二章 掟破りの皇太子妃
二十一話 切れると怖い皇太子妃
私の性分として、物事を中途半端にしておけないというモノがある。やるならば徹底的に。それが私のポリシーだ。
なのでなし崩しになってしまった皇太子妃であろうと私は手を抜かなかった。不出来を笑われるのは許せるが、怠惰を嘲られるのは許せない。なので私は全力で皇太子妃生活に取り組んだ。
基本的に皇太子妃の業務は社交と儀式だけだった。これが皇妃陛下になると政務にも携わる事になるし、元老院議員でもあるのでそちらの業務も加わる。
では皇太子妃の業務が楽なのかと言えばそんな事は無い。政務が無いだけ社交に集中出来るでしょ、てな感じで、皇太子妃には重要な社交がどんどん回されてくるのだ。社交で汲み取った意見を皇太子である夫や皇妃陛下に奏上して政治に反映するのは非常に大事だ。その事の重要性が分かれば政務から外されているから皇太子妃は軽視されているという意見は出ない筈だ。
なので皇太子妃に求められるのは洗練された高度な社交スキルである。お上品な格好をしてお上品な言葉遣いで優雅に交流する事である。・・・一番苦手な奴じゃん。
私だって頑張ってお作法を覚えてはいたが、真面目に勉強し始めて精々半年の私と生まれた時から仕込まれている上位貴族夫人と比べられたら困るのである。なので未だになんでそんな風になるのか、そうしなければならないのか分からないお作法が山のようにあるし、覚え切れない謎の動作もあった。
何しろお茶会で手を置く位置だけでも、通常は右手を上にして手を重ねておくのだが、これが左が上になると退屈を表す。うっかり私がこれをやってしまうと「このお茶会は退屈ね」と不満を表した事になってしまい、出席者が真っ青になってしまう。
他にも頬に手を当てたら困惑。口を隠したら驚き、鼻に指を当てたら不快、目元に手を当てたら興味深いという意味になるなど、それぞれ意味が決まっているからうっかり鼻も擦れない。表情は微笑がデフォルトだが、その微笑にもいくつか種類があり、少し俯きやや上目使いで見るのが最も親愛を表し、右横目で見るのはやや相手を軽く見ている事を表す。これも間違えると大変な事になる。
貴族会話は直接表現を避け、持って回った言い回しで表現する事を好む。これがまた難解で、慣れるまでは相手が何を言っているかが分からず、後ろに控えたエステシアに逐一教えてもらうしか無かった。
「東の方のコスモスの花に悪い虫が付いた様なのですわ」
「ケルバーツ伯爵が愛人を作ったという意味です」
これはなんでそうなのかというと、ケルバール伯爵は帝国の東に領土があり、家紋にコスモスが使われていて、悪い虫は愛人をそう表現する事が多いから、だそうだ。みんなどうして理解出来るのかしらね。
ただ、この言い回しについてはほとんどが定型文で、そういうものだと分かればそう難しい事は無かった。ただ、中には気取った言い回しを独自に発明して相手に理解を強いる困った人もいるのだが。
これはある意味当然なのだが、皇太子妃というのは社交の達人だと見做されている。これは、本来皇太子妃が徹底的に教育された貴族令嬢がなる地位だからで、私みたいのが例外なのだ。そのため、私の一挙一動は貴族女性の手本であるとさえ見做される。困った事である。私を何だと思っているのか。こちとら田舎育ちの山育ちだぞ!と言いたいが、それは言わない約束なのである。
そのため細心の注意を払って作法に気を付けて、離宮に帰ってからもエステシアに確認してもらってダメなところは修正する。そうやって頑張っている内に、かなり煩い上貴族夫人からも致命的なダメは出なくなった様だった。細かい指摘は、ああいうおばさんは誰にでもケチをつけるもんだから気にしない方向で。
お作法がある程度出来る様になって余裕が出てくると、段々と私は社交の面白さにも気が付いてきた。社交はなんだかんだ言っても貴族の交流会だ。要するにみんなで仲良くやりましょう会だ。私は領地でも帝都でも友達や子分はたくさんいた。人的交流は得意な方なのである。
