十八話 大喧嘩の顛末  セルミアーネ視点

 皇族に復帰する気持ちは固めたものの、それより恐ろしい事に対しては決心が付かなかった。・・・ラルフシーヌに私の素性を打ち明ける事だ。


 これは恐ろしい。何しろ、私はこれまで自分の素性を一切ラルフシーヌに明かした事が無い。匂わせた事すらない。ラルフシーヌは私が父親について何一つ語らないのを不可思議には思っているようだったが、彼女一流の割り切りの良さで厳しく追及してくる事は無かったのである。


 それがいきなり私は皇子で、これからは帝宮に入って皇太子になるからよろしくね。君も皇太子妃になってね。などと言えるか。言えるわけが無い。怖過ぎる。私は騎士で、自分は一介の騎士に嫁に来たと信じているラルフシーヌがどんな反応をするか。


 単に驚くような反応は恐らくするまい。私の嫁がその程度で済むような可愛い女性な筈がない。多分怒るだろう。無茶苦茶に怒るだろう。容易に想像が出来る。何しろ貴族の社交をあれほど苦手にしているラルフシーヌである。皇族になって帝宮で社交三昧の生活を送る事を承知してくれるとはとても思えない。


 他にも彼女とした求婚の時の約束。カリエンテ侯爵領への里帰り、キンググリズリーの討伐、狩りに自由に行って良い、などが全て実現不可能な約束になってしまう。ここだけでも「騙された!」と怒り狂うラルフシーヌの様子が目に浮かぶようだ。


 しかし、今日この日、私はこれから帝宮に行って皇子としての公認を受けるという重大な事態が待っている。私の精神的許容量は既に一杯一杯だった。そんな状態でラルフシーヌに私の事情を話し、謝罪し、おそらくは荒れ狂う彼女の怒りを受け止める事が出来るかどうか。無理だ。とても無理だと思う。


 結局私はラルフシーヌに一言の説明も出来ないまま帝宮から差し向けられた馬車に乗り込んだのである。



 帝宮へ向かう馬車でラルフシーヌは私を睨んで不機嫌だった。嫌いなドレスを着て、苦手な宝飾品をフル装備しているのだ。それだけで苦痛なのに、何が起こるか分かっていないのである。私が彼女でも不機嫌になるだろう。ただ、私が結婚式の時に着た切りの青い軍礼服を着ているのを見て何事なのかと少し緊張したようだ。今回のような時に皇子の格に相応しい衣服なぞこれしか無かったのだ。皇太子殿下は恐らく、こういう事態のためにこの礼服を押し付けたに違いない。


 帝宮の大車止めで馬車を降りると、私達に一斉に注目が集まった。これは、どうやら既に貴族たちにお触れが回っているようだ。誰もが私を見ながらヒソヒソと噂をしている。ラルフシーヌは首を傾げていた。私達は来賓用の控室に入った。私はもう呼吸が困難になるくらい緊張した。何しろこれから謁見室に入ったら全てが決まってしまう。昨日までの騎士としての人生はすっかり消え、皇子としての人生が始まってしまうのだ。


 震える私の手をラルフシーヌが心配そうにさすってくれた。だが、他人事のような顔をしているラルフシーヌも実は他人事では無いのだ。彼女の人生も今日この時より激変する事になる。だが、この期に及んでも私はラルフシーヌに真実を打ち明ける事が出来ない。


「済まない・・・」


 そう言うのが精一杯だった。


 程無く入場した第二謁見室は貴族で埋め尽くされていた。これでも子爵以上の貴族しかいない筈なのだが。隠されていた(隠れていた)皇子のお披露目に帝国の貴族界が驚き注目している事が分かる。私はラルフシーヌに支えられるようにして歩いた。一歩ごとに脚が重くなって行く。しかし、何とか前へ。ラルフシーヌがいてくれるから前に進めたのである。


