二十八話 妃殿下の目が光る時 エステシア視点
私はエステシアと申します。皇太子妃であるラルフシーヌ様の侍女です。
私はライミード伯爵夫人なのですが、本家であるカリエンテ侯爵家からセルミアーネ皇子の妃になるラルフシーヌ様の侍女、というか教育係になる事を依頼されたのです。いや、毎日帝宮の離宮まで通う事になって大変は大変ですが、名誉な事ではあるので構わないのですが、何がどうして皇子の妃になるほどの侯爵令嬢に教育係が必要なのか、最初に伺った時は意味が分かりませんでした。
実際にお会いしてすぐに納得致しました。何しろ私に最初にお会いした時、ラルフシーヌ様は「よろしくね」と歯を見せてお笑いになったのです。可愛らしいですがお作法的には零点です。
前カリエンテ侯爵夫人が仰るには、そもそもラルフシーヌ様には何の教育もさせずに領地に放任していたのだそうです。教育費に困った家が領地に子供を隠して育てるのは稀に聞く話ではあります。しかし問題は何がどうしてそのお方が皇子の妻になる事になっているのでしょう?
ところがこれも信じ難い事に、セルミアーネ皇子は実は先日まで正体を隠されて騎士として生活されていたそうで、ラルフシーヌ様は騎士の家に嫁入りした筈だったという事でした。とっくに一年も前に結婚していたのだそうです。ちょっと信じられない話ですが、社交の場で「あのセルミアーネ皇子は今までどこにいたのだ?」と不思議がられていたのはこういう訳だったのか、と納得致しました。この話は後日変な風に歪んで伝わって「カリエンテ侯爵家が騎士と偽って保護していたらしい。でなければ騎士に侯爵が娘を嫁入りさせる筈がない」という話になっていましたね。
兎に角、領地で平民として、帝都で結婚してからも騎士の妻として生活していたラルフシーヌ様には全く全然一切作法が教えられていないという事で、このままではとてもでは無いけど帝宮に入れる事は出来ない、というお話でした。カリエンテ侯爵家の恥になってしまいますからね。ですが、嫁入りなら断る事が出来ますがとっくに結婚しているのでは何とかするしかありません。幸い、離宮にお入りになるまで三ヶ月あるという事で、その間に最低限の教育を施すことになったそうです。そしてその後は私に離宮に入ってから教育して欲しいとの事でした。無茶振りです。あれほどの作法知らずをそんな短時間でどうにか出来るのでしょうか。
しかし、教育を始めてみると、ラルフシーヌ様は非常に根性があり、物凄く努力家である事が分かりました。ほとんどお作法の何たるかを知らないのですから、それこそ顔の上げ方から手の出し方にまでダメが出ます。見ているこちらがかわいそうになる位、厳しくダメ出しされるのです。しかしラルフシーヌ様は指摘に対して一々真摯に取り組み、何度でもやり直しては修正していくのです。私はちょっと感動いたしました。私の実の子供に見せてやりたい努力です。黙々とお作法の習得に励み、ドレスを何十着と仮縫いし、その他にも芸術や宝石のお勉強もするのですから食事をする暇もありません。食事も当然お作法の講習付きです。味など分かりませんでしょう。それでもラルフシーヌ様はひたすら頑張っていらっしゃいました。
お話してみると、非常に頭の回転は良く、聡明です。言われた事はすぐ覚えます。そして何しろ根性があります。この根性は貴族女性にはあまり見られないものです。ラルフシーヌ様ならではの特性と言えましょう。
とはいえ、たまにはあまりの厳しさにラルフシーヌ様が切れてしまい、お姉さま方と激しく言い合いになる事もありました。まぁ、口喧嘩で上位貴族婦人を負かせる訳がありません。直ぐに丸め込まれて渋々教育にお戻りになります。しかしなぜそんなに頑張る事が出来るのでしょう。一度伺った事があるのですが、ラルフシーヌ様はこうお答えになりました。
「セルミアーネとは意地でも離縁したくない」
もしかしたらお二人は恋愛結婚なのでしょうか。確かにラルフシーヌ様は素晴らしい美貌をお持ちで、スタイルも良いのです。皇子に見初められたと言われても何の不思議もございません。作法が少しづつ身に付き始め、姿勢が良くなり、質の良いドレスを身に纏うようになると、より一層美しさが際立ちます。いえ、正直圧倒される程です。美しさだけなら自信をもって帝宮に送り出せます。
