十七話 選択  セルミアーネ視点

 父からの呼び出しの書状には珍しく、行間から怒りの感情が透けて見えた。父からの書状はいつもは私の体調や任務を気遣う言葉から始まり、近日中に内宮に来ないか?という打診の形式であるのが常だったからである。


 ところが今回のは「明日内宮に上がるように」という取り付く島もない始まり方で文面も短い。必ず妻を伴うようにと書かれていた。命令形式だ。非公式文書だとは言え皇帝陛下の命令である。逆らえない。父が私に命令するなどという事は滅多に無い事だった。


 おそらくは私が結婚する事を全く報告しなかった事と、結婚式へ招待しなかった事を詰問するつもりだろう。私は悩んだが、悩んでも仕方が無いのでラルフシーヌに明日出掛ける事。正装して欲しい事だけを伝えた。ラルフシーヌは不思議そうな顔をしたが了解してくれた。ケーメラにも頼むと何だか物凄く喜んだ。「せっかくお美しい奥様なのに着飾らせる機会が無くて悔しかった」との事。任せておけば大丈夫だろう。


 私も軍服で無い、貴族のコートを着る事にする。滅多に着ない物だが準備はしてある。内宮を訪れる時には非公式なので私人の身分である必要があるからだ。


 翌朝、えんじ色のドレスを身に纏ったラルフシーヌは感動的に美しく、こうして見れば貴族婦人にしか見えないのが不思議だ。ケーメラは満足そうだが、ラルフシーヌはジャラジャラしたアクセサリーが嫌らしく顔を顰めていた。


 借りた馬車をハマスに御者をして貰って、帝宮に向かう。どこへ行くとも言わない私にラルフシーヌの機嫌がみるみる悪くなっていったが、どうにも説明出来ない。私もむっつりした顔で座っているしか無かった。


 帝宮に入るとラルフシーヌが驚いた顔をした。帝宮の風景に見覚えがあったようだ。


「ここ、帝宮?」


「そうだよ」


 私が肯定すると、一気にラルフシーヌの機嫌が改善した。下位貴族の身分では滅多に入れない帝宮の中を馬車の窓にかじりついて楽し気に眺めている。彼女のご機嫌に比べれば、貴族婦人がそんな風に窓から外を眺めるのは無作法だなどという事は些細な事だ。


 やがて馬車は帝宮本館正面に出たが、馬車はそこを通り過ぎて奥へ向かう。止まった所は帝宮の離宮が立ち並ぶ区画で、ここから内宮に入るのだ。


 ラルフシーヌは前回来たことが無い場所に、好奇心で顔を輝かせてキョロキョロしていた。私はラルフシーヌの手を引いて、入り口の扉を守っている騎士の方に近付いた。侯爵家から贈られたラルフシーヌのドレスは兎も角、私の格好は内宮に立ち入る貴族の格好としては格が足りない。馬車は貸し馬車だし。騎士たちは怪訝な顔をした。


 私は右手の手袋を外してそっと騎士たちに右手を見せた。中指に嵌っている指輪。通称黒い指輪である。正確には良く見ると青黒いというような色で、この指輪を造るために必要な貴石を砕いて染料にして染めた色が本来の皇帝の青である。大変貴重な石なのでほとんどは近似色で代用されているが、皇帝陛下が公式行事や儀式の時に纏う衣装にふんだんに使われている皇帝の青は本物だ。ついでに言えば、私が結婚式に着た礼服も本物の皇帝の青が使われているらしい。


 この貴石を加工して造られたこの指輪は、皇族にしか与えられない指輪なのであり、これを持っている私は皇族なのだという身分証明になる。扉を守っていた騎士は目を剥いたが、彼らは役目上、黒い指輪の見分け方を知っている。本来は濃い青なのに黒い指輪と呼ばれているのは偽物を造り難くするためでもあるのだ。彼らには間違い無く本物だと分かったのだろう。頷いて、恭しく扉を開いた。この扉の向こうでは私は皇子として扱われる。そのつもりでいなければならない。


 扉の向こうには何度か会った事がある内宮の侍従長が待っていた。彼は私に微笑んだ後、私の横にいるラルフシーヌを見て硬直した。彼女が楽し気にキョロキョロしていたからだろう。高位貴族の夫人には見えまい。


