいとはいえ、たかが熊である、騎士が負ける筈が無い。
ところが、この討伐隊が逃げ帰って来たのである。私は驚いた。重傷者までいるというではないか。駆け付けた私に討伐隊の指揮官だった騎士は言った。
「見た事も無い大きさでした。正に山のようで、油断はしていませんでしたが、あの強さは想定外でした」
どうやらただのキンググリズリーではなさそうだった。私は嫌な予感がした。父が「其方たちの魔力が多くて、ちょっと奉納をやり過ぎたかも知れない」と言っていたのだ。魔力の奉納で土地の生命力が満ち溢れすぎると、その地力を吸い取って害獣が巨大化する事がある。これを「神獣化」と呼ぶ。ただの蛇が神獣化して体調5mに達して人を喰った事があるという。
もしかしてただでさえ巨大なキンググリズリーが神獣化したのだとすれば、それは容易ならざる事態だと言えた。私は日常報告のために皇帝陛下の所に行った時、この事について相談してみた。
「やはり神獣が出てしまったか・・・。このところは大部抑えたのだがな」
皇帝陛下はうーん、と眉間を指で押さえた。この魔力の奉納の加減は難しいものらしく、少なければ収穫量が下がるため、出来るだけ多く奉納したいのだが、やり過ぎると神獣が出てしまう。手に負える神獣なら良いが、竜だの火の鳥だのという大神獣が出ると、これはもう明らかに自然災害であるので、過ぎ去るのを待つしか無いという事になってしまう。
今回のキンググリズリーの場合はどうか。騎士十人が撃退された事から考えても凄まじい神獣である事は間違い無いので、出来れば放置して消滅(神獣は吸収してしまった地力を使い果たせば元の獣に戻るか消滅する)を待ちたいところであるが、出現した場所が悪い。帝都近郊の森は平民が出入りするし、帝都城壁の東門にも近い。街道も近くを通っているし、近郊には町や村もある。放置すると人的被害が出かねない。なのでこれは何としても討伐しなければならない。
「其方が騎士団を率いて討伐すればどうか?」
皇帝陛下が意外な事を言った。
「私がですか?」
「そうだ。其方はまだ軍を率いて指揮した事はあるまい。演習と考えれば程よい獲物では無いか?」
程よいかどうかは戦って見なければ分からないが、私が騎士団を率いて戦う練習にうってつけなのは確かだ。総勢で百人程度の部隊を率いれば皇太子の初陣としての規模としても悪くない。相手が帝都を脅かす神獣だというのも印象としては良かろう。
私は了承しようとして、うっと詰まった。
「どうした?」
「・・・いえ、その、ラルフシーヌにどう言い訳をしようかと・・・」
私が言うと周囲の者は怪訝な顔をしたが、皇帝陛下だけは「ああ」と頷いた。
「其方の妃は以前、熊狩りに情熱を傾けているような事を言っていたな」
「そうなのです。キンググリズリーを狩りたがっていました。それなのに私が黙って狩りに行った事を後から知ったら・・・」
「そうだな。其方が討伐したことは皇太子の初陣として喧伝される事になるからな」
私と皇帝陛下は少し考え込んだ。
「・・・連れて行っても構いませんか?」
「妃をか?」
流石に皇帝陛下が驚いた。確かに皇太子妃が害獣討伐に出るなど前代未聞ではある。だが、後で私が内緒でキンググリズリーを討伐した事を聞いたら間違い無くラルフシーヌは怒る。多分物凄く怒る。ただでさえ慣れない皇太子妃生活でストレスを溜め込んでいるのだ。それごと爆発したらとんでもない事になる。離宮が崩壊しかねない。
皇帝陛下は考え込まれていたが、元々ラルフシーヌが普通の皇太子妃では無いと知っているし、私がそんな事を言い出すという事は何か事情があると察して下さったのだろう。「良かろう」と許可を下さった。
問題は皇妃陛下だった。ラルフシーヌは皇太子妃として業務上皇妃陛下の管轄にあるとも言えるため、私は一応皇妃陛下にも話を持っていった。その日は社交を休むことになるからだ。
話を聞いた皇妃陛下は驚き、そして難色を示された。
