二十七話 子供を産む皇太子妃

 どうやら妊娠しているらしい、と医者に告げられて、私は思わず涙が出てしまった。ううう、長かった。


「おめでとうございます。妃殿下」


「良かったですね!」


 エステシアもアリエスも涙ながらに祝福してくれた。私の間近に仕えるこの二人は私の涙ぐましい努力を知っているのだ。


 私とセルミアーネには何故か子供が中々出来なかった。私はあんなに子供がポコポコ生まれた家の子供だし、セルミアーネも皇帝陛下がフェリアーネ様を愛妾にされてすぐに出来た子だ。お互い家系的に子出しが悪いとは思えない。


 だが、離宮に入る前を含め、これが一向に出来ない。皇妃陛下に怒られてからは義務だからということでかなり頑張ったのだが出来無い。私は多いに焦り始めた。


 平民なら子供が産めない嫁など無価値であると捨てられても不思議ではない。故郷の父ちゃん母ちゃんには子供がいなかったが、その事で母ちゃんが陰口を言われているのは知っていた。父ちゃんに離縁を勧めてくる男もいたくらいだ。父ちゃん母ちゃんがその事で悲しい思いをしていたことは私も知っている。子供が産めない嫁はそういう悲しい思いをするのだ、と私は子供心に感じながら育った。


 まして皇太子妃となってしまった今、私の子供はお世継ぎになる。その期待のされ方は半端では無い。大袈裟に言えば帝国の臣民全ての期待が私に掛かっていたと言える。私に会う者も会わない者も、誰も口には出さなくても、私に早く子供を産んで欲しいと思っているに違いないのだ。


 子供が産めない女性だと言われたくないという自分の思いと、皇太子妃として世継ぎを産んで欲しいという周囲の期待。この二つの重圧は私をドンドン追い詰めた。


 加えて皇妃陛下以下、近しい貴族夫人はセルミアーネに愛妾をあてがう事を勧めてくる。これは私の世継ぎを産まなければという重圧を和らげるための提案だと分かってはいるのだが「あなたには子供は産めないのだから」と言われているようで辛かった。


 セルミアーネは一貫して「別に慌てる必要はない」「子供などいなくてもいい」と言ってくれた。これは嬉しかった反面、産まなければという重圧を増幅しもした。これでセルミアーネまで自分が愛妾を娶ることを提案してきたら。私は悔しく苦しい反面、少しホッとしたかもしれないのだが。


 私は、自分を想ってくれて、皇太子になってからも私を一番に考え、私の我儘の為に骨を折って手配してくれる自分の夫が大好きになっていたから。正直お世継ぎがどうとかを抜きにしても、自分でセルミアーネの子供が産みたかった。


 そういうグルグルした思いを私はずっと抱えて皇太子妃としての忙しい日々を送っていたのだった。そうしてようやく得た妊娠の知らせである。色んな気持ちがこみ上げてきて、泣いてしまっても誰が私を責められよう。


 私は妊娠したくて、ありとあらゆる努力をした。ただ待つのは性に合わないもの。セルミアーネと夫婦生活を頑張るのは当然として、これが良いと聞けば何でも試してみた。


 妊娠するのに良いと聞く食べ物を取り寄せて食べてみた事もある。サバクオオヤマネコの肉が良いと聞いて、臭みに顔をしかめながら一生懸命食べたり、牛乳が良いと聞いて毎日飲んでみた事もある。東方の珍味が効くと聞いてとんでもない価格のそれを取り寄せて食べた事もある。


 適度な運動は良いが過度な運動は良くないと聞いて「適度ってどのくらい?」と悩んだり、規則的な生活が良いと聞いて一日の予定を完全に同じにしてみたり、睡眠時間が短い方が良いと聞けば、しばらく二時間しか寝なかった事もある(体調を崩したので止めた)。


 おまじないにもずいぶん頼ったわね。ガチョウの血を額に塗って寝たり、夫と反対向きに寝るとか、片足に靴下を履いて寝るとか、願いを書いた紙を燃やした灰を水に溶かして飲むとか。