「妻だ」


「左様でございましたか」


 何とか気持ちを立て直したらしく、侍従長はラルフシーヌにも微笑んで私達を先導して歩き始めた。


 離宮区画は基本的には皇族の住まいだが、扉を潜ってしばらくは社交に使うサロンやホールなどの施設が続く。この辺りで行われる社交は皇族が本当に信頼出来る者だけを招いて行うものなので、ここまで入った事のある貴族は少ないだろう。当然だがラルフシーヌはそんな事は知らないので、単にその豪華さにホヘーっとなっている。


 やがて現在内宮として使われている離宮の前の扉に来た。内宮には本当に限られた者しか入れない。私は指輪で入れるが、ラルフシーヌは金の指輪だけでは入れない。私が「妻だ」と身分保障して漸く入れた。彼女はその事を不思議がっていた。


 内宮のサロンの一つに入る。皇帝陛下は元々武人だけあって、基本的に質実剛健。奢侈を嫌う。そのためこの内宮も装飾が抑えられていて、部屋も小さい。騎士である私にも好ましい空間である。ラルフシーヌは座るなりお茶を飲み、モグモグとお菓子を食べ始める。私はもう慣れているので気にしないが、侍従長や侍女は呆れ顔だ。無理も無い。内宮まで平民が入って来る事は絶対に有り得ない。こんな無作法者を見たことが無いのだろう。


 やがて皇帝陛下がいらっしゃった。私はラルフシーヌを促して立ち上がり、頭を下げて出迎えた。許しを得てゆっくり顔を上げる。ラルフシーヌはヒョイっと上げて、あ、しまったみたいな顔をしていた。


 皇帝陛下の表情は案の定、ご機嫌斜めだった。皇帝陛下がこれほどはっきり不快を顔に出すのは珍しい。少なくとも私は初めて見た。周囲の侍従や侍女も驚いているのを見れば本当に珍しいのだろう。


 皇帝陛下はしばらく私とラルフシーヌを交互に睨んでいた。凄い圧だ。ラルフシーヌはちょっと緊張して皇帝陛下を見ていたが、どうやら自分に対する用では無さそうだと見てとったらしい。


「結婚したそうだな」


 と皇帝陛下が私に重々しい声で仰ると、彼女は自分は用無しだろうとばかりにお茶のカップを手に取った。あまりにも無作法、無礼と取られかねない行動に皇帝陛下が逆に驚き、周辺の者たちが驚愕した。お茶を飲み終えた彼女のカップに新たなお茶を注ぐ侍女の手が震えている。皇帝陛下の雷が落ちるかもと思ったのだろう。


「はい」


 私はラルフシーヌを助ける意味もあってすぐに返答した。陛下は直ぐに私に鋭い目を向けて唸るように言った。


「なぜ結婚する前に報告しなかったのだ」


 私はあえて無表情を装って、冷然と言った。


「報告の必要が無いと思いましたので」


 夫婦二人して無礼千万な態度である。皇帝陛下のお顔が悲し気に歪んだ。


「一カ月も経ってから騎士団長から聞かされた私の身にもなれ」


 う、その表情がどこかカリエンテ侯爵領のキックス男爵の顔を思わせた。私の事を本当に案じて下さっている表情である。私はそれでもあえて言った。


「一介の騎士の結婚で皇帝陛下のお心を煩わせる訳には参りません」


 私が御菓子をボリボリ食べているラルフシーヌを見やりながらそう言うと、陛下は少し驚いたようだった。


「言っていないのか?」


 皇子である事を打ち明けていないのか、という意味だろう。


「はい」


 勿論打ち明けていない。これからも打ち明けるつもりはない。私がそういう意向なのは陛下にも分かっただろう。私がそういう意向なら陛下もラルフシーヌには私が自分の子である事を秘密にして下さる筈だ。


 皇帝陛下は呆れ果てたような顔をなさった。そして、ラルフシーヌの事を厳しい目でジロジロと見た。


「まったく。私の勧めた縁談は蹴って勝手に・・・。このような・・・」


 皇帝陛下はこの瞬間まで、私が陛下の勧めを蹴って恐らく平民の女性と結婚したものだと思っていたのだろう。陛下に睨まれても知らん顔でお菓子を味わっているラルフシーヌはどう見ても平民にしか見えないから。


 私が皇族になりたくなければ、平民の女性を結婚してしまうのが一番だ。私は母が子爵家出身なので、実は血筋は皇族としてはあまり良く無い。血筋で言うなら頻繁に皇族が降嫁し、常に皇族の血が濃い上位貴族同士で婚姻を結んでいるカリエンテ侯爵家出身のラルフシーヌの方が良いという見方さえ出来る。平民と結婚すればその子供の血筋が悪くなるから、私の皇族復帰は難しくなる。皇帝陛下はそれを防ぐために上位貴族と結婚させたがったのだ。


