二十三話 熊を狩る皇太子妃

「熊を狩りに行こう」


 ある日の晩餐の席でセルミアーネが言った。


 はい?私は意味が分からずカトラリーを持ったまま硬直した。そしてどうにかセルミアーネの言葉の意味を咀嚼すると、思わず椅子を鳴らして立ち上がってしまった。エステシアが目を剥く。あ、しまった。何事も無かったかのように上品に座り直した後、私はセルミアーネを目を輝かせながら見つめた。


「詳しく!」


 私の反応にセルミアーネは若干引き気味な様子を見せたが、私にあんな事を言えばこういう反応が返ってくると予測してもいたのだろう。仕方ない無いという感じで話し始めた。


「帝都近郊の森にキンググリズリーが出たらしい」


 キンググリズリー!灰色の毛の大熊!帝都に来ての狩人生活中、探し求めて遂に出会えなかった憧れの獲物だ。


 その言葉だけで夢が膨らんで大変な事になる私に、セルミアーネは少し眉を顰めながら言った。


「いや、結構洒落にならない事態なんだ。一週間前ぐらいに目撃されて、騎士団に依頼が来て、狩人協会の者たちと騎士団十人が討伐に向かったのだが・・・、討伐に失敗したんだよ」


 え?騎士団が向かって負けたの?十人?流石にびっくりする私に、セルミアーネは更に言った。


「幸い死者は出なかったけど、負傷者多数。重傷の者もいる。騎士団が害獣の討伐に失敗するのはそれほど無い事だよ」


 それはそうだろう。私は興味があったのでセルミアーネの訓練に付いて行って、何度か騎士団の訓練を見学したが、どの騎士も中々強そうだった。手合わせしたいと言ったらエステシアに怒られたから出来なかったけど。


 その騎士が十人も向かって返り討ちに合うというのはどういう事なのか。


「どうも通常のキンググリズリーよりも大きいらしい。見た事もない大きさだったそうだ」


 おおお、それは凄い!私が見た中で一番大きなクマは精々身長3mのレッドベアーだ。キンググリズリーはそれよりは大きいと聞いている。それの更に大物だ。きっと物凄い奴に違いない。


 私が感動に打ち震えていると、セルミアーネが溜息を吐いた。


「喜んでいる場合じゃ無いんだ。帝都の森は一般の市民も採集や狩りに行く所だし、横を街道も通っている。キンググリズリーが出て以来、帝都市民に森への出入りを禁じているし、街道も封鎖している。」


 確かに、帝都の市民にとって帝都の東に広がる巨大な森は、狩猟や山菜果物薬草などの採集で市民の生活を支える重要な役割を持った場所だ。そればかりか狩人や木工や薬草師などにとっては職場でさえある。封鎖される期間が長引けば帝都の市民生活に大きな影響があるだろう。


 それに街道を封鎖したままでは交易が滞る。帝都の東にある街や村に帝都の物資が届かなくなれば、そこの物価が上がって市民が困る事になるだろう。


「だから早急に討伐しなければならない。そのため、私が騎士団を率いて討伐に出るよう皇帝陛下に命じられたんだ」


 皇太子自ら害獣退治に出撃なんてかなり大袈裟な話ではある。それだけ今回のキンググリズリーが難敵なのだろう、と私は思ったのだが、裏の理由としては皇太子としてセルミアーネが初めて騎士団を率いるにあたって丁度良い位の敵だというのもあったそうである。いきなり外国との戦役に出征する時に初陣するよりは、巨大害獣を相手にやらせてセルミアーネの指揮能力を測ろうとしたのだろうとのこと。


「もちろん、本来は私が出撃すれば事が足りる。今度は百人規模の部隊を率いるつもりだし。・・・だが、私がキンググリズリーの討伐に出たと君が後から知ったら」


「ただじゃおかない」


「・・・と思ったから、皇帝陛下に進言して君も討伐に参加出来るようにしたんだよ」


 流石。セルミアーネは私の事がよく分かっている。セルミアーネが私に内緒で熊退治に出撃した場合、討伐中に知ったら無許可で追い掛けるし、終わってしまっていたら代わりの熊を狩るまで森の奥に行って帰って来ないか。セルミアーネに死ぬほど八つ当たりだ。そんな事をされるよりは正直に打ち明けて一緒に連れて行った方が良いという判断だろう。