「何を考えているのですか!」
皇妃陛下は眉を顰めて私に仰った。
「熊を狩るなど皇太子妃の役目ではありません。そんな危険な事をさせて、もしものことがあったらどうするのです」
「ラルフシーヌは一流の狩人ですし、私以下騎士が付いています。大丈夫ですよ」
私が言うと、皇妃陛下はため息を吐いて私に言った。
「其方は分かっているのですか?」
「何でしょう」
「あなたの立場の微妙さをです」
皇妃陛下が説明するには、私が皇太子になる為には幾つかの条件を満たす必要があったのだという。一つはもちろん皇帝陛下と皇妃陛下の支持。もう一つはラルフシーヌの実家であるカリエンテ侯爵家の後援、最後の一つは傍系皇族である公爵家の支持であるという。
この内、皇帝陛下と皇妃陛下の支持は揺るぐ事は無い。カリエンテ侯爵家の支持もラルフシーヌが皇太子妃である限り問題無い。そして公爵家の支持もラルフシーヌの姉であるエベルツハイ公爵夫人がいて、エベルツハイ公爵家からの支持さえあれば問題無いのだそうだ。要は両家が一致して私以外の皇帝候補を推す事態にならなければ良いのだから。
「何か気が付きませんか?」
「?」
「あなたを皇太子足らしめている要素はほとんどがラルフシーヌに拠っているのですよ」
言われてみればその通りで、カリエンテ侯爵家の支持もエベルツハイ公爵家の支持もラルフシーヌの存在があればこそだ。皇帝陛下と皇妃陛下はもしもラルフシーヌが私の妃で無かった場合は、私を皇太子にするためにかなりのゴリ押しを強いられる事になっただろうと言う。
「ラルフシーヌにもしものことがあれば途端にこの前提が覆ります。それくらい大事な妃なのですよ。それを命の危険を晒すような場所に連れて行くなど正気とは思えません」
仰る事は分かる。大事な妃なのだからなるべく危険から遠ざけるべきだ。本当にその通りだ。だがしかし、それはラルフシーヌが普通の貴族令嬢だったならだ。ラルフシーヌを大事にしまっておいたら、内側から蹴破って逃げ出してしまうだろう。
「陛下。もしもラルフシーヌが私が彼女に内緒でキンググリズリー討伐に出た事を後で知ったらどうなると思いますか?」
「・・・どうなるのです?」
「多分怒り狂って離宮を抜け出して、代わりの熊を狩るまで帰って来ないと思います」
皇妃陛下は呆れたような顔をして絶句した。貴族婦人の常識では理解出来ないことだろう。私は皇妃陛下に、ラルフシーヌと結婚した時に「キンググリズリーを狩るのに協力する」と約束した事も語った。おそらく、その約束を実現出来る最後の機会になるだろうとも。
「もちろん、ラルフシーヌの身の安全には十分配慮いたします。我が離宮の平和を守るために、どうか・・・」
結局皇妃陛下は渋々許可を下さったのだった。
私は騎士団本部に向かい、騎士三十人と従卒や輜重部隊含め百人ほどの部隊を編成させた。板金鎧は着たままでは森に入れないので、箱に入れた状態で従卒に担がせる事にする。普通なら革鎧で十分なのだが、前回の様子を見るにつけ、完全武装で臨んだ方が良かろうと思ったのである。
仕掛け弓や長槍、盾の準備もさせると、私は騎士団長を呼び、ラルフシーヌを連れて行く事を告げた。騎士団長は渋った。
「妻を連れて出陣する皇太子などいませんぞ。殿下」
「いや、彼女は十分に戦力になる」
「騎士が三十人いれば戦力としては十分でございます。妃殿下の出番が無かった場合、皇太子殿下は『物見雄山気分で妻を連れて行った』と誤解されかねません」
難しいところだ。ただ、ラルフシーヌを連れて行った場合、絶対にただ守られているだけでは済まないので。その心配は無いと思うが。
私はラルフシーヌは熊狩りに慣れているし、帝都の森もよく知っているので、妻としてではなく狩人として連れて行くのだと騎士団長を何とか説得した。彼もラルフシーヌが帝都で狩りをしていて、私と協力してレッドベアーを討伐した事も知っている。最終的には渋々認めてくれた。