 大図書館から色々本を借り調べたり、医者から意見を聞いてみたり、ご婦人方から話を聞いたり、果ては平民や異国の商人からも情報を集めて貰ったりした。そうした情報を片っ端から試してみたのだが、世の中そう簡単ではない。全く効果は無かった。


 最終的に効果があったのは神頼みだった。いや、最初からやっとけよって?神様に願い事をするという発想がそもそも私には無かったのだ。


 ある日、またしても妊娠出来ずにがっかりしていると、アリエスが私の手を握って私を励ましてくれた。


「大丈夫です。妃殿下。私も全能神に毎日お祈りしています。全能神に毎日魔力を奉納している妃殿下ですもの。きっと全能神は願いを聞き届けて下さいますわ!」


 ・・・そういえば、私、全能神にお願いした事無かったわね。確かに毎日毎日魔力を奉納しているし、その他の神様にも毎月御参りしているんだし、たまには私のお願いを聞いてもらっても良いんじゃないかしら?


 ただ、普段の奉納でついでにお祈りするのは何なので、私は空き時間にわざわざ神殿に行った。司祭に話を聞くと、なんとそのものズバリな妊娠出産の神がいらっしゃる事が分かった。全能神にお祈りしても、勿論その神様にも祈りは届くらしいが、ピンポイントに狙いを定めてお祈り奉納した方が効きそうな気がする。私は祭壇に進み、すっかりなれた儀式作法に従って三回跪き、両手を上げて魔力を奉納しつつ祝詞を唱えた。


「天に坐す全能神。そしてその愛し子たる妊娠出産の神よ。我が願いを聞き届けたまえ。願いを叶えたまえ。我が捧ぐは祈りと命。我と最愛の夫との間に新たなる命を授けたまえ」


 そして魔力を奉納する。あんまり奉納してしまうと毎日の奉納に響くので少しだけだが、真剣に奉納した。終わったら天から光の粉が降って来たので魔力と共に祈りも届いた筈だ。


 ただ、私はあんまり期待はしていなかった。私は性格的に誰かにお願いしてお任せする、というのがあまり好きでは無い。まして会ったことも無い神様である。気休め気休め、くらいに思っていたのだった。


 ところが、その御参りから二ヶ月後、私は微熱が続いて身体がだるくなり、あまりに治らないので医者を呼んだのだった。そうしたら「どうやらご懐妊のようです」と言われたのである。


 ごめんなさい神様。ご利益舐めててごめんなさい。そしてありがとう!神様!


 私は本当に涙を流して喜んだ。アリエスと思わずダンスを踊ったほどだった。今考えればたったの四年だが、当時の私にとっては本当に長かったのだ。だが、喜びに沸く私と侍女に、常に冷静沈着な侍女長エーレウラは言った。


「落ち着かれませ。妃殿下も皆も。まだ妊娠したかもしれないという段階ではありませんか。妊娠が確定したわけでもありませんし、妊娠初期は流産し易くもあります。喜ぶにはまだ早いです」


 ・・・確かにその通りだ。故郷で妊娠した女性は大勢見たが、妊娠したと思ったのにしていなかったり、直ぐに流れてしまったり、死産してしまった者も多かった。そう。産むまでは油断大敵。私は直ぐに気を引き締め直した。


 ただ、帰って来たセルミアーネに報告する時にまた涙ぐんでしまったのは無理も無い事だろう。私の報告にセルミアーネは一瞬パッと顔を輝かせたが、直ぐに普通の微笑みに戻った。


「そうか。良かった。でも、まだ分からないのだから、ダメでもがっかりしないようにね?」


 セルミアーネらしい。セルミアーネは私を抱き寄せてくれたが、少し手が震えているようだった。本当は嬉しいし、不安なのだろう。何としても私はセルミアーネの期待に応えたかった。