ラルフシーヌ様は頑張っていらっしゃいましたが、たったの三ヶ月ではどうしようもないものがあります。時間切れで帝宮の離宮にお入りになる事になりました。後は私が逐一お教えするしか無いでしょう。
当日、侯爵家は七台の壮麗な馬車を用意し、ラルフシーヌ様を花嫁のように着飾らせました。ラルフシーヌ様の結婚式は騎士に合わせた結婚式で、披露宴も一族の私が呼ばれなかった程ですから非常に小規模だったらしいのです。そんな事が後で知れ渡れば侯爵家の恥になりかねませんから、ここで花嫁行列をやって世間に二人の立派な結婚を見せ付けたいという意向でした。
そうやって入った帝宮の奥、離宮区画ですが、私は殆ど入った事がありません。本館までなら毎日のようにお茶会や夜会に来ていますが、離宮区画は選ばれた者しか入れない帝国の真の中枢です。私はこれからここが職場になる事の怖ろしさに身震いしました。
私と同時に離宮に入るラルフシーヌ様の持ち込み侍女はアリエスと言って一族の子爵家の令嬢でした。年齢はこの時16歳ですが、三女なので結婚の予定がまだ無く、ラルフシーヌ様の侍女をやって箔をつけたいという実家の意向でやってきました。金髪がフワフワした小柄で可愛い娘です。ただ、作法はしっかりしていて、ラルフシーヌ様に色々教えているようでした。この娘は離宮に住み込み、ラルフシーヌ様の身の回りの世話を担当します。私は通いです。
離宮の侍女長はエーレウラ・モンベルム伯爵夫人で、元々は皇妃陛下の侍女の一人でした。黒髪眼鏡の謹厳実直を絵に描いたような容姿の方で、侍女として出世して伯爵夫人にまで上り詰めたのですから、大変優秀な侍女なのでしょう。こんな無作法なラルフシーヌ様を見て怒り出さないか心配です。
私はエーレウラと打ち合わせ、私は主にラルフシーヌ様の社交関係を担当し、エーレウラは離宮内の事を取り仕切る事に致しました。私は帝宮外から通いですし、侍女経験が無いですからね。エーレウラは帝宮の外城壁内に家があるそうです。
私はこの引っ越しの日にセルミアーネ皇子様に初めて会ったのですが、いや、ちょっと驚く程の美男子でした。カリエンテ侯爵家の女性がセルミアーネ様の話になると頬を赤らめる訳です。何でもセルミアーネ様はラルフシーヌ様を娶るためにカリエンテ侯爵家に通い詰めたそうで、その過程でカリエンテ侯爵家の女性達と大変仲良くなられていました。セルミアーネ様が皇子になられるのを全面的に推すのだと皆様鼻息を荒くしていらっしゃいましたね。
セルミアーネ様はとにかくラルフシーヌ様を大事にしていらして、私に「くれぐれもラルフシーヌに無理をさせないで欲しい」と仰いました。この間まで騎士だったからか侍女相手にも物腰が丁寧でした。お二人が並ぶと眩しいくらいの美男美女でした。私の使命はこの見た目に相応しいくらいにラルフシーヌ様、いえ、離宮入りしたのですからお妃様と呼びしましょう、のお作法のレベルを引き上げる事だと気持ちを引き締めました。
離宮入りすると、想像以上に皇太子代理のお妃様というのは社交が忙しい事が分かりました。私はやや格が低い伯爵家の夫人ですから、社交もそれほど忙しくは無かったのです。1日に二度三度もお茶会が入り、それに加えて夜会があるなど尋常ではありません。なんでもお妃様のお披露目期間なので特に社交の予定を詰めているのだということでしたが、それにしても随伴する私でさえ目の回るような忙しさです。お妃様は毎日ぐったりしていらっしゃいました。
ただ、お妃様は非常に体力がおありになるし、何しろ根性がありますから。弱音一つ吐かずに社交をこなし、私の指導を受けてドンドンお作法は改善されていきました。ただ、さすがに貴族特有の回りくどい表現方法には苦戦されて、私がその辺りはこっそり後ろから教えて差し上げましたけど。
当たり前ですがお妃様は常に注目を集めるお立場でしたから、社交の間一切気が抜けず、それはそれは大変でした。それでも持ち前の根性で何とか社交をこなしている内に、お妃様は段々と社交界での存在感を大きくしていきました。