 皇族は儀式で魔力を奉納する事があるので、出来るだけ皇族の血を濃く保つ事が推奨される。魔力をまるで持たない平民と結婚して血を薄める事は禁忌に近い。そんな事をしてしまえば私は父がどんなに熱望しても、貴族から皇族として認められなくなるだろう。


 そういう訳でがっかりして私に失望し、怒りを見せていた皇帝陛下だが、ふとラルフシーヌを見るうちに何かに気が付いたようだった。・・・やはり気が付いたか。気が付かなければ平民と結婚したので皇族にはなれませんと強弁しようと思ったのに。


「・・・其方、もしかしてあの時セルミアーネがエスコートしていた令嬢では無いか?」


 いきなり話を振られてラルフシーヌはずいぶんと驚いていた。お菓子を飲み下すためにお茶を飲み、ようやく答えた。


「はい。そうです。それが縁で結婚しました」


「確か・・・。カリエンテ侯爵の六女だったか?」


「はいそうです」


 皇帝陛下の御機嫌がみるみる回復した。陛下は破顔して手を打った。


「そうかそうか!侯爵家の令嬢と結婚したか!それはめでたい!」


 今の私であれば、皇帝陛下がこの時どれほどホッとしたかが良く分かる。この頃はまだ皇太子殿下は元気だったが、それでも陛下の御子が一人しかいないというのは皇族にとってかなり心許ない。皇太子殿下を補佐する意味でも何とか私に皇族に戻って欲しかったのだろう。それが絶望的になる平民との結婚では無かったことがよほ嬉しかったに違いない。


 そこからは陛下はもう完全に上機嫌で、ラルフシーヌの子供時代の話を聞いて爆笑していた。元々陛下は身分作法にはそれほど煩くは無い。皇太子時代に長い戦役を戦った時に平民の兵士とも親しく触れ合ったからで、子供の頃「平民だからと言って無条件に蔑ずんではいかんぞ」とまで言われた事がある。ラルフシーヌの裏表の無い態度に好感を持ってさえくれたらしい。


 途中からやって来た皇妃陛下は最初からラルフシーヌに好意的だった。後で聞いたが、私の選んだ嫁であれば平民だろうが何だろうが構わないと思っていたそうだ。皇妃陛下は母の意向もあって私を皇子に戻す気は、この時は無かったそうだ。この後そうも言っていられなくなって、私を無理やり皇族に復帰させた時には「フェリアーネに申し訳無い」と何度もおっしゃられていた。


 ラルフシーヌは全然事情が分かっておらず、好意的に接して下さる両陛下に対して彼女も好意を持ったらしく、どんどん態度に遠慮が無くなっていった。以前から思っていたがラルフシーヌは身分や階位を全く考慮しない。相手が平民だろうと、皇帝陛下だろうと皇妃陛下だろうと、態度が変わらないのである。これは彼女の長所であり、貴族としては短所とも言える。


 お土産にお菓子を沢山持たされて上機嫌なラルフシーヌとは裏腹に、私は皇帝陛下がまだ私を皇子に戻す事を諦めていないことが分かって、少し憂鬱な気分で家路に付いたのだった。



 ラルフシーヌとの新婚生活は順調だった。勿論、何事も無かったわけではない。喧嘩もした。主に原因は私にあったが。つまり、カリエンテ侯爵領で彼女を説得するのに発した口から出まかせがここに来て祟り出したのだ。


 彼女は結婚半年くらいしたころからホームシックに掛かったらしく「侯爵領に一度帰りたい」と言い出した。しかしながらそれはそう簡単ではない。旅費も掛かるし時間も掛かる。私の騎士としての任務はそうそうは休めない。往復20日。滞在期間を入れたら一カ月もの休暇は上級勲章ものの殊勲の褒賞になる位のもので、簡単には得られないのだ。ラルフシーヌはそれなら一人で帰ると言い出したが、それは私が許さなかった。ラルフシーヌは怒った。


「いつでも帰れるって言ったじゃない!」


 彼女は激怒して大暴れして大変な事になった。


 他にもキンググリズリーを討伐に行きたいと言い出した事がある。キンググリズリーは帝都の森にいる事はいるが、滅多に帝都付近までは降りて来ない。何日か野営しながら分け入った奥にいるらしい。なので泊まり掛けの狩りに行きたがったのだが、それも私が許さなかった。この時も私を嘘吐きだと詰って大変な事になった。