「良く皇帝陛下の許可が出たわね」


「結婚してすぐの頃に内宮に上がった時、君が散々熊狩りの話をしたろう?陛下はそれを覚えていたから、君の並々ならぬ熊狩りへの情熱を見込んで許可をくれたのさ」


 流石に皇妃陛下は驚いて反対したそうだけど、セルミアーネが「我が家庭の平穏のために」とお願いして最終的な許可が出たらしい。


 皇帝陛下と皇妃陛下の許可が出ているなら遠慮する事は何もない。ひゃっほう!私は思わず踊り出しそうになったが、表面上はうふふふふ、っと上品に笑うだけに留めた。


「明日、出撃の予定だから準備をしておいてくれ」


「服と道具が必要よ。前の家に置きっぱなし!」


「大丈夫。ケーメラとハマスに使いを出したからそろそろ届くよ」


 流石セルミアーネ。私は晩餐後、届いた狩りの用具を手入れしながら有頂天だ。だが、侍女たちはドン引きだ。


「ひ、妃殿下が狩りをなさるのですか?」


「そうよ。大丈夫。私は一流の狩人だったんだから」


 私の元を知っているエステシアとアリエスは頭を抱えているが、良く知らない侍女は目を白黒させるだけだ。だが、いつも冷静沈着な離宮侍女長のエーレウラは特に動揺した様子も無く、私の装備をジッと見つめると、狩人装束を指して言った。


「妃殿下。妃殿下のご衣装としてこれはいかがなものでしょう。このようなご衣装でお外に出られるのには反対致します」


「え?でもこれは狩人の服だもの。これが一番動き易いのよ?」


「妃殿下。妃殿下は狩人ではありません。今回の任務は狩りではなく討伐として騎士団に同行するのだと伺っています。その時に妃殿下がこの様な格好をしていては妃殿下の、ひいては皇太子殿下の恥になります。ご一考ください」


 私はうーん、と考え込んでエステシアを見る。エステシアも「ダメです」と首を横に振っている。やはり皇太子妃が狩人装束を着るのはNGなようだ。まぁ、確かにコレ。下が脚の曲線丸出しのスパッツだしね。


「分かりました。どうすれば良いかしら?」


「私たちがこれから大急ぎで殿下の格に合う衣装を調達して参ります。殿下は用具の御手入れが終わったらご就寝下さい」


 うんと私は頷いた。どのレベルならOKなのかが分からない以上、エーレウラとエステシア達に任せるしかない。私は弓の弦を張替え、矢を確認し。槍の歪みを確認し、刃物を全部自分で研いでから(ドレス姿でやるのは結構大変だった)ワクワクしながら眠りに着いた。


 翌朝。おそらく徹夜で侍女達が調達してきた「皇太子妃が着ておかしくない活動的な服」を着せられる。上等な生地のチェニックに膝のところまであるスカート。ただしスカートにはブリーツが数カ所入っていて広がるため動き易い。その下に細身のズボン。そしてブーツ。手袋と首にスカーフ。そしてつばの広い帽子。色はベージュと紺を主体に組み立てられており、全体に華麗な刺繍が入っている。髪はおさげにして頭の後ろで巻いて留める。お化粧も薄くだがちゃんとした。


 うーん、まぁ、思ったより動き易い服ではある。帽子を除けば。


「帽子はやっぱり狩人帽じゃだめ?」


「実際に戦われるときは脱いでも構いませんが、騎士団と同行する時にはこちらの帽子を被っていて下さいませ。あとマントも」


 なるほど。この服装は同行している騎士団向けの服なのだ。更に青いマントを纏えば確かに皇太子妃の格に相応しい感じになる。


 しかし、それにしても・・・。


「エーレウラは私が戦いに行く事自体には反対しないのですね?」


「皇族はいよいよとなれば帝国を守るために剣を持つべし、というのは初代皇帝以来の国是でございますよ」


 エーレウラはいつもの謹厳な顔を崩さないまま言った。なるほど。後で知ったが、私が着ているこの衣装は、実はこの上から鎧を纏う事も出来る皇妃様用戦闘服みたいなものらしい。


「帝都の民を守るため、皇太子殿下ご夫妻が御出陣なさるのです。それを見送ることが出来るのは誉というもの。ご武運をお祈り申し上げます。全能神のご加護が両殿下の上にありますように」