 両陛下のご光来が告げられて、私とラルフシーヌは胸に手を当てて頭を下げた。来賓は、本来であれば跪くのが作法なのだが、皇子である私と妃であるラルフシーヌは免除される。この時点で既に私達は皇子と妃として扱われ始めているのである。


 皇帝陛下の表情は見た事が無いほど厳しいものだった。全ての感情を公的な仮面の下に沈め、私に対する感情の一切を表に出していなかった。母の言葉が思い出される。私が初めて垣間見た、皇帝陛下の厳しさと孤高。私はあの様にならなければならないのか。


「集まってくれた帝国の貴顕諸卿に告げる。今、ここにいるセルミアーネ・エミリアンは、今日この時より皇統の一員である」


 皇帝陛下が重々しく告げたこの瞬間、退路は音を立てて塞がれた。後は進むしかない。


 ラルフシーヌは良く分かっていないような顔で皇帝陛下の説明を聞いていたが、次の皇帝陛下の言葉で容赦無く事態に巻き込まれた。


「そこにいるセルミアーネの妃はラルフシーヌ。カリエンテ侯爵の娘だ。身分に問題が無いので、彼女も皇統に迎え入れる」


 流石に、ラルフシーヌの顔色が青く変わる。あのラルフシーヌが茫然自失となってしまっていた。


「セルミアーネ。ラルフシーヌ。上がるが良い」


 皇帝陛下にそう促されてもラルフシーヌは動けない。こんなに動揺した彼女を見るのは初めてだ。私はラルフシーヌを引っ張るようにして階を上がった。


 階の上で皇帝陛下に一礼して階の下を見下ろす。数百人の貴族が一心に私とラルフシーヌに注目している。私は右手の手袋を外して中指に嵌る指輪を高く翳した。ほとんどの者には見えまいが、上位貴族には見えただろう。青黒い貴石で出来た指輪。黒い指輪である


「セルミアーネが生まれた時に授けた皇統を証明する指輪だ」


 私の黒い指輪を初めて見たラルフシーヌが愕然としている。ついてに言えば、先ほどから彼女の両親である前侯爵、長兄である現カリエンテ侯爵は顔色を無くして呆然としている。騎士だと思って渋々娘、妹を嫁がせた男が突然皇子になったのだ。驚いて当然である。


 ラルフシーヌの長兄は侯爵家から嫁をもらって侯爵位を継ぎ、次兄は分家を立てて伯爵、三兄はやはり分家を立て子爵、四兄は伯爵家の婿、末兄は子爵家の婿となっている。長姉は公爵家へ嫁入り。次姉と三姉は侯爵家へ嫁入り。四姉と末姉は伯爵家へ嫁入りしている。


 つまりラルフシーヌは帝国の貴族界、しかも上位貴族に兄姉がごっそり食い込んでいるのである。ここでラルフシーヌが皇太子妃になるとなると、カリエンテ侯爵家一族は恐らく貴族界の重大な勢力となるだろう。そして私にとって強力な後ろ盾になる。


 私はラルフシーヌとその父母、兄姉にそんな役目を期待してはいなかったのだが。結果的にラルフシーヌとの結婚は私を皇太子位に押し上げる重大な推進力になったのである。


 しかしそれもラルフシーヌが私の身分隠匿に激怒して離縁を言い出さなければ、の話であるが。今は呆然としているラルフシーヌだが、その内絶対に我に返って怒り出すだろう。怒らないはずがない。


 私はラルフシーヌを促して皇帝陛下ご夫妻に向き直り、再び跪いた。そして誓いの言葉を奏上する。


「全能なる神の代理人にして、帝国の偉大なる太陽、輝ける栄光の座、東西南北を統べるお方、剣と天秤の守護者、いと麗しき皇帝陛下よ。私、セルミアーネは皇統の一員として、皇帝陛下と帝国のために全ての力を捧げると誓います」