これはもっと後になってよく分かって来たのですが、お妃様は下の者への面倒見が非常に良く、弱い者いじめを嫌うため、特に身分の低い者から慕われる性質なのでした。この頃から例えば「隣の領地の境界税が高すぎる」というような要望とは言えない愚痴がお茶会で出た場合にも、ちゃんと調べて皇子様に対応を依頼したりしたのです。そのため、頼りになるお妃様という評価が段々と定着していきました。
そうこうしている内に皇太子殿下がお亡くなりになり、セルミアーネ様が立太子式を行われて皇太子殿下になられ、ラルフシーヌ様は皇太子妃殿下となられました。妃殿下となられるとお披露目期間は終わりで社交の頻度は少し落ち着きましたが、今度は社交における重要性が増しました。
それというのは女性の社交界においてナンバーワンはもちろん皇妃陛下なのですが。皇妃陛下は皇太子妃がいる場合は政務に集中して社交の頻度を落とします。そのため、普段の社交では妃殿下が女性社交界の頂点と見做されるのです。
しかも妃殿下ならではの事情もあります。妃殿下はご家族が非常に多く、実の姉だけでなんと五人もいらっしゃるのです。内訳は公爵夫人一人、侯爵夫人二人、伯爵夫人二人です。全員上位貴族夫人です。凄まじいです。それだけでも女性社交界の一大派閥と言って良いのですが、ここに更に妃殿下が加わるのですからもはや鉄壁です。
上位貴族である妃殿下の姉方は堂々と帝宮のお茶会に乗り込んできます。帝宮、特に離宮区画のお茶会、中でも妃殿下のお住まいになる離宮にまで招かれる事は非常な名誉とされています。招かれただけでも家の格が上がる程です。私は妃殿下にお仕えするまではもちろん招かれた事などありません。そこに堂々乗り込める姉権限というのは相当大きな意味があるのです。
特にご姉妹の中でも一番格の低かったヴェルマリア様は姉権限を最大限利用して離宮に入り浸っていました。そのおかげで下位貴族婦人の大派閥の領袖みたいな状態だと仰っていましたね。妃殿下はこの姉君を頼りにしているので来て下さるのは構わないのですが。調子に乗って妃殿下のお古だけでなく、時折新品のドレスをくすねて行かれるのは困りものです。妃殿下にお着せするドレスの予定が狂うとエーレウラが怒っていました。
ただ、この女性社交界の激変を快く思っていない方もいらっしゃいました。その筆頭がマルロールド公爵夫人です。マルロールド公爵夫人は皇太子妃不在の時期に女性社交界に君臨したおられた方で、皇妃陛下とも大変懇意になさっていた方です。夫の公爵様は皇帝陛下の側近として内政を取り仕切ってもいます。
それがいきなり、妃殿下の登場で女性社交界で大きく順位を落としてしまったのです。まして妃殿下の長姉はマルロールド公爵家と並び立つもう一つの公爵家、エベルツハイ公爵家の夫人です。両公爵家はライバルで事ある毎に張り合っていると聞きます。
実はカリエンテ侯爵家は、今の皇帝陛下からの評価が低く、家格ほどの扱いを受けていませんでした。皇帝府に役職も持っていなかったのです。前皇太子殿下との繋がりもなく、このままではジリ貧という評判で、他家からの扱いも軽くなる一方でした。その家から嫁がれたエベルツハイ公爵夫人はマルロールド公爵夫人に対して立場が弱く、悔しい思いもなさったと聞きます。
それがここに来て逆転です。カリエンテ侯爵家は皇太子殿下たるセルミアーネ様の後ろ盾になりました。次期政権でカリエンテ侯爵が重用される事は確実です、現在の公爵家はセルミアーネ様が登極されると侯爵家に位階が下がります(セルミアーネ様に子供が居ない、少ないなどの理由があればそのまま公爵に残される場合もありますが)その時には現在の公爵家の家格の先頭に付け足される訳ですが、その時にはカリエンテ侯爵家と緊密なエベルツハイ家が一位になる事になるでしょう。
もちろん、マルロールド侯爵夫人としては面白い筈はありません。順位は下がったとはいえ、彼女は長年女性社交界を牛耳っていたのです。取り巻きの上位貴族夫人はたくさんいます。マルロールド公爵夫人とその取り巻き対、妃殿下を筆頭とするカリエンテ侯爵家女性陣の争いはここから長く帝国社交界を賑わせる事になります。