 エーレウラが頭を下げると、他の侍女も一斉に頭を下げた。


「ご武運を。全能神のご加護が両殿下の上にありますように」


 私は皇太子妃らしく微笑みながら言った。


「任せておきなさい」



 私達は騎乗し、騎士三十人とその他人員約百人を引き連れて帝都の森に入った。とても熊狩りとは思えない人数だが、前回騎士十人で返り討ちに遭っているのだ。大袈裟だとは言えまい。


 久しぶりに入った帝都の森は相変わらず豊かだった。木々は青く繁り、動物の気配は多い。この森の豊かさも私達が魔力を注いだ結果だと思うと、苦労の甲斐はあったなぁという気がする。


 私は嬉しくてニコニコしているが、後ろに徒歩で続く騎士達はそんな私を見て怪訝な顔をしている。それはそうだろう。いくら有事には戦えと国是に定められていると言っても、皇妃や皇太子妃が実際に戦場に出たことなど歴史上殆ど無い。


 私が集合場所だった騎士の訓練場に現れた時には全員の目が点になり、私がマントを翻して馬に一人で飛び乗ると更に驚かれた。ちなみにこの栗毛の馬は借りた。中々良い馬だ。


 乗馬が趣味の貴族婦人は良くいるらしいが、流石に森の凸凹道を危なげ無く登って行くのは普通の乗馬のレベルでは無いだろう。私にとっては普通の事だが。


 森を進む事2時間くらい。前回熊と遭遇した辺りまで前進したようだ。セルミアーネはそこに本陣を置いて、一緒に来ていた狩人に斥候を命じた。ちなみに狩人は全員私の顔見知りで、私の事を見て目と口をまん丸くしていた。そりゃ女狩人「ラル」が皇太子妃でございと現れたら驚くわよね。


 私はマントと帽子を脱ぐと、セルミアーネの従卒に預けた。


「私も行っても良いのよね?」


 セルミアーネは諦めたような顔をして頷いた。


「良いよ。くれぐれも気を付けてね」


 うんうん、流石セルミアーネ。私は目を丸くする騎士を尻目に森に分け入った。むう。やっぱりスカートが引っ掛かるな。


「お、お待ち下さい!妃殿下!護衛致します!」


「無理無理。付いて来れないから。じゃあ行って来るわね」


 私はセルミアーネに言い残して、木の上に飛び上がり、枝の間を跳んで渡って進み始める。この森でやるのは久しぶりだが、毎日抜け出して帝宮内部の森ではいつもやっているので別に動きに衰えはない。服もすぐに慣れた。


 気配を追いながら進むと、異様な光景が見えてきた。


 木々が薙ぎ倒され、折れ砕けた木が白い断面を晒している。何かが移動した形跡のようだが。何だこれ?見た事が無い光景に驚きながらその跡を辿る。すると前方に何やらとんでもないモノが蠢いていた。


 は?何あれ?流石に私も思考が停止してしまう。高さ3m、横幅が5m程の灰色の塊りが動いているのだ。それが身動きする度、バキバキと音を立てて木々が倒れてしまう。


 四つんばいで歩いている熊だった。あれが目標のキンググリズリーで間違いあるまい。しかしちょっと常軌を逸した大きさだった。レッドベアーは体長3m。つまり、後ろ脚で立った状態で高さ3mなのだ。それが奴は四つんばいの状態で同じくらいある。後ろ脚で立ったら7~8mになるのではなかろうか?


 私は木の上からほへ〜っと呆れて見ていたのだが、風向きが変わったのに気が付くのが一瞬遅れた。熊がグワっとこっちを見る。あ、マズイ。


 キンググリズリーの目は金色で、私の目と同じだった。その目で私をハッキリ睨んでいる。そして、後ろ足でグググぐっと立ち上がった。おおおお、デカい!


 本当に小山の様だった。そして熊が立ち上がり切った瞬間私は重大な過ちに気が付いた。


 私はレッドベアーを相手にする時の調子で、高さ5m前後の高さの枝から獲物を観察していた。レッドベアーなら手を伸ばしてきてもギリギリ届かない高さだからだ。


 だが、キンググリズリーは立ち上がっただけで7m。既に頭が私より遥か上の位置に来ている。睨みつける鋭い瞳。殺気と獣臭が吹き付けてきた。あ、ヤバい!そう思った瞬間にはキンググリズリーは大木の様な前足を振り翳していた。周囲の木を薙ぎ倒しながら腕と爪が迫る。私は慌てて木のより高い位置に駆け上がった。