 しばらくは慎重に生活した。社交を減らすことは出来なかったが、歩む速度を少し落とし、段差などは丁重に上り下りする。座る時もそっと座る。おかげで事情を知らない貴族婦人からは「妃殿下は少しお淑やかになりましたね?」と言われた。


 もちろん、朝の抜け出しもお忍びも封印だ。だが、そもそも妊娠発覚の少し前から、私は眠くて眠くて仕方が無くなり、朝は全く起きられなくなっていたのだった。毎日社交に出掛けるギリギリまで寝ている。それでも眠くて、社交の間に寝そうになって何度かエステシアに背中をつねられた。危ない危ない。


 一カ月が経ち医者から「もう間違い無いでしょう」と言われる頃には、いわゆる悪阻が本格化した。断続的な吐き気。眩暈。微熱など。私は風邪さえ子供の頃以来引いた事が無かったので、こんなに体調が悪くなったことは本当に久しぶりだった。それでも社交はお休み出来ず、頑張って出席する。体調の悪さは気合で隠せるが、お茶やお菓子に手が付られない。その事で私の体調不良、更に勘の良い婦人は私の妊娠に感づいていた方もいたようだった。


 流石に儀式はお休みだった。毎日の奉納にも来なくて良いという事で、私は少し慌てた。


「それくらいは出来るけど・・・」


「妊娠期間中はお腹の子供のために魔力を溜めるのが普通だから気にしなくて良いよ。君がこれまで奉納してくれた分で十分帝国の地は肥えているから大丈夫」


 セルミアーネは言って、まだ全然目立たない私のお腹をそっと撫でた。その表情は物凄く嬉しそうで幸せそうで、私は心底彼の子供を宿すことが出来て良かったと思った。


「君は子供を無事に産む事だけを考えてくれれば良い」


「分かった。必ず元気な男の子を産んで見せるわ!」


 そう。妊娠したらしたでもう一つの心配事が出来てしまう。この子が男か女か問題だ。


 帝国の皇帝は別に男でなければならないと、明確に決まっている訳では無いのだという。だがしかし、帝国数百年の歴史上、女帝が即位した事は一度も無い。つまり事実上、帝国の皇帝は皇子にしかなれないのだ。


 妊娠にこんなに苦労したのである。次の子供が直ぐに得られるか分からない。神頼みもいつも有効では無いかも知れない。だから出来ればこの子は男であって欲しい。私がそう思っているのはセルミアーネにはお見通しで、しかも気休めを言っても駄目だとまでバレている。


「子が女子でも問題無い。婿を傍系皇族から貰えば良いだけだ」


 と言うのだ。だが、それでは延々と続いてきた皇統の直系が絶えてしまうでは無いか。セルミアーネは気にしないと言ってくれるが、気にする人はいるし、それでセルミアーネや私を責めたり嘲ったりする人はいるだろう。やはりどうしても男の子が産みたい。


 皇帝陛下も皇妃陛下もお喜びで、というか物凄く心配して下さった。社交は私がやるから出なくても良いと皇妃陛下などは仰るのだが、私は出来る範囲で頑張って社交には出続けた。しかし、悪阻がきつくなるとどうにもならなくなって、結局は皇妃陛下にお任せするしか無かった。


 いや、私の悪阻は吐き気と怠さだけで、酷い人に比べれば大したことは無い程度だったらしい。食事もほとんど食べられたし。だが、私はそもそもが病気などした事が無く、寝込んだ事など一度も無い。その私が怠くてベッドで横になる以外出来無いというのが自分的異常事態だったのだ。これ、子供産んだら治るんだよね。一生このままじゃないよね?そんな不安に駆られてセルミアーネに慰めて貰ったりした。


 お腹が少し目立ってくるようになると体調は改善して、私は社交に復活した。ただ、夜会には出られず、精々離宮区画でのお茶会くらいに出るくらいだった。出たくても出して貰えなかったのである。それはそうだ。不測の事態が起こったら大変な事になる。私の懐妊は貴族界に既に知れ渡っており、どこの社交でもその噂で持ち切りなのだそうだ。男か女かで賭博まで始まったらしい。