 口の中が乾く。全身から冷や汗が噴き出す。皇帝陛下は全能神の代理人、その皇帝陛下に誓ったのだからこれは全能神との、帝国との契約となる。もう完全に後戻りは出来ない。


 続けて妃の誓いの言葉だが、呆然としているラルフシーヌは言葉を発しない。ここで彼女が誓わなければ、必然的に私と彼女は離縁することになってしまう。私は祈る様に横目で彼女を見詰めた。視線が合う。彼女の金色の視線は動揺に揺れていたが、一瞬だけ確かに私の事をキッと睨むと、しっかりした声で誓ってくれた。


「私も同じく、皇帝陛下と帝国のために全ての力を捧げると誓います。」


 私は安堵で崩れ落ちそうになった。この瞬間、私たちは夫婦で正式に皇族入りしたのである。皇帝陛下の後ろに並んで立ち、貴族たちを見下ろしながら、私は覚悟を決めていた。ラルフシーヌの激怒を受け止める覚悟をだ。




「・・・どうして私にこの事を今まで言わなかったの?」


 全ての事情を話し終えた私に、ラルフシーヌが剣呑な視線を向けた。もっともな疑問だ。私とて打ち明けておいた方が良いかなと思わなかった訳では無い。しかしながら決心が付かなかった。貴族の社交を何より嫌い、自由奔放に生きたいと願う彼女には私の身分は足枷になるだろう。その事で彼女が私を嫌うのが怖かったのだ。


 結局私が選んだ選択はこれだった。

 

「一生、隠し通すつもりだったからだ。墓場まで持って行くつもりだった」


 ラルフシーヌが呆れ顔になった。怒りを通り越して呆れてしまったという風情である。気持ちは分かる。結果的に言えば私の選択は大失敗だった。おかげでラルフシーヌは事情も分からずに皇子の妃になってしまった。ラルフシーヌは私に深刻な不信感を抱いた事だろう。信頼をもって成る夫婦としてこれは致命的な問題だ。


「どうしてそんなに皇族になりたく無かったの?」


 だが、ラルフシーヌはそこはあまり問題にしなかった。今更不信感を抱くほど私を信頼していなかったのかも知れないし、とうに私を見捨てる覚悟を決めているのかも知れない。


「なりたく無かったのではなく、なってはいけないと思っていたんだよ。母は常々『自分は皇妃陛下に多大な御恩を受けた。その私の子であるあなたが皇妃陛下の皇子と同列などおこがましい』と言っていた」


 私が言うとラルフシーヌは頭が痛そうな顔をした。私の言うことが理解出来ないという顔だ。馬鹿馬鹿しいことを言っているぞこの人、という顔にも見える。


「そして、私も兄上を尊敬していたし、次代の皇帝である兄上の御代を騒がせるような真似はしたく無かった。結局私が皇族にならずに一騎士としてお仕えするのが一番だと思ったのだ」


 私が続けると、ラルフシーヌは深々と溜め息を吐いた。イライラと指でテーブルを叩きながら私を睨む。


「皇帝陛下ご夫妻や皇太子殿下は何度も貴方に皇族になって欲しいとお願いしたんじゃないの?」


「ああ、母が亡くなってから、何度か内宮に呼ばれて勧められた。固持したけど」


「その時に皇族になっておくべきだったわね」


 ラルフシーヌの厳しい口調の言葉が理解出来ずに私は目を瞬かせた。ラルフシーヌの怒りのボリュームがまた上がって行くのを感じる。


「皇太子様は貴方以外にご兄弟がいらっしゃらないんでしょう?それだと、もし即位した時に周りにお身内がいらっしゃらなくなるわ。頼りになる身内が側に居て欲しいと思って当たり前じゃないの」


 私には無い視点のものの考え方だった。これは彼女が信頼出来る身内をたくさん持っている事に由来するのだろう。彼女には父母、兄姉、義理の父母、そして侯爵領で家族のように一緒に育った子分たちがいる。それに対して私には母がいるのみ。両陛下や皇太子殿下が家族として扱って下さるのを拒否してしまったからだ。