 物凄い音と衝撃。妙な浮遊感に驚きながら見てみると、私の居る木が真っ二つにされて、私の居る半分が吹っ飛ばされていた。私は流石にたまげてそこから他の木に飛び移る。しかしそこにも熊の強烈パンチが襲う。砕ける木。飛ばされる私。ダメだこれは。私は木を飛び移りながら逃げ出した。熊は木々を薙ぎ倒しながら追ってくる。私は苦し紛れに弓を弾き矢を連射し、なんとか脱出には成功した。流石に汗びっしょりだ。


 なるほどあれは災害だ。騎士団が出撃するわけだ。私はセルミアーネの待つ本陣に戻り、発見の報告をした。


 興奮しながら語る私を見ながらセルミアーネは頭を抱えてた。


「体長7mのキンググリズリーなど聞いたことが無い」


「そんなに大きくなるものなのでしょうか・・・」


 騎士団の面々も驚きを隠せないでいる。やっぱりあれは普通のサイズじゃ無かったのか。セルミアーネはちらっと私を見た。


「どう?いけそう?」


「う~ん。道具がね。この弓ではちょっと通らないみたいなのよ」


 私の弓はそれなりに強い弓の筈なのだが、私が放った矢は熊の身体にほとんど刺さりもしなかった。あれを相手にするには仕掛け弓がいると思う。


 私が言うとセルミアーネは頷いた。


「仕掛け弓なら持って来ている。それほどの怪物ならやはり武装を強化する必要があるな。全員に甲冑を装備させよ。盾と長槍も装備」


 セルミアーネの命令に、騎士たちが一斉に従卒に持って来させた板金鎧に装備を変更し始める。板金鎧は森の中では邪魔になるので着て移動はしなかったのだろう。セルミアーネも甲冑を身に着けながら私に聞く。


「私は正面から熊を押さえる。君は仕掛け弓で側面もしくは後背から攻撃して欲しい」


 私は従卒が持って来た仕掛け弓を渡された。巻き上げて人間では引けない強さの弓を引く木の台座付きの弓で、かなり重い。故郷でこれを使う時は基本的に待ち伏せで使用した。持って移動するには重いし木の上に登ったら使い難い。


「これ、今回の私には向かないわ。これは他の人が待ち伏せ攻撃に使った方が良いと思う。そうね。どこか戦場を設定して、そこに奴を誘い込んで正面からミア、じゃなくて殿下が。側面から仕掛け弓。後背から私が攻撃するってのはどう?」


「君は後ろに回り込んでどうするつもりだ」


 私はニヤッと笑った。


「私は熊狩りのプロよ。熊の弱点なんてお見通しなんだから」


 そして私達は打ち合わせをする。あんな巨大熊の正面に立って攻撃を受けて大丈夫なのかと思ったのだが、騎士たちは訓練を受けているから大丈夫だという事だった。セルミアーネの強さは知っているから私もそれ以上には心配しない。彼が私を信じて任せてくれるのと同じ事だ。


 戦場は熊が既に暴れて木が踏み潰されて空間が広くなっている所に設定した。金属の甲冑を纏い動きが鈍い状態の本隊の勝機は固く身を寄せ合っての守りと、一糸乱れぬ攻撃によって生まれる。なるべく広いスペースが欲しい。


 十丁あった仕掛け弓部隊は本体が熊と戦い始める寸前に側面から攻撃して勢いを減衰させる役目を命じた。そして「くれぐれも二撃目は打たずに退避するように」と念を押しておく。下手に目を付けられてそっちに熊の攻撃が行ってしまうと面倒だからだ。


 そして私と狩人部隊が熊を挑発して本隊に誘導する。熊は直ぐに見つかった。どうも餌を探しているようだが、思うように餌が捕れなくて苦しんでいるようだ。そりゃあんな巨体では餌も足りないわよね。あれが近隣の村にでも行って家畜、いや、人を喰い始めたら一大事だ。ここで討伐しなければならない。


 私は効かないことを承知で弓を放った。首の所に刺さったんだか刺さっていないんだか。キンググリズリーはぐるりと振り向いた。金色の目が光る。来た!