 お茶会に来るお母様、お姉さま方は心配というよりは激励して下さった。お母様は11人、その他のお姉さま方も複数のお子を問題無く産んでいる妊婦のエキスパートである。ただ、出産に関してはベテラン過ぎて初妊婦の不安は忘れているようで、私の時はこんなだったという思い出話をして下さるのは良いのだが、何回産んでも痛いのは痛いのよね、などと笑われると未経験者としては内心怯えてしまうのですよ。だが、色々貴重な助言を下さりもして、胎児が落ち着いたら歩いた方が安産になるとか、便秘になり易いから水分を多く摂った方が良いとか経験者ならではのアドバイスは本当に助かった。何より経験者が毎日寄ってたかって面倒を見てくれるのは心強かった。


 経験者と言えば、エステシアは男の子二人、エーレウラは女の子と男の子を産んだそれぞれベテランお母さんだった。二人が出産まで面倒を見てくれるなら安心だ。ただ、この私の上級侍女二人は私の妊娠中物凄く緊張していて、妊娠期後半には殺気立った目をしていた。私が少し変な事をしようとすると怒鳴りつけられた程だ。無理からぬ話ではある。皇太子妃とその子供を一度に護らなければならないのだから。


 出産は私単独の寝室で行われる事になっていて、出産用の器具や保育用の用具が取り揃えられ始めた。それを見ると緊張してしまうが、事前にいざという時の段取りを覚えるのも大事だ。陣痛が起こったらこう、もしも早産の気配があったらこう、という風に決めておけばいよいよと言う時に慌てずに済む。


 乳母については妊娠が分かった段階で選定が進められ、カリエンテ侯爵家一族のフィロシュ伯爵夫人という方が来てくれる事になった。私にとっては少し遠い親戚になる、二つ年上の方だった。因みに、フィロッシュ伯爵夫人は去年出産しているのだが、そのお子は自分が雇った乳母に面倒を見させている。自分の子を放置して私の子の面倒を見てもらうのは気が引けるのだがそういうものらしい。


 私は別に自分で面倒は見られると主張した。故郷では赤ん坊のいる家でお駄賃貰って留守番して、その間中赤ん坊の面倒を見ていたこともあるので、オムツだろうが夜泣きだろうがなんでも来いだ。お乳だけはやったことが無いけども。すると色んな方面から突っ込みが入った。


「妃殿下には社交の方が大事です。それに、もっともっと子供を産んでもらわなければなりませんし」


 確かに社交をやっていたら悠長に子育てなど出来ない。そして皇太子妃は公人なので子育てより社交の方が優先される。そして子供は一人産めば良い訳では無い。出来れば最低男の子が三人は欲しい所だろう。三人いても全員お亡くなりになった皇妃陛下の皇子たちの事もある。そのためには始めたら手一杯になる子育てなどさせられないという訳だ。自分の子供を育てられ無いなんて寂しいと思うが、確かに皇太子妃としては仕方が無い事なのだろう。


 乳母になってくれるフィロッシュ伯爵夫人は以前から顔見知りで、穏やかな方だった。本人は子育てはした事が無いので、子育て経験豊富な帝宮侍女が数名付けられ、実際の子育ては侍女が行う事になる。乳母はあくまでお乳を与える役目と、仮の母親として優しくし、言葉や基礎のお作法を教えるのが仕事だ。それでも夜にも起きてお乳を与えなければならない過酷な仕事ではある。


 そうやって準備を進め、私のお腹ははち切れそうに大きくなり、しかもその中で赤子が暴れるようになってきた。こら、ちょっと、もう少しだから大人しくしていなさい!と言いたくなる元気ぶりである。あるいは寝相が悪いだけだろうか。私もセルミアーネも寝相は良いのだけど。