社交界には明確な序列がある。まずは階位、格の順。後は概ね年齢順。ただし、ここに夫や父親の政界での地位が関わってくると厄介である。例えば私のお父様は侯爵で侯爵の中でも格としては五番目だったが、実は皇帝陛下と即位の経緯から確執があり、政権から遠ざけられていた。そのため階位と格がより下で皇帝陛下に重用されていた家の方が社交界でも評価されていた。そのため、お母様は社交界で若干肩身が狭かったそうである。今は皇太子妃の母だから立場が激変しているけど。
そういう女性社交界の頂点に位置するのはもちろん皇妃陛下だが、私が皇太子妃になってから皇妃陛下は社交に出る頻度を減らしている。必然的に私が皇太子妃として頂点と見做される事になる。
私は一番が好きだ。領地でもガキ大将をみんなやっつけて私が一番強い事を証明した。その私にとって社交界の頂点。一番偉いという地位は望むところだった。私が親分よ。みんな私に付いて来なさい!と言えるのは気分の良い事だ。
だが、その一番は私が皇太子妃になったからそうなっただけで、ガキ大将の親分になった時のように実力で証明した地位ではない。形式だけだ。皇妃陛下のように長年の働きから皆に認められているわけでもない。
高位貴族の夫人の中には私を最上位だと認めたくない者も中にはいるようだった。特に私に反感を持っていたのはマルロールド公爵夫人だった。
帝国には現在、傍系皇族として二つの公爵家がある。エベルツハイ公爵家とマルロールド公爵家である。この二家は先代皇帝陛下の御兄弟が起こした家だ。
皇族は、当代と同世代の内は皇族として扱われるが、一世代下がると傍系皇族としてして公爵家を起こすのが習わしである。これが更に二世代下がると完全に臣籍降下して侯爵家に階位が下がるのだ。実家のカリエンテ侯爵家も私の7代前だかにそうやって公爵家から侯爵家になった家である。
公爵家である内は帝宮の内壁の内側にお屋敷を構えるという、皇族に匹敵する待遇を与えられる。儀式などでは全てにおいて侯爵から下とは一線を画した扱いをされる存在だ。何しろもしも皇統が途絶えた場合は、公爵家の誰かが皇帝の位を継ぐ事になるのだ。もしもセルミアーネがいなかったら前皇太子殿下が亡くなった時にそうなっていただろう。
二つある公爵家の内、エベルツハイ公爵家の現公爵と夫人は私にとっても好意的だった。それもその筈、公爵夫人は私の一番上の姉だ。私が生まれた年に公爵家に嫁に行っているので私とはずいぶん歳が離れているのだが、私を可愛がってくれる良い姉である
問題はマルロールド公爵夫人の方である。彼女は今年で45歳になるとは思えないほど若々しく美しい夫人だ。私の姉であるエベルツハイ公爵夫人より歳が上で、つまり貴族女性の序列では姉より僅かに上だった。
前皇太子殿下はお妃様を亡くされていて。皇太子妃は長く不在だった。その為、マルロールド公爵夫人はここ暫く女性社交界の事実上のトップだったのである。
ところがここで突然、この私が皇太子妃となり彼女を頂点の座から蹴落とした。同時にエベルツハイ公爵夫人は私の姉としてNo.2に繰り上がる。つまりマルロールド公爵夫人は一気にNo.3にまで順位を落としてしまったのである。
そりゃ気に入らないだろう。自分が何をしでかしたわけでも無いのに順位が下がったのである。そもそもの話、どうも両公爵家は仲がよろしく無いようだ。どちらが上かで事ある毎に揉めているのだという。
それが棚からぼたもちじゃないが、突然皇太子妃の近い縁戚になった事でエベルツハイ公爵家が優位になったのである。カリエンテ侯爵家は先日まで、現皇帝陛下に遠ざけられて主流から外れていた家である。現エベルツハイ公爵が私の姉に惚れて結婚を言い出した時も方々から反対があった程だったという。結婚を強行したことで公爵両家の勢力争いでは不利になった事だろう。それが今や逆転だ。運命というのは分からないものである。
そんな訳で、マルロールド公爵夫人は私を嫌っていた。もちろんバリバリの高位貴族夫人である。顔に出したりはしない。如才なく挨拶や会話もしてみせるが。たまに漏れ出してくる悪意が凄いのである。
「妃殿下はご存じ無いかも知れませんが」