 他にも私が手柄を立て、勲章を授かり出世して、それに伴うパーティに出る事が何度かあり、その度に「話が違う」と怒っていた。着飾ってパーティに出て社交を熟さなければならないからで、彼女には大変苦痛な事だったようだ。困難から逃げない性質の彼女だからより大変だったようで、ケーメラから一生懸命最低限のマナーを身に付けようと頑張っていた。


 他にもラルフシーヌは些細な事で激怒して大変な事になったが、そういう時に私が事情を述べて理解を求めようとすると、逆に切れてしまって大変な事になるので、一切言い訳せず謝る事にした。その方が彼女の怒りが収まるのは早い。そして彼女はさっぱりしているので、怒りが収まれば後に長引かないのである。これは助かった。


 結婚一周年の辺りからラルフシーヌは何事か思い悩んでいた。何だろうと思っていると、閨で自分から房事を求めるようになったのである。彼女はそもそも房事に拘りが無く、私が求めれば仕方なくする、という印象だったので私は驚いた。理由を聞くと、どうも結婚一年で子供が出来ない事を物凄く気に病んでいる事が分かった。


 何でも侯爵領の平民の間では、子供が出来ないと妻失格という偏見があるようで、子供が出来ないのに離婚しないキックス男爵夫妻は変わり者扱いされる程だったという。妻失格とされるのは誇り高い彼女には許せないのだろう。それでも、私と離縁したくは無いという意味だから私は嬉しかった。私は子供など別に必須では無いし、二人とも若いのだから焦る必要は無いと伝えて、彼女の不安を解消する様に務めた。


 実際、別に子供など欲しいとは思わない。私は自分の生まれが生まれで何かと苦労や悩みが多かったし、今の私の状態でラルフシーヌとの間に子が生まれたら、更に厄介な事情を子供に背負わせる事にもなるだろう。それなら子供など必要無い。そんな事でラルフシーヌが思い悩むなど無駄な事だ。


 そんな風にして私達は喧嘩をしたり仲直りしたりしながら、概ね仲良く暮らしていた。彼女と一緒に狩りなどに出掛ける事も良くあった。彼女はもうすっかり帝都の狩人のアイドルと化していて、そればかりでは無く市場に行けばいろんな人が先を争って声を掛けてくる。門番の兵士さえニコニコと笑顔を向けてくる。街を歩けば子供たちが歓声を上げて追い掛けて来て襲い掛かってくるなど、どこへ行っても大人気だった。どうも彼女の人望は天性の物らしい。


 一度、レッドベアーが出たために騎士団が出動したのだが、同時に狩人協会にも依頼が行ったらしく、ラルフシーヌも勇ましい狩人姿でやって来た。私は無理をしないで良い。騎士団の仕事だから。と言ったのだが、彼女は逆に「私の獲物盗ったら許さないからね」と私を睨んだ。


 ラルフシーヌは直ぐに木に登って私の視界から消えてしまい、私は仕方なく気配を探りながら森の中を進んだ。通常なら狩人が見つけたところに急行して騎士団が集団で討伐するのだが、彼女のあの調子では見つけたら一人で挑むつもりだろう。彼女の狩りの腕と強さは十分承知だが、相手はあのレッドベアーである。簡単に勝てる相手ではない。


 と、森の奥で熊の吠え声がした。あっちか。私は藪をかき分けてそちらへ急行したのだがそこにとんでもないシーンが展開されていた。


 レッドベアーの毛は名前の通り燃えるように赤い。その毛を逆立て、後ろ足で立ち上がったレッドベアーは身長3mといったところだ。そして丸太のような前足を掲げて相手を威嚇している。正面に立つラルフシーヌをだ。


「危ない!」


 私が思わず叫ぶと、レッドベアーは私をジロりと睨んだ。あ、しまった。レッドベアーは前脚を下ろすと、ガッと地面を蹴って私の方に突入して来た。こうなればもう逃げられない。仕方なく私は脚に力を入れた。この時の私の格好は森で邪魔にならないように革の胴鎧と革の手甲、そしてブーツで兜もしていない。装備は槍と剣だったがこの状態では槍は邪魔だ。私は槍を捨てて身構えた。