「こんなに元気なら男の子じゃない?」


 私が期待を込めて言うと、エーレウラが冷たく言った。


「妃殿下はご自分がお母様のお腹の中で暴れなかったと思われますか?」


 ・・・そうですね。きっと大暴れして、お母様は「これ絶対男だ」と思ったよね。後で聞いたら実際そうだったらしい。女の子でびっくりしたそうだ。そういうこともあるようだから、私はあんまり期待し過ぎない事にした。


 そうしてある日、遂にその時がやって来た。


 その日のお昼頃、私はヴェルマリアお姉さまと離宮でお茶をしていた。臨月になってからお姉さまが昼間は入れ代わり立ち代わり付いて下さり、やれ散歩しろだの、やれこれを食べろだの、水を飲め、お腹を冷やすな、椅子に深く腰掛けるななどと煩くして下さったのだ。


 楽しく談笑している最中、ふと、お腹に違和感があった。ただ、違和感があったり少し痛かったりは数日前からたまにあり、その度に大騒ぎしては何でも無かったので、またか、とあまり気にも留めなかった。


 しかし、しばらくするとまた少し痛い。うーん。なんだろうね。ともぞもぞしていると、お姉さまが眉を顰めた。


「どうしたのラルフシーヌ」


「いえ、ちょっと、腰が・・・」


 そう言って身体を動かしたらズキっと来た。あいたた・・・。何だか今まで経験した事が無い所が痛い。


 すると、ヴェルマリアお姉さまはさっと立ち上がって、エステシアに言った。


「これは多分本番ね。頼んだわよ。エステシア」


「承りました」


 え?本番?私はエステシアに抱えられるようにして寝室に連れていかれた。出産用に少し低くされたベッドに横になる。


「・・・産まれるの?」


「大丈夫ですよ。妃殿下。準備は万全です。妃殿下は神に出産の無事をお祈りください」


 そうそう神頼み。妊娠してから何度かお礼と子供の無事を祈って神殿に行って奉納したのだし、ここでもう一度お祈りしておきましょう。奉納は無理だけど。


「天に坐す全能神。そしてその愛し子たる妊娠出産の神よ。我が願いを聞き届けたまえ。願いを叶えたまえ。我は祈りを捧ぐ。我が子の無事の誕生をご加護下さいませ」


 私が唱えるとエステシアが少し驚いた顔をした。


「妃殿下の安全もお願いして下さいませ」


「私は大丈夫よ。それにどうせセルミアーネがお祈りしてくれているわ」


 多分帝宮の礼拝堂で、魔力の奉納付きで。待っててねセルミアーネ。立派な赤ちゃん産んで見せるからね!


 ・・・舐めてました。出産。知りませんでしたよこんなに大変だなんて。


 何しろ陣痛が始まってそれが耐えられないくらい、具体的には鹿にお腹蹴られた時の三倍くらいの痛みになってから、軽く数時間は経過しても全然生まれる気配が無い。私はプライドに賭けて苦痛の声など上げるまいと思っていたのだが、時間が進んで痛みが木から落ちて背中から岩に落ちた時の五倍くらいの痛みになるとプライドは投げ捨てざるを得なくなった。痛い、物凄く痛い。私は呻き、息を止めてしまうが、そうすると医者に怒られる。この医者は女性の出産のみを扱う平民なら産婆に当たる女性の医者で、女性の医者は帝国でもこの人だけだ。かなり御歳でもあるし高位貴族婦人の出産に何度も立ち会った人だから容赦が無い。


「ダメです妃殿下!ちゃんと息を吸って、吐いて。ダメダメ!そんなに早くでは。もっとゆっくり」


 くそう。煩いぞこの婆め。でも言う事を聞かないと子供が生まれない。私は必死で言う通りにした。


 そして痛みが、大猪の体当たりの直撃を受けた挙句に一緒に崖から落ちてそのまま猪に潰された時の十倍くらいという途方も無い痛さになり、流石の私が悲鳴を上げた直後「おぎゃあああ!」という物凄く大きな泣き声が聞こえた。あまりの声の大きさにそれまでの苦痛も忘れて私は目を丸くしたほどだった。