と枕詞を付けて話し始めた時は要注意である。私が知る由もない少し前の社交界で起こった出来事を話し始め、公爵夫人の取り巻きと盛り上がり、私を話題の外に置き去りにするのが常套手段だ。他にも少し前までカリエンテ侯爵家が社交界で元気が無かった事を当て擦ったり、セルミアーネの母親が子爵家出身である事をそれとなくディスったり、私がお母様が40代になってからの娘である事を「素晴らしい事ですわ。大変でしたでしょうね。普通はそのお年になったら夫との関係も穏やかに変わるものですもの。普通はそんなお年で子供など生まれませんわ」などと褒める振りして貶したりした。
私が田舎育ちなのも知っているらしく、その関係でも私を良くイジった。
「皇太子妃殿下は土をいじって遊ばれたのでしょう?私は触った事も無いのですが、どんな感触なのですか?」
などと、わざわざ私が田舎育ちである事を強調する話題を振って来るのだ。いや、別に隠しているわけじゃないし、懐かしい故郷の事を話してやるのは構わないのだけど、その度に「私達には真似の出来ない事ですわね」とか「信じられない御育ちでいらっしゃいますね」とか「お母様はきっと妃殿下の将来を思って領地に送られたのですね」とかチクチクそれとなく貶してきやがるのである。
まぁ、この程度のイヤミに一々反応していては社交界は渡って行けない。綺麗な返しが出来るほど話術も洗練されていないから私は黙っていた。ちなみにお母様やお姉様が側にいてくれた時は上位貴族夫人ならではのイヤミ返しが炸裂して聞いているだけなら面白かった。
だが、ある日のお茶会の席で、マルロールド公爵夫人は例によって私の田舎育ちを持ち出して。私をそれとなく貶し始めた。この時は私の四姉と末姉がいたのだが、二人は伯爵夫人で公爵夫人よりも大きく位が下がる。私と一緒にいれば皇太子妃の姉として尊重されると言っても限度がある。私を保護してくれる姉がいない事に気を大きくした公爵夫人は、かなりあからさまに田舎を馬鹿にし、間接的に田舎育ちの私を馬鹿にし始めた。
私は正直、マルロールド公爵夫人のイヤミ攻撃。特に田舎育ちネタには飽き始めていて、公爵夫人の言葉は聞き流してお茶請けの焼き菓子を食べていた。ちなみに会話の最中に物を食べるのはギリギリの非マナー行為で、自分の身分が高ければ何とかセーフである。なのでこれはある意味「私はあんたよりも身分が高いのよ」という意味にもなり、それも公爵夫人の癪に触ったようだった。
公爵夫人は言った。
「平民達は土に塗れて土地を耕すのでしょう?おお、穢らわしい。わたくし、見た事もございませんし、見たくもありません」
カチンときた。
このクソ女、今何つった?
土に塗れて土地を耕すのが穢らわしいだと?何て事言いやがる。農家の仕事を馬鹿にするのか?
私の子分には農民の息子は多かったし。私も庭師の義理の娘だ。それに近所の農作業はよく手伝った。土に塗れて、何なら肥やしに塗れて働いてたわよ。
土と対話し、空気の色を見て水の音を聞くのは農家の仕事の基本だ。自然と一体になり、作物の声が聞こえるようにならないと良い農家にはなれないとはよく言われた。大地に生き大地に生かされる者たちにとって、土に汚れるのは喜びでさえある。
それを穢らわしいだと?アホか。私は思わず公爵夫人を睨み付けた。ちょっと凄い目で睨め付けてしまったらしく、公爵夫人どころかその周りの婦人の顔が引き攣る。おっと、いけない。笑顔笑顔。一応口元だけは笑ってる風にする。だが、目は公爵夫人を睨んだままだ。
「土に塗れる平民が穢らわしいなら、あなたはそのお茶を飲む資格も、お菓子を食べる資格もありません」
私は侍女に合図をして公爵夫人の前からお茶やお菓子を下げさせた。
「妃殿下、な、何を・・・」
「このお茶も、お菓子を作るために必要な小麦も、果物も何もかも。平民の農民が土に塗れて育てた物です。それを穢らわしいなどと言う者に。それを食べる資格はありません」
私の言葉に周囲の貴族婦人も息を呑む。
「あ、相手は平民ではありませんか」