ただ、妃殿下は最初はそれ程マルロールド公爵夫人に対抗心をお持ちではありませんでした。妃殿下はそもそも女性社交界に対する関心が薄く、マルロールド公爵夫人のことを良く知らず、更に言えば実家であるカリエンテ侯爵家の皆様とも縁が薄かったからです。ところがマルロールド公爵夫人はそうはとは知りませんから、最初から妃殿下に対抗心むき出しです。ここでマルロールド公爵夫人が妃殿下に普通に対応しておけば案外お二人は上手くいったのではないかと思うのですが。
しかしマルロールド公爵夫人が妃殿下を目の敵になさると、妃殿下はだんだん公爵夫人に対してお怒りになられたようでした。その結果、妃殿下はご自分の姉君達と協力して公爵夫人に対抗するようになりました。妃殿下は度量はおありになるし、下の者には寛容です。公爵夫人は妃殿下だけにはへり下っておけば妃殿下を敵に回す事は避けられたと思います。
しかし、妃殿下は敵と認めた相手には容赦しない性格でもあります。妃殿下が明確にマルロールド公爵夫人を「敵」と認定する事件がある日起こりました。
その日、離宮区画のお茶会で妃殿下はマルロールド公爵夫人と同席なさっていました。同席者には妃殿下の姉君が二人いらっしゃいましたが、お二人とも伯爵夫人。対してマルロールド公爵夫人の取り巻きである侯爵夫人が一人、伯爵夫人二人が同席していました。つまり、この場ではマルロールド公爵夫人が取り巻きの格的にやや有利だったのです。
それに気を大きくしたのか、マルロールド公爵夫人は妃殿下のお育ちを話題に出されて、妃殿下の田舎育ちを馬鹿にし始めました。妃殿下が田舎に隠されていたというのは、カリエンテ侯爵家としては醜聞に近いのです。令嬢が領地で育てられる例はままあることで、特に子爵辺りなら家族まし領地に住んでいる事もありますし、珍しい事ではありません。
しかしながら侯爵令嬢が領地で育てられるなど普通はありません。カリエンテ侯爵家が数年前まで子供が多過ぎて金欠であるというのはそこそこ社交界では噂になった事でした。それに絡めれば妃殿下が予算不足で育て切れなくて田舎に隠された事は想像出来る事です。
問題なのは普通ならそのまま隠されて平民落ちするか、ひっそりこっそり帝都に戻されて神殿に巫女として入れられるか下位貴族に嫁として出されるのが関の山であるはずのその令嬢が、何故か皇太子妃になっている事です。田舎育ちの皇太子妃など前代未聞です。これで妃殿下が田舎育ち丸出しの無作法者のままだったら、カリエンテ侯爵家はとんでもない皇太子妃を出したと笑い物になったことでしょう。だから妃殿下をあれほど必死に教育したのです。
しかし、田舎育ちだという事実は消せません。マルロールド公爵夫人は妃殿下を田舎育ちと馬鹿にする事で、間接的に妃殿下を田舎にやったカリエンテ侯爵家を馬鹿にしているのです。
しかし、私は知っていますが、妃殿下はご自分が田舎育ちである事を一つも恥じていません。私にも懐かしげに故郷の事を話して下さいます。なので妃殿下の田舎育ちを馬鹿にしても妃殿下にはいまいち効いていません。妃殿下はむしろ楽しそうに農業の風景を語られていました。田舎の事など何も知らない貴族婦人には興味深くさえある話で、聞き入る方さえいます。それに苛立ったのか、マルロールド公爵夫人は決定的な一言を言ってしまいました。
「平民達は土に塗れて土地を耕すのでしょう?おお、穢らわしい。わたくし、見た事もございませんし、見たくもありません」
その瞬間、妃殿下の雰囲気が変わりました。微笑を消してギロリとマルロールド公爵夫人を睨み付けます。あ、マズいです。後ろに控えていた私は妃殿下の肩に触れました。妃殿下も気が付かれたらしく、口元に微笑を取り戻されましたが、目が笑いません。物凄い迫力です。妃殿下のこの様な姿は初めて見ました。
「土に塗れる平民が穢らわしいなら、あなたはそのお茶を飲む資格も、お菓子を食べる資格もありません」
妃殿下は言うと、侍女に合図をして公爵夫人の前からお茶やお菓子を下げさせました。ちょ、妃殿下、落ち着いて下さいませ。完全な侮辱行為ですよ!