「ご誕生です!皇子ご誕生!」


 あの婆さんが叫んでいた。同時にエーレウラが大変珍しい事に歓喜の声を上げる。


「おめでとうございます!皇子です皇子様ご誕生です!帝国万歳!」


 私がまだ現実感無く呆然としていると、アリエスが私の首に飛びついて来て叫んだ。


「おめでとうございます!妃殿下!」


 私はアリエスの身体を支えながらなんとか納得した。・・・産まれた。産まれたのね。しかも皇子、男の子が・・・。


 だが私は喜ぶ気力も無かった。いや、大変だった。そういう感想しか持てなかった。私はぐったりと頭を枕に落とした。


 しかししばらく休み、医者の診察を受け、問題無いでしょうと言われる頃には少しは気力も復活していた。いや、ほんの少しだけどね。それでも生まれたこの子の事が気になる程度には復活した。それを見越したようにエーレウラが白い襁褓にくるんだ赤ん坊を連れて来てくれた。


 おおお、これが私の子供か。私はまだ全然動けないので、身体を起こしてもらい、お腹の所で腕で形を作ってそこに赤ん坊を載せて貰った。ち、小さい。私は流石に出産直後の赤ん坊を見たことは無かった。顔がしわしわで本当に真っ赤だ。髪の色がセルミアーネとよく似た明るい赤茶色だからというのもあるかも知れない。目はどうかしら?私は覗きこんだのだが、まだ瞼がしっかり閉じていて分からなかった。後で分かったが目は茶色だった。


 見ている内に実感がじわじわ湧いてきて、それと同時にこれまでの苦労だの努力だのが思い出されて、私は思わず拳を握りしめていた。やった!やったぞ!見たか!ざまーみろ!と叫びたい気分だったわよね。遂に子供を、男の子を産んでやったわよ!これで誰も私は子供が産めないとか、セルミアーネに愛妾をとか言い出さないでしょう!やったー!神様ありがとうー!


 無茶苦茶嬉しかったが、喜ぶにも結構体力がいる。すぐに疲れてしまい、生まれたのが夜半過ぎだったこともあり、私はそのままその日は寝た。セルミアーネと会ったのは次の日の朝だった。セルミアーネは部屋に入って来るなり、私の枕元に作法の範囲では最速の歩みで私の枕元に到達した。


「大丈夫か?ラル」


 私の手を握っている彼の手は、少し震えているようだった。


「大丈夫よ。それより見た?男の子よ!やったわよ!」


「ああ、見た。君によく似ていたな」


 あれ?そうだったかな?私は顔立ちまでは良く見なかった。


「よくやってくれた。ありがとう。本当に。そして君が無事で良かった」


 セルミアーネはそう言うと私の頭を引き寄せて頬にキスをしてくれた。セルミアーネが喜んでくれて良かったわ。因みに子供は既に乳母の所に行っているのでここにはいない。赤ん坊はあまり動かさない方が良いので、これからしばらくは乳母の部屋から出ないので会いたければ私でも乳母の所に出向くしかない。


「大変だったろうから、しばらく休むと良いよ」


「大丈夫よ。すぐに回復してまた頑張るわ。皇太子妃も、お母さんも、それに他にも色々ね!」


 私が言うとセルミアーネは苦笑した。


「子供を産んでも変わらないね。ラルは」


「何よ変わって欲しい?」


 私が唇を尖らせると、セルミアーネは苦笑してもう一度私の頬にキスをした。


「いや、君は一生そのままでいてくれ」


 私達は声を上げて笑い合ったのだった。結婚五年目、皇太子夫妻になってからも三年の月日が経ったその夏の朝、私達に遂に初めての子供が出来た喜びの朝の事を、私は一生忘れないだろう。


 


 


 


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