「平民は確かにあなたよりも身分が下ですが。だからと言って何を言っても良い、誇りを傷つけても良いと言う事にはなりません。私が貴方よりも身分が上だからと言って、貴方に何を言っても良い訳では無いのと同じ事です」
あからさまに私との上下関係を示され、しかも平民と一緒くたにされて、公爵夫人が怒りで顔色を赤くする。だが、私としては何逆ギレして怒ってんだテメーくらいの感じだ。私は久しぶりに怒っていた。
農家の苦労も知らんこの苦労知らずのおばさんに教えてやりたい。農作物を植えてから収穫するまでがどれほど大変かを。雨が降るか降らないかで一喜一憂し、長雨が続けばそれはそれで気を揉み、日差しを喜び日照りを嘆き、毎日毎日草を抜き虫を殺し、一生懸命世話をしてもそれでもよく分からない理由で実りが少ない事もある。
そうやって育てようやく収穫したその作物も半分は税として徴収されてしまう。私は故郷で代官の父ちゃんの代理で税の徴収に関わっていたから分かるが、収穫の半分も持って行かれてしまうのだ。私が言うのも何だが、農作業に何にも関わってもいないお父様のためにこんなに徴収してしまうのかと物凄く申し訳ない気分になったものだ(魔力の奉納で土地を肥やしていたなんて知らなかったから)。
それでも農家の皆は「ここの領主様は良い方ですよ」と言ってくれた。何でも他の領地では収穫の七割を収めなければならなかったり、収穫に関わらず毎年定額の税を収める必要がある領地もあるのだそうだ。
そうやって収めた農民の血と汗の結晶で贅沢三昧した挙げ句、それを飲み食いしているだけの分際で何て事言いやがるこのおばはんは!私は口元に微笑を何とか貼り付けながらも怒りの炎がメラメラと大きくなるのを感じていた。
「ひ、妃殿下!?」
「目の色が・・・」
私は色んな人から指摘されたが、怒りが高まり過ぎると金色の瞳が赤く光るらしい。故郷では私の目が光り出すと子分たちはみんな一目散に逃げ出したものだ。
どうしてくれようか。以前の私なら飛び蹴りの上で関節技かけてその状態でお説教だが、流石にそんな事をしたらまずいというのはほんの少し残った理性が忠告してくる。お貴族様的な復讐方法は、何か。
「・・・そんなに農民がお嫌なら、御領地を農民のいないところに代えて上げましょうか?」
「は?」
「マルロールド公爵家の御領地は帝国北東の河沿い、農業地帯でしたね。そんなに農民を見るのがお嫌な様では領地に赴くのも苦痛でしょう?ですから、帝国南部の砂漠地帯に御領地を変更して差し上げましょう」
マルロールド公爵夫人だけでなく周囲の貴族婦人たちが驚愕した。
「ひ、妃殿下!それは!」
私の四姉が止めに入るが、私は姉を睨んで黙らせる。マルロールド公爵夫人は引き攣った笑いを浮かべて反論する。
「で、出来るわけがありませんわそんな事・・・。皇帝陛下がお許しになりませんわ」
「その皇帝陛下の次の皇帝陛下は私の夫です。夫は私のお願いなら断りませんよ。そうですね、夫が即位すると公爵家は侯爵に下がりますでしょう?その時に同時に領地を変更しましょう」
マルロールド公爵夫人は真っ青になった。そう。今の皇帝陛下にお願いしても無理だろうが、セルミアーネに頼めば夫は私の願いは断らない。こんな農業の苦労も分からない奴に穀倉地帯を任せるなんてとんでもない。砂漠で砂でも食ってればいいのだ。
私の本気を悟ったのだろう。お姉様たちが青くなってマルロールド公爵夫人に謝罪を促す。
「こ、公爵夫人、謝罪を、謝罪をした方が宜しゅうございます!」
「ひ、妃殿下。落ち着いて下さいませ」
私はマルロールド公爵夫人を睨みつける。公爵夫人は顔を引き攣らせ、顔中から汗を流しながら、慌てて立ち上がり、私の席の前に跪いた。
「も、申し訳ございませんでした。妃殿下。謝罪致します。口が過ぎましてございます」
私は公爵夫人の後頭部を睨みつけながら言った。
「謝罪の対象が違います」
「は?」
「貴方が侮辱したのは私ではありません。農民です。農民に謝罪しなさい」
公爵夫人が唖然とする。
「わ、私に平民に対して謝罪せよと仰いますか!」
「そうです。謝罪するのですか?しないのですか?」