しかし妃殿下は更に言いました。
「このお茶も、お菓子を作るために必要な小麦も、果物も何もかも。平民の農民が土に塗れて育てた物です。それを穢らわしいなどと言う者に。それを食べる資格はありません」
完全にお怒りです。どこに逆鱗があったのか分かりませんが、妃殿下は本気で怒っていらっしゃいます。
「あ、相手は平民ではありませんか」
「平民は確かにあなたよりも身分が下ですが。だからと言って何を言っても良い、誇りを傷つけても良いと言う事にはなりません。私が貴方よりも身分が上だからと言って、貴方に何を言っても良い訳では無いのと同じ事です」
公爵夫人を平民と同列に扱いましたよ!周囲の者が青くなり、公爵夫人が顔を赤くして怒ります。これは当然です。傍系皇族たる公爵夫人は皇太子妃殿下に比べて格は下ですが階位としては皇族で同等とさえ言えるのです。これほどの侮辱を受ける謂れはありません。
しかし、その時です。妃殿下の金色の美しい瞳がジワジワと色を変え始めたのです。金から、ルビーのように真っ赤な色合いに。その光る瞳を見ると金縛りのように動けなくなります。妃殿下は目を赤く光らせて公爵夫人を睨み付けます。周囲で見ているだけでも恐ろしくて動けなくなるのに、それを正面から叩き付けられた公爵夫人はガクガクと震えています。
「・・・そんなに農民がお嫌なら、御領地を農民のいないところに代えて上げましょうか?」
そして妃殿下はとんでもない事を言い出しました。
「マルロールド公爵家の御領地は帝国北東の河沿い、農業地帯でしたね。そんなに農民を見るのがお嫌な様では領地に赴くのも苦痛でしょう?ですから、帝国南部の砂漠地帯に御領地を変更して差し上げましょう」
こ、公爵家の領地変えなど出来るはずが無いではありませんか!何を言い出すのですか妃殿下。しかし、妃殿下の目は赤く光ったままです。全く冗談や脅しを言っている風ではありません。
マルロールド公爵夫人は顔を引き攣らせながらも、妃殿下が自分の権力を過信したと思ったのか、少し嘲るように言い返しました。
「で、出来るわけがありませんわそんな事・・・。皇帝陛下がお許しになりませんわ」
公爵は傍系皇族ですし、皇帝陛下の側近です。公爵夫人も皇妃陛下のご友人です。いくら皇太子妃でも手を出せる相手ではありません。しかし、妃殿下は目を瞬くことさえせず、燃える瞳で公爵夫人を睨みつけながら言い放ちました。
「その皇帝陛下の次の皇帝陛下は私の夫です。夫は私のお願いなら断りませんよ。そうですね、夫が即位すると公爵家は侯爵に下がりますでしょう?その時に同時に領地を変更しましょう」
こ、これは本気です。確かに今の段階ではマルロールド公爵家は皇帝陛下に近く、権勢は揺るぎません。しかし、代替わりすればどうでしょう。皇帝陛下はあの妃殿下を溺愛するセルミアーネ様です。確かにあの方は妃殿下の願いなら断らないでしょう。そして確かにセルミアーネ様が即位すると同時におそらく公爵は侯爵に位が下がります。明確に臣下に下りる訳です。そうなれば皇帝陛下の命には逆らう事が許されなくなります。
妃殿下はそれまで執念深く待つと仰っているのです。妃殿下の恐るべき計画に、流石にマルロールド公爵夫人も真っ青になります。しかしながら皇太子妃殿下がここでこのように公爵夫人と致命的に対立する事は、妃殿下の今後のためにもなりません。妃殿下のお姉様方が慌てて取りなしに掛かります。
「こ、公爵夫人、謝罪を、謝罪をした方が宜しゅうございます!」
「ひ、妃殿下。落ち着いて下さいませ」
ですが妃殿下の赤い目は公爵夫人を睨みつけて離しません。このままでは公爵家と次代の皇帝の間に致命的な溝が出来てしまいます。そうなれば皇帝陛下と言えど仲裁が難しくなります。マルロールド公爵夫人はついに折れました。
「も、申し訳ございませんでした。妃殿下。謝罪致します。口が過ぎましてございます」