 私達は一目散に逃げ出した。熊は木々を吹き飛ばしながら追って来る。物凄い迫力だ。ちぇっ。こんなすごい獲物単独で狩れたら最高なんだけど、流石に道具が足りない今の状況では手に余る。今のセルミアーネ達がやってくれる事を罠で代用すればあるいは・・・。


 などと考えながら木々を飛び交い熊を誘導すると、直ぐにセルミアーネ達が待ち構えているポイントに来た。銀色の鎧兜を輝かせて、十人毎に方陣を作って長槍を構えている。そして一斉に雄たけびを上げた。


 その様子を見てキンググリズリーの目標が私達から騎士たちへ切り替わる。目を光らせ、青味掛かった灰色の毛を逆立てると、熊は地響きを立てて騎士たちへ襲い掛かった。


「怯むな!隊列を引き締めろ!分散したら終わりだぞ!」


 セルミアーネの声が聞こえる。熊が物凄い勢いでそこに殺到しようとした直前、森の中で金属音が響いて矢が十本、キンググリズリーの頭を襲った。人間では不可能な強さの弓で放たれた金属製の矢である。流石のキンググリズリーも無傷とはいかない。何本かが突き刺さり血が噴き出る。特に鼻は熊の急所である。キンググリズリーは思わず勢いを緩めた。


「今だ!」


 そこへセルミアーネの号令で騎士が槍を揃えて突入する。強者である騎士の突撃、渾身の突きで放たれた槍は熊の身体に深々と突き立った。キンググリズリーがごおおおっと咆哮する。そして前脚を振るって騎士たちに叩きつけた。


「備え!」


 セルミアーネの命令と同時に騎士は盾をかざし身を寄せ合う。ガシャーンと物凄い音がしたが、騎士は隊列を崩さず耐え切った。大木を吹き飛ばす攻撃を跳ね返す騎士って凄いな。その時同時に別の部隊が槍を揃えて突入し、熊に槍を突き刺す。キンググリズリーの咆哮がまた上がる。


 キンググリズリーの攻撃を一隊が受け、他の二隊がその隙に反撃する。熊は基本的に一つの目標にしか攻撃出来ない。その習性を良く知っている作戦だ。騎士は熊を含む害獣退治を日常業務にしているから、熊の習性にも詳しいのだろう。まぁ、前提条件として熊の攻撃に耐えきれる防御力が必要な作戦ではあるが。


 私はその隙に熊の後ろに回り込んだ。前方に今は集中しているからこちらには全然気が付いていないようだ。だが攻撃したら気が付かれてしまう。なまじ攻撃対象が分散すると、動きが読み難くなってかえって防御が難しくなるらしい。私は気配を消してチャンスを待つ。


 やがてキンググリズリーが苛立ったような咆哮を上げると、後ろ足でぐわっと立ち上がった。何しろ7mもあるのだから山が立ち上がったような迫力がある。そして両前足を上げて正面の部隊に向けて上から叩きつけようという仕草を見せた。


 これが私が狙っていた機会だった。私は飛び出し、持って来ていた手斧を振りかぶり、キンググリズリーの後ろ足の踵の上、腱の辺りに叩きつけた。固い毛皮で厚い皮膚だったが、私の渾身の一撃は毛皮を切り裂いて肉へ到達した。そこを二度、三度とぶっ叩く。


 熊は後ろ足で立ってしまうと後方への攻撃手段を持たないし、俊敏に振り返る事は難しくなる。立ち上がってしまうと後ろからは攻撃し放題になるのだ。こんな巨体なら余計だろう。


 数度打ち付けるとブツンという感触がして熊の後ろ脚の腱が切れた。熊がぐらつく隙にもう一方の脚にも斧を叩きつける。木こりにでもなった気分だ。直ぐにもう一本の腱も切断した。熊は腱を失って立っていられなくなり、バランスを失って前方に転倒する。


「退避!」


 潰されそうになった部隊が慌てて避ける。キンググリズリーは地面を地震のように震わせてうつぶせに倒れた。必死にもがいて起き上がろうとするが、後ろ脚の腱を失っていてはもう立てない。人間と違って膝だけで身体を起こす事は出来無いのだ。その隙に騎士たちが一斉に槍をキンググリズリーに突き立てる。キンググリズリーは苦痛の咆哮を上げ、身体を横にして攻撃しようとするが、それは悪手だ。柔らかい腹側が丸出しになる。騎士たちにとって力の入らない状態で振るわれる前脚など大した脅威ではない。


 騎士たちが槍を突き立てるごとにキンググリズリーの身体から血が噴き出るが、流石にしぶとい。なかなか動きが止められ無い様だ。油断した騎士の何人かが前脚で飛ばされる事もあった。私は戦場が見下ろせる木に登り、身体を安定させると弓を構える。適当な所に当てたのでは矢は通らないが、ここならどうよ。私は弓を引き絞り、放った。