うぐぐぐ、っと公爵夫人が固まる。だが、私は赤く光る目で睨みつけて目を逸らさない。私の言っている事が全くの本気だと分かったのだろう。公爵夫人は屈辱で顔を歪めながら言った。
「しゃ、謝罪致します。農民に」
「・・・農民が謝罪を受け入れてくれると良いですね」
私はフンと鼻息を吹いて謝罪を受け入れずに、公爵夫人に下がるように促した。
このお茶会の出来事に真っ青になったマルロールド公爵は、その日の夜会で私のところに駆け付けて、夫人ともども平謝りに謝ってきた。それでも私はガンとして謝罪を受け入れなかった。
「侮辱されたのは私ではありません」
結局公爵は、農民への謝罪の証として領地の翌年の税率を二割下げる事を提案して来て、私はその実行を約束させた上で、ようやく公爵の謝罪を受け入れた。本音ではそれに加えて公爵夫人に農作業を経験させてやりたかったが仕方が無い。
社交界ではこの一件で「皇太子妃殿下は綺麗で大人しいが、切れるとものすごく怖い」という評価になったようだった。この顛末を聞いたセルミアーネはうーん、と腕を組んだ後「よく手が出なかったね。よく我慢した」と褒めてくれた。理解のある旦那で何よりだ。
ある日、私は皇妃陛下のお招きを受けて内宮に上がった。それ自体は珍しい事ではない。私は三日に一回くらいは皇妃陛下の執務室に行くか、内宮でお茶をしながら、社交で得た情報について皇妃陛下とお話をするからだ。
ただこの日は、皇妃陛下はご挨拶を交わした後、少し居心地が悪そうというか、何かを言いたそうなご様子を見せながらソワソワしていた。?なんだろう?私が不思議に思っていると、皇妃陛下はようやく決心したように、少し背筋を伸ばして私に問いかけた。
「藤の離宮では花がいよいよ美しいのに、赤い鳥はどうして蜜を吸いに訪れないのかしら?」
は?何ですか?私は意味が掴めずに目をパチクリさせた。
えーっと。これはあれだ。多分貴族的な婉曲表現と言うか、隠語だ。ちょっと待って、今解読するから。
藤の離宮は聞いたことある。そう。私達の住んでいる離宮の庭に綺麗な藤棚があるのだ。なので藤の離宮は私達の住む離宮の事。転じて私達皇太子夫妻を現す。筈。
花?は確か女性を意味するから、私の事かしら?赤い鳥?これも聞いた事があるな。帝国の皇帝陛下の象徴色は帝国をも意味する青で、皇太子殿下の象徴色は赤というか桃色なのだ。で、鳥にはたまに男性の意味を持たせることもあるから、この場合は赤い鳥は皇太子。つまりセルミアーネを指すと思われる。
その後が分からない。蜜?蜜を吸うに何か意味があるようだが、ちょっと初耳で分からない。私が作り笑顔のまま固まって悩んでいると、皇妃陛下が全て諦めたように貴族とは思えない直截的な言い方をした。
「あなた達は最近、その、夫婦生活をしていないのではないかという、意味です」
・・・夫婦生活?・・・ああ、あーあーあー。アレか。アレはうん、そうね確かにずいぶんご無沙汰だわ。多分、離宮に引っ越してからは一度もシテないわ。あれ?もっと前からだっけ。・・・って、ちょっと待って?
「・・・ど、どうして皇妃陛下がそれを知っていらっしゃるのですか?」
皇妃陛下は珍しく眉を顰め、怒ったようなお顔でとんでもない事を仰った。
「離宮の侍女長から報告を受けているからです」
「・・・なぜ離宮の侍女長が知っているのですか?」
皇妃陛下は少し驚いたようなお顔をなさった。私が知らなかった事が意外だったようだ。
「それは不寝番から報告を受けているからでしょう」
不寝番?それさえ分かっていない私に皇妃陛下が説明して下さった。不寝番とは要するに、私達が就寝中にお部屋の入り口を守る侍女の事で、扉の外の椅子で一晩中(もしくは交代で)座っているのだという。部屋の扉のすぐ近くなので、部屋の中で変事が起こればすぐ分かるし、主の呼び出しにもいつでもすぐ応じる事が出来る。へー。そんなのがいたんだ。脱走の時気が付かれないで良かったわ。
そしてその皇太子夫妻の寝室を守る不寝番の重要な仕事の一つが、皇太子夫妻がその晩に夫婦生活を行ったかどうかを記録し、報告する事だという。
・・・え?・・・ぎゃー!な、なんですかそれは!