 そのせいで私は家族を信頼する。いざと言うときは家族に頼るという発想がなかなか出ないのだ。ラルフシーヌに自分の素性を打ち明けられなかった事もそうだ。結局その事が、今になって大きく祟っているのである。


 皇太子殿下がご自分が即位した後を懸念していたなどとは全く思わなかった。だが、私が今この立場になれば分かる。私は自分が皇太子に、皇帝になったなら、側に信頼出来る者に居て欲しい。皇太子殿下が長年私に目を掛け、交流してくださったのはそのためなのだろう。その場合、私はやはり一騎士ではダメだったのだ。


「それに、今回のように皇太子殿下に何かあった時の備えのために貴方にいて欲しかったんでしょ。その方が引き継ぎがスムーズに済むし」


 そうだ。皇帝陛下は言葉を尽くしてこの事の懸念を伝え、私に皇族に戻ってほしいと何度となく仰っていた。人間など死ぬ時は簡単に死ぬ。特にご自分の子を二人も不慮の事で亡くしている皇帝陛下である。後継者をまた失うかもしれないという懸念は強くお持ちだったに違いない。


「そういう風に考えた事は無かった」


 私は頭を抱えた。ラルフシーヌはそんな私を見て自分も頭を抱えてしまっている。私達は二人でこれからの事を思って頭を抱えるしか無かった。


「・・・だからあの時、皇帝陛下は私が侯爵令嬢だと知って喜んでいたのね?」


「ああ。陛下は私に何度か高位貴族との縁組を提案してきていたんだ。私は断っていたが」


 私が言うとラルフシーヌはジロリと私の事を睨んで金色の目を光らせた。


「セルミアーネは皇帝陛下から勧められた高位貴族との縁談は断ったのよね?皇族にならないために。じゃあ何で高位貴族の私と結婚したの?やっぱり皇族になった時のためなんじゃないの?」


 ラルフシーヌとしては私があれほど熱心に自分に求婚して来た理由は、自分が侯爵令嬢だからで、それは私が皇族復帰し易くするためだったのではないか?と疑った様だった。私は心底驚いた。その発想は無かった。


「君を高位貴族だなんて思った事は無いよ」


 私の言葉にラルフシーヌが物凄く納得した表情を浮かべた。納得されても困る。私が言いたいのはそういう事ではない。私は慌てて言葉を継いだ。


「君を好きになった時に身分なんて気にしなかったよ。というから君に出会って私は身分にあまり縛られなくなったんだ」


 私はラルフシーヌに、彼女と出会う前の鬱屈した自分の気持ちと、窮屈な身分を強く意識してそこから出られなくなっていた事情を話した。


 そしてそこに登場したラルフシーヌがいかに鮮烈で、感動的で美しかったかを語った。分かって貰いたかった。私がラルフシーヌを愛する様になったのは身分などという小さな事が理由なのではない。私を生まれや母の教えや身分のしがらみから蹴り出してくれたからなのだと。


 私はラルフシーヌの手を握った。これから言うことは一世一代の賭けだった。私達はこの一年、良好な夫婦の関係を築き、それなりに愛し合っていたはずだ。その絆を信じるしかない。


「君に黙っていたのは本当にすまなかった。私は君とここでずっと楽しく暮らせれば良いと、そう思っていた。君に意に沿わぬ事をさせることなど考えもしなかった。だが、私は、父上と兄上の願いに応じる事が自分のすべき事だと思う」


 私はまずラルフシーヌに心から詫びた。ラルフシーヌは素直に謝れば許してくれる。その上で私は、ラルフシーヌに選択を委ねた。


「・・・君が、約束を破った私に怒り、皇族などまっぴらごめんだ、と、思うなら・・・。離縁に応じても良い」


 ラルフシーヌの表情が硬直した。私は不安になった。ラルフシーヌが貴族生活を非常に嫌っていることは分かっている。その事がもしかして二人が築いてきた夫婦の絆を上回る程であれば、自由に生きたいという思いが私への愛情を上回ったなら。彼女が「分かった離縁しましょう!」と叫ぶ可能性は十分にあるのだ。