事の次第を話すとラルフシーヌは大喜びだった。私と話しているだけで興奮から目が赤く光り始めた程だ。元の私達の家から届けさせた狩りの道具を点検し、自分で刃物まで研ぎ始めた。
その様子を見て諦めたような口調で離宮の侍女長のエーレウラが私に言った。
「妃殿下に狩人装束を着せるわけには参りません。出陣の儀式の時に纏う鎧下の衣服と、スカートを組み合わせ、マントと帽子を着て行って頂きます」
確かに脚の曲線丸出しのスパッツを履いて皇太子妃が人前に出られても困る。狩人装束は上着もピッタリしているし。
「殿下、くれぐれも妃殿下をお怪我などさせませんように。顔に擦り傷など作られたら社交の予定が狂います」
なるほど。だがそれはちょっと約束出来ない。ラルフシーヌが念願の獲物を前にどんな暴走を見せるのか、私にも全く予想が出来ないからだ。
翌日、ベージュのチェニックと焦げ茶色のスカート、その下に紺のズボンという格好をしたラルフシーヌはやる気満々だった。これは自重を呼び掛けても無駄だろう。どうせなら好き放題にやってもらって思う存分楽しんでもらった方が良いな。私は判断した。彼女の運動能力なら万が一はあるまい。
青いマントと鍔広の白い帽子を被ったラルフシーヌが騎士団が集合した訓練所に現れると、流石に騎士達から動揺の声が漏れた。彼女が誰かは騎士ならば流石に一目で分かる。騎士団長の顔が一段と渋くなった。だが私は一言の説明もせず、ラルフシーヌに馬を貸す事だけを命じた。ラルフシーヌは助けも借りずに馬にひらりと飛び乗って破顔した。ああ、カリエンテ侯爵領から旅をして帰って来た時を思い出す姿だし、彼女もそう思ったのだろう。実に楽しそうだった。
一人の騎士が私に近付いて来て、私に言った。
「殿下。妃殿下の警備はいかが致しましょう?」
私は何食わぬ顔で言った。
「見なかった事にするように」
「は?」
私は笑顔を向けながら言う。
「皇太子妃が馬に乗って熊退治に行くなんて事があるわけが無い。そうだろう?」
その騎士は目を白黒していた。
出発し、森に入るとラルフシーヌは見るからにワクワクしていて、器用に馬を駆って山道を登って行く。騎士達はだんだん疑念を抱いたような顔になってきた。そして、本陣予定地に到着して、マントと帽子を脱いだラルフシーヌが木にスルスルと登って消えてしまうと、騎士達は何かを悟ったようだった。
「・・・えー、殿下。もしかしてあれは妃殿下に良く似た女狩人なのではないでしょうか」
「それで良いんじゃ無いか?」
どうやら騎士達の間ではそうなったようだった。
やがてラルフシーヌが泡を喰って戻ってきた。どうやら遭遇したキンググリズリーが想定外の大きさだったようだった。大興奮しながらその大きさ強さを身振り手振り付きで語るその姿はすっかり平民の仕草に戻っている。しかしそれにしても・・・。
「体長7mだと・・・?」
あり得ない程の大きさだ。完全に神獣化している。通常の熊への対処法では勝てまい。私は騎士全員に板金鎧への換装を指示した。そしてラルフシーヌの提案に従って平民の兵士に仕掛け弓を預け、側面から射かけての足止めを指示する。
そして騎士には方陣を組ませて三隊に分けた。通常、狭い森の中で熊を相手にする時に組む陣形ではない。幸い、キンググリズリーが暴れた為に出来ていたスペースならこの陣形が使えそうだった。
やがて、ラルフシーヌに誘導されたキンググリズリーが物凄い吠え声と木々を粉砕する音を立てながら現れた。・・・なんだあれは。まるで山が動いているようだ。前回の軽装の騎士達が破れたのも宜なるかな。私は騎士達に方陣を固く維持する事を指示した。
我々を認めたキンググリズリーが青みがかった灰色の毛を逆立てて一気に殺到してくる。地響きが沸き起こり、勝手に息が速くなり、槍を握る手に汗が噴き出てくる。我々にキンググリズリーが飛びかかろうとしたその直前、兵士たちの放った仕掛け弓がキンググリズリーの鼻先を襲った。今だ!