 矢は過たずキンググリズリーの目に命中した。流石にキンググリズリーの口から悲鳴が上がる。その隙に、一人の騎士がキンググリズリーに駆け寄り、長槍を構えた。


「殿下!」


 あ、あれ、セルミアーネだ。セルミアーネは槍を抱えると風のような勢いで突撃し、気合の叫びを上げながら槍をキンググリズリーに深々と突き刺した。熊の心臓に。


 キンググリズリーが断末魔の叫びを上げる。最後に上がった前脚が、痙攣したかと思うと、ドサッと地面に落ちた。


 騎士たちの歓声が森の中に響き渡った。



 このキンググリズリー討伐は貴族界や帝都でかなり話題になったようだ。何しろ皇太子になったセルミアーネが軍を指揮して上げた初めての武勲である。前代未聞な程大きなキンググリズリーの頭蓋骨は帝都に持ち帰られ、武勲の証として帝宮入り口の門前にしばらく飾られた。見物人が大量に来ていたらしい。


 何しろ一番失敗していた討伐であるし、セルミアーネの的確な指示で作戦が成功した事は騎士や狩人の口から知れ渡り、帝都には皇太子殿下を讃える歌まで出来たそうだ。皇太子自ら帝都を守るために出陣した事は帝都の市民に非常に良い印象を与えたらしい。


 貴族界でもセルミアーネの軍事的手腕が確かな事には喜びの声が上がっていた。皇太子は帝国の戦争には出陣するのが普通であるから、軍事的に有能な皇太子は大歓迎なのだ。これで帝国も安泰ですね、という声も良く聞かれるようになった。


 そして私の活躍は。・・・無かった事にされた。話題にされなかった。というか、緘口令が出た訳でも無いのに誰も話を広めようとしなかったのである。


 騎士たちは、猿のように木に登って木々を渡って大活躍した皇太子妃殿下を確かに見たのだが「・・・あんな皇太子妃がいる訳が無い。あれは女狩人だ」と勝手に納得したらしい。いや、あんたたち私を「殿下」って呼んでたよね。木に登った瞬間から別人として扱う事にしたらしい。


 狩人達も確かに「ラル」が皇太子妃として扱われているのを見た筈だが「そんなわけねぇべ」と見なかった事にしたようだった。皇太子妃が狩人だったなんて言いふらした事がバレたら不敬罪に問われかねないから、まぁ、仕方が無い。


 侍女達は勿論他言しない。そもそも彼女たちは私の活躍を見ていないから「一緒に行って見ていただけなのだろう」くらいに思っているようだった。


 そのため、貴族界では私がキンググリズリー討伐に関わっていたなどとは誰も知らないのであった。むぅ。あんなに活躍したのに!と思うと同時に、知れ渡っていたらそれはそれで面倒な事になったろうからこれで良かったのかも知れないとも思う。


 私はこれに味を占めて、害獣退治の話があったら教えてくれと騎士団長に頼んだのだが、慇懃にお断りされた。だよねー。


 まぁ、念願のキンググリズリーと戦えたし、久しぶりに大暴れ出来たしそこそこ満足だわ。私がそう言うとセルミアーネはとても嬉しそうに笑った。


「それは良かった」


「それにしても、どうして私を討伐に参加させてくれたの?騎士団長なんかは反対だったようなのに」


「理由はまぁ、行く前に言った理由が半分。あと半分は・・・、結婚の時の約束をどうしても一つぐらいは果たしておきたかったのさ」


 結婚の時の約束?あーあー。里帰りとか、色々したわね約束。ほとんどが実現不可能になっちゃってるけど。私はこの期に及んではもう気にしていないのだが、セルミアーネは律儀に気に留めていてくれたらしい。それで関係各方面にゴリ押しをしてまで私を討伐に参加させてくれたのだ。


 私は何だか心が温かくなり、顔がニマニマと笑えてきてしまった。やっぱりこの旦那最高じゃない?


「もう気にしなくても良いのに」


「ああ、だから竜の方は勘弁してもらいたいね」


 私達はふふふふっと笑い合った。セルミアーネが私の事をちゃんと想ってくれるのだから、今度はキンググリズリーを一人で狩ってみたい!などという野望は一まず収めて、皇太子妃業をこれからも頑張ろう、と改めて私は誓ったのだった。


 

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