 私は微笑みながら内心物凄く緊張していた。裁きにあう犯罪者になった気分だった。事実私はラルフシーヌに嘘を吐きまくり、彼女を騙して娶った犯罪的な男だ、彼女の断罪を待つ身だと思えばその気分はあながち間違いではない。


 ラルフシーヌはふっと下を向いてしまった。私の不安は大きくなった。少し彼女の肩は震えているようだ。泣いているのだろうか?・・・しかし私の奥さんはそんな純情乙女な女では無かったのである。


「ラル・・・?」


「人を!馬鹿にして!」


 ガッと顔を上げたラルフシーヌの金色の瞳には赤い色彩が混じって爛々と輝いていた。燃える炎のようだ。それだけではない。髪は彼女の感情のままに舞い上がり、燐光を纏っているようにも見える。震える肩からは陽炎のような何かが立ち昇り、空間が歪んだかのような錯覚を覚えた。これは実際、魔力が放出されていたものと思われる。


 ラルフシーヌは怒っていた。途轍もなく怒っていた。彼女は些細な事でよく怒るが、それでも私が見た中で一番の激怒状態だろう。睨まれて私は思わず怯んだ。レッドベアーに襲い掛かられても冷静に対処出来た私なのに。いや、レッドベアーより断然ラルフシーヌの方が恐ろしい。間違いない。


 私が怯んだ瞬間、ラルフシーヌは凄まじいスピードで手を伸ばすと、私の襟首を掴んだ。そして信じ難い膂力で私の身体をテーブル越しに抜き上げ、担いだ。


「こんの!馬鹿亭主が〜!」


 見事な背負い投げである。彼女は容赦無く私の頭を木の床に突き立てようとした。私は身体を返して受身を取った。しかしこれはラルフシーヌに読まれていた。


 ラルフシーヌは即座に私の脚を取ると、両脇に抱えて私の身体を振り回し始めた。簡単に身体が浮いてしまう。しまった、この体勢ではどうにも出来ない。


「ラル!」


 私の叫びも虚しく、ラルフシーヌは私を放り投げた。私を頭から壁に叩き付けるつもりだ。完全に身体が浮いて何も出来ない。辛うじて頭を守るのが精一杯だ。


「うわああ!」


 私は壁に叩きつけられた。壁が凹み、天井が割れ砕け、私の上に漆喰の粉となって降り注ぐ。ちょ、家が、家が壊れる。私は慌てたがそれどころでは無かった。


 ラルフシーヌはモリアカオオヤマネコの様な俊敏さで私に襲い掛かると、私の襟首を両手で掴んだ。そして交差して一気に締め始めたのである。一瞬で決まってグーっと首が締まる。私は慌ててラルフシーヌの手首を掴んで止めようとするが、赤く光る目で私を睨みながらラルフシーヌは信じられないような力でもって私を締め上げた。


 こ、これは本気だ。ラルフシーヌは本気で私を殺す気だ。私はゾッとした。私も色々危険な任務を戦ってきたつもりだが、これほど差し迫った死の危険を感じた事は無かった。


「ラル!」


 私も本気を出さないと危ない。私はラルフシーヌの細い手首をガッチリ掴むと、必死になって引き剥がしに掛かった。鋼鉄で出来ているかの様に動かなかったが、それでも辛うじて私の力が優った。少し拘束が緩み呼吸が楽になる。しかしホッとしたのも束の間だった。


「ぐっ!」


 ラルフシーヌが頭突きを放ったのである。目の前に火花が散った。しかし手は緩めない。ここで緩めると一気に締められてしまう。私が手を緩めないと見るやラルフシーヌは更に頭を振り被った。


 私はその隙に彼女の手を引っ張り、私と密着させた。密着すれば頭突きは出来ない。手に力が入らないように広げて、密着して頭突きを躱す。ラルフシーヌは暴れて、膝蹴りをしたり噛み付こうとしたりしたが、私は何とか彼女を脚を絡めて拘束した。どうにか膠着状態を作って、私はラルフシーヌに呼びかける。