「攻撃!」
私の号令と同時に騎士達十人が足並みを揃えて突撃し、熊に槍を突き立てた。固い毛皮を突き抜いて熊から血が噴き出す。
「戻って備え!」
号令で槍を引き、陣形を組み直す。キンググリズリーが巨大な前脚を振り上げるのが見えた。
「備えろ!」
私は自分も盾を掲げ脚を踏ん張る。騎士全員が同じ体勢をとり身を低くする。衝撃音がして同時に虹色の輝きが騎士達を包んだ。
騎士は方陣を組むとお互いの魔力が結合して増幅する。そのため一人よりも高い防御力、攻撃能力が発揮出来るのだ。特に騎士の板金鎧は魔力を通し易くなっており、魔力が通ると物理的強度も上がるようになっている。
その強度は大木をも吹き飛ばすキンググリズリーの一撃にも耐えた。その隙に他の方陣が突撃して熊に攻撃する。熊は攻撃が基本的には単調だ。一隊に集中してしまうと他には目がいかない。その為、一隊が受けている隙に他の隊は体勢を整えて攻撃準備が出来る。
数回攻撃すればキンググリズリーは全身から血を流す壮絶な姿になっていた。
と、そこでキンググリズリーが後脚で立ち上がった。両前脚を掲げ正面にいた私の隊に叩きつけようとする。何しろ以前住んでいた屋敷よりも背が高いのである。物凄い威圧感に騎士達は思わず息を呑んだ。
しかしそこで熊が悲鳴を上げる。後を見るような仕草をした。見るとキンググリズリーの足元に白い影が走っている。ラルフシーヌは手斧を熊の踵に叩き付けていた、何をしているのか、と思う間も無く目的を達成した彼女はあっという間に消えてしまった。
「殿下!」
はっと気がつくと、キンググリズリーが完全にバランスを失って前のめりに倒れてくるところだった。
「退避!」
私は叫んで騎士達が方陣をバラして慌てて身を避けた。そこへキンググリズリーの巨体が倒れ込む。ああ、そうか。後脚の腱を切ったんだな、と分かった。熊は起き上がれなくてもがいている。好機だ。
「今だ!掛かれ!」
私の号令に応えて騎士達が槍を熊の巨体に突き刺す。熊は咆哮を上げ、身体を横にして前脚を振り回した。何人かが前足に跳ね飛ばされるが力が入っていないそんな攻撃では騎士は倒せない。逆に腹を見せたキンググリズリーに容赦なく攻撃が殺到する。
しかし流石の生命力だ。騎士も必死で攻撃するのだがなかなか急所には攻撃が入らない。多少のリスクを負ってでも懐に飛び込むしか無いか?と思っていたその時、木の上にラルフシーヌの姿が見えた。彼女は自前の弓をピタッと構えた。
一筋の美しい軌跡を描いて矢は飛び、熊の目に突き立った。キンググリズリーは悲鳴を上げ両前足で顔を隠した。正面がガラ空きだ。私は反射的に足が動いた。既に血で滑り始めている槍を抱え直すと、気合の声を上げて熊の懐に飛び込み、心臓の位置に渾身の力を込めて突き立てた。
キンググリズリーは断末魔の咆哮を上げ、体を震わせその毛を一瞬青く光らせると、挙げていた前脚を地に落とした。
「やったぞ!」
喜びの歓声が上がり、騎士達が槍を天に突き上げる。ラルフシーヌが身軽に木から飛び降りてきて、私の首に飛びついた。
「凄い凄い!やったやった!」
「君が隙を作ってくれたからね。ありがとう」
私は彼女の体を抱き止めて息を吐いた。そして彼女の体に傷が無い事を確認すると、従卒を呼んで彼女に帽子とマントを着けさせた。
「さて、女狩人からそろそろ皇太子妃殿下に戻ってもらおうかな」
ラルフシーヌは見るからに残念そうな顔をした。だが、嫌とは言わず、可憐な帽子と皇帝の色の青いマントを身に付けると、皇太子妃らしい表情で嫣然と微笑んだのだった。
この一件で久しぶりに全力で身体を動かしてしまったラルフシーヌはどうやら朝の抜け出し程度では満足出来なくなってしまい、暇さえあればお忍びで抜け出したり、果ては騎士の御前試合に混じって戦ったりするようになってしまった。やっぱり止めておけば良かったかな、と後悔しても後の祭りである。
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