 レッドベアーは物凄いスピードで突入してくると、私の頭に向けて前足を振るった。巨大な爪が閃いて襲い掛かって来る。あんなものが直撃したら頭が飛んでしまうな。私はそう思いながら少し踏み込んで熊の腕を爪を避けて組み止めた。


 レッドベアーがえ?みたいな顔をした。私は熊の腕を止めている左腕はそのままに右手で短剣を抜き、即座にレッドベアーの顔面に叩きつけた。鼻は熊の急所である。驚いて後ろ足で立ち上がったレッドベアーの懐に私は飛び込むと、奴の後ろ脚を抱えて持ち上げ、同時に肩で奴の胸を押す。


「よいしょ!」


 気合を入れないと流石に動かない。レッドベアーは溜まらず後ろ向きに引っくり返った。そこに「どいて!」と声が飛ぶ。私が熊の上から飛びのくと、そこへラルフシーヌが降って来た。


「たあぁぁぁ!」


 気合一閃、ラルフシーヌは抱えていた短槍を自分の体重と木の上から飛び降りた勢いを乗せてレッドベアーの心臓に突き立てた。


 レッドベアーは目を見開き、暴れたが、ラルフシーヌは何でも無いように飛びのき、爪を避ける。レッドベアーの動きは直ぐに緩慢になり、やがて動かなくなった。


「あなたの方が危ないわよ。怪我は無い?」


 ラルフシーヌが心配そうな顔で私の方へ来て私の身体をぺたぺた触って確認した。


「いくら何でも熊と格闘するなんて私でもやらないわよ」


「私だってやりたくないよ。緊急避難だ」


 ラルフシーヌがあんな風に熊と正面から対峙していたのがいけないのだ。思わず声が出てしまった。まぁ彼女なら何らかの方法で何とかしたのだろうが。


 駆け付けて来た騎士団の仲間や狩人が目を点にしていた。レッドベアーを二人でこんな短時間で倒すというのがまず常識外れだし、止めを刺したのがラルフシーヌだというのも驚きの要因だし、私とラルフシーヌが夫婦だというのも意外な事だったようだ。私が組み止めてラルフシーヌが槍で刺したというと、狩人の一人は心底呆れた様子で「ラルが非常識なのは知っていたが旦那まで非常識だった」と言った。


 

 その手紙が届いた時までに、兆しが無かった訳では無かった。


 前年の秋くらいから騎士団の訓練にいらっしゃる皇太子殿下のご様子はおかしかった。いつも快活に笑い、誰よりも強く元気な皇太子殿下が、少し表情を暗くなされ、訓練もすぐに終えて下がられてしまう。私が心配してご機嫌を訪ねても「大丈夫だ」としかおっしゃらなかったが。


 冬になると完全に体調を崩されたらしく、訓練に参加もなされなくなってしまった。騎士団長の表情も厳しくなり、時折私を見ながら思わせぶりな態度をする事があった。年を越えると騎士団の内部でも皇太子殿下がご病気だという話は広まっていた。私も心配していたが、皇太子殿下はお若いし、肉体も頑健だ。病魔に簡単に負けるような方では無い。そういう意味で油断していたところはあった。


 皇帝陛下から使者を立てられてまで届けられた、呼び出しの書簡と手紙。それだけでもただ事ではない。私は手紙を立ったまま慌てて開封し、読んだ。脚が震えるのが避けられなかった。父直筆の長い手紙には、皇太子殿下が重病で、命に係わるようだと書かれていた。私は立っている事が出来なくなり膝を付いてしまう。


「ミア!」


 ラルフシーヌが私を助け起こしてくれた。心配する彼女に生返事を返すしかない。


 手紙には皇太子殿下がこのようになった以上、以前からの約束通り、私に皇族復帰してもらうしかない。と書かれていた。とんでもないことが起きた。皇太子殿下が重病で、想像したく無いがお亡くなりになれば皇統が絶えてしまう。それは避けなければならない。それは分かる。しかし、そのような事態だとすると私はどうなるか。私は皇子を通り越して皇太子にならなければならなくなるという事である。


 自分が皇太子になるなど今の今まで考えた事も無かった。


 当たり前ではある。私は皇子だが庶子だし、皇太子殿下は頑健で、絶対に私が皇太子になるなどという事態は起こらない筈だった。私は自分が皇族復帰する事はあってもそれは皇太子殿下にお子が出来なかった場合だろうと予想していた。殿下が再婚して更にその後の話だ。何十年も後の話だと思っていたのである。こんなに早く皇族復帰を迫られる事になるとは夢にも思わなかった。