周囲はホッとしました。これで致命的な破局は避けられたでしょう。ところが、妃殿下は目つきももちろん赤い瞳も変えないまま言い放ったのです。
「謝罪の対象が違います」
「は?」
「貴方が侮辱したのは私ではありません。農民です。農民に謝罪しなさい」
とんでもない事を言い出しました。公爵夫人ともあろう方に平民に謝罪をさせようとは。
しかしながら、これで分かりました。妃殿下は貴族的な取引などする気がないのです。完全に相手を屈服させる戦争をやる気なのです。公爵家と皇太子殿下ご夫妻で戦争をやるつもりでいるのです。
「わ、私に平民に対して謝罪せよと仰いますか!」
「そうです。謝罪するのですか?しないのですか?」
公爵夫人が屈辱で顔を赤くします。ですが、公爵夫人はあくまで公爵夫人です。彼女自体に政治権力はありません。あくまで権力をお持ちなのは夫である公爵です。この辺がある程度の独立した権力を有する皇太子妃と違うところです。
つまり公爵夫人には公爵家が皇太子妃、ひいては皇太子殿下と全面対立に陥るような事態を引き起こす権限が無いのです。そのような事態を起こすなら公爵本人の許可が要ります。本来は妃殿下もそうなのですが。妃殿下は「自分の願いを夫は断らない」と自信満々です。
公爵夫人は屈辱に耐えるしか方法が残されておりませんでした。
「しゃ、謝罪致します。農民に」
「・・・農民が謝罪を受け入れてくれると良いですね」
なんと妃殿下はそれでも謝罪を受け入れません。そのままマルロールド公爵夫人を下がらせました。出席者は大慌てです。妃殿下の姉達は必死に謝罪の受け入れを求めましたが、妃殿下は一切聞き入れません。お姉様方でもダメなのですから私でもダメでした。
しかも離宮に戻られた皇太子殿下は顛末を聞いて、頭の痛そうな顔こそなさいましたが「良く手が出なかったね」などと仰り一言も妃殿下を咎めません。それどころか当たり前のように「即位したらラルの言う通りにしよう」と仰いました。
マルロールド公爵夫人は帰宅してから夫の公爵様に次第を訴え、皇妃陛下にも対処を訴えたそうです。皇妃陛下もあまりの事態の重大さに妃殿下を呼び出し、謝罪の受け入れを求めました。しかし妃殿下はガンとして受け入れません。
妃殿下の宣言通りなら、実際に事が行われるのは皇太子殿下の即位後です。そうなると皇妃陛下にもどうしようもありません。そして皇太子殿下は妃殿下の願いの受け入れを明言されました。
次期皇帝夫妻に即位後に砂漠への領地変えを確約されるというあまりの事態にマルロールド公爵は夜会で妃殿下に夫婦共々平謝りに謝る羽目になりました。ところがそれでも妃殿下はどうしても謝罪を受け入れません。
「侮辱されたのは私ではありません」
と平民への謝罪、形のある謝罪を求めました。困り果てた公爵は妃殿下とお話をし、来年の税を二割下げることを提案されました。
それを聞いて妃殿下はようやく謝罪を受け入れました。もちろん、減税が実行されなかった場合は大変な事になるでしょう。
妃殿下はこれ以降マルロールド公爵夫人を徹底的に遠ざけ、半年ほどはご自分の離宮への立ち入りを認めなかった程です。その取り巻きへも冷たい態度を示されましたので、マルロールド公爵夫人の求心力は低下、女性社交界の勢力図は完全に塗り替えられたのでした。
私としても妃殿下を怒らせると大変な事になるという貴重な教訓を得る機会になりました。なるほど皇太子殿下が「無理をさせないように」と仰った意味が分かりましたよ。無理をさせてストレスを溜めさせて爆発されたら何が起こるか想像もつきませんよ。これは。
それ以来、私は妃殿下のご機嫌を最優先に日々付き従う事にしたのでした。もっとも、妃殿下は寛容な方ですのでこれ以来あんな風に目を光らせて怒るような事は。滅多にありませんでしたよ。
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