「ラル、落ち着いて!」


 ラルフシーヌは動けなくなって悔しそうに唸っていたが、私を赤く光る瞳で睨み付けながら吠えた。


「あんた、あたしを何だと思ってるの!」


 吠えた瞬間身体が跳ね上がって、私は必死に脚で彼女の動きを押さえ込んだ。まるっきり猛獣だ。だが彼女は。


「わ、私の奥さんだよね」


 私の大事な大事な妻だ。それ以外言いようがない。それを聞いて、ラルフシーヌは少し悲しいように、悔しいように目元を歪めた。


「そうよ。あなたの妻よね。その私が、夫がこれから大変な事になるって時に、離縁して逃げるとでも思ってるの?」


 私はハッとした。そういう意図は無かった。私はただ単に選んで欲しかったのだ。私と別れて送る自由な人生と、私と歩む不自由な人生のどちらかを。彼女自身に選んで欲しかった。もちろん、私の事を選んで欲しいと思っていた。


「そ、そんな意味じゃ・・・!」


 と、私は言い訳を仕掛けて、止めた。ラルフシーヌは既に選んでくれている事が分かったから。彼女はいつだって怒りはするが、すぐに私を許してくれる。私が約束を破ったと詰る時には、既に私の事情をちゃんと分かってくれているから。ただ単に、私に謝って欲しいだけなのだ。


「・・・済まなかった。私が悪かった」


 私は謝った。心から謝った。ラルフシーヌの表情が少し緩んだ。手の力はまだ緩まないが、間近で私を睨み付けるその麗しい相貌にもう怒りは無かった。


「じゃぁ、私に何か言うことがあるんじゃないの?」


 私は躊躇した。私がこれを言って良いものか。散々私は彼女にばかり自分の都合を押し付けてきた。結婚の時も結婚生活でも。しかも今度私が押し付ける事情は特大だ。そんな物を押し付けて良い物だろうか。


「だ、だが、君は・・・」


 自由奔放に生きたいのだろう?貴族なんて嫌なのだろう?しかしラルフシーヌの目はとっくに覚悟を決めた者の目だった。


「言いなさい。あなたの望みを!あなたは私に何を望むの!」


 結局、覚悟が出来ていないのはいつも私の方なのだ。いつだってラルフシーヌの方が先にいる。私はいつも彼女に導かれる。そう。私には彼女が必要なのだ。


「もちろん、君に傍にいて欲しい。私を、助けて欲しい。もしも私が皇帝になるようなことがあっても、だ」


 ラルフシーヌは歯を見せてニッと笑った。嬉しそうだと思うのは私の欲目が入っているだろうか。


「よし!分かったわ。貴方の、望みのままに」


 その瞬間、ラルフシーヌはヘナヘナと私の上に倒れ込んだ。完全に力が抜けてしまっている。全力を出し過ぎて、反動で力が入らないのだろう。私は苦笑しながら彼女を抱き寄せた。ラルフシーヌは照れているように顔を背け、こちらを見ない。


「後悔しない?」


「もうしてるわ」


 ブスッとした声でラルフシーヌは言った。そして私の胸に爪を立ててグリグリと押しながら私に警告する。


「・・・今度、離縁がどうとか言い出したら本気で締めるからね」


 ラルフシーヌにしては最大級のデレではなかろうか。私は嬉しくなり、まだ全然動けないらしい彼女を遠慮無く抱き締めた。


「肝に銘じておくよ」


 私は彼女のどうやらコブが出来て赤くなっている額にキスをした。どうやら、私は一世一代の掛けに勝った様だ。彼女さえいれば、私はどんな事でも出来ると思う。そう、例え皇太子になれという無茶振りでもこなしてみせるとも。


 明日から始まる困難な日々も、彼女とずっと一緒にいられると思えばもう恐ろしくは無かった。


 


 

 

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