 心配するラルフシーヌを先に寝かせて、私は手紙を繰り返し読んで考え込んだ。父は手紙でこのような事態になった事を詫び、其方の気持ちは十分理解していると書いてくれた。出来る事なら私の意向を通し、生涯私を皇族復帰させないつもりだった、とも。しかしながら、皇太子殿下がこうなった以上、私しか皇子は残っていない。自分はどうしても自分の子に皇統を継いで欲しい。皇妃陛下も自分の腹心のフェリアーネの子なら自分の子に等しいと言っている。自分たちが全面的にバックアップするからどうか皇族に復帰して皇太子になって欲しい、と切々と書いてあった。


 ここで私が皇族に復帰しない場合、次の皇太子は傍系皇族の二つの公爵家の誰かが選ばれる事になる。この場合、皇室の正統は絶えてしまった事になって、皇帝陛下は後世に皇統を途絶えさせた皇帝の汚名を着せられる事になるだろう。それは私にとっても嫌な事だった。そして現在の二公爵家はお互いに仲が悪く、このどちらかから皇太子を選ぼうとすれば争いは必至だそうだ。内乱になるかもしれないという。そんな事は私ももちろん望まない。


 それを避けるには私が皇太子になった方が良い。父曰く、私の妻がカリエンテ侯爵の令嬢であるラルフシーヌであることは勿怪の幸いだそうだ。カリエンテ侯爵(この間代替わりしたので義父は前侯爵だが)は実は父が即位する時に少し対立し、現在は皇帝府に役職を持っていない。それが私が皇太子になれば皇太子妃の実家になり、皇太子と皇帝を強力に支持してくれる事が期待出来る。その後押しがあれば若干血筋に弱点がある私でも皇太子に問題無くなれる筈だとの事。


 私は頭を抱えてしまった。皇太子妃。そう、私が皇太子になるという事はラルフシーヌが自動的に皇太子妃になるという事である。あのラルフシーヌが、である。狩りが好きで、森や街を歩くのが好きで、運動が好きで、貴族の社交が大嫌いというラルフシーヌがである。


 私が皇太子になるのも無理だが、ラルフシーヌが皇太子妃になる方がもっと無茶振りだろう。彼女が承知するとは思えない。それこそ求婚の際に、彼女にした約束に明白に永遠に違反する行為だ。激怒したラルフシーヌが離縁状叩きつけて出て行ってしまってもおかしくない。


 手紙には明日帝宮で私を皇子として公表、公認する予定だと書かれている。ラルフシーヌも皇子の妃として公認するとも。そうなれば私もラルフシーヌももう逃げられない。私は皇子、ラルフシーヌは妃として帝宮に入る事になるだろう。


 私は悩んだ。それはそうだろう。私には皇太子なぞ無理だ。幼いころから帝王学を厳しく学ばされた兄とは訳が違うのだ。騎士としての自分にはそれなりに自信があるが、皇太子は強いだけでは勤まるまい。


 しかしながら、父の気持ち、皇妃陛下の無念を思えばとても断れない。そして、常に自分に目を掛け、励ましてくれた兄である皇太子殿下。殿下こそ志し半ばで病に倒れたのだ。どれほど悔しく無念であるか。兄は何度となく私に自分の後継者は私だと仰っていた。もしかしたらこの事態に対して予感があったのかも知れない。


 兄の期待を裏切りたく無い。父と兄の思いに応えたい。無理だと思う気持ちとその思いがせめぎ合う。最終的に私に決断を促したのはラルフシーヌの姿だった。


 ラルフシーヌは私の為になるなら、自分が苦手な事でも逃げた事が無い。自分は私の妻なのだからと。それが夫婦の、家族の有るべき姿では無かろうか。夫の為に、家族の為ならどんな困難にも立ち向かう。思えばラルフシーヌの義理の父母たるキックス男爵は、自分たちの寂しさを押し殺して、笑顔でラルフシーヌを送り出したのである。


 結局は私は長年私を慈しみ、我が儘を聞いてくれた、両陛下と皇太子殿下を裏切る事が出来なかったのである。例えそれがラルフシーヌを裏切り、激怒させ、離縁を招く可能性があってもだ。


 ただ、ラルフシーヌなら分かってくれるだろうという甘えに近い思いも勿論あった。実の家族も義理の家族も大事にしているラルフシーヌなら、私が家族を思う気持ちを分かってくれると思う。


 私は明け方、自分が帝国の皇太子になるという決意を固めたのであった。

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