「ふ、夫婦生活を記録って!何ですか!どうしてそんな事されなきゃいけないんですか!酷いですよ!」
私は貴族仕草を放り捨てて抗議したが、皇妃陛下は私をキッと睨んで私を叱った。
「お黙りなさい!必要があるからそうしているのです!」
何でも、皇族の出生には一分の疑いを抱かれる事も許されないのだという。そのため、皇族に妊娠が発覚した場合、遡っていつに行為が行われたかを調べられ、間違い無く皇族の子供であるかどうかの確認が行われるのだという。
そのために皇族は不寝番によってその夜に行為を行ったかどうかが全て記録されるのだという。これは皇帝ないし皇太子が浮気した場合、皇妃もしくは皇太子妃が不倫をした場合も同様だ。子供が生まれて認知の時の参考にするためである。
あまりにとんでもない事を聞いて呆然とする私を無視して、皇妃陛下はやや厳しい顔で私に問い掛けた。
「どうして夫婦生活を行わないのですか?もう離宮に入って三ヶ月は経ったではありませんか。その間一度として行われていないというではありませんか」
「そ、そうですが・・・」
「どうしてですか?まさかセルミアーネが性的に不能と言う訳ではありませんよね?」
と、とんでもない。セルミアーネは元気ですとも。ええ。新婚当時は大変だったんですから。
「それとも貴女が拒んでいるのですか?」
「い、いえ、そのような事は・・・」
「では、どうしてなのですか?理由がある筈です。もしもあなた達が夫婦生活に支障があるようなら、セルミアーネに愛妾を娶せる事も考えなければなりませんよ」
え?私は思わず皇妃陛下をまじまじと見つめたが、皇妃陛下のお顔はごく真剣だった。それにしてもセルミアーネに浮気させると妻に面と向かって言うとは・・・。
「勘違いしてはいけませんよ。ラルフシーヌ。皇太子の最も大事な仕事は皇統を継ぐ子を沢山作る事です。そのためには皇太子妃で足りなければ愛妾を何人でも作って子を作らなければなりません」
私は皇妃陛下の言葉に呆然とした。皇妃としての覚悟に唖然とした。私は皇妃陛下が、皇帝陛下の愛妾の子であるセルミアーネを皇太子として認めるという事を深く考えた事は無かったが、その根本にはこの覚悟があったのだ。セルミアーネの母親が自分の親友であるフェリアーネ様だからセルミアーネを歓迎している訳では無かったのである。
ううう、無理。私にはそんなの無理。とてもでは無いがそんな覚悟は出来ない。セルミアーネに浮気されて作られた子供を認知して、皇妃として義理の母になり、その子を皇太子として擁立するなんて。そもそも浮気の段階で無理。セルミアーネに飛び蹴りをかまして相手の女を投げ飛ばしてしまうだろう。
セルミアーネに浮気されたくなかったら、私が頑張るしかない。私がセルミアーネの子供を沢山産めばいいのだ。
「わ、分かりました。分かりましたから。私が生みます。ちゃんと夫婦生活します!」
そもそもご無沙汰に理由があった訳では無いのだ。離宮に入って更に皇太子夫婦になってしまい、お互い疲れ果てててそういう気分にならなかっただけで。うん。そういうことならしよう。今日からしよう。頑張ろう。
・・・と思って気が付いた。・・・そのスルという事は・・・。
「・・・不寝番て、絶対置かなければならないのですか?」
「当たり前ではありませんか。理由があると言ったでしょう?」
「恥ずかしいのですけど・・・」
「我慢しなさい。皇族なら皆通る道です。大丈夫です。見られるわけではありませんし、精々今日は何回なさった、くらいしか分からないようですから」
「何回したかまで記録されるんですか!」
なんだよその羞恥プレイ。私はあまりの恥ずかしさと絶望に顔を赤くして、テーブルに突っ伏した。
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